第69話 湯浴みの記憶
「それにしても……さっきはどうなるかと思いました」
止められない、とは確かに思った。
けれど現実はそんなことを許してくれるはずもなく、思い返したら赤面必至な雰囲気はあたしたちの体に溶けるように消えていった。
むしろ消えてくれて良かったのかもしれない。あのまま続けていたら変な領域に足を踏み入れていた気がするから。倫理観とかコンプライアンス以前にあたしの心がショートしていた可能性がある。
それに、あたしはテオドラさんとずっと一緒にいるって決めたんだ。後の楽しみは多い方がいい。
さっきまでの体勢は解除して、今は普通に並んで座っている。これが正しいソファーの使い方だよね。
でも離れているわけじゃなく、ちゃんと手は繋いでる。これが正しい恋人のあり方だよね。
「いきなり膝の上に乗せられちゃいましたし」
「……す、すまなかった。夏海への想いが溢れて、つい」
えっ、なんですかそれ。そんなにあたしのことが好きってことですか?
いやぁ、それじゃ仕方ないよねぇ。でへへ。
「謝らないでください。ちょっと驚いただけで、その……嫌じゃなかったので」
「そ、そうか。なら……また、その」
「……はい」
テオドラさんも同じようなことを考えていたらしい。嬉しい。愛しい。
でも、それはつまり今後もあの頭がぽわーっとなる空気を何度も味わうという意味で。
楽しみなんだけど、嫌ではない怖さがちょっとある。
「テオドラさん……」
芽生えそうな不安を消したくて、テオドラさんへと体を預ける。温かくて落ち着ける、あたしの居場所。
すぐにテオドラさんもあたしに身を寄せてくれた。あたしを受け止めつつ、頭をちょこんと傾けるような具合に。
ゆったりとした雰囲気。頭のネジが数本飛んでったようなさっきまでの空気とは大違いだ。あれは色々と危険すぎるので過剰摂取したら命にかかわる。
改めてここがソファーだったことに感謝したくなった。もし立ったまま抱き合ってあんなことしてたら、とっくの昔にあたしは腰を抜かしてへたり込んでただろうから。
それにまあ、ソファーだったからあんなことができたとも言えるわけだし。こうやってクールダウンもできるし。ソファーって万能。
頬擦りをしたり、手を繋ぎなおしたり。
そんなことをして頭をぽわぽわさせていたら、テオドラさんがこんなことを言い出した。
「夏海……聞いておきたいことがあるんだが」
「はい、なんですか?」
今ならなんだって答えてしまいそう。
あ、でもスリーサイズは最近計ってないから正確な数字を答えるのは難しいな。ちょっとだけサバ読んでも許してほしい。
「夏海には元の世界があるだろう。その……いいのか?」
ポツン、と告げられた問い。
アホなことを考えていたからという理由だけではなく、純粋にその意味がすぐにはわからなかった。
「……いいのか、とは?」
「だから、故郷が恋しくはならないのか、と……」
ああ、そういうこと。
深刻な感じを出すから何かと思えば。
その答えはとっくの昔に出てる。
てか、テオドラさんへの気持ちに悩んでた時間の方が遥かに長かったよ。
「テオドラさん。もしかして、またあたしがいなくなっちゃうかもって考えました?」
「そ、それはその……」
消えていく声の代わりに、手がぎゅっと握られる。
ああ、めっちゃ愛されてる感じする……。
「すまない。また弱いところを見せてしまったな。だが、今がとても幸せすぎて……幸せなのに不安になってしまうんだ」
「それ、あたしもわかります。あれですよね、最高まで上がりきったら後は下がるしかないってやつ」
「私は……下がりたくない」
言葉も直球。行動も素直。
こんなことされたら、あたしだって本音が出てくるに決まってる。
「あたしもですよ。だから思うんです。上がりきったなら、ずっとそのままでいればいいんだって」
「夏海は……それでいいのか?」
「はい。あたしはここにいたいんです」
出てくるのは本当の気持ち。
テオドラさんに寄り添ったまま、言葉だけじゃなく全身から想いが伝わるように願う。
