第6話 夏海の思案(1)
「んっ……」
目覚めると、そこはもう見慣れた自室だった。豪華とは程遠いけど、だからこそ居心地のいい空間に安心する。
寝起きが悪いあたしにしては珍しく、眠気を全然引きずらないで目が覚めた。
眠る前に何があったのかも鮮明に思い出せるほど意識がはっきりしている。
これもジリオラさんの魔法によるものなんだろうか。
あたしがその魔法という概念をあっさり認めているのは、揺るぎない証拠があたしの首にぶら下がっていたからだ。
「夢じゃ、なかったんだ……」
言葉にすると実感が湧いてくる。
ペンダントに触れてみると少し温かい。これがあるということは、今までのことが夢じゃないってことだ。
つまり、あたしはついさっきまで異世界にいたことになる。魔法や自動翻訳とか普通じゃ考えられない経験も全部真実ってわけだ。
……あれが、全部本当のことだったなんて。
ペンダントを掌に乗せたまま、あたしはしばらく物思いにふけっていた。
そうしたら突然思いもよらないところから声が聞こえてきたから反射的に背筋が伸びてしまった。
「目覚めたようじゃな。ワシの魔法もまだまだ現役じゃわい」
「な、なにっ? だれっ?」
驚いて周囲を見回すけど、もちろんこの部屋にはあたししかいない。
あるのは物置と化した衣装ケースや最近軋むようになった椅子といった、長年の生活感が染み込んだ家具ばかりだ。
そうすると、やはり答えは一つしかない。
声の発生源へゆっくりと視線を落とす。
聞き覚えのある老婆の声は、あたしの手に乗ったペンダントから聞こえてくるのだった。
「驚かせてしまったかのう。ワシがわかるか? ジリオラじゃよ」
「え、ええ……わかりますけど」
「よしよし、通信は良好じゃな。ナツミの声もはっきり聞こえておるぞ」
そういえば翻訳機能だけじゃなく通信機にもなるって言ってたっけ。
つくづく便利だよねこれ。どんな仕組みなんだろう。
透き通っているから中身も見えるんだけど、別に複雑な回路が埋め込まれていたりもしない普通の石だ。素材そのものに魔力でも込められているんだろうか。
「さて、本題に戻るとしようか。これからナツミはどうしたいのか、じっくり考えるとええ。答えが出るまでワシは待っておるからのう」
そうだ。あたしは異世界に行くかどうかを決めなければならないんだった。
普通ならきっと、そんな何が起こるかわからないことなんて願い下げなんだろう。
けれど正直あたしは迷っていた。
このまま浪人生活を続けていて、その先に何があるんだろう。
最善と思われる未来としては、勉強が実を結んで無事に進学するという予想が立てられる。
でも、そうしたらその先はどうなるの?
決まりきった道を歩くのは気が進まない。けれど見知らぬ脇道に逸れるのも不安が大きい。
分岐点を前にして、あたしはどちらにも進めず迷っている。
優柔不断な自分の性格に直面していると、再び声が聞こえてきた。
「何かあれば首飾りに語りかけるとええ。自動でワシに通信が繋がるようになっておるからのう。少しでも気になることがあれば遠慮せず質問してくれてええぞ」
「……わかりました」
「それではな。ナツミの結論がどちらに転んでもワシは受け入れるつもりじゃ。ゆっくり考えるとええ」
そこでプツリと声は途切れた。
ペンダントの熱も今は散っている。通信が切れたということなのだろう。
窓の外から車の通行音が小さく聞こえてくる。
時計を見ると七時少し前だ。もう町が動き出す時間ということか。
「……あたし、どうしたいんだろう」
自分の気持ちを言葉にしても答えは出なかった。短期間に起こったことが多すぎて、いきなり全部解決させるなんて無理な話だ。
まずは順序立てて考えてみよう。
ジリオラさんは急がなくていいと言ってくれたし、時間はそれなりにあるのだろう。
となれば、まずは目先のことから片付けるとしましょうか。
「……お腹空いた」
腹が減ってはなんとやら。何か食べた方が頭に栄養が行って思考がまとまるかもしれない。
甘い物がいいって聞いたことあるし、ピーナッツバターを塗ったパンにでもしようかな。
カリッと焼き上げたパンに溶けて染み込むバターの香りがいいんだよね。
あ、想像したらますますお腹減ってきた。胃腸が動き始めた感覚もある。
よし、考えごとは後回し。まずは腹ごしらえといきましょうか。
さてと、朝食も済ませたことだし事の経緯でも振り返ってみようかな。
