第70話 二人だけの部屋
火照った体は冷まさないといけない。あたしの心はそこまで強い耐熱特性を持っていないのだ。
お風呂での一幕を終え、あたしたちはソファーでまったりしている。さっきまでここでキスの嵐が吹き荒れていたことは気にしちゃいけない。
「夏海……また、一緒に入ってくれるか?」
「は、はい」
だけど、過去から目を逸らした先には現実がある。テオドラさんにピタリと密着されている現実が。
原因として考えられるのは、あたしがお風呂で何かしたってこと。飛んでいる記憶の取り戻し方を教えてほしい。
「ふふっ、毎日の楽しみが増えたな……」
でも、テオドラさんの嬉しそうな顔を見たらどうでもよくなった。やっぱり過去よりも現実。
いつの間にか毎日一緒に入浴することになってるっぽいけど、それも受け入れてしまう。これはあたしも同じ考えだから問題ない。
問題があるとすればあたしの記憶が再び飛ぶかもしれない可能性か。心の耐性を鍛える方法も探さないと。
「ん……」
難しいことを考える。お風呂上がり。テオドラさんから絶え間なく伝わる温もり。穏やかな雰囲気。
こんな状況が重なれば眠くなるのは自然なこと。そもそも今はもう夜が深まったいい時間。
「あの、そろそろ寝ませんか?」
「そうだな」
立ち上がろうとする素振りを見せたらテオドラさんも従ってくれた。
なんだか疲れた。でもそれは決して嫌なものじゃなく、心地良いと思える疲労。きっと布団に入ったらすぐ眠れそう。
なんてことを思いながら歩いていると。
「夏海、待ってくれ」
ちょうど階段のあたりで呼び止められた。昨日までだったら、このままあたしの部屋へ一緒に向かうはずだったんだけど。
「今日は……私の部屋で寝ないか?」
あたしは今日だけで衝撃を何回受けたことだろう。
毎度のことだけどテオドラさんは直球しか投げてこないし、毎回あたしは打ち抜かれている。見切り不可能スキルが効いてるみたいだ。
どうやらテオドラさんの攻勢はまだ続いていたらしい。
とりあえず今明らかなのは、きっとすぐには眠れなさそうだということ。
「テオドラさんの部屋……」
これは、つまりアレですか。
俗に言うお持ち帰りというやつですか!
家にいるのに持ち帰られるとか最高にレアケースじゃないですか?
「ど、どうした?」
「いえ、テオドラさんの部屋って入るの初めてだなーと思いまして」
部屋って入ったことなかったし、そこに招いてくれるってことは、それだけテオドラさんに近付けた証明にもなって。
心を許してくれた。そう考えたら選択肢なんて、はいかイエスの一択だ。
「そういえば、前は入るなというようなことを言っていたな……我ながら愚かしい。夏海には私のすべてを見てほしいのに」
「気にしないでください。これからしっかり見せてもらいますから!」
「宣言されると気恥ずかしいが……いや、もう夏海にはすべてを見られたのだから今更と言うべきなのか……?」
あーもう!
だから過去を振り返らないでくださいってば!
お風呂に入って体も綺麗になったし何が起こっても大丈夫……とか変な方向に行きがちなんですからあたしの思考は!
「ほ、ほら! そうと決まったら行きましょう! 休みが続くからって夜更かしはよくありませんから!」
テオドラさんの手を引いて階段を上る。きっと今日は寝るまでずっとテオドラさんに翻弄されるに違いない。
もちろん、それは嫌なことじゃない。
テオドラさんが後ろにいて顔が見えないからこそ、あたしは存分に歓喜の笑みを浮かべながら階段を進んでいける。
――――――――
同じ家に住んでいながら、お部屋訪問のドキドキを味わえる。
これってなかなか珍しいと思うんだよね。だから、あたしは今の感情を大切にしたい。
扉の前、テオドラさんがドアノブに手をかける。
あたしの中では開かずの間だったブラックボックスが開かれる歴史的瞬間。心に満ちるドキドキは部屋に連れ込まれるということに対するものだけじゃ決してない。
家のことを色々とやってきたあたしだけど、テオドラさんの部屋についてはノータッチ。部屋の掃除や管理はテオドラさんが自分でやっていた。
……ゴミ屋敷状態になってないよね?
テオドラさんと初めて会った日のことを思い出す。いや、でもあの時も言うほど酷くはなかったし。足の踏み場は一応あったし。
だから大丈夫……だよね?