「本当に最初の頃は帰りたいな、って寂しくなることもありましたけど……最近は全然そんなことないんです。昨日も、おとといも、その前も。きっと明日もそうで、あさっても、その先もそうだって自信があります。だから、ずっとここにいます。テオドラさんのいるところが、あたしの居場所になっちゃったんです」
「そ、そうか」
「はい。だから……ずっと、一緒にいてくださいね? あたしだってテオドラさんのことが好きなんですから」
きゅっ、と手を握れば優しい力が返ってくる。
それがテオドラさんの答えなんだ。いつだってテオドラさんはあたしが望むものをくれる。
かけがえのない存在。離れるなんて考えられない。
「それに、もし帰ることがあっても戻ってこないなんてことありませんから。なんか行き来するの簡単みたいですし」
「簡単なのか……ならば私も夏海の世界へ行けるのか?」
「んー、それはわかりませんけど」
わからないけど、ジリオラさんに言えばなんとかなりそうな気もする。あの人ってなんでもやってのけそうなオーラあるし。
ふぉっふぉ、その程度朝飯前じゃ。とか言ってる姿が目に浮かぶ。
「もし可能ならば、今度改めて夏海の両親へ挨拶に伺わなくてはならないな」
「えー、大袈裟ですよ」
「そんなことないぞ。交際と、その……婚約をするとなれば筋を通すのが礼儀というものだ」
「……えっと、じゃあ、そのうちということで」
なんか急にそんなこと言われたら、照れるというか現実味を帯びてくるというかドキドキなんですけど。
でも考えないといけない感じだよね……うん、ずっとこっちにいたから忘れかけてたけど。
あたしには両親がいるんだ。時間の流れが違うらしいから、たぶん帰りを待つ悲しみとか微塵も感じてないはずだけど。
そしたら……近いうちに一度顔を出してみるべきかも。
いきなり結婚報告、しかも異世界で相手は年上の女性ですとか言い出したら良くて混乱、悪ければ卒倒されるかもだし、向こうからしたら数時間家を空けたくらいにしか思ってないだろうけど。
あたしの気持ちに整理をつける、って意味もあるわけで。
今度ジリオラさんと話す機会があったら考えてみようかな。
そんなことを考えつつ、もう一度あたしはテオドラさんにぎゅっと密着する。
未来のことより今のこと。遠い人より近くの人。
もう少し余韻に浸っていてもいいよね。
そんな思いを、一部始終の唯一の目撃者である鉢植えに向けて投げかけた。
元はと言えば原因はお前じゃないか。
ちゃんと責任取って、あたしたちの未来をずっと見守り続けないと許さないからな。
――――――――
テオドラさんとくっついていたら幸せ。それは何よりも確実で大切なこと。
けれど幸せじゃお腹は膨れないのが世界の現実。
そう、生きるには食事をしなければならないのである。
時間の感覚がめちゃくちゃになっていたけど、実は数分しかたってなかった……とかいうこともなく。そりゃそうだよね、と受け入れてしまうくらいには時間を消費していた。
少ない時間での手早い準備を余儀なくされたけど、料理というのは経験がモノを言う世界。
出張についていったから家事はご無沙汰だったけど、こういうのは体が覚えている。極端に難しいことしなければなんとかなるようにできているのだ。
食事を済ませたら、なんとなく空気が緩むのはなぜだろうか。一日の終わりが近付くから?
でも、このまま終わることはない。寝る前には体を清めなければならないから。
「……」
テオドラさんの様子を窺う。目線だけの動きで何度も。視線の衝突も何度も繰り返す。
たぶん考えてることは一緒のはず。
「お風呂、沸きましたよ」
「そ、そうだな」
謎のチキンレースが始まった。
どちらが最初に切り出すか。止まったら負けなのか走り抜けたら勝ちなのか勝敗のつけ方すらわからない。
ええそうですとも。一緒にお風呂へ行くことばっかり考えてますよ。
だってそうなるじゃん。さっきまでの雰囲気を引き継いだら自然な流れでしょ?
