第68話 好意の質量
二度目のキスが終わっても、あたしたちは離れなかった。
というか離れたくなかった。
くっついて、温もりと存在を確かめ合って。
今までのことが思い返されて、そのすべてが今ここに繋がっているんだ……なんて無駄に壮大なことを考える。
耳元へダイレクトに伝わってくるテオドラさんの吐息。あたしも負けないくらい息が上がっている。
これがキスの余韻ってやつか。正直ずっとこの空気を味わっていたい。テオドラさんも同じ考えであってほしいな、とか思いながら手を握ったり髪を撫でたりする。
「夏海……ずっと一緒にいてくれるか?」
ソファーの上、二人きりの空間。
テオドラさんの声は優しくあたしを包み込む。
「はい、あたしもテオドラさんと一緒がいいです……」
「どこにも行かないでくれるか? 私を一人にしないでくれるか?」
「テオドラさん……」
どうしたんだろう。なんだか気弱な感じが伝わってくるけど。
顔を上げてみると、その両目は切実な願いを訴えているようだった。
「もう、一人にはなりたくない……」
絞り出すような呟きから、今度はしっかりと伝わってきた。
テオドラさんの弱さ、そして真意が。
そうだ。テオドラさんは一度、大切な人を失っている。あたしなんかじゃ想像もできないような痛みを経験してるんだ。
孤児院。セレナさん。平穏。失踪。捜索。絶望……無数のイメージが細切れの閃光となって脳裏をよぎっていく。
「私は、本当はとても弱い人間なんだ」
「えっ……?」
自分から弱いだなんてことを言うなんて。きっと相当思い悩んだ末の言葉なんだろう。
でも、なんだかあたしは嬉しくなってしまった。心に生まれたこの暖かさは、弱さを見せられるほど信頼されていることへの嬉しさを痛いくらいに主張している。
「夏海を独占したい。束縛したい。私だけを見てほしい……そんなことばかり考えてしまう。私は夏海がいないと……おかしくなってしまいそうなんだ」
テオドラさんの顔は、魂を削るような苦悩に彩られている。
言葉にするのは簡単なことじゃなかったはず。
だけど、あたしはもっと単純に考えてしまう。
それってそんなに悩むことなのかな、って。
好きな人を独り占めしたいって、誰でもそうなるものじゃないかな。あたしだってそうだし。
「こんなこと言うなんて、年上なのに情けないとはわかってる。でも言わずにはいられないんだ。夏海、どこにも行かないで……」
大切な人がいなくなる痛み。
そんなのは二度と味わいたくないはず。
きっと、今の言葉に嘘はない。心からの本心なんだろう。
だったら、あたしもその痛みに向き合って、寄り添って、受け止めるべきだ。
「大丈夫ですよ、テオドラさん」
俯いたテオドラさんの目線に合わせて、潤んだ瞳を直視する。怯えたような目が可愛くて胸の奥が甘く痛んだ。
「好きな人は自分だけを特別にしてほしいっていうのは当たり前のことなんだと思います。あたしもテオドラさんがいないと、もうダメだーってなっちゃいますもん」
一拍置いて、あたしたちの距離をゼロにする。
愛しい人を抱き寄せて、耳元で囁いた。
「あたしはどこにも行ったりしません。ずっとテオドラさんのそばにいます。そのつもりじゃなきゃ……その、婚約、とかしませんし」
「夏海……」
「テオドラさんも、あたしとずっと一緒にいてくれますよね?」
「ああ、もちろんだ」
「ふふっ。おんなじですね」
全身がぽかぽか暖かい。なんて心地良さだろう。
想いが通じ合うから、こんな気持ちになれるのかな。
今ならなんだってできそうな気分。
そう。なんだって。
たとえば、こんな風にあたしから。
「……んっ」
雰囲気とか流れとか一切考えず、サードキスを繰り出してみた。だって、したかったんだもん。
柔らかく、しっとりとしたテオドラさんの唇。あたしもリップケアは人並みにしていたつもりだけど、果たして釣り合っているのだろうか。
確かめるように唇をちょっとだけ動かしてみるけど、次第にそんなことはどうでもよくなってきた。
こうしてキスを続けていることが答えなんだ。繋がった唇から感情が伝わってくる、なんてよく見る表現はこのことを言うんだろう。
ずっと隠していた想いが、こんなんじゃ足りないって暴れるように胸の鼓動を鳴らす。
キスの後に吐息がこぼれるのは、もしかすると名残惜しさが溢れるからなのかも。もっと触れていたいって、心の奥から響く叫びが熱い息になるんだ。
「それにその……こういうことするの、テオドラさんだけ、ですよ」
ダメ押しとばかりに渾身の口説き文句で完全に決めてやった。
というのは強がりで、自分でも顔が真っ赤になってるのがよくわかる。どうやら好きという感情では恥ずかしさを覆い隠せないらしい。
でも構わない。テオドラさんが心の奥を見せてくれたんだから、あたしだってノーガードだ。
それに、これだけ言えばテオドラさんも顔を真っ赤にしてほんわかタイムに突入するはずだよね!
