閑話 彼女の生活
アラッカの村は今日も緩やかな時間が流れている。
青空の下、まばらに見えるのは農道を歩く老人。年齢を感じさせない溌剌さが伸ばした背筋からも窺える。
点在する低い家屋は程よい日陰を生み出し、風のない陽気に汗を流す村民に憩いの場所を提供していた。談笑する二人の初老女性は他愛もない世間話に花を咲かせている。
小屋の窓から見える平穏な村の様子を、セレナは何を考えるでもなく眺めていた。目覚めた日と変わらぬ景色は少しの不安と多大な安らぎをセレナに与えるのだ。
窓からの日差しに光る金髪を払う様は、その高い身長と相まって絵画のような美しさに溢れていた。全身を覆っていた包帯も今では完全に取れており、薄手の服から成熟した体の曲線美が存分に現れている。
介抱されてから数日でセレナの傷は癒え、問題なく歩けるまでに回復した。諸国を渡り歩いて培った体力は、記憶を失ってもその身に根付いていたのである。
「もう看病も必要なさそうだね」
回復した姿を見守るのは今日まで世話焼きを続けてきた医師夫人。浮かべる柔和な笑みも、セレナにとっては今や日常となっている。
「見違えたよ、ほんとに。担ぎ込まれたときはもう助からないんじゃないかって思ったのに……あらやだ、そういう意味じゃないのよ? すごい回復力だなって思っただけでね」
「わかっているさ。それに感謝もしている。これで記憶が戻れば万全なのだが……」
セレナに釣られて医師夫人の表情もわずかに曇る。その言葉通り、いくら体が動くようになっても過去の記憶は一切戻らなかった。
「焦ってもいいことないよ。そのうち、ひょっこりと思い出すこともあるだろうさ」
明るい声を作りながらセレナに歩み寄った女性は、肉付きのいいその手に小さな鍵を持っていた。
「これ、前に話した空き家の鍵。ここは年寄りばかりの村だから、若い娘さんが住んでくれるなら嬉しいって村長も言ってたよ」
「……かたじけない。何から何まで世話になって」
セレナが体を癒している間に、この村では彼女を受け入れる準備が整えられていた。どこの誰とも知れぬ人間を受け入れる温かさが、セレナの心へと染み渡っていく。
「いいのいいの。こっちこそすまないねえ。こんな何もない村で退屈だろうに」
謙遜するように手を振る姿を見て、セレナは決意した。
与えられた多大な恩を返さなければ、と。
それが、今はまだ空っぽの心に生まれた唯一の指針。セレナの行動原理となる光であった。
恩返しの機会はすぐに訪れた。
まるで時が止まったかのように変わらぬ晴天の日、朝靄が漂う早い時間のこと。
リハビリと鍛錬を兼ねたランニングをしていたセレナが、一人の老人と出会ったのだ。
「おやまあ、怪我が治ったばかりなのに元気じゃのう」
狭い村では情報の共有が早い。セレナの存在は村民すべての知るところとなっている。
娯楽が少ないこともあり、余所者に対しての排斥は微塵もなく、代わりに多大なる関心が寄せられていたのだ。
有り体に言えば、皆が興味津々だったのである。そうさせた原因の一端に彼女の美貌があったことは否めない。
走るために結んでいた髪の揺れは足と共に止まり、セレナは口元を緩めて笑みを見せた。
「動いてないと落ち着かなくてな……以前の習慣だったのかもしれん」
「若者はええのう。老いぼれにもその元気、わけてほしいくらいじゃ」
老人は抱えた農具を揺らしてみせた。長年使い込んだであろうそれは、深い皺が刻まれた彼の腕によく馴染んでいた。
「これから畑へ向かうのか?」
「そうじゃよ。今は種を蒔く季節でな。いい土を作ってやらんといかん」
農具を軽々と持ち直してみせるが、それは経験によって扱い方を慣れているからそう見えるだけのこと。農具の重さを変えることはできないし、老いで衰えた体の揺らぎも隠せない。
