第74話 密室の食事
「夏海、前から気になっていたことがあるのだが」
ある日、唐突にテオドラさんがそう言った。
いつものように隣で体を預ける日常を心から堪能しながら続きを聞く。
「その……夏海はいつまで、私に敬語を使い続けるんだ?」
「えっ?」
いつもながらテオドラさんは変化球の直球がうまい。相反する事象は時に共存してしまうのだ。
「ど、どうしたんですか? いきなりそんな」
「……私たちはその、こ、婚約をした仲だろう?」
「は、はい」
婚約という、漢字にしてたった二文字の言葉。
それだけであたしを動揺させるには十分な破壊力を持っている。
こんな状態では、やっぱり結婚の実現は先送りで正解だったかもしれない。いざ入籍、となったら気絶するんじゃないだろうか。
「それなのに、敬語を使うというのは……壁を感じてしまうではないか」
照れながら言うその姿が可愛すぎて、直視したら視力がぶっ壊れるんじゃないかってくらいの輝きを放っている。標準装備の恋愛フィルターがなければ危なかった。
それでも効果は絶大で、あたしの心は簡単に動揺して加速してしまう。テオドラさんとの日々は刺激に満ち溢れている。
テオドラさんのお願いだったら、多少の困難くらい乗り越えてでも叶えてあげたい。
でも、これは……。
「えっと、それであたしはどうすれば……」
思えば、あたしは最初からテオドラさんに対しては敬語だった。立場や関係もあったし当然のことだろう。
時は流れ、関係は確かに変わった。でも変わらないものもあるわけで、正直なんだか恥ずかしい。敬語をなくせ、と言われてはいそうですかと即順応できたら苦労はしない。
お前このソファーでもっと恥ずかしいことをしてるだろ、という心の声は無視しておく。
「名前を、呼び――」
テオドラさんの声がよく聞こえない。
あたしの耳はテオドラさんの声が奏でる周波数に特化した構造になっているので、一言一句すべてを聞き取る自信がある。
それなのに聞こえないというのはつまり、テオドラさんの声自体が出ていないことを意味する。
実際さっきの言葉だって、大半はモゴモゴした崩壊言語であり、あたしだからこそかろうじて聞き取れたのだ。
「テオドラさん?」
「……その、さん付けはしなくて、いい」
「えっ」
さん付けは、しなくて、いい。
今しがたの言葉を受け止めて、分解して、理解に努める。
……ふむ。
それはつまり。
「それって……呼び捨てにしてほしい、ってことですか?」
「……」
声はない。
けれどテオドラさんは小さくコクリと頷いて、あたしの推測が正しいと返事をしてくれた。
「……」
そして、あたしも言葉を失う。
テオドラさんとの沈黙は全然苦じゃないけど、この雰囲気は今までに経験したことがないので戸惑う気持ちが大きい。
まさか、そんなことをお願いされるなんて。
言うのは簡単だけど、実行するのは難しい。いや、名前を呼ぶんだから結局言うんじゃんって話じゃなくて。
えっ、なんだろう。
呼び方を変えることが、こんなにもハードルが高いことだったなんて。人のあだ名をちょくちょく変える陽気な子って一体どんな精神構造してるんだ。
「私だって夏海と呼んでいるんだ。だから、夏海にも私のことを……」
声に表情が宿るというのなら、これはきっと瞳を潤ませた上目遣い。
そんなことをされて、あたしが無事でいられるはずがない。テオドラさんのためならあたしの恥なんて投げ捨ててやる。
そうだ、これもプレゼントの一環だ。
テオドラさんが望んでいるんだから、立派なプレゼントと言えるだろう。
だったら答えは一つだけ。たった二つの文字を奪うだけ。
「――テオドラ」
さん、と続けそうになるのをグッとこらえて。
言ってやった。
呼び捨てしちゃった。
自分の言葉なのに、心は確かに高ぶっているのに、その実感が薄すぎるのは慣れていないことの証明だ。
あ、テオドラさんすっごいニコニコしてる。
喜んでくれたならいいか、と単純に考えてしまえるくらい美しさに満ちた笑顔だ。
「こ、これでいいですか?」
「……敬語も、いらない」
そうだったよねぇ……。
何を言ったらいいのか思いつかないので、とりあえず今さっきの言葉を拾うことに。
「こ、これでいい?」
返事はなく、またニコニコ笑顔が見られた。
嬉しいんだけど、それだけじゃ癒せないくらい心が謎のダメージを受けている。神聖な回復魔法を受けたアンデッドはこんな気分になるのだろうか。
「……」
「……」
ほら、黙っちゃった。
そうすると空気も変わっていくもので、見えないながらも雰囲気って伝わるわけで。
「……あの」
「ど、どうした」
「なんか、慣れませんね」
「そ、そうだな」
こうして、あまりにも刺激が強い時間は終わりを告げた。
変えるならもっと時間をかけていくべきだろう。今も心の中がなんかムズムズするし……。
そうだ、これこそ時間をかけるべきことじゃないか。
今すぐじゃない、もっとしかるべき時ってのがあるはずだ。
ということを理解できたのが収穫としておこう。
でも、呼び捨てにした時の高揚感は悪くなかった。
……たまにはいいかも、なんて思えるくらいには。
――――――――――
穏やかな日常、という言葉を使うのにピッタリな毎日が続いている。
大きな事件が起きることもなく、だからといって退屈というわけでもなく。
日を追うごとにテオドラさんを好きになっていく、というイベントが日常の習慣として組み込まれた形だ。
テオドラさんとの日々は刺激に満ちている。大体が家の中という狭い世界で起こっているのは、二人だけの空間というのもあるのだろうか。
……ん?