「……」
と思ったら、なんだか微妙な表情というか思い悩むような顔をしてる。その頬は思ったほどには染まってない。
えっ、なんなのこれ。
いやいや、あたしがスベったみたいになってない?
そこはテオドラさんも一緒になって赤面して二人でアワアワするのが今までのテンプレだったじゃないですか。
一体あたしはどんな顔をしたらいいんだろう。わからない。なんだこれ予想外なんだけど。
長々とそんな苦悩の糸を絡ませていたと思ったけど実際は数秒で。
解決の糸口になったのは他ならぬテオドラさんの言葉だった。
「……だが、バルトロメアと、よくくっついているじゃないか」
気付けばテオドラさんは口を真一文字に結んでいた。拗ねてます、という自己主張がまじまじと感じられる。
えっ、ちょっと待って。
テオドラさん、そんなことで悩んでたの?
いや、そんなことって言ったらバルトロメアに悪いかもだけど今は隅っこに置いとこう。
だってそれ、やきもちじゃん! 可愛いにもほどがあるでしょ!
いやいや、これは反則だって!
変な声出るかと思ったし!
「あれはバルトロメアがそういう子ってだけです。あれがあの子の普通なんですよ」
なんかもう、そこにあるのがわかってるのに全貌が見えないほど大きな感情が生まれちゃってる。
キスした直後の至近距離。表情や吐息を感じられるんだから、その感情が伝わってもおかしくはない。
「そう、だよな……わかっているんだ。でも、夏海が誰かの近くにいると考えただけで胸の奥が変な気持ちになって、とても嫌な気分になるんだ」
「それだけテオドラさんは、あたしのことが好きなんですね」
間近でこんなこと言ったら、どうなるのかな。
さっきみたいになるのか、それとも。
「ああ、好きだ。好きで好きで……言葉にしないと溢れてしまいそうだ」
「……はぅ」
今度は見事に突き刺さった。
どうやらあたしが必死に振り回していたのは諸刃の剣だったようだ。しかもこれ、与えるダメージより反動の方が大きいという出来損ないなんだけど。
「夏海……」
頬に手が当てられて、テオドラさんの顔が迫ってきて。
あたしにできるのは目を閉じて、唇から与えられる熱い感情に酔っていくだけ。
一瞬だけ離れて、また重なる。微妙に位置を変えて繰り返されるキスが、あたしの神経をこれでもかってくらい焼き尽くしていく。
「……んっ、はぁ、あっ」
開いた唇の端から吐息がこぼれ、一緒に漏れた声の音量に自分でも驚く。それだけ興奮しているという紛れもない証拠。
だってしょうがないじゃない。好きなんだもん。存在を求められて、感情をぶつけられる。あたしはずっと、テオドラさんとこうなりたいって思ってた。
ほら、またキスの色が変わった。上唇を挟み込むように甘く吸われて、たまらず震えた全身がテオドラさんの愛を求めて、しがみつく腕の力を強めてしまう。
断続的な啄ばみはゆっくりとしたものなのに、背筋が震えるほどのスピードであたしの理性を削り取っていく。
息が荒くなるのも、口がだらしなく開いてしまうのも何もかも止められない。
まるで全身がテオドラさんに支配されたような気分。このまま永遠に続けていたいなんて思っていたけど。
「……んっ」
確かな名残をそのままに、テオドラさんの唇が離れていく。それもまた新たな啄ばみの前兆かと身構えていると、肩に何かが当たった。
なんだろうと思って目を開ける。テオドラさんがあたしの肩に、とても美しいショートカットの髪を添えていた。俗に言う「肩に頭コツン」というやつであり、リアルタイムの感想としては破壊力が高すぎるの一言しかない。
ちょうどここからだとテオドラさんの顔色が窺えない。濡れ羽色を超越したような色の髪から届けられる最高級の香りしか堪能できない。もちろん露骨に嗅いでバレたらまずいので慎重に呼吸を整えなければならない。
沈黙の中、あたしたちは手だけを動かしていた。繋いだ手にもう片方の手を添えたり、同じように追いかけてきたテオドラさんの手と繋いだり。
密着する繋がりではなく、指から手の甲までじゃれ合うような接触。何も考えずに動かす指がおかしくて、テオドラさんに触れられるとくすぐったくて、あたしはついつい頬が緩んでしまう。
きっと、これも特別なんだ。
あたしとテオドラさんだけの唯一無二。
「……テオドラさん。あたしがテオドラさんのことを特別だと思ってるって、わかってもらえましたか?」
素直で自然な疑問。好きな人に想いが伝わっているかどうか、知りたくなって当然のはず。