「……私に手伝わせてもらえないか?」
そして、セレナが見逃すはずもない。心の光が道筋を照らしたのだ。
「なんと……申し出はありがたいが、おなごに力仕事をさせるのものう」
「いいんだ。力なら有り余ってる。それも持とうじゃないか」
手を差し伸べるセレナに、逡巡を経た老人は農具を手渡した。
するとどうだろう。セレナは腕の力だけで軽々と携えてみせたのだ。
「ほう、それなりの力はあるようじゃな」
「だから言ったじゃないか。畑についたら他のこともやらせてくれ」
その言葉通り、畑でもセレナは目を見張る働きを見せた。土を耕し水を運び、草を刈って種を植える。忘れ物があると聞けば老人の家まで走った。
普通であれば、指示を受けて動くだけでここまでの働きはできない。様々な技術を身につけてきたセレナだからこそ成し得た所業なのである。記憶は失っても体が覚えていると言うべきか。
「いやあ、驚いたわい。まさかこんなに捗るとは」
作業は順調に進み、太陽が昇りきる前にすべてを終えることができた。
「役に立てたようで何よりだ。ぜひまた手伝わせてくれ」
「そりゃ願ってもないことじゃがよぉ……いいのかい?」
「遠慮などいらない。家や食事の援助はもちろん、何よりこの身を救われた恩に報いたいんだ」
宣言するセレナに向けられる視線は、感謝と興味に満ちていた。前者は今しがた助力した老人。
そして後者は少し離れた別の畑から向けられていた。切り株に座り込んで休憩していた中年農夫が、セレナの手腕を眺めていたのである。
当然、その存在にセレナも気付いていた。
「よければそちらも手伝うぞ! 私にできることなら尽力する!」
急に声を向けられた農夫は驚きに目を見開きつつも、期待を滲ませたような表情で畑とセレナを見比べている。
「行ってやるといい。有り余ったその元気、発散したいのじゃろう?」
背中を押す言葉をくれた老人に礼を述べ、セレナは新たな活躍の場へ駆け出した。
場所が変わってもセレナの敏腕ぶりは変わらなかった。
活躍を目にして集まった支援要請を捌き続けていると、すぐに村中へ噂は広まった。村長が直々に感謝を告げようと顔を出したときには、セレナの周囲に集う人々に阻まれてなかなか近付けなかったほどの盛況である。
持ちかけられた仕事は様々だったが、セレナは難なくそのすべてをこなしてみせた。何もかもを一人で背負う精神の片鱗が目覚めつつあるのだろう。
しかし、セレナ本人はその事実に気付かない。過去への道筋は断絶したままである。
自身の中に芽生えた新たな道筋の光に照らされながら、惜しみない感謝の言葉にくすぐったさを伴う心地良さを感じるばかりであった。
思わぬ名手の誕生に沸き立つ村ではその夜、宴が催された。娯楽が少ないせいか、アラッカの村では些細なことで祝賀会を開く風潮がある。
松明が灯された村の広場では料理や酒が持ち寄られ、皆が舌鼓を打って声を飛ばし合っている。誰もが顔見知りで身内のような環境のため、近所迷惑という概念を考える必要がないのだ。
「ほれ、じゃんじゃん飲んでくだされ!」
「かたじけない、いただこう」
注がれた地酒を飲み干せば、間髪入れずに補充される。村長の隣という特等席に座らされたセレナは、主役という言葉に似合うほどのもてなしを受けていた。
あちらこちらから届く陽気な声。穏やかな日中とは一変した喧騒。夜闇に揺れる松明の炎が照らす宴は続いていく。
ふと、セレナは星空を見上げた。星座を読む知識はないが、無数の輝きに馳せて心を奪われるだけの風情はある。
村へ貢献できたことは喜ばしい。恩返しという道が確かなものへ変わっていた。
