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光浪夏海の異世界百合物語  作者: 虹月映
第五部  異国への旅立ち
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第57話  夏海の告解

 フリアジークに来て、それなりの朝と夜が過ぎた。

 再建の話は少しずつだけど進んでいるらしい。それでも遅れていることに変わりはないようで、テオドラさんは会談の後いつもやりきれない表情をしている。

 

「あの、テオドラさん。もしかして今日も」

「芳しくないな。これからどうなることやら……」


 溜息混じりに微笑んでくれるけど、無理させてしまった気がしてあたしも小さく笑んで濁すしかない。

 少しずつ慣れてきたはずの広い部屋が、よくわからない空気で満たされていく。


 ぐぬぬ、こんなことでぎこちなくなってどうするんだ。こういう時だからこそ、あたしがなんとかしなきゃ。そうだ、普段通りにしていよう。

 ……普段通り、っていざ考えるとなんだろう。どうしたらいいのかな。ちょっと最近のことを思い返してみよう。人間とは経験を活用できる生き物であるぞ。

 

 って、なんだかくっついてばかりのような気がする。

 港町での一件後はもちろん、その前から結構距離が近かったよね。長い間ぎゅってしたあの夜のことは思い出したいようなそうでないような。いや良い思い出だったことには変わりないんだけど今それを考えたら頭がぽわぽわしてしまうのでよろしくない。

 つまり、普段通りとはくっつくことと見つけたりってとこかな。我ながらよくわからないけど事実だからしょうがない。

 

 じゃあ……試してみようかな。例の膝枕だって前後に色々あったけど、結果的に見ればそう悪いものではなかったし。なんか気持ち良かったし。

 いや別にあたしがそうしたいんじゃなくて、これが今すぐに試せることだからとりあえずやるだけだから。したくないわけでもないけど、これはテオドラさんのためを思ってすることなので、やましい気持ちなんかあまりない。

 

 えーい考えてる場合じゃないぞ。元々ソファーで隣に座っていたのは好都合。ちょっとだけ距離を詰めてみよう。

 何気ない感じを装って、体を捻るついでに寄っちゃいましたっていう風に。よし、我ながらいい動きだ。

 これまた自然な流れを意識してテオドラさんの様子を窺うと、特に反応は見られない。むむ、これくらいじゃ効果なしか。

 よし、次だ。これでどうだ、とばかりに手を取ってみる。はう、すべすべの肌触りが指先を電流となって駆け巡ってくるじゃないか。負けずに掌へ指を滑り込ませちゃえ。


 ところで一体あたしは何と戦って何に対して意気込んでいるのだろうか。

 そんなの決まっているけどテオドラさんのためだ。あたしがされて嬉しいことは、もしかしたらテオドラさんも同じかもしれない。考えが同じだった日のことを思い出す。あんなことが、もう一度だけ起こってくれたなら。

 少なくとも起こるかどうかわからない奇跡を期待するくらいには、あたしの頭は空回りをしていたんだと思う。

 

「……っ」


 あ、視線がチラチラ動き始めた。ちょっと意識してくれたのかな。それなら嬉しい。あたしが隣にいるってことをわかってほしい。

 頼りにならないかもしれないけど、力不足が極まってるかもしれないけど、何ができるって具体的に言えないけど。

 それでも、あたしは絶対に離れない。それが今のあたしにできる、たった一つの歩み寄り。


「テオドラさん……その、うまく言えないんですけど……あたしが、いますから」

「……夏海」


 きゅっ、と繋ぐ力をこめる。言葉で伝えられない部分は行動で示す。あたしは今までそうやってきた。今更これを変えるなんて無理。


「ありがとう。それだけで心強いよ」


 握り返された手の温もり。それだけであたしはなんだか報われたような気分になれた。

 ぽわわんと色付いてぼやける思考の中で、そこに秘められた答えを知るのは世界であたしだけでいい。


 ……でも。

 本当にテオドラさんは安らいでくれたのかな。あたしだけハッピー気分になっておしまい、とかなってないかな。

 もっと、ちゃんと、テオドラさんのためになることがしたい。あたしにできること、あたしじゃないとできないことを。








「テオドラさん、庁内を見て回りませんか?」


 翌日、あたしは思い切ってテオドラさんに向き合った。

 今日は会談もない完全オフだという情報と、以前から渦巻いている何かできないだろうかという模索感情が化学反応を起こしたのだ。

 

