第65話 真意の理解
窓から見えるのは夕焼けの街並み。
家路につく人の流れを眺めていると、誰よりも目立つその姿を発見した。
すぐ出迎えられるように玄関の前に立って準備はオッケー。
深呼吸と長い瞬きをして心の準備もオッケー。
よし、踏み出せあたし。
「ただいま、夏海」
「おっ、おかえりなさいっ!」
胸元の星型ペンダントに添えた手を、そっと握る。勇気をください、なんて都合のいい願いを少しだけ秘めて。
中央庁から帰ってきたテオドラさんを出迎えて、あたしは早速バルトロメアに吹き込まれた作戦を展開した。
「な、夏海?」
「テオドラさん……遅かったですね」
その内容は単純。だけど実行するのは勇気がいる。
動いてしまえば得られるものは大きい。愛する人の温もりと匂いに包まれる幸福は、言葉なんかじゃ言い表せないほどに衝動の領域を侵犯していく。
そう。
あたしはテオドラさんに抱きついたのだ。
「あんまり遅いから、何かあったんじゃないかと……」
「す、すまない。報告と調整に予想以上の時間がかかってしまって」
「そうだったんですか……」
呟いて、また抱き締める。たった一日ぶりなのに懐かしくて愛しく思える温もりが、あたしの意識をぼんやりとしたものに変えていく。
出張を終えて、初めての密着。昨夜は各自の部屋で離れて眠った。前からそうしてたわけだし、帰ってきたことで元に戻っただけ。
それでも正直寂しかった。
色々と考えてしまいながらも眠れたのは長旅で疲れていたせいだろう。いいことなのかなんなのか、今朝はあたしもテオドラさんもあくび一つしない快適な目覚めだった。
「でも……寂しかったんです」
「な、なっ」
「だから、もう少しだけこのままで……」
本当の気持ちは何を考えるでもなく口からするする出てくれる。
それでも顔が真っ赤になってしまうのは防げないので、テオドラさんの体に押しつけて隠しておいた。熱や鼓動や弾力などなども感じられて一石七鳥くらい。
しばらくすると、ようやくテオドラさんもあたしの背中に手を回してくれた。
触れた瞬間はちょっとくすぐったくて、それもすぐに心地良さで上書きされる。
「……あ、明日で出張の事後処理は終わる予定だ。いや、終わらせる。だから」
「そうしたら、また一緒にいられますね」
「そ、そういうことだ」
さっきからテオドラさん言葉に詰まってばかり。可愛い。
きっと、テオドラさんの顔も赤くなってるはず。あたしだってそうだもん。
それはつまり。
意味するところと知りたいことが一致したことで答えもはっきりした。
やっぱり、こうやってくっつくのが一番いい。
どちらも喋らない静かな時間。
意識は小船に揺られるように流されて、辿り着いた先はテオドラさんとあたししかいない孤島。
二人きりの時間が狂おしいほどに愛おしい。
テオドラさんが相手だからそう思ってしまう。
やっぱりあたしはテオドラさんのことが好きだ。
「ご飯の用意、できてますよ。さあ、どうぞ」
体は離したけど代わりに手を繋ぐ。
そのままリビングへとテオドラさんを導いた。
ちらっとテオドラさんの顔を窺ってみたら、思わず心がキュンとした。
こんな顔、もっと見たい。あたしだけに向けてほしい。あたしだけが知っていればいい。
あたしの欲望は底無しだ。
――――――――
ところで、なぜあたしは突然こんな攻勢を仕掛けているのか。
その理由というか原因は最初にちらっと言った通り、他でもないバルトロメアの提案だった。
「テオドラ様の本心を引き出しちゃおう!」
それが彼女の自称とてもありがたい助言だった。
「ナツミちゃんから積極的に攻めて、テオドラ様がどんな反応をしてくれるかを見るの! そうすればナツミちゃんも安心できるでしょ?」
「はぁ……」
気のない返事をしちゃうくらい、最初は乗り気じゃなかった。
でも、試す価値はあるんじゃないかって思う気持ちもあった。今のままじゃ変われないのは自分でもわかってるから。
テオドラさんを見てると、なぜだか優しい気持ちになれる。ほんわかして安らぎの海に漂っているみたい。
そんな自分の気持ちを少しでもわかってもらうために、あたしにできることがあるのなら。
「いきなり告白できないなら、テオドラ様もナツミちゃんを好きだとわかれば安心できるでしょ? ならその答えを引き出すの。完璧な作戦でしょ!」
自信たっぷりに説得されたら、なんだか本当に名案のような気がしてきた。
いや、もしかしたらバルトロメアは天才策士なのかも。今までの変なところで鋭いのも、実は全部わかってやっていたとしたら……?
