第63話 旅の終わり
風に揺れる草花が手招きをしているように見えるのは、きっと懐かしさがあるからだろう。
緑と青に染まった景色の境界線、遠くに見え始めた新たな色はあたしたちの帰る場所。やっとここまで来たんだという達成感が沸き起こる。
ラクスピリアは変わらずそこにある。あたしにとって、もうあそこが故郷みたいな存在になっていたみたい。
「やっと見えてきましたね」
「なんとか予定通りに到着できそうだ」
長かった出張もようやく終わる。帰ったら何をしようか。過去と未来、記憶と空想が混ざり合って無秩序な思考迷路を作り出す。
けれど、そのすべてに共通することがある。あたしを照らし、導いてくれる唯一の光。
過去と未来を繋ぐ今、あたしをその手で繋ぎ止めてくれる人。テオドラさんがいるから、あたしもここにいる。
弱くなりそうな心を奮い立たせる。暗い未来を考える必要なんてない。今が幸せなら、それを続けていけばやがて未来に変わっていく……それが、旅の終わりにあたしが辿り着いた結論。
繋いだ手をそのままに、あたしたちは帰るべき場所への歩みを進めていった。
「テオドラにナツミよ、よくぞ戻った。皆こうして二人の帰りを今か今かと待ちかねておったぞ」
ラクスピリアの門を抜けると、一気に懐かしさと安心感が全身に染み渡る。それはきっと、出発した日と同じような光景がそこにあったからだろう。
直々に出迎えてくれたジリオラさんはもちろん、その後ろにいる人だかりもあの日と変わらない。
「お二人は国の宝です!」
「会談成功の朗報は国中に伝わっておりますよ!」
「テオドラさまーっ! 今日もお美しいですーっ!」
「また同じ空気を吸える幸せをありがとうございます!」
「ああナツミ様……なんと麗しい瞳……」
最後のは囁きっぽいのになぜか明確に聞こえてきたのは置いといて、こんな騒々しさも懐かしい。
「ナツミちゃーんっ!」
そう、群衆にも飲まれないこの一際目立つ高い声も久々だ。
手を振って全身でアピールしながら駆け寄ってくるから、トレードマークの長い金髪やら豊かな二つのなんやらが揺れて物理的にも目立ってる。
「ただいま、バルトロメア」
「おかえりなさい! ふふ、本物のナツミちゃんだぁ……」
相変わらず距離が近く、手とか肩とか遠慮なくぺたぺた触ってくる。逃げようにも、心の底を映すほど突き抜けた笑顔を見たら何もできなくなった。
まあ、久しぶりだからしょうがないか。あたしも同じ気持ちだし。だからテオドラさんに申し訳ないとか思う必要はないんだ気にするなあたし。
そんなテオドラさんはジリオラさんを筆頭にした、偉い方々の包囲網の中にいる。
あ、ナサニエルさんだ懐かしい。光る部分があると人が多くても見つけやすいよね、とか言えるわけないのでこっそり思うだけにしておく。
「ねえねえナツミちゃん、この後って暇? 話したいこといーっぱいあるの!」
「えっと……」
テオドラさんの話は長そうだ。そうだよね。帰ってきたらまず報告とか手続きとか色々あるよね。仕方ないことだけど、ちょっと寂しいな。
なんてことを考えた瞬間、テオドラさんと目が合った。えっ、と思う間もなくその顔があたしの近くへと寄ってくる。
えっ、え、え。
「夏海、申し訳ないのだが先に戻ってもらえないだろうか。私はこれから中央庁へ行かなければならない。ここで待たせるわけにもいかないから、家でゆっくり休んでいてほしい」
「……ふふっ」
返事の代わりに出た笑みは、テオドラさんの少し慌てた顔を見たから。さっきまで凛々しく堂々と話をしていたのに、あたしの前ではこんな姿になってしまう。
嬉しかった。あたしだけを見てくれた気がして、心が優しく痛む。
「ど、どうした?」
「いえ、なんでもありません。わかりました。ではテオドラさんの荷物、持っていきますので預かりますよ」
「……ああ」
重要アイテムは衣服のポケットや小型バッグに入っているので、大きな手荷物がなくても中央庁での作業に支障はない。
それなら、こうするのがあたしの正しい行動だと思う。
軽そうな鞄を差し出す動作を見て、あたしはもう一つのバッグへ手を伸ばした。するりと滑り込んできた持ち手を掴むとやっぱり重い。こんなの持ってたらテオドラさんが疲れちゃうよ。
「夏海、そっちは」
「いいんです。あたしは帰るだけですから、存分にこき使ってやってください」
「……しかし」