答えが明らかだっていい。誰がどう見ても答えは一つだとしても。
愛する人からの声よりも確かなものなんてないんだから。
「んぅ、わかったぁ……」
返事として届けられたのは、甘い声色だった。
ゾクリと幸福な震えが全身を走り抜けるのと同時に、からかうように遊んでいた指が絡め取られた。
それはつまり逃げ場が完全になくなったということで、あたしに主導権は当分戻ってこないことも意味している。
「夏海……もっと、こっちへ」
なんて言葉に導かれるまま、あたしの体はぐいぐいとテオドラさんへと迫っていく。
体勢を変え、位置を調節して。
ぽわーっとした頭が現状を把握したのは、既にそれが完成された後のことだった。
「あの、テオドラさん。これって……」
テオドラさんとあたしは向かい合っている。テオドラさんの両脚にまたがって、中途半端な膝立ちをするような格好で。
つまり位置関係はテオドラさんが下で、あたしが上。少しだけ見下ろすような視点が斬新で感動を覚える一方、テオドラさんの太腿が極上の座り心地を与えて別の感動も注ぎ込まれる。
さっきから対面なんちゃらというギリギリの単語が、夏場の川沿いで大量発生するユスリカを凌駕する勢いで頭の中を駆け巡って駆除が追いつかない。
「こうすれば、もっと夏海を感じられる……思った通りだ」
「あ、あたし重くないですか?」
「そんなことないさ。だから、もっと体を預けてくれ……」
そう言われて抱き寄せられたら逆らえるはずもなく。あたしはテオドラさんの温もりを上と下の両方から受け続けることが確定した。
もしかすると、これって本当はテオドラさんが両脚を開いて、その間にあたしが座るってのが正解なのではないか。いやそもそも今の状況自体が正解なのかを議論したいけど。
それでもテオドラさんが望むなら正しいも間違いもない。パンダは青一色だと言えばそうなるんだ。この世界にパンダがいるかは知らない。
なんてことを考えながら心を落ち着けて。
余裕が生まれたら、少しずつ思考を目の前にいる大切な人に染めていく。
力を抜いて体を預けていけば、唇に意識が行ってしまうのは短期間に何度も繰り返してしまった副作用だろうか。
そして、また口付けを交わしてしまうのも。
対面ハグという未経験のスパイスが加わったせいか、より一層頭がパンクしそうになる。
「夏海……」
熱い囁きが、あたしの鼓膜と全身を震わせる。何度も味わったはずなのに新鮮さを失わないこの感覚は、不思議であり少し怖い。
だから密着して触れ合う。芽吹きそうな不安を摘み取り、余計なことを考えなくて済むように。
そうやって抱き合い、見つめ合い、口付けを交わし合って。
何度そうしたかわからないほど繰り返した果ての、その途中。
「ふふっ」
あたしは微笑んでいた。
テオドラさんの顔を間近で見ていたら、つい愛しさがこぼれてしまったらしい。
「……夏海、どうした?」
あたしの行動が唐突に思えたのだろう。テオドラさんは小首を傾げて、少し不安げな表情をしている。
可愛いな、と思った。しかし同時にゾクッとするような感情も湧き出ていた。
正体はわかっている。あたしの中に巣食った欲望。オブラートに包んで言うなら、主導権を握りたいという意思だ。
「テオドラさんって、とっても甘えんぼさんだったんですね」
「……嫌だったか? こんな私を見て幻滅したか?」
テオドラさんの眉が下がり、あたしの気持ちは上昇する。
その顔が見たかったけど、見続けたくはない。
だから、すぐに言葉を続ける。
「もうっ、そんなわけないじゃないですか。テオドラさんに甘えられるの好きですし、全部受け止めますから」
「そうか……? なら、もうしばらくこのままでもいいか?」
答える前に体を預ける。
ついさっきのように、鼓動が混ざり合うほどの密着距離で。
「いいですよ。テオドラさんが望むなら、ずっと」
囁きのお返しを仕掛けた。
そして、テオドラさんの望み通りあたしたちは感情の混ぜ合いを再開することになる。
真っ先に顔を出したのは、愛おしいという気持ち。
一言じゃ表せないくらい複雑に絡み合っているけど、主な要素はさっきのテオドラさんが見せた弱気な声と表情にあるってことくらいはわかる。
テオドラさんを悲しませたいわけじゃない。でも、あの顔を思い返すと心の奥が奇妙な興奮を訴えて叫び出す。
そんな心の声に触発されたのか、いつの間にかあたしはテオドラさんの頭を撫でていた。艶やかな髪が指紋の形に沿って流れていく……なんて錯覚に直面するくらい今のあたしは指先が敏感になって最高の触り心地を味わっている。