そういえば、あたしたちってどこかに出かけるってことをあまりしていないような。
もちろん家に引きこもりっぱなしというわけじゃないし、この前中央庁に行ったようなイベントもたまにある。
でも他には、と問われたらフリアジークへの出張くらいしか思い当たらなくて、それはまた違う話だろうと却下される。
もしかして、もっと外に出た方がいいのだろうか。
世のカップルたちはデートなる代物にうつつを抜かすのが使命であると物の本で読んだことがあるし、あたしたちにもそれは当てはまるのではないだろうか。
あたしはインドア派だけど、外が嫌いというわけでもない。テオドラさんがいる場所が好きなだけ。
というわけで会話を切り出してみよう。
何事も自分だけで抱え込んだらよろしくない。これ鉄則。
まずは何気ないところから……そうだ、今まさに満喫中の休みを持ち出そうかな。
「そういえば、今までも出張の後って休みが長かったんですか?」
「ああ、出張の期間によって変わるが、まとまった休みはあったな」
「へーやっぱり。そのときって何してたんですか? どこかにお出かけしたりとか?」
「……」
えっ、なんでそこで黙っちゃうんですか?
変な地雷でもあった?
「あの……」
「……セレナを探していた」
「あっ」
「思えば長期休暇にこうして家でゆっくり過ごすことはほとんどなかったな。一人で家にいてもすることなどなかったし、ならば少しでもセレナの行方を掴みたいと昼夜問わず」
「テオドラさんっ!」
ぎゅっと抱き締める。これはもちろん、あたしがいつも一番近くにいますよというアピールも兼ねている。
「もっといっぱい一緒の時間を過ごしましょう! あたしと思い出たくさん作りましょう!」
なんだよ今までの休暇は全然休めてなかったってことじゃん!
あたしが間違ってた。テオドラさんはこうして家でゆっくりまったり過ごして疲れを根っこから取り除くべきだ。
「そうか……ならば、一ついいか?」
「はい! なんなりと!」
「夏海と、どこかに出かけたい」
「えっ、でも今あまり家でゆっくりできなかったって」
「それは昔の話だ。今は夏海との時間を大切にしたい」
はうっ、言葉が心の弱くて嬉しい部分をグサリと突き刺す。
そんなこと言われたら受け入れるしかないでしょ。どうせ何を言われてもオッケーするんだろ、とツッコミをしてくる心の冷静な部分にはフタをしておく。
危うく間違えるところだった。
テオドラさんがどうしたいか、それを決めるのはあたしじゃない。テオドラさんが望むなら、あたしはそれに寄り添っていくだけだ。
「……わかりました! お出かけしましょう!」
「ああ。実は夏海を連れて行きたい場所があるんだ」
「えっ、それって」
「後のお楽しみ、だ」
はうっ、またキュンとした。
これがあるから退屈の入り込む余地がないんだけど刺激の強さにはまだ慣れないし今後も慣れそうにない。
どこに行くのかな……楽しみしかない。
それからうきうきする心を適度になだめつつ、外出の準備を済ませた。
その間にテオドラさんがどこかに連絡をしていたみたいなんだけど、明らかにコソコソした様子で隠れる気があるのかないのかわからなくて逆に見たら申し訳ない気分になったので、あえて少し離れていたから詳しくはよくわからない。
きっと、これから行くところに話をつけていたんだと思う。答えはわからないけど、だったらあたしはそれを受け入れてどこまでもお供するだけだ。
「よし、では行くか」
「はいっ」
差し出された手を繋いで、最後の準備が整う。
今日も空は清々しいほどの晴天だ。降り注ぐまぶしい光はまるでスポットライト。あたしたちを祝福してくれるのだろうか。
なんてことを考えてしまうほどに逸る心をそのままに、あたしはテオドラさんに寄り添って歩いていく。
