第67話 交際の始まり
「というわけでテオドラさんと婚約しました」
「……ん?」
翌日、もはや日課となりつつある自宅訪問をしてきたバルトロメアにあたしは意気揚々と報告をした。
それなのにバルトロメアったら「何を言ってるんだこいつ」みたいな顔してる。美人が台無し。
どうしたの一大イベントだよ。リアクション薄いぞ。
「えっと……婚約、って言った?」
「うん。正確には結婚を前提としたお付き合いだけど、同じことでしょ」
今でも鮮明に思い出せる。あの瞬間は一生の宝物になっちゃうなあ……。
なんて幸せな記憶に浸れたのは数秒だけ。
「えええええええええっ!?」
前振りなく響いた思わずのけぞっちゃうくらいの声。
強引に現実へ引き戻されてビックリしたけど、なんだか安心もしちゃう。
「いやいやいや! 想像の斜め上すぎるでしょ! アタシもいきなり婚約なんて想像してなかったよ!」
そしてガッと両肩を掴まれる。そうそう、バルトロメアはこうでなくちゃ。
「ふっふっふ、あたしもやるときはやる女だってことよ」
「えー……ナツミちゃんすごい……」
いいねえその顔。もっとあたしを讃えたまえ。
本当はテオドラさんから先に告白してくれたんだけど、それはあたしだけが知っていればいいこと。
それに、ちゃんとあたしからも告白できたし。念入りに思い出すと恥ずかしくなって顔が赤くなりかねないのでこの辺にしておこう。
だけどテオドラさんのことを考えてしまうのは惚れた弱みのうちに入るだろうか。
テオドラさん、何してるのかな。あたしのこと考えてくれてたらいいなあ。
今もあたしにキラキラした視線を送ってくれるバルトロメアだけど、今日は一人で来たわけじゃなかった。
遡ること一時間ほど。ひょっこりやって来たバルトロメアの隣にはシャンタルさんがいた。出張から戻ってきた時に顔はちらりと見たけど、ちゃんと会うのは久々だった。
相変わらずちっちゃくて可愛いシャンタルさんは言葉遣いや性格も変わっていなかった。
「ようテオドラ。今日ちょっと顔貸せよ」
口調と言葉遣いだけだとガラの悪い人に思えるけど、白銀のサイドテールがぴこぴこ揺れるので全部相殺して可愛さ満点だった。
「突然だな、どうした?」
「どうしたじゃねえよ。会談を見事成功に導いた名手サマにお話を伺いたいに決まってるだろ。こっちにも積もる話が色々あるしな」
「しかし……」
テオドラさんがこっちを見たのは、あたしのことを気にかけてくれている証拠。
とても嬉しかったんだけど、あの瞬間においては悪手に他ならないものだったらしい。
「ん? テオドラお前、もしかして……」
シャンタルさんの視線があたしとテオドラさんの間で往復する。
その顔がすべてを理解して何かを企むようなものに変わるまで、たぶん三秒もかからなかったと思う。
「ははあ……なるほどな。テオドラ、たった今お前に拒否権はなくなった。出張に出てから今日までのこと、根掘り葉掘り聞かせてもらうぞ」
「何を言って……おい、やめろ腕を引っ張るな」
「長丁場になりそうだし、いつもの店に行くぞ。店長たちもお前に会いたがってたし、お前の恋路も気にしてたからな」
「こっ、恋路……! 待て、そんな、話すようなことは何も」
聞こえたのはそこまでだった。バタンとドアが閉まる音を最後に、あたしとバルトロメアは取り残された。
小さい体なのにテオドラさんに力負けすることなく、グイグイ引っ張っていく姿はとてもパワフルだった。月並みだけどすごい。人は見た目じゃないね。
あたしの想像だけど、テオドラさんもシャンタルさんに色々と質問攻めされてるんじゃないかな。
もしそれであたしのことをいっぱい考えてくれてたとしたら……二人きりの時間が減っちゃうのも悪くない気がする。我ながら重症だって気もする。
それにしても似たもの同士って惹かれ合う運命なんだろうか。
二人とも踏み込んでリードするタイプだと衝突してトラブルになりそうだけど、バルトロメアの話を聞く限りそんなことはないみたい。
というわけで。
そんなドタバタがあったのは少し前のこと。
二人きりになればトークテーマがそういう方向に進むのは最近の流れだったし、そこから最初の報告に繋がるというわけだ。
ところでバルトロメアはいつまでくっついてるつもりなんだろうか。ちょっと肩が重くなってきたぞ。
「はぁ……ナツミちゃんに先越されちゃったなあ……」
手をにぎにぎしながら言われるようなことなんだろうか。別にいいけど。
「あっ、言い忘れてた。おめでとうナツミちゃん!」
「急だね……でもありがと」
うーん、お祝いの言葉ってなんだかくすぐったい。
もちろんバルトロメアの髪が体のあちこちをこするのもくすぐったい。
「……で、ナツミちゃん。どこまでいったの?」
突然顔を近付けないでほしい。額が衝突事故を起こしかねないぞ。
……で、なんだって?