「どうしたんだ夏海、いきなりそんな」

「その……気分転換にどうかな、と思いまして」

「そうか。だが私は何度もここに来たことがあるから、庁内のことは熟知しているつもりだが」

「あっ、そうですよね……」


 なんたる不覚。ここが初めてなのはあたしだけだった。くっ、何か他の手段はないか……閃け起死回生の最適思考!

 

「しかし、夏海と来るのは初めてだ。一緒に行ってくれるか?」


 予想外のところから光が射した。当然のように胸を貫かれたあたしは、傍目にも明らかであろうことが自分でもわかるくらいのニコニコ顔を浮かべて頷いた。


「はいっ!」


 また流されてる、と忠告する自分も脳内のどこかにいたけど、あたしという存在を意識してくれた嬉しさが大きくて声はあまり届いてない。

 そのせいだろうか。テオドラさんに寄り添って部屋から出るまで、行くあてのないノープランだということに気付かなかった。

 

「えっと……どこ行きましょうか」

「夏海が行きたいところなら、どこへでもついて行くさ」


 ああっ、真っ直ぐな言葉が突き刺さる。あたしもテオドラさんといればそこが理想の天国です。

 とはいえ、本当に行き先を決めず適当に歩くのもなんだか性に合わない。せめて目的地くらいは考えておきたい。

 さて、どうするか。既に歩き出した足は止められないぞ。


 あっ、と声が出そうになった。

 すぐに候補が閃いたのは我ながら冴えている。しかしそれが平凡でありきたりなのは我ながらあたしらしいとも思う。プラマイゼロの感覚はもっと違うところで味わいたかった。

 悔しがっても他に案が出るわけじゃない。だから、せめてさりげない変化球を投げるくらいは許されるはず。


「いい景色ですね」

「自然風景を眺められる位置に窓を作ったのだろうな。地平線の彼方までよく見える」


 なんとなく下りた階段、その先にある踊り場の大きな窓から広がる展望に思わず感動してしまう。

 ……そんな風にあたしの姿が見えていれば成功。成否がわからないのが困りどころだけど、こういうのは気にしたら負けってやつなんだと思う。

 フロアを移り、ふらっと見に来ましたよという体を装いながら目指す場所へと向かっていく。ここに来てから何度もお世話になった馴染みの場所へ。

 

 そんな道中、目的地を待たずしてちょっとしたイベントが発生した。

 順調に進むかと思ったのも束の間、不穏というわけじゃないけど予想外ではある影が行く手に差したのだ。

 

「……あっ」


 こんな風に思わず間抜けな声をこぼしてしまうくらい、不意の出来事だった。

 向こうもあたしたちに気付いたようで、あの貼り付けたような快活に溢れた笑みを見せている。両手のアクションをふんだんに添えた感動のポーズというあまり嬉しくないおまけもつけてくれた。

 

「これはこれは、テオドラ殿にミツナミ殿」


 ロビンハルトさんの敬礼は服装も相まって様になっている。きっと、本物の貴族だとあたしが認識したことでフィルターもかかっているはず。

 ちらりとテオドラさんを窺えば、そこには仕事モードの凛々しい顔が。むう、これじゃ気分転換にならないじゃないか。今日は仕事のことを忘れて息抜きをしてほしかったのに、こんなところで遭遇するなんて。

 

 偶然を恨んでもしょうがない。きっと、嵐のような貴族様は今日も忙しいはずだ。

 だから、おそらく。

 

「またお会いできましたね、光栄です。ちょうどこの向こうに自室がございまして、本当ならば今からお二人を招いて丁重なもてなしを致したいのですが、悲しいことに立て込んでおりまして。テオドラ殿、なかなか時間が取れず申し訳ございません。ミツナミ殿、我らがフリアジークはいかがでしょう。自然に囲まれながらも発展と開発を続けた先に得た、人々が安らげる空気を感じていただけましたかな。更なる高みを目指すため、今日もこれから所用がありまして……おっと、あの方は時間に厳しい性格でした。それでは失礼いたします」


 やはり一方的にまくしたててきた。ロビンハルトさんは言いたいだけ言って満足したのか去っていった。これ癖なの?