頭を撫でたせいか、それとも間近で見つめ合ったせいか。テオドラさんは目を細めてうっとりした表情になった。
可愛すぎるその顔が、なんだか誘っているように思えてくる。
どうしちゃったんだ、あたしは。そもそも何を誘っていると言うのだろうか。
「テオドラさん……好きです」
まあ、別にいいか。
今の言葉があたしのすべて。溢れる衝動に身を任せるのも悪くない。
「……なつ、み」
消えてしまいそうな言葉を発しつつ、テオドラさんが目を閉じる。
これは、あたしが至近距離まで動いたせいだろう。恋人同士が抱き合って間近に迫ったらすることなんて一つしかない。
あたしの背中に回された手にも少しだけ力が入る。さっきまで何度も繰り返した記憶と流れもあるし、当然の反応と言えばそうなるだろう。
しかし、あたしの唇はテオドラさんの頬に触れていた。ふわりとした柔らかさと共に感じる甘い香りは錯覚なんかじゃない。
ゆっくりと離れて、再び口付けを落とす。最初の場所より、少しだけ唇へと近付いた位置へ。
カウントダウン代わりの予告キス。焦らされるのは我慢できないけど、焦らすのはどうやらあたしに向いているらしい。
「……はっ、ん」
テオドラさんの熱い声を受け止めながらジリジリと唇を目指す。お返しとばかりにリップ音を強めに立てて、返事の変わりにしてみた。
そうするとテオドラさんの声も少し強くなって、高ぶったあたしのキスに吐息が混ざっていく。こういうのを幸せの永久機関って言うのかな。
二つの唇がもうすぐ触れる、そんな距離になるとテオドラさんの体が緊張するのがわかる。
それが何を意味するかなんて言うまでもない。触れ合う体のすべてから感情が伝わってくるから。同じようにあたしの考えもテオドラさんに伝わっていると信じたい。
「……んっ」
「はぁっ、んむ」
テオドラさんを焦らしたつもりでいながら、あたし自身も焦らされていたらしい。
キスした瞬間、頭の中が真っ白になった。重なった唇から全身が溶かされちゃうんじゃないかと本気で思ってしまう。
こんな、お話の中でしか見たことない経験をするなんて。空想の世界に入り込んでしまったみたい。
確かに色々と読んで勉強した気分にはなっていたけども。キスの時に歯がぶつかって変な空気になる、なんてことにならなかったのはその勉強のおかげかもしれないけども。
けれど百聞は一見にしかずとはよく言ったもので、実際にしてみたら妄想とは比べ物にならない経験値が入った気がする。
現に今までの行動は理論的にああしてこうしてと考えてやったわけじゃない。体が勝手にというか、こうしたいと思った時にはもう行動に移っていた。
今しがたの焦らすようなキスだって、こうしたらきっといいことが起こるという説明できない直感があったからだし、実際そうなった。
でも、その全部をあたし一人の力でやれたわけじゃない。
テオドラさんがいるから、あたしも動けた。
あたしのしたいことができるように、静かに導いてくれていた。
それだけ想いが通じてるのかな……なんて考えたら嬉しくなる。
たとえば頬にキスしたときも、ちょっとでも動かれてたら失敗してた。
そうならなかったのはテオドラさんが待ち構えて、受け止めてくれたから。
だからあたしは進める。攻められる。正直でいられる。
そして、次にあたしがすべきこともとっくにわかってる。
キスがしたい。愛する人が目の前にいる。
そこから導き出される、単純で簡潔でたった一つの答え。
――もっと続けろ。
「はっ、ん、ちゅ」
声にならない声が、何度も交わされるキスの合間にこぼれていく。
ものすごく今更感あるけど、この体勢ってなんだかテオドラさんを組み伏せているみたいで大変素晴らしい。正直興奮する。
「んぅ、んんっ!」
余計なことを考えていたせいだろうか。あたしは唇だけじゃなく、舌まで伸ばし始めていた。
でもその侵略は長く続かず、ちょっと進んだところで唇とは違う何かに触れて、その驚きで退散してしまう。ついでに変な声が出た。
今のって、もしかしなくてもテオドラさんの舌……だよね。
あんなに近くにテオドラさんの舌があったってことは、それってつまり、テオドラさんも同じ気持ちだってことだよね!
それならもう一回!
立ち止まる理由なんてない!
意気込んで舌を伸ばす。
今度もやっぱり、すぐにテオドラさんの舌とぶつかった。
「は、あっ……」
声が出たって止められない。
愛する気持ちにブレーキなんか最初から搭載されてないんだから。