こういう時に自分の部屋があるって得だよね。座ってボケっとしてても誰の目を気にする必要ないし。
まず気になっているのは、あたしにしかできないことがあるというジリオラさんの言葉だ。
具体的な内容は聞けなかったけど、それはあたしの心に深く突き刺さっている。
惰性でしかなかった毎日の中で、何度もそんなことを考えていた。
きっと自分だけの特技があるはずだと妄想し、ぼんやりとした美談を思い描いていた。
それが現実のことになりつつある。
ジリオラさんはあたしを選んでくれた。手を伸ばせば今までとは違う日々を過ごすことができる。
「ホントに、あたしでいいのかなあ……」
あたしに眠る素質がそこまで魅力的なのかはわからない。その正体すら自分で掴めていないのだから。
それなのにあたしは選ばれた。この誘いに乗れば、理想の自分になれるかもしれない。そんな気がする。
このまま先の見えない将来像に向かって闇雲に進むくらいなら、示された道に足を向ける方が賢明ではないだろうか。
そして何より、自分の気持ちが一番大事に決まっている。小難しい言葉を並べる前に正直なところに目を向けるのが先決だ。
「……行って、みようかな」
これがあたしの本心だった。
二つの世界を行き来するのは難しくないことは、あたし自身が経験で理解している。眠るだけなのだから簡単だ。今のところ体に異常もないし危険性も薄いと思う。
それに、詳しい話をまだ聞いていない。
さっきは突然だったから慌ててしまったけど、冷静になって説明を受ければ新たな考えを導く助けになるかもしれない。
もちろん、異世界という要素も無視できない。
非現実的なことだけど、だからこそ面白い。この不思議なペンダントに興味津々なあたしも確かにいるんだから。
飽くなき探求心と言うべきか、それともただの怖いもの知らずか。
どちらにしても、異世界そのものに憧れにも似た感情を持っていることは確かだ。
じゃあ今すぐにでも異世界へ戻ろう……なんて簡単に話は進まない。一番大きな問題を無視したら後々困るのは自分だ。
現実世界と異世界、二つの兼ね合いをどうするかという問題をどうにかしなくては。
「むう……全部どうでもいいって放り投げるのはさすがにナシだよね」
あたしが向こうに行っている間、こっちの世界はどうするのか。現実的かつ最大の悩みどころだ。
今回は夜中の移動だったからいいけど、いつかは日中に重なることもあるだろう。
そうしたら不審に思われる可能性は跳ねあがるし、何より両親を心配させてしまうかもしれない。迷惑をかけるようなことはこれ以上したくない。
バイトか予備校ってことでごまかすのはどうか、と考えてすぐに却下する。
そんな即興の嘘なんかすぐボロが出て崩れるに決まってる。
それならやっぱり行かない方が……いや、異世界に行く機会なんて今を逃したら絶対に訪れない。
でも両親に異世界なんて話をして通じるわけがないしなあ……。
目を閉じて考えてみる。が、数秒で寝そうになってしまったので断念した。
頭を使っている時に目を閉じると眠ってしまうのは学校の授業で何度も経験してわかっていたはずなのに。迂闊だった。
よし。とりあえずこの問題は置いておこう。難しいのは後にして、簡単なことから片付けていかないと進まないし。
じゃあどうするか。もっと基本的で重要なことを考えよう。
すなわち自分自身の意思はどこへ向かっているのか、ということだ。
あたしがどうしたいか。その方向を定めるのが第一だと思う。
繰り返しになるけど、結論から言うとあたしは異世界に行きたい。そうすれば変われるような気がするから。
あたしが必要とされているのはムズムズして変な感じだけど嫌じゃないし、その期待に応えたいという気持ちもある。
それに、これは向こうから持ち掛けてきた話だ。主導権はあたしにある。
ここで色良い返事をすれば手厚くもてなされて、今後の展開イージーモード確定かもしれない。ジリオラさんはあたしの素質とやらを重視しているみたいだし。
……ところで、素質って結局なんなんだろう。
今までの情報をまとめると、自分だけにできることがあるはずだ、という思いがその根っこにあるってことくらいしかわからない。
それ以外にも全体的に情報不足なんだよね。話を聞く前にあたしが元の世界に帰せって騒いだせいなんだけど。
ジリオラさんも悪気があったわけじゃないだろうし、ちょっと気の毒だったかもしれない。
話を聞くくらいなら何が問題ってこともないしね。
結論を出すのはその後でも遅くないはずだ。