「ほらテオドラさん、早く行かないと皆さん待ってますよ」
さっきまでテオドラさんを囲んでいた集団が一様にこちらを見ている。急かす様子はないどころかなんだか優しい目を全員で向けてくるけど、お偉いさんを待たせるのがよろしくないことはあたしでもわかる。
テオドラさんは振り返ったりあたしを見たりと首が忙しい。あたしはそんなテオドラさんを見つめるのに忙しい。
「……すまない、頼む」
そう言って集団の中へと戻っていった。
見送って振り返ると、なぜかバルトロメアがぽかーんとしていた。そんな無防備に口を開けてたら小さい虫が入っても文句言えないと思う。
「ナツミちゃん……出張の間に何かあった?」
「えっ」
何かと言われたらそりゃもちろんあったけど、一体どれのことを言っているのか見当もつかなくて頭の中で思い出が大火災を起こした。
「テオドラ様を相手にあんな……それに二人の表情と声……ナツミちゃん!」
「ひゃいっ!」
「何があったのか、じっくり聞かせてもらうからねっ!」
言いながらあたしの手を掴んでバルトロメアがぐいぐい歩き出す。
そのままじゃ人の列に突っ込む、と思ったら示し合わせたように立ち退いて道ができた。妙に息がぴったりなこの国の人々は一体どうしたのだろう。
ともかく今は、近い未来に訪れるであろうマシンガン尋問への対処を考えよう。
一番厄介なのは、困ったなという懸念よりも楽しみだなという期待の方を強く考えてしまう自分がいることだった。
「ありがとね、荷物運ぶの手伝ってもらっちゃって」
「ううん、いいの。だってナツミちゃんに会えたんだもん。うふふ、共同作業だね」
家の扉を開けた瞬間から、またしても懐かしさを感じてしまった。変わらない景色と静かな匂いに何を思ったのかは自分でもよくわからない。
だから全部懐かしさのせいにして、あたしはリビングのソファーに腰を下ろした。体重から解放された両脚がじんわりと温かい痺れに包まれて、想像よりも自分が疲れていたことを知る。
「はい、ナツミちゃん。これ飲んで」
当然の権利とばかりに隣へ陣取ったバルトロメアが差し出したのは、よく冷えたお茶だった。いつの間にか水筒を手に持っているということは、こういうのを考えて用意してくれてたんだ。
やっぱりバルトロメアは優しくて気配りもできるいい子で安心する。渡されたお茶も全身に染み渡るほどのおいしさだったし、腕を絡め取ってぎゅうぎゅう密着してくるのは見逃してあげよう。
「元気出た?」
「おかげさまで」
「よーしっ、じゃあ何から聞こうかなぁ……」
やっぱりそうなるのね。忘れてなかったか。
あたしも何からどうやって話したらいいのかわからないので、ガイドラインみたいなものを示してくれるとありがたいんですけど。
「あっ、でもナツミちゃんに聞いてもらいたいこともあるし……むー、どうしよう」
「ん、なんかあったの?」
「えー、えへへぇ」
なぜかバルトロメアが気持ち悪いくらい蕩けたニヤニヤフェイスを披露し始めた。そのままどこかへ飛んでいきそうなので、浮かべるのは変顔だけにしていただきたい。
「聞きたい? ねえ聞きたい?」
「……まあ、聞きたいかな」
「そっかぁ……でもどうしよっかなあ、いぇへへっ」
なんだこの構ってちゃんオーラ爆発生物は。
どうしたものか対処に困りかけたけど、何があったらこんなに無防備で幸せ全開の顔ができるのか興味が出てきたので待つことにする。
それからバルトロメアは、体をくねくねさせては何かを言いかけて文字化不可能の崩壊言語を唱えるという儀式を何度か繰り返した。
もちろんその間も密着しているので柔らかい何かがあたしの腕に何度も当たっているんだけど、これもまあ見逃そう。こういうのは本人の気が済むまでやらせるのが一番いい。
「じゃあ……聞いてくれる?」
「どーぞ」
辛抱の甲斐あって、ようやく話してくれる気になってくれたらしい。
潤んだ瞳の上目遣いに少しだけドキッとしたのは、バルトロメアの頬が鮮やかに染まっていたからであり他意はない。
「あのね……アタシ、恋人ができたのっ!」
「えっ」
バルトロメアが変わらないというのは、どうやらあたしの思い込みだったらしい。
物事は時と共に変化していく。良くも悪くも、それが世界の常識であり摂理ってやつなのだろう。
考えなくてもわかること。それは今のバルトロメアにも当てはまる。ここまで舞い上がっている様子を見れば、相手が誰かなんて簡単に察しがつく。