今のあたしたちは最高に不自然な動きをしてるけどさ。
「えっと……」
「な、夏海! その、一緒に……」
消え行く言葉とは裏腹に行動は大胆で、あたしの手に触れてきた。
繋ぐでも握るでもなく、指先でちょこんとつまむ程度と言えばそうだけど。
それでも可愛さの限界をいとも簡単にぶち破る行動なのは揺るぎない事実であり、ついでにあたしの心もノックダウン。
「……はい」
しおらしく頷くことしかできない。
心はこんなにも騒いでいるのに、外側の力が見事に抜けている。テオドラさんに手を引かれて浴室へ向かう自分を遠くから眺めている気分。
えっ、ホントに?
だって今から、その、いわゆる裸のお付き合いというのが始まるわけでしょ?
銭湯とか修学旅行とか、そういうのとは次元が違う。好きな人と、好きな人だけにすべてを見せて、すべてを見られる。
そんなの緊張しないはずがない。でも求められたら断れるはずがない。あたし自身も期待してなかったはずがない。
あれっ、そういえば今日あたしどんな下着だっけ? 変なのじゃないよね? さっきスリーサイズのサバを読むとか思ったけど裸になったら結局バレるよね?
いや何を考えてるんだ余計な問題を発掘するな無心無心。
「……」
もじもじ、そわそわ。
テオドラさんの顔が見られない。少し前を歩くテオドラさんもあたしの方を見ようとしないのは幸か不幸かなんなのか。
完全にわからなければよかったものの、頬とか耳が赤くなってるのが見えるから余計に意識してしまう。テオドラさんは意味もなく赤面するような人じゃない。
落ち着けあたし。
別に変なことをしようってわけじゃない。入浴は日々の生活においてごく普通の営みだ。
一方、好きで好きで仕方がない相手とは常に一緒にいたいと思う。
その二つが合わさっただけのこと。何も意識する必要なんかない、と考えている時点で意識しているってことくらいわかってるけど。
お風呂に入るってさ、そりゃもちろんテオドラさんの神々しいお体がどうのっていう欲もありますけども。
何より離れたくないって気持ちが一番大きい。片時も離れず一緒にいたいって心の底から思ってる。自分で言うのもなんだけどめっちゃ重いなこれ。
でも、これもあたしだから。
迷うなあたし。惑うな心。
止まったら負けだ。誰にどう負けるのかはわからないけど、そんな気がする。
「……」
第一の関門、脱衣所へ到着。ここまで無言。何を喋ったらいいのやら。
横目でテオドラさんをチラチラ。どう動くか見てたら、意外にも服に手をかけ始めていた。
えっ、もう?
じゃあ負けてられないぞ、とまたしても謎の負けん気を発揮してあたしも脱ぐことにした。
テオドラさんに背中を向けているのはせめてもの抵抗と、髪をまとめ上げているところを見られるのがなんだか服を脱ぐ以上に恥ずかしく思えたから。
仕上げにペンダントを手首に巻く。テオドラさんとお揃いのやつじゃなくて、スーパー翻訳アイテムの方。
これが近くにないと会話ができないもんね。無駄にハイスペックだから脱衣所との距離くらいなら問題ないかもだけど、まあ保険ということで。
準備が終わったのでバッと浴室へ移動。どっちが先に入ったかなんてわからないけどたぶん同時。だって目のやり場に困るじゃん。