「どこまでって……何が?」
「んもうっ! テオドラ様とのことだよ! 婚約までしたんだから、色々としたんじゃないのかなー……って言わせないでよ恥ずかしいなあもう!」
一人で盛り上がってバンバンとあたしの肩を叩くバルトロメア。うーん、いつもの調子が戻ってきた。
でも困ったぞ。昨日は告白がメインイベントで他に特別なことは……あっ、そうだ。
「えーっと……昨日は一緒に寝た、かな」
「キャーッ、もうナツミちゃんったら可愛い顔して大胆なんだから!」
ますます興奮してるバルトロメアには悪いけど、期待してるようなことは何一つしてないんだよね。
言わんとすることはわかるし、あたしだって期待してなくもないんだけど、そういうのはまあ……ゆっくりやっていければいいかなって。
「で? で? どっちが攻める側だったの?」
「いや、ホントに寝ただけだよ。まあ……くっついてはいた、けど」
「……あっ、そうなんだ。やっぱりナツミちゃんだね。そこも可愛いけど」
今この子、あたしのことバカにしなかった?
やっぱりってなんだよもう。ヘタレって言いたいのかよ、おいっ。
否定できないのが悔しいけど、昨日のことで少しくらい返上できたとは思いたい。
「でも、こういうのは急がなくてもいいと思うよ。だって今、ナツミちゃんとっても幸せでしょ? ならそれでいいんだよ」
「うん、ありがとう」
「じっくり愛を育んでね、お幸せに!」
ああ、なんか本格的に結婚する人に向けてのメッセージみたいなのが来た。
間違ってはいないけどさ。照れるよね、やっぱり。
バルトロメアも言うように、あたしはあたしのペースで進んでいけたらいいなって思う。
テオドラさんと一緒に手を取り合って……なんて気持ちも今なら胸を張って宣言できる。
だから、早く会いたい。
したいことがいっぱいあるから。ゆっくり一つずつって考えても時間が足りなくなるくらい。あたしは欲深いからね。
「ちなみに、アタシもしっかり愛を育んでるからね! 聞いてくれる? 昨日シャンタル様の髪を整えてあげてたら――」
唐突に始まったバルトロメアのノロケトークに耳を傾けながら、頭の中はテオドラさんでいっぱいになっていたのだった。
――――――――
バルトロメアが帰ったら急に静かになった。シャンタルさんの帰りは待たなくていいのか気になったけど、途中で合流するつもりらしい。
それって最初から二人とも分断作戦を考えていたってことじゃないか……なんてことを考えてみても、一人の時間は落ち着かない。
片付けをしてみても集中できてないのが自分でわかる。早く帰ってきてほしくて何度も玄関の方をちらちら見てる。ペンダントを意味もなくいじりすぎて少し指が痛くなった。
でも、そわそわタイムは長く続かなかった。
待ち侘びた鍵を開ける音が不可視のバネとなって、あたしの体を勢いよく弾いた。
「おかえりなさい、テオドラさん!」
「ただいま、夏海」
短くて、ありふれたやり取り。
それでもあたしは今日という日を生きてきてよかったと心の底から実感したし、明日を生きる活力も湧いてきたし、これから先もずっとこうやってテオドラさんを出迎えたいなと思えた。
ふにゃふにゃで緩んだ顔になってるのがわかる。あたしをこんな風にしちゃうテオドラさんは今日も美しい。
なんの変哲もないシャツとジャケットにロングスカートという服装だけど、いつ見ても輝いている。仕事のときは凛々しいパンツルックなのに私服はスカートっていうギャップがすごい。語彙力が消えるくらいすごい。
こんなに愛くるしさを詰め込んだ人があたしの恋人で婚約者なんて、もしかして異世界含めて全世界のハッピーがあたしに集約してない? そういうチート授かっちゃった?