淡いのか切実なのか自分でもわからない希望を持て余しながら、開かれていく扉を見つめる。
「さあ、夏海」
「お、お邪魔しまーす……」
手を引かれて、いざ未開の地へ。
明かりがつけば、その全容が見えてくる。
端的に言えば、整然とした部屋だった。
ベッドに机、椅子と棚。置かれた物はそれくらいで、あとは壁と窓と床と天井。
足の踏み場を心配するどころか、広々と感じすぎて不安になりかける。
泳いだ目線が次に捉えたのは、入口の横にある収納スペースだった。扉は閉まっているけど、家の間取りから考えると中は広そうだ。
もしかすると、ここに色々と入れてるから部屋に何もないように見えているだけなのかも。
テオドラさんに手を引かれて部屋を進みつつ、あたしは初めてこの家に来た日のことを思い出していた。
そこで目にした散らかり具合。あの時はこの部屋も同じように乱雑だったのだろうか。今こうして見回したところで答え合わせになるはずもない。
だけど想像はできる。
テオドラさんはミニマリストってわけじゃなさそうだから、部屋の状況には何か理由があるはず。
そんな正確性に欠ける妄想は移ろいやすく、テオドラさんのベッドに腰掛けた瞬間にもっと別の大切な思考で上書きされてしまった。
だってさ、ここでテオドラさんが毎日寝起きしてるわけでしょ?
そこに今からあたしが入り込む、と。
隣で視線が泳いでいるテオドラさんと一緒に。
そりゃ釘付けになるって。
愛しい人のことしか考えられなくなるって。
ベッドについていた手で布団やシーツの肌触りを確かめているのが、なんだか最高に背徳的なことをしてる気分になる。
そんなことしなくたって、これから全身で存分に味わうことになるというのに。
「テオドラさんの部屋、なんだかすっきりしてますね」
「ああ……」
短いながらも追憶を感じさせる返事をしつつ、自室を見回すテオドラさん。
その目はまるで、ここではない遥か遠く――壁の向こうを見ているようだった。
「この部屋は、ほとんど手付かずでそのままにしてあるんだ」
「そのまま、って」
点が繋がって線になる感覚。
完成した糸が繋がる先は、やはり過去。
「セレナが失踪した時のまま、ということだ」
腑に落ちる、とはこういうことを言うのだろう。
記憶や思い出を消したくない気持ちは誰にでもある。テオドラさんの場合は、それがこの部屋に出たということだ。
「元々セレナは必要最低限の物しか持たない性格でな……殺風景だろう?」
「えっと、そんなことは」
「いや、すまない。答えづらい質問をしてしまったな」
なんだかテオドラさんが少し慌てている様子だけど、別にあたしは全然気にしてない。
だって、当たり前のことだと思うから。
実家を出た子がいつ帰ってきてもいいように部屋はそのままにしておく、なんてことはどこにでもあるような話だし、今回はその立場が逆になっただけのこと。
ぼんやりとした感動を抱えて、部屋の中を改めて見回してみる。さっきまでと同じはずなのに、少し違う色に見えた。
巡った視線はあるべき場所へ戻り、テオドラさんに向けられる。ああ、頬が緩んじゃう。どうして人って感情が揺さぶられると笑ってしまうのだろう。
だけど、それでテオドラさんの困惑は晴れたらしい。
優しく微笑んで、手を握り直してくれる。そのためにあたしの頬が犠牲になったのなら安い代償だ。
「そうだ、あの中も見てみるか?」
示されたのは、最初に少し気になったクローゼット。
正直見たい。隠された物を見たくなるのもまた人間のよくある話なのである。
素直な気持ちを告げると、テオドラさんは快く未開の扉へとあたしを連れて行ってくれた。
「この中も昔のまま……いや、多少は私の物が入っているな」
開かれた先の空間はこれまた広く、ウォークインクローゼットの形になっていた。
この中までスカスカだという可能性に身構えていたけど、現れたのは人並みの物量だった。テオドラさんは物をしまいこむ癖があるのかな。可愛い。