 それにしても、本当に一人で色々と抱えているんだなあ。なんでだろう。人に頼れない理由でもあるのかな。気になる。


 ……もし、だけど。

 その理由がわかったら、テオドラさんのためになるかな。あたしにできることにもなったりしないかな。リトリエとしてじゃなく、あたし自身のやりたいこと。

 頭の片隅に置くくらいならいいよね。テオドラさんのことを考えるついでのついでくらいで。

 

 浴びせられた勢いに苦笑を交わしながら歩けば、目的の場所が少しずつ近付いてくる。

 よし、今だ――と頃合を見計らって、あたしは温めていた言葉を解放した。

 

「テオドラさん、少し休憩していきませんか? ちょうど食堂の前に来ましたし」

「そうだな。何か飲んでいくか」


 もちろんお酒の話なんかしていない。食堂の喫茶コーナーで一息つこうという意味だ。ロビンハルトさんの勢いにあてられて気疲れしたという意味は少しある。

 やっぱり慣れた場所は安心する。この気持ちを極めていくと、最終的には自室最高という考えになって外出がおっくうになるので注意するべきである。証拠は昔のあたし。


「ふぅ……おいしい」


 甘めのお茶を飲んで頬が緩む。もちろんそれはリラックスしたからであり、隣に座るテオドラさんの存在を感じたからでもある。

 窓際の小さなカウンター席、今だけここはあたしたちだけの空間になったことにする。景色を楽しめるように外へ向けられた椅子。どちらかといえば前方よりも横を見たい気分なのが残念なところ。

 

 そんな現在注目のテオドラさんは、あたしの右隣でカップに両手を添えている。立ちのぼる湯気の先にある表情を見るより先に、あたしはカップになりたいなと考えていた。

 カップになってテオドラさんの優しい手に包まれて、柔らかい唇に触れられる。なんだこれすごくいいぞカップ早くそこ変わって。

 

「夏海、どうした?」


 ふわり、と茶葉ではない香りがあたしの意識を引き戻す。誘われるように視線を上げれば、テオドラさんがあたしの顔を覗き込んでいた。

 必然、目と目が合って正面衝突。変なことを考えていた自分が見透かされているようで、恥ずかしいやら嬉しいやら。いや嬉しいってなんだ。

 

「な、なんでもないです。いやーいい景色ですよねーあはは」

「ああ、何も考えずに緑を眺めるのもいいものだな」


 よし、テオドラさんの気分が安らいだかな。ぶっつけでお散歩を提案した甲斐があったってものだよ。

 これで風と自然の音を感じられたら風情があるんだろうけど、ここは完全に屋内だし他に利用者もいるのでそれなりに雑音がする。これじゃ完全にくつろぐのは難しそうだね。適当に時間を潰したら別の場所に行こうかな。

 

 そんな時、雑音の厚みが増した。どうやら団体さんが入ってきたらしい。言葉の重奏が背中にボコボコ当たる。ムードも何もあったもんじゃない。

 一体どんな奴らだよ、もう。顔覚えてやるからな。あっちの席か……んっ、あれは確か。

 

 覚える必要もなかった。むしろあたしがその顔触れを覚えていた。あのお兄さんたち、ここの役人さんだ。前と同じようなメンツで近くの席に座っている。他にも空いてる席ならいっぱいあるんですけど。

 けれど、近いおかげで話の内容がよく聞こえる。中身もまた前と同じようなこと――愚痴がメインだった。

 

「なんだか騒がしくなってきたな」


 ほら、テオドラさんも気にし始めた。さっさと別の場所に移動するのがベストかな。

 