「その……恋人っていうのはもしかして」
「うん! シャンタル様!」
やっぱりね。予想通りというか当然というか、それ以外ありえないでしょ。
気になることはある。あたしにも関係していることだもの。でも、まずはこの頭お花畑ガールさんに落ち着いてもらおう。
「おめでとう。やっと気持ちが伝わったんだね」
「アタシはずーっと好きですって言い続けてたんだよ? でもシャンタル様はなかなかはっきりした返事をしてくれなくて……でもあの日、アタシの手を握りながら見つめてくれて、にゅふ、くふふふっ」
「幸せそうで何よりだよ……」
なんとなく溜息がこぼれたけど、これは生理現象みたいなもので特に意味はない。
話を引き出そうともしていないのにノロケを語り始めたバルトロメアはなんだか微笑ましく思えるし、あたし自身が気になっているのも確かだった。
あたしも似て非なる状況に置かれているのだから。
「それでね、そのときのシャンタル様ったら顔をすごく真っ赤にしてて、なのに目は逸らさないからアタシもだんだん頭がぼやーってなってきて、もうこのまま何をされてもいいって気分になっちゃって、あっでもどうでもいいってことじゃなくてね、むしろシャンタル様以外のことがどうでもいいというか、そもそもなんでそんなことになったかっていうと、あの日は雨が降っててね――」
長い熱弁だった。ラブイズビューティフルを体現したような語りっぷりは見てるこっちが照れるレベルだ。
実際なんだか体が熱くなってきた。バルトロメアがぐいぐいと質量の暴力を押し付けてくるせいに違いない。
話を端的にまとめると、あたしたちが出張している間にそういう雰囲気になって、愛の告白をされたらしい。
もちろん受け入れる以外の概念はバルトロメアの中に存在しなかったので、晴れて二人は恋人同士となり、幸せいっぱいのお付き合いを始めたのでした。めでたしめでたし。
「でね、その後はもう夜になってたから寝ようってことになったんだけど、やっぱり意識しちゃってね。それでも好きって気持ちは変わらないからアタシは――」
幸せのおすそ分けをしてくれるのはいいんだけど、蕩けた笑みを無造作に、そして無遠慮にぶつけてくるのはいかがなものか。
悪くはないし微笑ましいんだけど、こんなに幸せオーラを出されるとつい考えてしまう。
主人に恋心を抱いてしまった者同士のあたしたち。
バルトロメアは一歩どころか遥か遠くまで踏み出して望むものを掴んでいる。
じゃあ、あたしはどうなるの?
境遇が似ていても、その後の道が同じとは限らない。道があるかどうかもわからない。歩を進めた途端、何もない空間を踏み抜いてどこまでも落ちていくかもしれない。
進めないあたしと進んだバルトロメア。話を聞いていくごとに、その対比があたしの中でぐんぐん成長していった。
「そっか。だからそんなにはしゃいでるってわけね」
だけど表面には出さない。これはあたしの問題だから。
自分の恋心なんだから自分で処理するのが当たり前でしょって話。初めての気持ちは大切にしたい。
「だってぇ、毎日楽しいんだもん。そうそう昨日ね、シャンタル様を後ろからぎゅーってしてあげたんだけどそのときに――」
だから今は耳を傾けよう。
いつか立場が逆転する日を夢見て。
バルトロメアの話が落ち着いたところで、以前から気になっていたことを聞いてみた。
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
それはついさっきまで語られた恋愛事情の根幹にかかわることでもあるし、あたしの今後にも絡んでくる。
つまり、こういうこと。
「リトリエが主人と付き合っちゃうのって……いいの?」
「ん? いいに決まってるじゃん。なんか問題あるの?」
なんという軽い返事。切り出す勇気を作るためにすり減らした神経返してよ。
「いや、なんかこう……いいのかなって」
「ナサニエル様もリトリエと結婚してるんだし、そういうのを規則で禁止もしてないし、いいのいいの」
なんだか緩いけどいいのかそれで。いやダメだったらそれはそれで困るけど。
それより初耳の事実があったんですが。ナサニエルさんには心の中で祝辞を唱えておこう。
「それにね、想い合ってる人とくっつくのは悪いことじゃないよ。むしろそんな二人を引き裂こうとする方が悪いことだって思うな」