「……ん?」
などと意味不明の桃色思考に漂っていた意識が、ふとある一点で止まる。
テオドラさんが紙袋を持っていた。何が入ってるかわからない、ちょっと大きめのサイズ。今まで気付かなかったのはテオドラさんと見つめ合ってたせいかな。
「テオドラさん、それ……なんですか?」
「これか。帰りがけに買ってみたんだ」
紙袋を軽く持ち上げて、テオドラさんは得意気な顔をした。なんだか爽快感すら感じてしまうんだけど、シャンタルさんと何を話してきたのかな。
中身は気になるけれど、玄関で立ち話を続ける主婦にはなりなくないのでリビングへ向かう。テオドラさんが疲れてるかもしれないからね。そんな雰囲気はこれっぽっちも感じないけど。
ゴト、という音と共にテーブルに置かれた紙袋は倒れることなく自立している。ふむ、中身は結構しっかりしてるのか……。
気にはなるけど勝手に中を覗くわけにもいかず、リビングの明かりに照らされた袋の中身が明かされるのをあたしはただ待つばかり。
そわそわする気持ちが視線をテオドラさんと袋の間で往復させる。どうやらあたしはお預けされるのは向いてないらしい。
「夏海、気になるか?」
袋が置かれたテーブルを前に、いつものようにふかふかのソファーで隣り合う。手はまだ繋いでない。
それでもテオドラさんの声は耳に直接流れ込んできて、あたしは素直な言葉しか喋れなくなる。
「……はい、すごく」
「たいした物じゃない。ほら、これだ」
テオドラさんが紙袋に手を突っ込む。ガサリと聞こえるのは中身を探る音。
そして、満を持してズイッっと取り出されたのは。
「……鉢植え、ですか?」
両手で持てる大きさの植木鉢。その土からタケノコのてっぺんみたいに小さな芽が顔を出している。
「ああ、記念に育ててみようと思ってな」
「記念……と言いますと?」
なんの記念だろう、と首を傾げたくなったのは一瞬のこと。
テオドラさんの視線が泳いで手元が落ち着かなくなっているのを見たら、すぐに察しがついた。
「その……夏海との交際を始めた記念、だ」
わかっていても避けられないものは多い。
たとえばボクシングのパンチなんかは、急所を狙ってくることがわかっているのに避けられない。早すぎたり隙を狙われたりと理由は様々だ。
テオドラさんの言葉はまさにそんな感じで、昨日からメーターが振り切れた好きという気持ちのせいで隙だらけになったあたしの心に深々と突き刺さってしまう。
「これを二人で育てて、花を咲かせていくのを一緒に見られたらと思って……買ってきたんだ」
ゆっくりと繰り出される言葉たちは容赦なくあたしの心を揺さぶって、意識をぼやけたものへと変えていく。
目が潤んで、頬が染まって、呼吸が熱くなって。胸の早鐘が愛する人の存在を感じろと叫んでいる。
「テオドラさん……っ」
欲求に逆らう意思も手段も選択肢も持ち合わせていないあたしは、そうするのが当然とばかりにテオドラさんの胸に飛び込んだ。
ふんわりとした柔らかさと、ほんのりした温かさと、もはや麻薬と化した芳香と。
仕上げに頭をそっと撫でられて、カチリと二人のペンダントがぶつかり合う音がした。
一度に詰め込まれた情報がパンクして、テオドラさんが好きだという短くて大切な言葉しか頭に浮かんでこない。
「嬉しいです、あたし……とっても」
「私も嬉しいよ。そんなに喜んでもらえるなんて思わなかった」
「喜びますよ! だって、だって……」
うまく言葉が出てこない。
想いはこんなにも頭の中に溢れているはずなのに、ぐにゃぐにゃしたまま形になってくれない。
なので行動で示すことにした。
抱く力を強めて、頭をぐりぐりとテオドラさんの肩や胸に擦りつける。体重のバランスがめちゃくちゃになってソファーが軋むのも気にしない。
硬さと柔らかさのコントラストで脳内カオスがますます酷くなったけど、幸せなのでいいや。
「夏海……私は、夏海が好きだ」
あう。
いきなり言われるとつらい。幸せすぎてつらい。
「私は夏海と出会って変われたんだ。毎日が幸せに思えるようになって……けれど、少し苦しかった」
苦しかった。
テオドラさんのそんな言葉が、あたしの冷静さをほんの少しだけ呼び戻してくれた。
うずめていた顔を上げると、苦しさなんて一ミリも感じさせないほどに穏やかな微笑みに迎えられる。
それは、あたしが今まで見てきたものの中で一番美しかった。
「原因には早くから気付いていたんだ。それが恋の苦しみだということに。今考えれば情けないことも多かったが、どれも必要なことだったんだと思えるよ」
至近距離で見つめ合い、こんな直球の言葉をぶつけられたらどうなるか。