並んでかけられた服たちは見覚えがあったりなかったり。前者をテオドラさんの衣類とすれば、後者がセレナさんの私物だろう。
棚の部分には更なる収納スペースがある。きっと、ここにも思い出が詰まっているに違いない。
「テオドラさんって、セレナさんのことをとても大切に想ってるんですね」
「当然だ。私にとっては親も同然。消息は必ず掴んでみせる」
いつだって真っ直ぐなのがテオドラさんという人の姿。
だから、今の言葉も純度百パーセントの本心だ。
「きっと会えますよ。あたしも協力しますから」
「ありがとう。夏海がそう言ってくれると安心できるよ」
そこに「きっと」だなんて根拠のない言葉を返すのは、ふさわしくないのかもしれない。
けど、それくらい今は許してほしい。
だってさ。
なんか少しだけモヤモヤするんだもん。
クローゼットを後にしても、そのモヤモヤは閉じた扉をすり抜けてついてきた。
自覚したくない意思に支配された首が動き、視線が向けられ、無理矢理それを見せられる。
「あれも昔のままなんですか?」
問い掛けた先にあるのは過去の画像。
机の隅に置かれた写真立てに収まった、凛々しさと儚さを併せ持つ美しい顔。
それが誰かを知りながら、あたしはテオドラさんに訊ねたのだ。
「セレナの写真か。あれは私が置いたんだ。すぐ近くにあればと思ってな」
「へぇ……セレナさんって、本当にテオドラさんの特別な人なんですね」
トゲが感じられる自覚はあった。でも止まらないし、その必要もない。
言いながらテオドラさんに密着し、体を預けたのも同じこと。今日だけで何度もしてきたんだから今更だ。
「な、夏海?」
テオドラさんが戸惑ってる。その反応が見たかったから、少しだけ許してあげることにした。
でも全部じゃない。筋違いで面倒なあたしの恋心は、声高らかにワガママを叫んでいるのだから。
顔だけ知ってて会ったこともない人に嫉妬するとか、我ながら独占欲が強すぎると思う。
いや、だからこそ嫉妬が芽生えるのかな。情報が中途半端で詳しい人柄や素性がわからない以上、あたしが勝てるのか不安になってしまうのかも。
そもそも勝負って話じゃないんだけど、それで納得するほどあたしの心は大人じゃない。
だから、こうやってテオドラさんの存在と感触と体温で嫌なことを全部上書きするしかないのである。
つまりは不可抗力、仕方のないこと、不条理、理不尽。あたしの気持ちが落ち着くまで我慢してほしい。
「……その、うまく言えるか自信はないのだが」
気弱な言葉と思ってしまいそうな声。テオドラさんのことを知らない人が聞いたら、自信がないというのを本気にするだろう。
あたしは違う。テオドラさんの言葉に信頼できないことなんかないし、この後にあたしが欲しかった言葉をくれるという確信めいた期待もあった。
「セレナは私の親であり、命の恩人でもある。セレナがいたから私がいる。尊敬や憧れの気持ちはそこからくるもので、特別といっても少し違って、だから――」
あたしのために、あたしだけのために言葉を選んで紡いでくれる。
もうそれだけで十分だった。だってもう、とっくにモヤモヤは吹き飛んでどこかに行ったから。
言ってしまえばプラマイゼロ。ここからは全部がプラスになって幸せゲージを上昇させる時間だ。
「私が愛しているのは夏海だけだ。夏海だけが私にとって唯一の特別な存在で、生涯を共に歩んで生きたいと思っている」
「あ、あの、よくわかりました……」
針は一瞬で最高値まで振り切れて嬉しい悲鳴をあげる。
反射的なブレーキとしてしょぼい答えを告げてみたけど、もしかしたら更にアクセルを踏んでいたのかもしれない。
感情の動きが忙しい。不器用な正面衝突にめちゃくちゃ照れるし恥ずかしさがすごいし嬉しさが暴走している。
「それに……夏海と何かあったら、ここでセレナに報告もしていた、いつか夏海を紹介する時のために……」
テオドラさんのブレーキは既に壊れていた。
なんだそれ可愛いが暴走してないか?