世の恋人たちはどうやって一緒に入っているのだろうか。なぜお話の中では「お風呂入ろうか」となったら次のコマやページで即入浴しているのか。大切なところが抜けていると言わざるを得ない。
どうするべきかそわそわしていたら、いつの間にか出ていたシャワーの湯気が濃くなってきた。浴室内を薄い白が支配していく。
これでテオドラさんの方を向いても大丈夫……と思いきや、悲しいことに湯気は万能じゃない。
体を隠すほどの濃さもないし、あたしの視線も覆ってはくれない。ゲームや漫画でよくある謎の有能な濃霧レベルの湯気は現実には存在しないのである。
でも、一応の建前にはなってくれた。
湯気が満ちるのはお風呂なんだから普通のこと。裸でいるのもお風呂なんだから普通のこと。迷いつつも本当はテオドラさんをガン見したいし触りたいと思うのも普通のこと。
身構えることなんてないんだ、という心理を組み立てられるようになってきた。顔を見るくらいならいいよね。さっきも間近で見つめ合ったくらいだし。
免罪符もできたので、思い切って見ることにした。錆びついたように動かなかった首をぐいっと横へ向けて。
そこで大切なことを思い出した。
あたしとテオドラさんは身長差がある。もちろん低いのはあたしの方。つまり顔を見るには少し斜め上を見る必要があったわけだ。
そんな関係で馬鹿正直に横を向けばどうなるか。
当然そこには顔から下に位置するものがあるわけで、テオドラさんのアレコレと直面する結果となった。
「……あ」
突然すぎて照れも恥じらいも感動も吹き飛んだ。無心にならないと見られないと思っていたものを見たら無心になった、というのは皮肉なのかなんなのか。
特に何も考えないまま、今更のように見上げればテオドラさんと目が合った。
テオドラさんは何も言わない。
抵抗もしない。逃げようともしない。体を隠そうともしない。
色々な感情を溢れさせた顔のまま、ただあたしの視線を受け続けている。
空白の思考がテオドラさん一色に染められていく。
そうすると顔を出すのは素直で単純な欲求。
触れたいという願い。
そっと手を伸ばして腕に触れてみる。ピクン、とした震えが指先に伝わり、なぜかそれがとても心地良い。
距離を詰め、指を滑らせ、手首を通過し、手を繋ぐ。テオドラさんの隣、あたしの定位置。
ぎゅっと体を寄せる。服越しだった色々なアレコレが直接触れ合って、お留守になっていた感情たちが続々と復活してきた。
「な、夏海」
「テオドラさん……肌、綺麗ですね」
「そ、そうか? 夏海こそ、とても美しいと思うぞ」
「……ありがとう、ございます」
シャワーのお湯は出しっぱなし。今も弾けて白い霧を生み出している。
たぶん、満ちる湯気の中にはあたしが発生源の成分がわずかながら含まれているだろう。それくらい体が熱くなり、すぐ近くにいるのに愛する人との更なる接触を求めている。
まだろくにシャワーも浴びていないのに、こんなにも熱く……
そうだ、シャワーだ。
このまま裸で密着しているだけだと、一体なんのためにお風呂があるのかという話になってくるぞ。その場所に適した行動を取るのが人間らしい生き方ってものじゃないか。
「テオドラさん! 体を洗いましょう!」
「あ、ああ。そうだな」
よし、喋ってたらなんだか気分も安定してきた。黙ってると雰囲気が変な方向へ行きそうでダメだな。声出していこう!
