第60話 二人だけの時間
「テオドラさん、今日はお仕事ないんですか?」
「ああ。私がフリアジークでするべきことはほとんど終わっているからな。あとは計画が動き出すのを待つだけだ」
さすがはテオドラさん、手腕の良さが半端じゃない。夏休みの宿題を溜めてしまう性格のあたしからすると、そのすごさが何千倍にも輝いて見える。
「じゃあ……今日はずっと一緒にいられますね」
「そっ、そうなるな」
考えてみたら、フリアジークに来てから二人だけの時間ってあまりなかったよね。仕事だから仕方ないわけだけど。
でも、それが片付いた今ならどうだろう。息抜きだって大切だよね。あたしがテオドラさんにしてあげられること、何かないかな。
「そうだ、テオドラさん!」
いつもなら、考えがまとまらずにあれこれ悩む場面。しかし、今日のあたしは一味違う。すぐに天啓が閃いてしまったのだよ。
「お祝いしませんか? 再建のお話がうまくいったことの!」
テオドラさんにお疲れ様が言いたい。あちこち動き回った疲れを癒したい。あたしには難しくてさっぱりな政治案件を動かしたことを労いたい。
そして何より、喜んでもらいたい。
あたしがしたことで、テオドラさんの心を揺らしたい。そんな欲望をいつも熟成させているから、きっと考えがすぐ浮かんだに違いない。
「そうだな……よし、小さな祝賀会でもやるとするか」
「はいっ!」
というわけで、あたしたちは町へ出た。
急な思いつきだから当然用意なんてなかったし、帰る前に観光っぽいこともしたいし、テオドラさんとデートしたかったし、最後の比重が大きいのは言うまでもないし。
これまでは一緒にどこかへ行ったとしても、どこかに仕事の空気が漂っていた。でも今だけは、セレナさんの行方も孤児院のことも頭の隅っこに置いて完全オフモード。
そうだよ、セレナさんじゃなくてあたしを見てほしい。今この瞬間テオドラさんの隣にいるのはあたしなんだから。
……ちょっと暴走しかけた。
見たこともない相手に嫉妬するとか、我ながら相当だなあたしは。セレナさんはそういう人じゃないっての。そういう人ってなんだ。
とまあ恋する乙女になりつつあるくらい既にあたしの脳内はテオドラさんでいっぱいだけど、もっともっといっぱいにしたい。というかする。しないとどうにかなりそうでムズムズしちゃうから。
「どこに行きましょうか」
「ふむ……」
まだ日は高くない。行き交う人々が徐々に増えつつある活動の予兆。今日という時間はまだたっぷりある。繋いだ手の温もりだって感じ放題だ。
人の流れに乗って、気が向くままに歩いていく。ちらほらと飲食店は見つかるけれど、せっかくのお祝いなんだから二人きりがいい。雰囲気もよさげで、距離も近くて、呼吸の音さえ隠せないようなところだと満点なんだけど残念ながらそんな夜のお店感溢れるところが真っ昼間から開いてるわけがない。異世界なんだから別にいいと思うんだけどな。
こんな時間に開いてるのは……そうそう、そこに見える健全極まりないカフェくらいだよね。開かれたテラスへの窓から風に乗った甘さが漂ってきていい匂い。
……おかしいな、お腹の虫が騒ぎ出したぞ。朝はしっかり食べたはずだけど、何かカロリーを消費するようなことしたかな。体がポカポカしているのと関係があるのかもしれない。
「夏海」
「ひゃいっ?」
うぐ、ガン見してたのバレたかな。何よりも優先して見るべき人に怒られるのは悲しいような嬉しいような。
「そこでお茶でもしていかないか?」
「あっ……」
「休憩には早いかもしれないが、時間はまだたっぷりある。気になる場所はできる限り入ってみよう」
「はい!」
ありふれたナンパみたいな言葉でもあたしはついていく。だってテオドラさんの前だとあたしの選択肢からいいえの三文字が消えちゃうし。胸が嬉しさと苦しさでうるさいし。それでもお腹は減るし。
いい感じにピーク時間をずらして入ったおかげか、待つこともなく注文から座席確保までスムーズに済んだ。射止めたのはもちろん景色のいいテラス席。晴れ渡る空と穏やかな風。道行く人々の足音は小粋な演奏隊ってとこかな。
「……ふぅ」
褐色茶の一杯目を飲んで一息つけば、見える景色が変わったように思える。
もちろん一瞬でそんな変化は起こらない。変わったのは、きっとあたしの心境。懐かしさと寂しさを合わせたような、薄い水色の気持ちが喉の奥に積もっている。
「フリアジークって、いい国ですね」
「そうだな。暮らしやすさや生活水準、見習いたい点も多い」
「でも、もうすぐあたしたちはラクスピリアへ帰るんですよね。なんだか……ちょっと寂しいような、変な感じです」
例えるなら、旅行の最終日に抱くような気持ちってとこかな。達成、虚無、解放、疲労、寂寥、至福……あれこれ絡み合った感情がもやもやーっとしてる。
そんな複雑極まりない気持ちを引き連れても迷わずいられるのは、目の前に確かな光があるから。吸い込まれそうなほど眩しい、あたしだけの光が。
「それなら……また、来ないか? もちろん仕事ではなく、二人だけで」
「はいっ! 楽しみにしてますね!」
テオドラさんからの誘いが心地良い。認められて求められているような気がして、こんなにも幸せになれる。お望みとあらば、山の向こうや雲の果てまで仰せのままに。気持ち的には常に空を飛んでいるからオールオッケー。