テオドラさんが進む先へ、どこまでも。
――――――――――
進んだ先は見慣れない場所だった。
商店街や住宅街から離れた区画。ちらほらと高い建物が目立つここはビル街とかオフィス街とでも言うべきだろうか。なんとなく洗練された高級な雰囲気が漂っている。
「着いたぞ。ここだ」
「ここ……ですか?」
示されたのは、なかなかの高層構造をしているビルだった。見上げていると首が痛くなる。
視線を上から前に戻せば、静かなエントランスホールが見える。あたしの直感を言うなら、ベンチャー企業のオフィスがいっぱい入ってそうな雰囲気を感じる。
用がなければ近寄らないだろうし、用があっても入るのをためらってしまいそうな佇まいが入口から滲み出ているような……。
でもテオドラさんに手を引かれたら止まることなんてできない。初めての場所に抱く緊張がこぼれ落ちないように、テオドラさんの腕に身を寄せた。
エレベーターに乗り込んで上を目指す。ここには一体何があるんだろう。あたしはどこに連れて行かれちゃうんだろう……くうっ、ドキドキする。
「夏海、そろそろ昼も近いし空腹になってこないか?」
「えっ? まあ……空いてきましたけど」
エレベーターとは、狭い空間に二人きりという何が起こっても不思議ではない雰囲気を作り出してくれる文明の利器である。
しかし、テオドラさんの唐突な切り出しは想定外だった。こんな不思議が定期的に起こるからテオドラさんとの日々は尊くて辞められない。
「よかった。向かっているのは以前からよく世話になっている店なんだ。いつか夏海を連れてこようと思っていて……ようやく叶った」
「わぁっ、楽しみです!」
テオドラさんの行きつけ!
そんなの絶対嬉しいに決まってるじゃん!
そういえば、シャンタルさんに引っ張られて馴染みの店に連れて行かれたってことが前にあったけど、それってこの店だったりするのかな。
どんなところだろう、とワクワクする心に向けた答え合わせはすぐ訪れた。
絶好のタイミングでエレベーターの扉が開くと、薄暗さと明るさが同居した世界が現れた。
矛盾しそうな要素を両立させているのは間接照明のおかげだろうか。おしゃれだな、なんて言葉くらいしか出てこないのが少し悔しい。
「ここがテオドラさんの……」
「さあ夏海」
手を引かれて店内へと足を踏み入れる。キョロキョロと周囲を見渡すけど、新たに感じるのは静かだなあという視覚に頼らない感想だった。
泳ぐ視線が前を向いた時、奥から出てきたガタイのいい男性と目が合った。
「ようテオドラ、待ってたぜ!」
威勢もいいおじさんだった。色黒の肌で筋肉質。立派なヒゲは完全にもみあげと繋がっている。
これで店の制服と思われるエプロンを着てなかったら、傭兵か賞金稼ぎにしか見えない風貌だ。
「急ですまないな、店長」
「いいってことよ。で、ほうほう……こちらが例の」
マッチョな店長さんがジロジロと見てくる。眼力が半端ない……。
変な気まずさに怖気付いていたら、テオドラさんがサッと体を割り込ませてガードしてくれる。かっこよすぎて惚れ直しちゃった。
「不躾だぞ」
「おお、すまんすまん。そんな怖い顔するなって」
あたしの位置からはテオドラさんも店長さんも顔が見えない。なので頼れる背中に目を奪われ続ける。いつも顔ばかり見てるから背中を眺めるのってなんだか新鮮かも。
「んじゃ早速、部屋の方に案内させるぜ。料理は予約した通りでいいな?」
「ああ、存分に腕を振るってくれ」
「任しとけ。おい! ご案内だ!」
店長さんの呼びかけで出てきた若い店員さんに先導され、店の奥へと進む。部屋ってどんなところだろう。
って、今更だけどそれって二人きりの空間ってこと?