「じゃあ、背中から失礼します」
「た、頼む」
なんだろう、このどこかぎこちない雰囲気は。まるで少し前のあたしたちみたいじゃないか。
そう考えたらなんだか新鮮に感じられる。これでこそあたしたちっぽいのかもしれない。初心忘れるべからず、って言葉もあるし。
テオドラさんが椅子に座り、あたしは後ろに立つ。まだ何もしてないのになんかいい香りがして少しクラっときた。
向けられたのは美しい背中。首から肩のラインがめちゃくちゃ眩しいし、腰へと続く生々しいくびれが神秘的すぎて触りたくなる。てか今から触るじゃん背中を流すんだから。
そういえば、こういう場合は手を泡立てて直接洗うと物の本に書いてあった。あたしもそうするべきだと思う。
というわけで、えいやぁっと泡立てた手をぺたり。
「ひゃんっ」
えっ、何この可愛い声。
そんな声を今出されると非常に危うい感じなんですけど。
「くすぐったかったですか?」
「い、いや。大丈夫だ。続けてくれ」
続けて泡を広げていくと、今度はさっきみたいな声は出なかった。
でも体がピクピク震えているのが丸わかり。全体的にモジモジしてるというか、非常によろしくない方向へ何かが動き始めている雰囲気が伝わってくる。
それよりも、あたしの手がなぜかめっちゃ気持ちいい。触ってるだけなのに息が荒くなりかけている。頭の中では無意識にさっきの口付けオンパレードを思い出していた。
「テオドラさん、背中は終わりましたけど……他はどうしますか?」
「ほ、他とは?」
「その……前、とか」
あたしの手はテオドラさんの肩に置かれている。そこから身を乗り出すように話しかけてるから、それなりに囁いている格好になる。それでも浴室内にはよく響く。
「まっ、前! ……い、いや大丈夫だ自分でできるありがとう夏海とてもよかったよ」
急に早口になったテオドラさんは、有言実行とばかりに自分で体を洗い始めてしまった。これで良かったような残念なような。
いつかそこも触る日がくるのかなー、とか淡い期待を思い浮かべていたんだけど。
「……今度は、私の番だ」
「えっ?」
そのせいで反応が遅れ、気付いた時には準備が整っていた。
何が起こったかと言えば、手を掴まれて引き寄せられ、あっという間に場所が交代。あたしが座らされて背中をテオドラさんに向けていたのだ。
ソファーの時もそうだったけどテオドラさんはあたしの体を操るのがうまい。悪い気はしない。
「……何かあったら言ってくれ」
それは優しさに溢れた犯行予告。お互いに同意してるから厳密には罪でもなんでもないんだけど。
でも、あたしの背中に走った刺激は犯罪的でしかなかった。
「ひゃうっ」
テオドラさんの手と指が背中をなぞるたび、電撃が全身を駆け巡る。くすぐったさを凌駕する勢いがあたしを翻弄し、隠しようがないほど気持ちいい。
「ひゃ、あっ」
言葉は無意識にこぼれていくし、体も勝手に震え始める。
これは反射の一種なのでどうしようもない。防ぐにはテオドラさんへの好意を失う必要があるけど、そんなの無理なので回避不可能。耐えるしかない。
「夏海」
「な、なんでしょうか」
「……さっきの私の気持ち、わかってくれたか?」
「は、はい」
肩に手を置かれて、そんなことを言われた。なんという状況再現。
なんで触られているだけなのにこんな気分になるんだろう。そりゃ背中は体の中でも敏感な部分だろうけど、それにしてもこんな……。
身をよじって逃げたくなるほどじゃない。でも、だからこそジワジワと全身を疼かせるには過剰で十分な代物で。
段々と頭の中がおかしくなってくる。
いや、正常と言うべきか。今すぐ振り返ったらテオドラさんと向き合える、なんて素直に考えられるようになっていたのだから。
ああ、そうだ。今あたしの後ろにはテオドラさんが。こっちを向いてる状態で。振り返ったら。対面。ありのままの姿で。
気付けば背中にシャワーが浴びせられていた。あれこれ考えているうちに洗い終わっていたらしい。
じゃあ振り返ってもいいよね、と脈絡のない判断をしつつシャワーが背中から離れたタイミングで実行してみた。
「あっ」
どちらの声か、そんなことはどうでもいい。
そう思えるくらい美しいテオドラさんの肉体が目の前にあったから。
引き締まった体には隙がない。特に腹筋なんてシックスパックとはこういうものだってことをあたしに教えてくれる。
肉体美って言葉は今このために生まれたんじゃないかと思わせる圧倒的な光景。
まじまじと腹筋を見つめるあたしだけど、別に筋肉フェチってわけじゃない。
視線を動かそうにも、上下どちらも危険地帯なので結果として動けないだけだ。今のままでも視界の端にアレコレが映ってヤバイってのに。
あたしよ、なぜ振り向いた。グッジョブだけど心が追いついてないぞ。
「夏海、そんなにじっと見て……私の体、どこかおかしいか?」
「そんなことありません! ただ、腹筋すごいなーと思って」
「そ、そうか……なら、触ってみるか?」
「えっ」
テオドラさん、一体何を言い出すんですか?