しかし、なぜ自分にそれを可能とする力が備わっていたのかがわからない。人一倍、という表現では足りないほどに湧き上がる力は一体どこから来るのか。
戸惑う心に目を向けるべきか否か、セレナは視線の先に答えを探した。
「お疲れ様でした! ご活躍、すごいですっ!」
年老いた声に慣れていた耳にとって新鮮な響きが届く。
元気の中にあどけなさが残る声に視線を下ろせば、好奇心の溢れる笑顔がそこにあった。
「ティアナ、だったか」
「覚えててくれたんですね、嬉しいですっ!」
村長の娘であるティアナはセレナよりも年下で、村では珍しい若者である。栗色の長い髪は夜の闇と松明の光に挟まれて神秘的な色に揺れる。
その美しさが自身の不明瞭さを浮かび上がらせるような気がして、セレナは視線を伏せた。
杯の酒に映る小さな夜空。心は安らぐこともなく、騒ぎもしなかった。
「あのあのっ、私今日ずっと見てたんです!」
「見てた……?」
聞けば、日中に集まった人々の中にティアナもいたのだと言う。尽力する姿が今も目に焼きついて離れない、と体全体で表現しながら伝えてきた。
「だからその……かっこいいな、って思ったんです」
潤んだ瞳が訴えるのは強い憧れ。老人ばかりの日常に突如現れた眩い光は、あっさりと少女の心を奪ってしまったのだ。
「……そうか」
素直な信頼に、セレナは胸のつかえが取れた気がした。
元々、道なんて一つしかなかったのだ。後ろを振り返ってもわからない。力だけでなく、なにもかも。
すべてが無ならば見る必要もない。目を向けるべきは未来。力の出所など大した問題ではないとセレナには思えたのだ。
「ありがとう。君みたいな可愛い子にそう言われるなんて光栄だ」
「そんな、私なんか……」
頬を両手に当てて俯いてしまうティアナの心境はわからなかった。
しかし、自分の心が落ち着いていることは確かに感じていたセレナであった。
セレナが村にとってかけがえのない存在となって、いくつかの時が流れた。
同じ時間を繰り返しているような錯覚に囚われてしまいそうなほど平穏な日々が続く。
雲は流れて草も揺れる。晴れた日は農作業に汗を流し、雨が降れば静かに疲れを癒す。
長年この暮らしを続けてきた村人はもちろん、セレナもまたそんな日々を退屈だとは感じなかった。
卓越した身体能力があると自覚してからは、更なる鍛錬に身を置いた。まだ見ぬ何かが自分の中に眠っていると信じたのである。
背中の傷跡に気付いたのも、そんな自己探究の一場面だった。触れてみると心の奥がざわめくような、奇妙でありながら懐かしい感覚が湧いてくる。
それでもやはり、その先にある過去の戒めやテオドラとの思い出には手が届かない。
掴みどころのない霧を見透かす術を求め、セレナは鍛錬へと意識を移したのだった。
そして今、村に一つの変化が訪れる。
それが結果として喜ばしいものになったとしても、発端や経過がすべて穏便となるとは限らない。
前日よりも風が強く吹いている日だった。山の木々は音色を奏で、村外れでは砂煙が舞い踊る。
それらが気配と足音を覆ってしまったのだろう。いつの間にか、村に招かれざる客が訪れていたのだ。
「きゃあああああああっ!」
唐突に不変の日常は崩れ去る。
異変を知らせ、不変の安寧を破った一筋の悲鳴。
村を駆け抜けた声は当然セレナにも伝わった。発生源へと駆けつけた彼女は、そこで新たな声を耳にする。
「た、た、食べ物をよこせぇ!」
震えているのは声だけでなく、その手に持った短剣もまた切っ先が迷っていた。
セレナにとって初めて見る少女がそこにいた。
ぼろ布をそのまま羽織ったような服に、泥や砂利で汚れた粗末な靴。ショートヘアの赤髪は忙しなく周囲を窺う首の動きに合わせて揺れている。つり上がった目尻には強気な印象を持ちそうだが、瞳は全く逆の焦りに染まっていた。