ハッ、とさせられた。
……そっか、そうだよね。
バルトロメアもいいこと言うじゃん。おちゃらけているように見えて、実は深い考えを持ってる。そんな一面があるから何をされても許しちゃうんだろうな。
「だから、ナツミちゃんもテオドラ様と恋仲になっていいんだよ?」
「んにゃふぇ?」
「好きなんでしょ? 見てれば誰だってわかるよ」
いや待てこれは許しがたいというか受け入れがたいというか。
それ以前に何をいきなり言い出してるのこの子は唐突すぎるでしょ流れとか確かにあったといえばあったけどなんなの不意打ちスキルかなんか持ってるのバルトロメアは。
「ほら図星。百面相しちゃって……ほんと、わかりやすいんだから」
なんだよわかりやすいのはバルトロメアだけじゃないのかよいやあたしも自分がわかりやすいという自覚もなくはないけどそれにしてもこんな核心をいきなり突くなんてそれほどか。
「出張の間に何かあったんじゃない? そうそう、それが聞きたくてお邪魔したんだよ?」
「あっ、あの、あ、あたし」
「もーっ、なんでそんな慌ててるの? 今更隠したってわかるんだからね。そうやって焦ってるのが証拠だよ」
ビシッと向けられた指先が、あたしの逃げ道を塞ぐ。
ああ、そうか……あたしは最初から語らずに落ちていたというわけか。相変わらず変なところで鋭いんだからこの子は。
「ほらほら教えてよぅ。この首飾り、テオドラさんとお揃いみたいだし……ねえねえ、何があったのー?」
ペンダントの件も見抜かれてるし、容赦なくぐいぐい迫ってくるし、指がほっぺを遠慮なくぷにぷにしてくるし、喋れと言われたせいでテオドラさんとのあれこれを思い出しちゃってドキドキしてくるし。
誰か、助けて、ください……。
「あっ」
そんな願いが届いたのか、ガチャリと玄関が開く音がした。さすがにバルトロメアも反応して進攻を止めて顔をそちらに向けている。
でも体は離れてくれない。あの、テオドラさんをお迎えしたいんですけども。
「ただいま、夏海。待たせてしまった……か」
リビングの扉が開いてテオドラさんが顔を見せた。語尾が溶けるように消えたかと思えば、視線をあたしとバルトロメアの間で交互に移動させている。
えっと、何からどうやって説明したらいいんだろう。
違うんです、と言うのはそれ自体が違う気がする。
何が違うってそりゃ浮気とかそういう意味だけど、そもそもあたしとテオドラさんはまだそういう関係ではなくいや待てまだってなんだ今後を期待するような言葉を使うのはまだまだ早いぞまだダメだ。
「テオドラ様、お邪魔させていただいております。ご報告はもう終えられたのですね」
混乱しかけた頭は、バルトロメアの変貌を目の当たりにしたおかげで強引に回復させられた。
いつの間にか立ち上がっており、ワンピースの裾を軽く持ち上げてお辞儀なんかしちゃってる。なんですかその貴族みたいな物腰は。
「あ、ああ……予想より時間がかかってしまったが、なんとか」
「長旅からの帰還、さぞお疲れのことと存じ上げます。どうぞゆっくりと休養なされてください」
言葉だけ見たら清楚なお嬢様にでもなったみたいだけど、そこにあるのはいつものゆるふわヘアーのスタイル抜群ガールだから面食らう。
「じゃあねナツミちゃん。お土産話はまた今度聞かせてね」
言いながら顔を寄せてくる時には、もうバルトロメアの様子は元に戻っていた。
これ以上テオドラさんを誤解させるようなことはしないでほしいんだけど、こういった願いは叶わないってことも知っている。
「あとは二人きりで……お楽しみだね」
トドメとばかりに耳元で囁かれた。思わず体がビクンとなってしまったのは不意を突かれたからであって他意はない。
そんなことより、お楽しみとか言うからめちゃくちゃテオドラさんを意識しちゃうじゃないか。誤解どころかそれ以上に変なことをしてくれるじゃないかこの子は。
「それではテオドラ様、失礼いたします」
「こちらこそ、来客にもてなしの一つもできずに申し訳ない。シャンタルによろしく伝えてくれ」
またしても変わり身の術を使ったバルトロメアは、優雅な居住まいを崩すことなく帰っていった。こういうのを嵐が過ぎ去った後のようだ、って言うのかな。
そんな風に思いたくなるほど、急に戻ってきた部屋の静けさが際立っている。リビングってこんなに広かったっけ……?