 ……ん? 待てよ。

 もしかしたら、これはチャンスではないだろうか。なんのって、あたしにできることの話だ。

 聞こえてくる話をもっと掘り下げるように誘導して、あたしではわからないお宝情報を引き出せたら役に立てるんじゃないだろうか。

 今のあたしなら、それができる。距離も近いし、胸の奥にいるスライムイメージちゃんをちょいと練り上げてやれば……。

 

「ったく、見たかさっきの」

「戻ってきたかと思えばすぐ出てったよな」

「ロビンハルト様らしい、と言うべきなのか……」


 ほら、この通り。能力の使い方だって慣れたものですよ。

 意識誘導も多少は上達してきたかな。あたしたちに気付かないようにしつつ、他のお客さんに迷惑がかからない程度の声量に抑えさせるのって結構難しいんだからね。

 さっきロビンハルトさんと会ったということは役人さんたちとも顔を合わせただろうし、話しやすくもなっているはず。

 

「なんかよぉ、暇疲れっていうのかこれ」

「だな。俺らがやるべきことまで持ってっちまうから」

「もっと仕事回してくれないと体がなまっちまうよ」

「国のために働くのは立派だけど、国を愛しているのは俺らも同じだっての。なあ?」

「当然だろ。好きでこうやって時間潰して愚痴こぼしてるわけじゃねえんだから……」


 ふーん、なるほど。

 愚痴というか不満というか、やりきれない思いみたいなのは伝わってきた。

 でもマイナス面が色濃いわけでもない。抱えた内面だって、オーラを確かめればお見通しだもの。お喋りに夢中なせいかダダ漏れ状態なんだけど、あたし以外にはわからないことだろうしまあいいや。

 

 なんだか、俺の力はこんなものじゃないからもっと頼れよこっちを見ろよ、みたいな前向き気味の不満っていうのかな。そういう色合いのオーラを感じる。働きすぎなロビンハルトさんを案じる部分もありそうだ。

 こんなに周囲が意気込んでいるなら、仕事を回したほうが捗るんじゃないかな。素人のあたしが考えることだけど、一人よりも何人かで分担や協力したらスムーズになるはず。


 なのに全部一人でやっている。

 その理由さえわかれば、きっと……。


「やけにうるさい話だな」

「そ、そうですね」


 まさか実行者はあたしです、なんて言えるはずもないので反応が詰まる。

 能力を使っているのはバレてなさそうなのでセーフ。秘密を抱えて少しだけ後ろめたい気持ちになっているのはアウト。


 でも、テオドラさんにも話が届いた。これで何かが変わってほしい。牛歩状態の会議にどうか進展を。

 

「だが……奴が誰にも頼らず何もかも一人で抱えているのは気になるな」

「そういえば、前にもあんな噂話を聞いたことがあるんですけど……」


 ここであたしが情報を補足する。以前から役人さんたちはああやって愚痴をこぼしていたということ、それにもかかわらずロビンハルトさんは仕事を抱え込んでいること。

 今ここで聞いたのとそんなに変わりない中身かもしれないけど、それだけ信憑性が増したと信じたい。


「そうか……一体何を考えているのだろうな」


 考え込むテオドラさん。顎に手を当てて目を細める姿は、そのまま一枚の絵画となって破格の値段がついてもおかしくない。

 かすかな思案の吐息が聞こえるほどの近さで、あたしは美しさの極致をどこかぼんやりした気持ちで見つめていた。








 その夜、あたしの胸はズキズキと終わりのない痛みを感じていた。

 別に重篤な病を抱えているわけじゃない。むしろもっと深刻な症状かもしれないものを抱えてしまっている。

 

「んぅ……」


 喉の奥で絡まる呻きは誰にも届かない。テオドラさんは別の部屋にいる。いつもだったら適当な理由をつけてテオドラさんの隣に陣取るのに、今夜は適当な理由をつけて一人になりたくなった。

 そうさせるのは、じわじわと成長していつの間にか悪性の根を張った胸中の罪悪感。その種が蒔かれたのは数時間前、食堂でのことだ。

 能力を黙って使った。それだけならまだしも、他国の役人さんの行動心理を操作したなんて字面だけでアウト一直線じゃないか。なんてことをやらかしてるんだあたしは。

 