あ、やばい。意識すると意識しちゃう。何言ってるかわからないかもだけどわかってほしい。
「こちらです。どうぞ、ごゆっくり……」
案内されたのはやっぱり個室だった。扉と壁もしっかりした、外とは区切られた密室空間。
程々に広い室内にあるのは椅子とテーブル。これは飲食店なんだから当然だろう。立ち食いのお店じゃないんだから。
重要なのはその位置関係だ。椅子と呼ぶよりソファーと言い直すべきそれは間仕切りがなく、二人がくっついて並んだまま座ることを想定された作りになっている。ちなみに座る場所はそこしかない。立ち食いの選択肢もない。
テーブルを挟んだ向かい側にあるのは窓。エレベーターでそれなりの階層を上がってきたおかげか、割といい眺めが広がっている。きっと夜に来たらそれっぽくなりそう。
そういうのに縁がなかったあたしでも聞いたことがある。これはカップルシートってやつではないか。いい雰囲気の二人がいい雰囲気を味わいに来るいい雰囲気の個室っていうアレ。
案内してくれた店員さんはもういない。区切られた部屋の中、あたしはテオドラさんの存在を強く感じる。繋いだ手からも熱を強く感じる。
「と、とりあえず座らないか?」
「そ、そうですね」
緊張しすぎると逆に意識が冷静になることがある、というのは本当だったらしい。二人でギクシャクしている姿を、客観的に観察しているあたしがいた。
まるで昔のあたしたちみたいだ。突発的なことに対処できず、ガチガチになりながらお互いを横目でチラ見し続けている。
ソファーは家にある物とは違って狭く、どう頑張っても密着する部分が出てしまう。果たしてこれは意図的なのか、欠陥なのか。
そんなところに馳せていた思いもテオドラさんとくっついているうちに段々どうでもよくなっていった。
やっぱりテオドラさんで乱れた心はテオドラさんで癒すに限る。繋いだ手から一つになっていくような温かい感覚が、あたしの中から余計な思考を溶かしてテオドラさんのことだけを考える頭脳へと変えてしまう。
「ここ、いい部屋ですね」
「そ、そうだろう? この景色を夏海と一緒に見たかったんだ」
テオドラさんに張り付いていた視線を少しだけ、名残惜しいので本当に少しだけ剥がして窓へと向ける。
さっきも見たのと同じ景色。高所からの開けた視界は確かに壮観だけど、それだけなら数分もすれば飽きるもの。
でも隣に大切な人がいたらどうだろう。スパイスと言うべきか、相乗効果と言うべきか。一緒に同じ景色を見ているという事実こそが何物にも代え難い価値を生み出し、飽きの来ない緩やかな甘さを永遠に与え続けてくれるのだ。
「……綺麗、ですね」
「気に入ってもらえたか? やはりここからの眺めは素晴らしいな」
「テオドラさんと一緒だから、ですよ」
核心を突く言葉は囁くように、しかし明確に。
無意識の意識的な調整はテオドラさんへと伝わったらしい。触れていればわずかな反応も感じ取れる。
「ここに連れてきてくれて、景色を見せてくれて……あたしのこと、いっぱい考えてくれたんですよね。それがとても嬉しいんです」
「夏海……」
「テオドラさん……」
もう窓なんかに視線は向けていない。なんなら横にある紐を引っ張ってブラインドを下ろしたっていい。
だって今は、この瞬間は。
テオドラさんと互いの存在を強く確かめ合わないといけないんだから。
隔絶された部屋。誰に見られることも干渉されることもなく。
絡まった指に導かれ、交わった視線に引き寄せられて。
重なった唇に溢れんばかりの愛情を込めた。
「……っ」
キスの後はいつだって気恥ずかしい。
少しだけ離れて閉じていた瞼を開けば、至近距離に潤んだ瞳があって論理的な思考をできなくさせる。
だから決まってテオドラさんの体に顔をうずめてしまう。行き先は首だったり、肩や胸だったり。今回は位置的に二番目の方。
場所は違ってもテオドラさんの対応は同じで、優しく頭を撫でて受け止めてくれる。反則じみたその動作は最大級の幸せを生み出して、幸せすぎていいのかなという反動の不安すらも吹き飛ばして明るさ一色にしてくれる。
ああもう、ホント好き……。
気持ちの高ぶりが治まらないし、もう少しくっついていよう。
なんだか食事前なのにお腹いっぱいになった気分だよ。
……って、そうだ。
あたしたちは食事をするためにここへ来たんだ。そりゃ確かに二人きりになるためってのもあるだろうけど。
と、本来の目的に気付いた瞬間のことだった。
「お料理をお持ち致しました」
ドアのノック音と共に、そんな声が聞こえてきた。
瞬時にビクッと跳ね上がり、不意の重量変化にソファーがギシッと鳴く。
「あ、ああご苦労。入ってくれ」
慌てて体勢と居住まいを正したのをアイコンタクトで確認し、頷いたのと同時にテオドラさんが呼びかけた。
「失礼致します。本日の前菜でございます」
案内してくれたのとは違う店員さんが深々とお辞儀をして入ってくる。いきなり開けたりしないってのは、やっぱり店側もこの部屋の意味を認識してるんだろうか。
ありがたいような、むずがゆいような。そもそもこの部屋に入った時点ですべて感付かれているような。
待てよ、それ以前にあたしたちの関係はとっくの昔に国中へと広まっているのでは……?