「ふむ……ならば帰ってから改めて計画を考えてみよう。幸いにも時間はあるからな」
「そういえば、しばらくお休みがもらえるんでしたっけ」
バルトロメアからも聞いていたけど、こういう長期出張の後は期間に応じた代休があるらしい。今回の場合だと、結構長く休めるはず。
つまり、それだけテオドラさんと二人きりの時間が増えるというわけで、想像するだけで頬が緩んでバカになってしまうくらい大変危険で魅力的な最高水準の日々が待っているのだ。
何をしようかなぁ……家でまったり過ごすのもいいし、さっき話したみたいに旅行なんかも捨てがたい。フリアジーク以外の国へも行けちゃうかな。知らない場所でもテオドラさんがいればそこはパラダイス。
ずっと隣にいられたらいいな。
そんなこと考えるのはワガママなのかもしれないけど、妄想するくらいはいいじゃないか。
「ああ。だからその……しばらく一緒にいられる時間が増えそうだ、な」
「……あたしも、テオドラさんと一緒にいたいです」
「そうか、私も……同じ気持ちだ」
ゆっくりと温かく、穏やかに流れる時間。今はそれに浸るくらいでいい。
俯きがちの視線が時折ぶつかって作られる、小さな二人だけの空間。今はそこに閉じ込められていたい。
まったりしていてもお腹の虫は休んでくれないようで、そのままここで早めの昼食を取ることにした。いい雰囲気も、ぎゅるると鳴り響く音で簡単に壊れてしまうので注意しなきゃいけない。
今日のお昼はカフェらしくサンドイッチ。大根の輪切りみたいな野菜と低脂肪な肉を挟んだシンプルかつヘルシーな一品で女子力アピール、というわけじゃない。
「んーっ、おいひい……」
食べながら喋るのは行儀が悪いなんてわかってる。でも本当においしかったんだから仕方ないじゃないか。食レポでの第一声がほとんど唸り声になる理由がわかった気がする。
「いい食べっぷりだな」
テオドラさんも、あたしとは違うサンドイッチを食べている。空腹に任せてがっつくなんて、ちょっとはしたなかったかも……反省。
でも、おいしい物に罪はない。ちゃんと味わって感謝しないとね。パン生地にも味がついていて、どこを食べても飽きが来ない。追加でもう一個くらいはいけそう。
って反省はどこいった。まあいいか。テオドラさんもなぜか嬉しそうな目を向けてくるし。人が食べてる姿って、なぜか見入っちゃうことあるもんね。
「その……夏海」
うっ、食べながらこっそり見つめてたのがバレたかな。
食べる姿に夢中だったのはあたしの方だったわけだけど、相手を見れば自分もまた見られているとかなんとか。
「私のも、食べてみない……か?」
ずずいっ、と差し出されたサンドイッチ。あたしがまず動かしたのは目だった。すぐにでもパクリといけそうなくらいの距離にありながら、しばらくその意味を理解できなかったのが事実。
テオドラさんがまっすぐにあたしを見つめている。ショートカットの髪が縁取った、惑うような潤みの目線をあたしから外そうとはしない。揺るぎない揺らぎ、という矛盾とアンバランスにまみれた言葉が浮かんでは消えていく。
「えっと、では……」
正直言うと嬉しくてどうにかなりそうだったので、暴走ハートを押し留めるのに必死で返事がそっけなくなってしまった。
けれどさっきも言ったようにあたしの選択肢に否定の言葉はないので、結局は受け入れてしまうのだった。
じり……という効果音が似合いそうな、秒速だと計測不可能な速度でサンドイッチへ近付く。髪をかき上げながら視線をずらせば、待ち構えていたようなテオドラさんの目に捕まった。
絡まった視線はもう離れない。奇妙な胸の高ぶりを確かに感じながら、あたしはテオドラさんに見られたままサンドイッチに口をつけた。
「……んっ」
一口分をいただいて、離れながらもぐもぐ。それでもやっぱりテオドラさんのガン見は止まらないし、それを知っているということはあたしも見続けているというわけで、見つめ合いながらの食事は終わりそうもない。
クリーミーソースの酸味とパン生地のコラボはきっといい味だったんだろうけど、なぜか味がよくわからない。見ている分にはとてもおいしそうだったのに今では全然違う方へ意識が向いていた。いや、最初から半分以上向いていて、ぐいぐい攻められたから陥落したと言うべきか。
あたしがサンドイッチを飲み込んでも、テオドラさんの視線は不動だった。ついでに差し出された腕も戻っていない。それはつまりサンドイッチがまだ目前にあり続けるというわけで。
「もう一口……どうだ?」
「……はい」
誘われるまま、あたしはもう一口いただいた。サンドイッチを頬張り、咀嚼し、飲み込むまですべての動作を見られるという時間は、ご褒美なのか苦行なのか判断できないけど嫌じゃない。きっと開いた唇から覗く歯とか飲み込むときに動く喉とかも見られたけど嫌じゃない。
でも雰囲気に流されたらここが衆人環視のテラス席ってことを忘れてしまいそうなので、なんとか言葉をひねり出す。
「あ、あの! あたしだけってのも悪いですし、テオドラさんも食べてください!」
「ふむ、そうだな」
なんて言いながら、テオドラさんは自分のサンドイッチをパクリ。おいしそうに食べる姿も様になっていて、可愛いなーとも思っちゃう。確かにこれはずっと見ていられるね。
いや、そうだけどそうじゃなくて! あたしが食べた部分を口にしてるけどそうじゃなくて! 間接キスとか考えたけどそうじゃなくて!