 そんなことを思い悩んでいたら、種は発芽してみるみる育って満開だ。禍々しい負の色に染まった花は肺や心臓を容赦なく締めつけている。なぜこんなのに限って成長が早いのだろうか。そういうのは植林技術でやってほしい。

 窓際で眺める夜景は真っ暗。向きが悪いのか市街地の明かりが届かないのか、無を凝縮したような暗黒が広がり、見ているとなんだか精神ごと持っていかれそうな気さえしてくる。

 一人だけの部屋、気温だけ一足先に闇へと吸い込まれたように肌寒い。これで体調崩したら、またテオドラさんに迷惑かけちゃうじゃないか。ダメダメ続きだ。

 

「はぁ……」


 溜息で曇った窓ガラスに、誰も解読できないような幾何学模様を描く。キュッキュという摩擦音に乾いた笑いの一つでも出れば良かったのかもしれないけど、あいにくガラスにぼんやり映るあたしは終始真顔だった。

 何やってるんだろうな、あたし。一人で悩んだって解決しないって学んだはずなのに、全然わかってないよ。

 

 もういいや。

 今日はさっさと寝ちゃおう。なんだかとても疲れちゃった。テオドラさんに声だけかけて、早くこんな日を終わりにしたい。

 これ以上ここにいたら本当におかしくなってしまいそうだ。とにかく、ここじゃない別の場所へ。


「うぅっ、廊下も寒い」


 テオドラさん、まださっきの部屋にいるかな。急におかしなこと言っちゃったから変に思われてないかな。

 

 幻滅とか……されてないかな。

 

 そんなことを考えながら進むべき方へ向き直ったら目の前にテオドラさんがいたので、あたしは目と口をバカみたいに開いて変な声を出しながらよろめいてしまった。

 

「夏海、大丈夫か?」

「あ、ひゃい平気えす」


 色んな意味で胸がバクバクしている影響が言語感覚に出たらしい。思考回路が「なんで」というたった三文字でショートして次の言葉が出てこない。

 

「……いや、大丈夫じゃない」


 なので、これはあたしの言葉じゃない。

 テオドラさんがそう断言したのだ。

 

 次の瞬間、テオドラさんはあたしの手を取った。優しく握られた手の温もりに、意識が少しだけ正常へと傾く。

 突然の小さな幸せを噛み締める暇もなく、テオドラさんは繋いだ手を引いて歩き出した。強引ではなく導くような動きに、あたしは流されるままついていく。

 

 何が起こっているのかよくわからないまま、あたしはリビングのソファーに腰掛けていた。右隣に座るのはテオドラさん。繋いだ手が離れていないから、必然的にそうなるわけだ。


 そうなるわけなんだけど……この状況は一体なんだろう。


 少し前までここに二人でいたせいか、部屋の中がほんのり暖かい。テオドラさんにくっついている右腕は熱い。

 くっついてない頬まで熱くなってきた頃、ようやく現状を理解し始めた。理解が先か照れが先かという議題は置いておく。

 

 ちらりと隣のテオドラさんを見たら目線が合った。思わず俯いて今度は横目でこっそり様子を窺う。

 テオドラさんは変わらずあたしに視線を向けていた。あたしのことだけを真っ直ぐと。テオドラさんの視線には心拍を高ぶらせる効果があるのであまり見てほしく……ないこともない、と思わせる効果もある。


「あの、テオドラさん?」


 あたしが座り、隣にはじっと見つめてくるテオドラさん。動こうにも手を繋いでいるのでどこかに行くのも無理。

 状況はわかった。でもわかったからなんだというのが次なる現状だ。あまりにも急すぎるので当事者であるテオドラさんに声をかけてみたわけなんだけど。

 

「夏海……」


 繋いだ手に更なる熱が触れた。テオドラさんが両手を重ねてきたのだ。天使の羽みたいな手にサンドイッチされたあたしの右手はトマトみたいな赤に染まっているだろう。

 もちろんそんなことされたら反応してしまうに決まっているので、首をギギギと音が出そうな挙動で動かしてテオドラさんと対面する。

 