答えは今のあたし。
目が潤むというか、視界がぼやけるというか。瞳孔が開くってこういうことなのかな、なんて思いながら飲み込んだ生唾はコクッと小さな音を鳴らす。
ぽやーっとした気分のまま心のすべてをテオドラさんに持っていかれて、次の言葉を待つことしかできない。
「気落ちすることがあっても、夏海の顔を見れば元気をもらえた。家に帰れば出迎えてくれる人がいる……それが愛する人なら嬉しいに決まっているじゃないか」
呼吸が熱く、そして荒い。
全身を駆け巡る血液が体のあらゆるところでドクドクして、鼓動なんてどう考えてもテオドラさんに伝わっちゃうくらい激しくなってる。
それなのに、いや、だからこそなのか。
テオドラさんの言葉は止まらなかった。
「そんな当たり前で大切なことを気付かせてくれたのが……夏海なんだ。今は苦しみの代わりに、幸せがこの胸いっぱいに広がっている」
胸と言われて変な方へ考えが飛んでいく。
それくらい今のあたしは頭がどうにかなりそうだった。
「夏海、好きだ……愛している」
訂正。
どうにかなった。
たった今あたしの中で何かがプツリと切れた音がした。
「テオドラさん……そんなに好きって言われたら、あたし……」
付き合い始めた、と関係に名前を付けても目に見えて何かが変わるわけじゃない。結局は気持ちの問題だ。
だから、こうやって言葉にしてもらえて今までぼんやりしてたものが急に形作られていく。
結果、あたしは二度と帰ってこれないくらいの高みへ押し上げられたのだ。
「……夏海」
見つめ合う目は薄く閉じられ始め、逆に唇は自然と小さく開いてしまう。
あたしに負けないくらい頬を染めたテオドラさんが、ゆっくりとその顔を近付けてきた。
閉ざされていく視界の中、テオドラさんが先に目を閉じているのが見えた。
まつ毛長いな……とか真っ先に思っちゃって、こういうとき本当にそんなこと考えるんだな、なんて余裕はすぐに消えて。
これ、キスだよね……と思いながら、あたしも目を閉じた。
「……」
でも、何も起こらない。
チョコミントのようなテオドラさんの甘くて爽やかな香りが、ふわりとあたしの嗅覚をくすぐるだけ。
焦らされた心は耐えられず、そっと薄目を開けてみる。
そこにはもちろんテオドラさんがいた。
ただし、その唇はためらうように結ばれて、。顔は横に向けられていた。
……もしかして、大事なここ一番ってところで余裕と度胸がなくなっちゃったのかな。
そういうとこ、本当に可愛い。さっきまでのカッコよさが嘘みたい。
でも、そこがテオドラさんらしい。
あたしが愛したのはそういう人なんだ。
今度はこっちの番。
目の前にはテオドラさんの綺麗な頬。
こんなに高められた気持ちを抱えて、何もするなって方が無理な話だ。
「……っ」
かすかだけど確かに響いたリップノイズ。
感じた熱は、きっと二人分。
あたしのファーストキスはテオドラさんの真っ赤なほっぺだった。
「えへへ、あたしからしちゃいました」
面白いほどの速さでテオドラさんがこっちを向いた。忙しなく動く目線と震える唇からあたふたしてるのが伝わってきて、また可愛いなって思っちゃう。
そうしたらもっと欲しくなっちゃうのは仕方のないことで。
もう一度、あたしはテオドラさんに唇を近付けた。
ゆっくりとした動きはテオドラさんにあたしを意識してほしいから。
あたしがテオドラさんのことしか考えられなくなってるように、テオドラさんの中をあたしで独占したい。
欲深さが体に出てしまったのか、きゅっと抱く腕に力が入ってしまった。
それと同時にテオドラさんもあたしの方へ向かってきてくれて――。
唇同士が重なった。
「――っ」
「――あっ」
どれくらいの間キスしていたのかはわからない。
ただ言えるのは、やっぱり今のがあたしのファーストキスだってこと。
唇を重ね合うことで知った渦潮のような心の奔流は、さっきのほっぺちゅーはノーカンだと思うのが当然ってくらいの衝撃だった。
そう。これがあたしの初めて。
他の誰でも決して塗り替えられない、ただ一つの大切な経験をテオドラさんからもらえた。
密着する体。視線は絡まったまま。
あたしはもうテオドラさんしか見えない。
「テオドラさん」
「夏海」
焦らずゆっくりと、なんて思ってたけど。
これがあたしのマイペース。
どの口でそんなこと言うんだって、それはもちろんキスした口なわけで。
欲求に従えば、ゆっくりなんてやれるわけもない。
「好きです――」
「好きだ――」
ファーストキスから数秒と置かず。
あたしのセカンドキスは、すぐに訪れた。