少女が見つめる先にいるのは悲鳴の当事者。こちらはセレナの見知った顔であった。
「あ、あのっ。危ないですからそれを引っ込めてください」
不審者に負けないほどの狼狽を見せつつ説得するティアナの声は頼りない。
腰が引けているのに手を伸ばすという不均衡な格好であるが、突如として降りかかった災難から逃げないという姿勢は村長の娘という自覚があるせいだろうか。
「う、うるさい! アタイは何日もまともに食ってないんだ! さっさと何かよこせ!」
掠れ気味ではあるが、吹きすさぶ風に負けずよく通る高い声だった。
年の頃はティアナと大きな差異はなさそうだ。しかし身長は少女の方に分があるようで、体格に見合った長さの手足をバタつかせると刃物が不規則な軌跡を描く。
話は平行線どころか次元が違っていた。集まっていた村民たちも遠巻きに並ぶだけで、若き娘たちの焦りに近付けず様子を窺うばかりである。
「おい、二人とも落ち着け。そっちのあんたは武器も下ろすんだ」
見かねたセレナが両者の間に踏み込んだ。ティアナは安堵の表情を見せたが、謎の少女は興奮を静める様子はない。
「な、なんだよお前は! 邪魔すんな!」
相変わらず震えたままのナイフがセレナに向けられる。焦りを察したセレナは冷静にその切っ先を見つめ、鋭い視線のまま告げた。
「いいか、食べるものなら分けてやる。だからその刃物を」
「うるさい! 急に出てきて指図してんじゃねえっ!」
瞬間、少女の振るった手がセレナに肉迫した。興奮のあまり距離感を見誤ったのか、それとも明確な意思を持ってセレナを排しようと思ったのか。
発端はどうあれ過程は同じ。セレナの肌を切り裂こうと迫るナイフ。響いた短い悲鳴はティアナの声。周囲の村人からも危険を告げる叫びが届く。
「……仕方ない」
この場でただ一人、セレナだけが冷静だった。呟くと同時に体が動く。
対人戦闘の経験などない、とセレナ自身も思っていた。記憶喪失なのだから当然だろう。
しかし農作業でも力を発揮できたように、ナイフの輝きを見た瞬間から体の奥底に宿る何かを感じていたのだ。
それは少女の刃がセレナの腕を切り裂くかと思われた瞬間のことだった。
不可視の障壁に阻まれたかのように攻撃の手が止まったのだ。
場の誰もが時間を止められたような錯覚に囚われた意識の隙間を縫って、セレナの手足は俊敏に流れ動き、そして鋭い突風とばかりに少女を襲う。
結果は即時にして明白。少女は地面に転がされ、腕を捻り上げられ、ナイフはセレナの手中にあった。
「……えっ?」
呆けたような声を出したのは地に倒された少女であったが、ティアナや村民たちも同様の言葉と気持ちを抱いていた。
無理もない。
襲い来るナイフを払いつつ懐に潜り込み、並行して放った足払いで少女のバランスを崩し、なおかつ転倒の勢いを相殺し少女に無駄な負傷をさせぬように抱きかかえながらも自由を奪う――そんな一連の動きを理解できた人間は、セレナ以外に誰一人としていなかったのだから。
「こんなものを持っているから自分が強くなったと勘違いするんだ。頭を冷やせ」
奪ったナイフを地面に突き立てた。鋭さは本物だったようで深々と大地を貫き、雲間からの日光を反射して少女の見開かれた両目を映す。
「すっ、すごいです! あっという間に倒しちゃいました!」
ティアナが感激の声をあげると、村民たちも賛同と称賛にざわめいた。
与えられた声に驕る素振りを見せることなく、乱れた髪を首の一振りで正してセレナは言葉を続ける。
「危害を加えるつもりなどない。大人しくするというなら解放する。だから」