「今ここで何かしないと、ずっとこのままだよ。いいの?」
思ってたことを言われて確信する。やっぱりバルトロメアはすごい。
「わかった! あたしやるよ!」
「ナツミちゃん……やっと決心したんだね! 応援するよ!」
そうしてあたしたちは熱い握手と抱擁を交わしたのだった。
バルトロメア主導で体をぐいぐい押し当てられたのは言うまでもない。
「よーし! それじゃあ名付けて……二人の距離を縮めましょう作戦、開幕だぁーっ!」
神は二物を与えるけど全体的なバランスは重視するようで、バルトロメアのネーミングセンスは平均点以下だった。
「大丈夫だよ。テオドラ様はちゃんと向き合ってくれるから」
そんな言葉を信じて、そして何よりもテオドラさんのことを信頼して。
あたしはこの作戦という大船に乗り込んだのだった。
――――――――
食事中、当然のようにテオドラさんの隣に陣取って、シチューをすくって運ぶ。
もちろん、行き先は自分じゃない。
「テオドラさん……その、どうぞ」
言葉も動作もぎくしゃくさせながら、テオドラさんの口元へと向かわせる。
いや、意識するなってのが無理な話でしょ。
テオドラさんは目を見開いて顔真っ赤。バルトロメアが予想した反応そのままだった。
というか、お帰りなさいのハグをしたときからずっとそうだった。バルトロメアは予言者の素質もあるのか。
実際は観察眼が優れてるってだけなんだろうけど。結果としてあたしは勇気をもらえたからいいんだけど。
「……」
あれこれ考えている間に言葉なく開かれていたテオドラさんの口。あたしのスプーンはゆっくりとその中へ導かれていく。
思えば何かを食べさせるってフリアジークでやった以来だ。あのサンドイッチがとてもおいしかったのは、素材だけが理由じゃない気がする。
色々あったせいで遠い過去のようだけど、目を閉じなくたって鮮明に思い出せる。大切な思い出だもん。
スプーンが入り、口が閉じられ、そっと引き抜く。唇に挟まれて出てくるその光景から目が離せない。あのとき、あたしの指もこんな風になったのかな。
……また触れたいな。
とりあえず今は、このスプーンを自分でも使うことで手を打とう。すかさず次のシチューをすくってパクリ。
味覚って舌だけじゃなく、脳でも感じるみたい。神経が通ってるから当然、なのだろうか。
おいしくて幸せなんだけど、少しだけ感じる物足りなさ。
今のあたしはその正体を知っている。欲深い自分の心に気付いたから。
間接じゃなく直接がいい。
そう思ってしまうのは理性なんかじゃ止められない。
――――――――
食後も離れずにくっついている。
むしろ自由な時間だからこそ一緒にいたいと思うわけで。
隣に座って、手を繋いで。
たまに目線を向ければ交わって。
つい頬が緩んでしまえばテオドラさんは視線を泳がせる。
「ど、どうしたんだ夏海……」
「どうもしませんよ。テオドラさんがいるなーって思っただけです」
「そ、そうか」
ただそこに愛する人がいる。その最も近い場所に自分がいる。
これだけで幸せを感じてしまうんだからあたしは単純だ。他の人もそうなんだろうか。
自分の気持ちに素直になれば余裕が生まれる。
余裕が生まれれば視野も広くなる。
そして、冷静に考えることもできる。
こういうのは意識すると照れるから、ごく自然な感じでやればいい。前に読んだ漫画の知識だ。
あたしは今、それが正しいことを実践で学んだ。
もう一つわかったこと。
推測の域を出ないけど、バルトロメアの言葉に背中を押されてみたからこそ気付いた重要なこと。
わざわざ探って試すようなことをする必要もなかったんだ。
あたし自身をしっかり見て、その上でテオドラさんをちゃんと見ればわかることだったんだから。
ほら、たどたどしいけど頭を撫でてくれるこの動きはいつもと同じ、優しい手つき。
同じ、変わらないということ。つまりは前からずっとテオドラさんは――。
でも、そうしたら次の問題が出てくる。
どんな言葉を選べばいいのか、ということだ。直球なのか、詩的なものか。
もちろんそういう言葉はフィクションの中ではいっぱい目にしてきたけど、これは現実。あたしが解決するべき課題だ。
あたしは考える。
告白の言葉をどうするべきか。
――――――――
もう夜も遅い。眠る時間だ。