「……」
えっと……どうしよう。
唐突な二人きりに何をしたらいいかわからない。テオドラさんは背を向けたまま扉に視線を送っている。あたしはそんなテオドラさんに視線を送っている。
呼吸をするのにも気を使うような空気はダメだ。出張前の日々を思い出せ……そうだ、仕事から帰ってきたテオドラさんは一度自室に戻って着替えとか身支度を済ませてた。
なのに今はなぜかそうしない。出張帰りなんだから尚更そうしないのはおかしいと思うんだけど。
あ、テオドラさんと目が合った。
と思ったらすぐ逸らされた。一瞬のことなのにあたしの心は過敏にドキドキしてしまう。
それからしばらく、テオドラさんは扉とあたしの間で視線を往復させ、目が合うたびにあたしの精神をチリチリ炙るというとても残酷でもどかしい所業を続けた。
さっきとは違う意味で妙な雰囲気が漂うのを感じたときには、とっくにテオドラさんとくっつきたい気分になっていた。半分くらいはバルトロメアのせいで、残りは自分の問題なのでどうしようもない。
それなのに、きっと実際にくっついたら何もできずに固まってしまう自信がある。
外はガチガチ、中はドロドロ。あたしの恋心には、そんな出来損ないの新商品みたいなキャッチコピーがよく似合う。
だから空気を変える。今ならまだ体は動くので、意を決して立ち上がった。
「じゃ、じゃあ……あたしはお風呂やお食事の準備などを」
しかしここでテオドラさんが急接近。
今まで力を溜めていたんだろうかと思うくらいの俊敏さに鮮やかさを添えて、気付いたら手と手が触れ合っていた。
「待ってくれ。その、疲れた……から、少し休みたい」
選ぶように絞り出された言葉を聞いているうちに、あたしは腕に寄り添ってきたテオドラさんに導かれるまま二人でソファーへ座っていた。
それと同時に儚く消えたあたしの自由は、甘えるようにくっつくテオドラさんの姿に塗り潰される。
「え、あの」
さっきまでの再現どころじゃない。テオドラさんと肩が触れるだけで緊張するし熱くなるしもっと触れたいと思っちゃうし。
バルトロメアに対しては出てこなかった感情がこれでもかってくらい溢れて、そのすべてが好きという二文字に変換されてあたしの頭を埋め尽くす。
ただ隣にいるだけなのに。
それだけで、テオドラさんが特別なのだと実感する。
テオドラさんのことが好きだと思い知らされる。
ふとした拍子に軋むソファーの音があたしを現実に引き戻し、またすぐにテオドラさんの温もりに囚われて別世界へ旅立つような感覚に溺れて、体がふわふわし始めて……。
てかバルトロメアが変なこと言うから余計に意識しちゃうじゃん! なんだかテオドラさんの密着具合がいつもより多い気がするじゃん! いや実際にめっちゃくっついてるじゃん!
そんなに強く手を握らなくても逃げませんよテオドラさん。いや嬉しいのでそのままあたしを離さないでいてほしいですけども。
「あ、あの……いつまでこれを」
「もう少しだけ……こうさせてくれ」
「は、はひぃ」
ちょっと甘えられただけでこの有様。心地良い絶望とでも言うような甘いぬかるみへ、このまますべてを委ねてしまいたくなる。
これで関係を進展させることなんてできるのか疑問で仕方がない。
もし万が一にも奇跡が起こって特別な関係になったとして、幸せを感じる前にあたしは色んな感情を脳内密閉容器で混ぜ合わせて爆発四散させちゃうんじゃないだろうか。
このままでいたいと思うのに、一方で変化を望む心は揺れ動く。
想いが溢れそうになっては膜を張り、不安定な奔流に惑わされるあたしはそっと目を閉じた。
「夏海……」
囁かれた呼び声には返事ができなかった。
テオドラさんが求めているのは言葉じゃない気がしたんだけど、それは自分が都合いいように想像した幻かもしれない。
でも、唇が震えても喉が固まっている今のあたしはそれ以外に取れる行動を持ち合わせていないのは事実。
見えない何かに引かれるように、そして押されるように。
少しだけテオドラさんに頭を預け、今までよりも強く感じるいい香りに包まれることにしたのだった。