「……なんで、お前が」
「ん?」
少女が何事かを呟いたので、セレナは耳を傾ける。
それが転換の始まりだった。
「なんで、あいつと同じ技をお前が」
「同じ……? おい、それはどういうことだ。私のことを知っているのか?」
少女を押さえつける腕に力が入る。堪らずに漏れた少女の悲痛な呻き声に、周囲の面々も声の色を変え始めた。
「私と同じとはどういうことだ? 一体誰のことを話している? 詳しく教えろ!」
「あのっ! その人、苦しそうです……」
指摘されて初めて気付いたのだろう。はっとした表情と共にセレナは少女から体を離した。
「……すまない。まずは私が落ち着くべきだな」
「えっと、場所を変えませんか? ここじゃゆっくり話もできませんし、お食事も用意しますので、私の家へ行きましょう」
言いながらティアナは倒れ伏したままの少女へ手を伸ばした。しゃがんだティアナと少女の視線が重なる。
だが、少女は迷いがあるのか瞬きを繰り返して視線を泳がせるばかり。それでもティアナは辛抱強く待ちながら、周囲に向けてこんな言葉を口にした。
「集まってくださった皆様も、ご心配をおかけしてすみませんでした。後ほど改めて顛末を皆様へお知らせいたしますので、それまでこの件は私に預けていただけないでしょうか」
村長の娘がそう言ってしまえば逆らう者などこの村にはいない。元よりティアナは村民全員の孫と言えるほど皆に愛されており、信頼も揺るぎない。
一人、また一人と散っていき、残ったのは三人だけ。ティアナの伸ばされた手が更に距離を詰め、そこでようやく少女も動きを見せた。
二つの手が繋がっていく様子を、セレナはただぼんやりと眺めていた。
ティアナの自宅、それはつまり村長の家である。
一連の騒動が耳に入ったかと思えば当事者が娘に手を引かれてやって来た。村長からすれば驚きを通り越して呆気に取られるのも仕方ない。
それでも新たな騒ぎにならなかったのは、ティアナの発言力と村長の判断力による影響だろう。村に被害が出ていないことも重要な点であった。
約束していた食事はもちろん、新しい衣服もティアナは少女に用意した。
最初こそ疑心暗鬼に染まっていた少女の瞳も次第に警戒の色を薄めていき、食事や着替えの合間にちらほらと自分のことを話し始めた。
一通りのもてなしを済ませ、最後にティアナは自室へと足を向けた。
ベッドや家具、本棚など内装に特筆すべき点はないが、随所に飾られた手製のマスコットや小さな花といったアクセントが年頃の少女らしさを滲ませている。
既に少女の敵意は消えており、なぜかティアナにべったりとなっていた。素直に言うことを聞いて頬すら緩ませている。
セレナもその場に同席し、二人を視界に収められる位置で腕を組んで壁に背を預けた。
目先の危険がなくなったとはいえ、二人きりにさせるには不安が大きかったのだ。もちろん、自らの過去に繋がりそうな話への興味もあった。
視線の先では横長のソファーに並んで座る二人の姿。なぜか近い両者の距離が気になるセレナだったが、まずは見守ることにした。
「では……チェルシーさん。改めてお話を伺ってもよろしいでしょうか?」
「おうっ! あんたは約束を守ってくれたいい人だ。なんでも聞いてくれ!」
チェルシーと名乗った少女は、明るく快活な様子でティアナに頷いた。先程までの触れるものすべてを切り裂くような雰囲気は微塵も感じられない。
「まず確認したいのですが……盗賊団に身を置いていらしたと?」
「ちょっと前まで、だけどな」
食事中に初めてその言葉を耳にしたときにはセレナも身構えたが、今では再確認の意味も込めて静観している。