あれから色々考えたけど、すぐに答えなんか出そうもないので頭の片隅に置いといた。
お風呂で洗いっこでもしたら、とバルトロメアは言ってたけど、好きな人と裸でくっつくという行為は大変よろしくないという直感が働いたし何より刺激が強すぎるので、個別に入浴は済ませた。
そういうのはもっと後、別の機会にすべきだと思う。まあテオドラさんに誘われたら断れないけど……。
幸か不幸か、テオドラさんは入浴を宣言しながらチラチラあたしを見るだけだった。
あれはきっと、あたしから言い出さないかを待ってたんだろうな。今日はずっと攻勢だったから、当然一緒に入るとか言い出すものだと思ってたのかも。ヘタレでごめんなさい。
でも、そんな汚名も今では返上。
なぜならテオドラさんと一緒の布団に入っているから。
場所はあたしの自室。
いざ寝ようかなという雰囲気になったとき、テオドラさんの服の裾を掴んでみたら、こういう流れに持ち込めたのである。非常に嬉しいので緊張のあまり言葉が固くなっていたら申し訳ないのである。
どちらの部屋に行くか、という問題は簡単に解決した。
あたしはテオドラさんの部屋にお邪魔したかったんだけど、テオドラさんはあたしの部屋を望んだ。
それだけのこと。テオドラさんの部屋は、あたしにとって未踏の地。これから先、きっとその機会は訪れる。
つまりあたしはテオドラさんのお願いを断れないということだ。一緒の入浴をしないという肩透かしを受けたせいか、テオドラさんもちょっと攻勢を見せてくれた。素直に嬉しい。
「なんだか……一緒に寝るのも久々な気がします」
電気を消した暗闇の中、あたしの呟きはたった一人に向けて流れゆく。
リマドさんの村での夜以来、あたしたちは一緒に寝ていない。昨夜はもちろん、最後に寄った港町でもベッドが別れていた。
行きもそうだったし今回も部屋は同じだったから寂しさが爆発するようなことはなかったけど、一度最高点を知ってしまったら簡単には戻れないのが人間ってやつらしい。
「そうか? そんなに久しいわけではないと思うが」
「……それくらい寂しかったってことです」
言って密着する。途端に固まるテオドラさんの体。きっと声にならない声を出してそうな顔をしてるんだろうな。暗くてよく見えないけど。
そんな疑問も、おそるおそるといった動作で抱き返されると一瞬で消えて、頭の中はテオドラさん一色に染まる。
くっつくことで伝わってくるあらゆる情報が、あたしに際限ない安心感を与えてくれる。
ここがあたしの居場所なのかな。テオドラさんに一番近い、この場所が。
「テオドラさん、あったかいです……」
「……夏海もあったかいぞ。そ、それに」
それに?
どんな言葉が続くのかと身構える。
「なんだか今日は、夏海をとても近くに感じるんだ……」
「……実際、近いですけど」
つい忘れがちだけど、いくら身構えたってテオドラさんの言葉はガード不可の反則技。
なので簡単にあたしは打ちのめされてしまうのだ。きっと声紋の波長があたしの鼓膜にいい感じで響くから何をしても無駄なんだと思う。
「今だけじゃないさ。私が帰ってきてからずっと、夏海は私のそばにいてくれただろう。それが……とても嬉しかったんだ」
今度こそ、直球の言葉にあたしはノックアウト、いやホットアウトした。顔が真っ赤になったあたしは、きっといい具合の湯たんぽ状態になってるはず。
「夏海」
「は、はいっ」
声が出たのは反射みたいなもの。
だって、頬に手を当てられたら声を出さずにはいられない。耳と唇、両方に近いそのポイントは色々と想像しちゃうから危険信号として敏感になっているんだろう。
「これからも……こうして一緒に眠ってくれるか?」
「あっ……」
テオドラさんの言葉が全身を駆け巡り、何度も脳裏に反響する。
嬉しさや幸せを感じるよりもまず、答えるべき一つの言葉が押し出された。
「おっ、お願いします……」
「よかった……ありがとう、夏海」
そしてまた抱き締められる。
反応を引き出そうと藪をつついてみたら、思わぬ蛇が出てきてしまった。
でも、こんな蛇ならいくらでも噛まれたいし巻きつかれたい。
最後まで締まらないけど、これもあたしなのかな……。
寝てる間に離れてしまわないよう、テオドラさんに体を密着させたまま。
あたしは眠りの世界へと落ちていく。