今そんなことしたら、あたしはどうにかなる自信がありますよ?
だから名残惜しいけど断るしかないんですよ?
「……じゃ、じゃあ失礼します」
しかし、あたしの心は追いついてない。考えを形にする前に体と欲望が動いていた。
ゆっくり伸ばした指先が、吸い寄せられるようにテオドラさんのお腹に触れる。清らかな肌の奥に、確かな筋肉の存在を感じた。
「んっ」
「わぁっ、すご……テオドラさん、力入れてます?」
「……す、少し」
「力、抜いてください」
自分でもよくわからないことを口走ったのだけど、テオドラさんはその通りにしてくれたらしい。指先に伝わる感触が少し柔らかくなった。
なので、もう片方の手も参戦させることにした。両利きはこういう場面で活用するべきだと思う。
「ひゃっ、あぅ」
またしてもテオドラさんの可愛い声。
さっきと違うのは既に危うい状況へ足を踏み入れていることだ。
一線を超えているのか踏みにじっているのか判断に迷うこの瞬間も、あたしはテオドラさんのお腹をなでなでしている。
「なっ、夏海……それ以上は、っ」
テオドラさんの体が迫ってくる。美麗の限りを詰め込んだ圧倒的な質量が目の前に。
同時に、ようやくあたしの心も追いついたらしい。自分の置かれた状況と意味と行動が急速に脳内で渦を巻いて情報の洪水を引き起こす。
あっ、なんかすごくいい気分――。
「――あれ?」
おかしいぞ。直前の場面と今の光景が繋がらない。
記憶が飛んだ気分なんだけど……まさか、ね。
「どうした、夏海」
「あ、いえ」
眼下には揺れる水面。ぴちょん、とどこかに雫が落ちる音。全身がほどよい温度のお湯に包まれている。
「そうか。熱いようなら言ってくれ。湯あたりしては大変だ」
いやめっちゃ熱いですけど!
テオドラさんに抱き締められているから全身がポッカポカですけど!
えっ、何この状況?
あたしはいつの間に湯船に入ったんだ?
背中に感じる尋常じゃない柔らかさはなんだ?
いつの間にテオドラさんはあたしの後ろに陣取ったんだ?
素肌同士の密着具合が半端ない。吸い付くような、って言うけど本当じゃん。興奮するけど同時に安らぎもするからすごい。ハグは世界を救う。
そんな現実逃避モードの思考を巡らせる頭の方に意識をやれば、タオルでまとめられた髪がしっとりとしているのを感じる。
湯船でまったりしている状況から考えて、いつの間にか髪を含めて全身バッチリ清め終わっているらしい。
いや、だから全部記憶にないんですけど。
あたしちゃんと体洗った?
自分で洗えた?
テオドラさんはどこまで触ってくれた?
考えても答えは出ない。記憶もない。ついでに体も動かない。
なんで動けないかって、お腹にテオドラさんの腕がまわされた上にガッチリ組まれてるから。イメージするならジェットコースターのシートベルト。
つまり隙間なく抱き寄せられてるから、その、背中に、めちゃくちゃ神々しい感触がありまして。
「はぅ……」
「夏海……もっと、体を預けていいんだぞ?」
「そ、そんな恐れ多い」
「何を言っているんだ。さっきもあんなに触れ合ったじゃないか……だから、いいんだ」
さっきってなんのこと? あんなに触れ合ったって? あたしは一体何をしでかした?