薄ら寒くなりそうな考えは、空腹を増幅させる匂いにかき消された。いわゆる上書き保存ってやつだ。
「わあっ、おいしそう!」
思わず声が出るくらい、出された料理が輝いて見えた。
一言で表すならばサラダなんだけど、それだけで済ませてはあまりにも失礼すぎる。瑞々しい野菜たちはまるで数秒前に収穫されたみたいな艶を帯びて、トッピングとして添えられた薄切りの生ハムが穏やかな波を描く。
これ本当に前菜? むしろ副菜の上位に食い込みそうな感じがするんですけど?
視覚だけで味覚を刺激する魅惑の逸品。
だからといって見るだけで満足できるような精神力をあたしは持ち合わせていない。
「いっただっきまーす!」
キスで忘れかけたけど、あたしはお腹ペコペコでここにやって来たんだ。
そんな状態でおいしそうな料理を出されたら食べるしかないよね?
なんて言い訳を考える間もなく、あたしは目前の獲物をパクパクと食べ始めていた。
美味しさの表現に言葉は不要。食レポなんかでも大体の第一声は「んーっ!」と相場が決まっている。
ツヤツヤのハムと生野菜。弾力とシャキシャキ感。相反する噛み応えが口の中で見事な調和へと昇華されていく。
旨い。美味。
余計な装飾語はいらない。事実のみをただ体全部で受け入れよう……。
「いい食べっぷりだな」
「はい! だってすごくおいし……くて……」
元気に返事してる途中で気付いた。テオドラさんがじっとあたしを見つめていることに。
いや何やってんのあたし!
テオドラさんを無視して料理にがっつくとか、みっともないにも程があるでしょ!
あたしたちは一緒に食事をするために来たんだから!
「す、すみません。あたしったら一人で食べちゃって」
「いいんだ。夏海が喜んでくれたのなら私も嬉しいよ」
「でも……あっ、そうだ!」
何が問題かって色々あるけど、あたしだけが食べていたことが一番大きいと思う。
だったらそれを解消すればいいわけで。
「テオドラさんも食べてみてください!」
ガッとサラダを掴んだ箸をバッとテオドラさんの口元へ差し出す。これで食べてもらえれば完璧! おあいこ! 流れは元通り!
「……」
そんな考えはテオドラさんの赤面を見たら全部吹き飛んだ。
この状況はどう見ても「はい、あーん」であり、いくら婚約している間柄であっても特別な行為でありこの密閉空間でやるには意味深さが増長されて簡単に言うと照れてしまうのである。
確かに雰囲気が元通りになったけど、まさか最初のガチガチが基準点になるとは思っていなかった。
しかし今から引き下がるのも何か違う気がするので道は一つしかない。
やがてテオドラさんの口が開かれ、箸先のサラダが消えていくのをあたしはスローモーションの世界で眺め続けることになった。
「ど、どうですか?」
間が持たずにそんなことを聞いてしまう。沈黙が苦になるタイプじゃないと自分では思っていたけど、たった今この瞬間に関してはそんなことないらしい。
「……いい味だ、な」
「そ、そうですよね!」
よしよし、なんとか乗り切れたかな?
「だからその……もう一口、食べたい」
あっ、そんなことなかった。
どうやら一度変わった空気は、そう簡単には元に戻せないらしい。
「……はい、どうぞ」
だって、あたしたちの空気はもっともっと前からこんな色に変わっていたんだから。