「あのっ! ど、どうぞ……」
えいっ、と差し出したサンドイッチは半分以上食べてしまっていたので、手を思いっきり伸ばしてもテオドラさんにぶつかることはない。むしろいい具合の位置に出せたと思う。
「あたしのも……食べて、みませんか? ちょっとしか残ってませんけど、よければ」
「夏海……」
見つめ合い開始、というか再開。視線は離れないってさっき言ったよね。
なんとなくサンドイッチを持つ指を動かす。元々そんなに残っていない上にこんな短く持ち直したら、食べてもらうときに何かちょっとしたアクシデントがあるかもしれないなんて考えてない。
こっそり唾を飲み込んだのを合図にするように、テオドラさんがゆっくり近寄ってきた。
うっ、髪の隙間から見える視線が尊すぎる。なぜ角度を変えただけでこんなに魅力が跳ね上がるのか。元から美しいというのが正解に近いかも。
一瞬テオドラさんの視線が下がったので釣られて後を追えば、その時にはもうサンドイッチがテオドラさんの口に入っていた。歯がよく見えなかったのを残念がることもなく、あたしはテオドラさんの唇から目が離せなくなっている。
周囲の肌から自然なグラデーションで色付いていく唇は、触れたらぷるんと瑞々しく揺らめきそうな薄桃色を湛えている。残念なことにあたしの指はあと一歩のところで辿り着かず、テオドラさんの唇と薄皮一枚隔てたようなニアミス状態で生殺しだった。
もちろん適当な理由をつけて指を動かせば人生最高の感触を味わうことができるだろう。けれどそうしないのは、ここがテラス席だからに他ならない。食べさせ合いはセーフだけどそれ以上はアウトだと判断するくらいの理性は残っている。
そう、あたしは冷静だ。だからこそ今の状況がある。この甘く穏やかな時間を楽しもうじゃないか。
「……んっ」
「っ!」
やけに長く感じられた一瞬を経て、テオドラさんがサンドイッチを含んだまま離れていく。もぐもぐしている姿も癖になるなあ……。
だけど今はそれどころじゃない。永遠が一瞬に戻って、また永遠に早変わりしたような勢いであたしの思考と世界がぐるぐる回っている。
なぜかって?
離れた瞬間にテオドラさんの唇が指に触れたからに決まってる。人差し指の先端に。ほんの少しだけど、感触がわかるくらい。あたしが考えていた以上になめらかだった。指先が熱くてジンジンビリビリする。
「夏海のもいい味だな」
「あ、はい……」
気の抜けた返事をしながら、あたしの手は勝手にサンドイッチを自分の口に運んでいた。これくらいなら一口でいけるので、まるごとパクリ。やっぱり味はわからなかった。
それよりもあたしの意識は人差し指とそれを挟む唇に向いて忙しい。さっきこの指先にテオドラさんの唇が触れたんだとか今なら舐めてもバレないとか変態かあたしは長時間こんな指をくわえたままだと不自然だから早くなんとかしろとか思考が忙しい。
どうやら出張が終わりに近付いても、あたしの日常は平穏になってくれないらしい。せめてテオドラさんのことを考えても暴走しないような精神力があればいいんだけど……無理だよね。
だって好きなんだもん。頬を真っ赤にして惑うのも、心がドキドキするのも、テオドラさんに近付きたいと思うのも、全部本当のこと。
嘘偽りのない、あたし自身なんだ。
えっ、くわえた指はどうしたのかって?
それはご想像にお任せします。言ったでしょ、あたしは忙しいって。
いつか間接じゃなく直接で……と考えてしまう本能を抑えつけるのに忙しいんです。