頭の中が落ち着かないまま、テオドラさんが更にあたしを抱き寄せる。きっと流れる水滴さえも入り込む隙間がないだろうなってくらい。
それでも力は決して強引なんかじゃなくて、重なる肌から好きって想いが流れ込んでくる。
自然と体の力が抜けていく。体の奥に響く鼓動はあたしのものか、それともテオドラさんから伝わる音か。
視線を落とした先にあるのはあたしの腹部。おへその上辺りでテオドラさんの両手が組まれている。離さないぞ、と強く意思表示するかのような絡まりがとても嬉しい。
溢れ出る万感とも呼べるような慕情と共に、あたしもそこへ手を重ねた。背中だけじゃなく、手でも繋がりたくなったから。
すぐにテオドラさんの手がほどかれ、あたしの指を絡め取ってくれる。指の側面をなぞって存在を確かめるようなじゃれ合いをすると、無意識に頬を緩ませてしまうくらい心が暖かい。
「……ふふっ」
「夏海?」
「なんだか今……あたし、とっても幸せなんです」
さっきまで慌ててたけど、結局のところその一言に尽きる。
裸だとか距離が近いだとか、そんなのは些細なことにすら思えてしまうほどに大切で基本的なこと。
こうやって後ろから抱き締めらている状況が、あたしにそれを気付かせてくれた。
他の色々なアレコレより、テオドラさんがあたしを求めてくれているという事実の方が重要に決まってる。
そんなことを考えられる程度には、興奮よりも冷静な気持ちが勝ってくるようになった。誤解のないように言っておくけど興奮してないわけじゃない。
「……私もだ。夏海とこうしていると、日常の何もかもを忘れてしまいそうになる」
耳元に迫るテオドラさんの気配。
横目で何をするのか窺おうとしたけれど、すぐにその視線は見当違いの方向へ飛んでいくことになる。
「夏海……好きだ」
「ひゃう」
不意打ちに強い人間はいるのだろうか。
ちなみにあたしはテオドラさんが相手の場合、たとえ予告されていたとしても弱い。
「他の誰にも私の心は動かされない。愛しているのは夏海だけだ……」
「あ、あう」
ど、どうしたんですかテオドラさん。
愛をぶつけられるのは嬉しいんだけど、いきなりだし、ここはお風呂で裸で密着してるわけでして。
唐突な攻めにあたしの顔は真っ赤。せっかく取り戻した冷静さが蒸発してしまった。
急な攻勢の衝撃で思い出した。一緒に入ろうとお風呂に誘ってきたのはテオドラさんだ。まあ、あれはどちらが最初に言い出すかの問題だった気もするけど結果として。
つまり今の状況はテオドラさんが作り出したと言えるわけで、それならあたしが押されて受けに回るのも致し方ない。
だからこれでいい。全部見られたのなら、その先まで入り込まれたって当然の流れじゃないか。
「夏海のことだけ、ずっと見ている……」
「は、はい……」
さっきから、あたしはたどたどしい返事しかしていない。
それでも、繋がった手から容赦なくあたしの内面は流出していることだろう。
無言で身を寄せ合うあたしたち。
素肌をくっつけることへの誘惑は強力だけど、区切りをつけないと近いうちにのぼせてしまう。
「あのっ、テオドラさん!」
だから口火を切った。名残惜しさがついてこないように。
「あ、あがりましょう! のぼせちゃいますよ!」
言葉だけじゃなく、体も揺らしてアピールする。その勢いで振り向けばテオドラさんの顔がそこにあって。
「夏海」
呼ばれた時には何が起こるか予想できて。
あまりにも鮮やかな動きで重ねられた唇は、またしてもあたしの体を脱力させた。
長い口付けじゃない。ほんの数秒。ソファーでの一件と比べたら誤差みたいな時間。
だけど衝撃は比べものにならないほど強かった。テオドラさんへの感情を数値化したら間違いなくバグっている自信がある。いわゆるオーバーフロー現象だ。記憶を飛ばさなかったことを褒めてほしい。
「いきなりは……ずるい、です」
「……すまない。夏海が愛しくて、つい」
「それなら許してあげます」
だって、あたしだってキスしたかったから。好きだと囁かれたら当然じゃないか。
……という気持ちは胸に秘めて。
浴室から出る前にもう一度、あたしはテオドラさんと抱擁を交わしたのだった。