「孤児だったアタイを拾ってくれてさ。まだまだ修行中の身で仕事には出してもらえなくて、これからって時に……だから恩を返せないまま、アタイは行き場所をなくしちまったんだ」
家とも呼べるアジトを潰されたチェルシーは放浪者に身を落とす他なかった。あてもなく歩き続け、持ち出せたわずかな食料も底をつき、進退窮まる瞬間が間近に迫る。
そんな時にアラッカの村を見つけたのだとチェルシーは語った。切羽詰っていたとはいえ軽率な行動だった、と反省の言葉が最後に添えられ、ティアナがそれを許す。
黙したまま耳を傾けていたセレナであるが、何も考えずにいたわけではない。記憶の縁でちらつく新たな光を捉えあぐねていたのだ。
そのきっかけとなったのが、この単語だった。
「……孤児、か」
気付けばセレナは呟いていた。何かを期待しての声ではなかったが、言葉にしてみても得られるのは不明瞭な薄明かりだけ。
しかし、この場には今までにない新たな存在がいる。声を聞きつけたチェルシーが一段と元気にこう言ったのだ。
「あ、あの! アネさんも気になることがあればなんでもおっしゃってください!」
「……アネ、さん?」
「はい! 強い者には敬意を払えと教えられましたので、アネさんと呼ばせてください!」
セレナは困惑した。あまりにも予想外で、混じり気なしの輝きを帯びた熱い視線を直視できずにいる。気付けばティアナもじっとセレナを見つめていた。
戦闘力があるからといって、すべての事象に勝てるというわけではない。腕っぷしの強さがすべてではないのだ。
「……好きにしろ」
「ありがとうございます!」
セレナは髪や顎に手を当てて、落ち着かない視線のやり場を探していた。
緩やかな居心地の悪さを感じ始めた頃、ふとセレナは数度瞬きをして顔を上げる。
「そうだ、改めて訊ねたいのだが……私と同じ動きをした者がいると言っていたな?」
「はい。攻撃がすべて止められて、気付いたら地面に転がされる……あんなの忘れられません。頭領はもちろん腕自慢の親分たちも相手にならなくて、アタイたち下っ端は尻尾を巻いて逃げるしかなかったんです」
チェルシーの手が強く握られ、小刻みに震える。しかし、それは長く続くことなく止まった。ティアナの手に包まれ、視線を交わす。それだけでチェルシーは安らぎを感じられたようだった。
過去を抉る苦しみさえも失ったセレナは、その痛みを求めて質問を続ける。
「一体どんな奴だったのか教えてくれ」
「それが……若い女だった、ってことくらいしかわからないんです。突然襲ってきて、それからはあっという間でした。手際のよさと戦いに慣れている感じはあったので、只者じゃないとは思うんですが……」
チェルシーは知らない。その襲撃者がセレナを求めて放浪するテオドラだということを。
セレナを渇望するあまり狂った歯車が、皮肉にも両者を繋げる接点を生み出す結果となったのだ。
「……そうか、ありがとう。その少女は私と何かしらの関係があるのかもしれないな。それだけ派手に動いているなら、またわかることもあるだろう」
今のセレナはそう結論付けることしかできなかった。これ以上の進展が望めないことを理解し、受け入れたのだ。
「すみません、お力になれなくて……アネさんはその人を探してるんですか?」
「そうだ、と言うべきなのかもわからないのだが、実はな――」
セレナは自らが記憶を失っていることをチェルシーに告げることにした。
重傷の自分を介抱し、受け入れてくれた村への恩を返しながら記憶を取り戻す手がかりを探している――そんな身の上を語って聞かせた。
チェルシーは身を乗り出すように聞き入り、歴戦の勇者を讃える英雄譚に惚れ込んでいるかのようだった。
「そうだったんですか……アネさんの記憶を取り戻す手がかりになればよかったんですが」