「セレナが見つかった時には、ぜひ夏海にも会ってほしい。私にも大切な人ができだんだ、と」
それは、さっきも少し話題になった親への挨拶を連想させた。ってか完全にそのものじゃないか。
「……はい。あたしも会ってみたい、です」
たどたどしさに溢れた返事しかできなかった。言葉は急に出てこない。
とりあえず心の中でセレナさんの写真に報告しておこう。どうも、テオドラさんの婚約者です。
……うん。
今から頭の片隅で挨拶の言葉、考えておこう。
――――――――
明かりを消せば部屋は暗闇に包まれる。
きっと今ならセレナさんもあたしたちのことが見えてない。
テオドラさんの体温と時間と意識を全部独り占め。
ベッドの中は二人だけの世界だ。
二人で並んでもまだ余るくらいの広さ。あたしは当然テオドラさんにくっついているので、なおさらスカスカ具合は増しているはず。
枕も大きい、と言うより長い。クッションを通り越して抱き枕としても使えそう。
「テオドラさん」
「なんだ?」
「この布団も……セレナさんが使ってたものなんですか?」
別に蒸し返すのが趣味ってわけじゃない。
ただ気になっただけ。ベッドの所有者が誰なのかってことが。
「ああ、そうだよ」
「そうなんですか……でも今はテオドラさんの匂いがしますね」
ベッドだけじゃない。この部屋すべてがテオドラさんの芳しい香りで満たされている。
それは、部屋の主がテオドラさんに他ならないという確固たる事実だ。
「……そ、それは」
「あたし、この匂い好きなんです。ずっと包まれていたいなぁって、いつも思ってます」
「……ん」
セレナさんを追い出したって意味じゃない。
今のは前に同じことをされたから、仕返しみたいなものだ。
これからの展望としては後日テオドラさんからお返しをされて、あたしがやり返して、やり返されて、そんな最高にくだらなくて幸せな永久機関を作りたい。
「テオドラさん……」
いつもより数段強くテオドラさんの存在を感じる。
理由はきっと現状にある。本人に密着しているのに加えて、普段からテオドラさんが使っている枕や布団に包まれているのが原因だ。
そこから余波や名残と呼ぶべき目に見えない不確かな何かが、しかし確実にあたしの全身へと侵入してくる。
「……どうした?」
囁き声に熱を感じる。聴覚と触覚の境界線がわからない。
「テオドラさんは……あたしのどこを好きになってくれたんですか?」
感覚が色々と変になっているみたいだ。
そうじゃなきゃ、こんなこと言うはずないから。
今のあたしはどこか変だ。
布団と暗闇に包まれて、テオドラさんに寄り添って、指を絡めて。
そのすべてがあたしを変にする。
「……一目惚れ、だった」
その囁きが、またあたしを一歩先へと導いてくれる。
「最初にリトリエの候補写真を見た時から気になって、それが始まりだった。私の姿を見ても、幻滅せず寄り添ってくれたことが心の支えになって……好きだという気持ちが大きくなっていったんだ」
テオドラさんの言葉が鼓膜を揺らすたび、どんどんあたしは変になっていく。
不可解で心地良いこの気持ちは、キスの嵐を抜けた時ともまた違うもので、しかしそれに匹敵する喜びと幸せと嬉しさと快感が溢れてくる。
ぼんやりした頭でも明確にわかるのは、テオドラさんの唇はあらゆる意味で危険な兵器だということくらい。
ほら、開いた砲門がまたあたしを狙い撃ちにする弾丸を打ち出そうとしてる。
「……夏海は、どうなんだ?」
回避不能の一撃は心の深くへ命中し、体の制御を奪う。
普段なら言えないようなことが自然と口から形になっていく。
「あたしは……ほっとけないな、ってのが最初の気持ちでした」
あの時に芽生え、今も根深くあたしを支配している想い。
包み隠していた気持ちを明かす相手は、他でもないテオドラさんだけ。
「なんだか、あたしと似てるところもあるなって。だから親近感とか興味もあったのかもしれませんけど、もっと一緒にいたいなって思うようになって――」
好きになったきっかけ――直接的なトリガーは一つじゃない。
仕事をしている姿と普段のギャップに揺れ動いたのが最初だろうか。出張途中の港町で垣間見た冷徹さの欠片、リマドさんの村で知った心と体の温もり、フリアジークで聞かされた過去。
そのたびにあたしの心は切なく叫び、気付けばもう戻れない場所に立っていた。
好きだと気付いた時のことは、あたしとテオドラさんだけの秘密だ。
「――夏海。私を好きになってくれて、ありがとう」
暗くてもわかることが二つある。一つはテオドラさんの顔が熱を持って染まっているということ。
そしてもう一つは、空気の色も変わったということ。
寄り添って、間近で見つめ合い、吐息と声に絡め取られ、愛を囁く。
すべてが予定調和。次に何が起こるのか手に取るようにわかってしまう。
元々近かった距離を更に詰めるとすれば、触れ合わせる場所なんて多くない。
言葉を交し合っていた唇が役割を変え、熱と愛を伝えるセンサーとなる。重ねて啄ばむだけで、テオドラさんの想いが優しく流れ込んでくる。
今日だけで何度も交わしたキス。
その中でも、今が一番の幸せを届けてくれる。密着した体が、絡めた指が、本能が、どこもかしこも強く脈打ってその事実を訴えていた。
時間にして数秒程度。長いわけじゃない。
けれどあたしの心は余すところなく満ち足りており、望んでいたものを与えられてご満悦だ。
今日という出来事を綺麗な思い出にする鍵。
この口付けに名前をつけるとしたら、きっとそんな感じなのだろう。
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
見つめ合って、目を閉じる。
見えなくてもそこにいる。
今日だけじゃなく、明日からの日々もかけがえのないものになる……そんな確信が生まれていた。