「いいんだ、気にすることじゃない」
「そうです! 今がダメならこれから頑張ればいいんですっ!」
突如割り込んできたティアナはなぜか意気込んでいる。
「チェルシーさん、この村で暮らしませんか?」
「……は?」
ぽかんとした顔をしたのはチェルシーだけで、セレナは小さく眉を動かしただけだった。
「で、でもアタイはあんたに酷いことを……」
「んー……ちょっと驚きはしましたけど、怪我したわけじゃありませんし。あっ、怪我といえばチェルシーさんはお体痛みませんか?」
「いや、あれくらいなら大したことはないけどさ」
「よかったあ……では改めて、ここで暮らしませんか?」
「な、なんだよ一体……」
突然の勧誘に困惑するチェルシーの視線が泳ぐ。どう答えるべきか、ここにいていいのか、溢れた悩みは見るだけで伝わってくる。
だから、セレナは助け舟を出すことにした。
「私もここに流れ着いた身だ。記憶をなくし、気付いたらここにいた、と言っただろう」
背中を押すような真似をしたのは、チェルシーの境遇に心の奥が揺さぶられたからだった。身寄りがなく、突然の襲来で住処を失った彼女の身の上を考えると胸が熱くざわめく。
その理由までは記憶を失ったセレナにはわからなかったが、今はこうして声をかけずにはいられなかったのだ。
「それでも皆優しく受け入れてくれた。ここはそういう村なんだ。ティアナが言ったように。過去がないなら未来を見ればいい。これを機会に心を入れ替えてみてはどうだ」
「アネさん……」
前後不覚になりそうな狼狽はどこへやら。チェルシーはまたしても瞳を熱っぽく潤ませて、セレナの言葉に聞き入っていた。
「それに、お前はまだ若い。この村では貴重な存在だ。きっと重宝されるだろう」
「でもアタイは、あんなことをしちまったから……きっとみんなアタイのことなんか嫌いになって」
「ご安心ください! 私がうまくやりますので!」
得意気に胸を張るティアナだが、成熟しきれていない少女がするには背伸びが過ぎていた。
「これでも村長の娘です。村に一切の被害が出ていないことを説明すれば、首を横に振る者はいないでしょう」
「……なあ。どうして、あんたはそこまでしてアタイを誘うんだい?」
答えを求めるチェルシーの声は掠れ気味であった。眉が下がり、瞳は薄い潤みを帯び始めている。
「それは……チェルシーさん。あなたが本当は優しい心の持ち主だからです」
「んなっ、な、なんでそんなことわかるんだよ!」
「私に向けた刃が震えていたからです」
淀みも迷いもなく、川を流れる小枝のように自然と出たような声だった。
「本当は自分のしていることが良くないことだとわかっているのに、こうするしかないこともわかっていて、その板挟みで悩んでいた……私にはそう見えたのですが、違いますか?」
「……」
「もう自分を責める必要はないんですよ」
返事はなかった。
だが、それこそがチェルシーの明確な答えなのだった。
「私も新しい仲間は歓迎する」
そう言い残し、セレナはティアナの自室を後にした。この場に自分が不要だと判断したのだ。
扉を閉じる直前に聞こえた、ティアナがチェルシーの名を呼ぶ柔らかな声。それが最後の決め手となったことだろう。
木目調の静かな廊下を歩きながら、セレナは自身の過去と未来を考えた。
不明瞭だった記憶の視界はわずかに晴れ、自分を捜索する誰かのおぼろげな輪郭が浮かんでは滲む。
名も姿も知らぬ少女。自分と同じ技を持つ存在。わからないことばかりだが、今までとは一歩進展したのは確かである。
心の火照りは未だ冷めずに何かを訴えかけている。
その中に、不可解ながらも不快ではない想いをセレナは感じていた。