 そこには、とても美しい困り顔があった。

 会談が進まないと溜息をこぼした時でもこんな顔はしていなかった。目の前にある問題をどう解決すればいいのかわからず戸惑っているような眉の角度と唇の線。

 体は動かしていない。それなのに、テオドラさんとの距離が縮まったような気がした。

 

「何か、悩みなどは抱えていないか?」


 それはテオドラさんの方じゃないんですか、とは言えなかった。言う余裕がなかった。言葉が出なかった。

 だって、それだけで全部わかってしまったから。テオドラさんに隠し事はできないという絶対の真理が。

 

「私では大したことはできないかもしれないが、話を聞くくらいならできる。夏海の力になりたいんだ……」


 透き通るような声でこんなことを真正面から告げられて平然としていられる人ってこの世にいるのだろうか。少なくともあたしは無事じゃない。涙が出ちゃいそう。

 でも泣くのは後回し。先にやるべきことができた。今回手を繋いで元気をもらったのはあたしの方なのだから。

 

「テオドラさん、あたし――」


 ここからは白状と懺悔の時間。

 あたしの中に淀む黒影をさらけ出す。その勇気をくれたテオドラさんへと向かって。


 口内が乾く。喉が詰まる。心が軋む。

 こみ上げてくる精神の痛みが頭に達して神経を揺らしていく。つらいことは喋れば楽になるという俗説は嘘だったらしい。

 それでもあたしは打ち明けた。能力を使うことの是非で揺れる心境を。


「……」


 話し終えると、部屋は再び静寂に包まれた。なけなしの生唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえる。

 あたしが話している間、テオドラさんはずっと視線を外さなかった。それだけ真剣に聞いてくれているってことなんだろうけど、その眼力はあたしに効果抜群なのでそろそろいっぱいいっぱいになりそうだ。

 なので、そっと俯いて視線から逃げる。あたしは弱いな、なんて考えようとしたその時だった。


「夏海」


 不意に呼ばれて肩がビクンと強張る。声は普段通りの響き。俯いてしまったから顔色はわからない。

 テオドラさんはどんな気持ちであたしの名前を呼んだのだろう。勝手なことをしたから怒ってるのかな。叱られるのも覚悟してたつもりだけど、実際に言われたら、あたしはきっと涙を我慢できない。

 でも、それがあたしの報いなら……。


「よく話してくれた。ありがとう」


 そこであたしの思考は完全にストップした。

 認識できたのは、テオドラさんに抱き寄せられたということまでだ。理解した瞬間に思考は白と黒の明滅を繰り返し、さっきまで満ちていた後ろ向きな考えはどこか遠くへ流されていた。


「あっあの、あたし」

「いいんだ。罪の意識を感じることはない」


 反射的に出た声も、頭を撫でられて続きを失う。

 もはやあたしは、テオドラさんの成すがままにされるしかなくなっていた。


「話に興じた彼らは鬱憤を晴らせた。偶然聞いた私は情報を得られた。夏海は私のためにできることをしてくれた……誰も損をしていない。そうだろう?」


 テオドラさんの温もりと香りと声。そのすべてがあたしを優しく包み込む。胸に巣食った黒い痛みは影も形もなくなっていた。

 代わりに満ちるのは甘い疼痛。喉を詰まらせるこの感情は、決して嫌なものではない。


「だから、夏海。悲しい顔をしないでくれ……」


 名前を呼ばれるだけで、あたしはこんなにも無力になってしまう。テオドラさんの体に縋りつくのがやっとなくらいだ。

 だけど強くもなれる。あたしを許し、認め、受け止めてくれるテオドラさんのためにあたしは生きていく。誰かを想うことは何よりも高級な原動力となりえるのだ。


「能力を使うことに遠慮する必要などない。夏海が使うべきだと判断すれば、その考えに従えばいい。その結果どうなろうとも、私は夏海を信じる。何があってもだ」

「テオドラ、さん……」


 能力を使っていい。そんな許可なんて本来は必要ないことだけど、他ならぬテオドラさんが認めてくれたことに意味がある。あたしが変に気負うことなかったんだ。

 それならば、まだあたしにできることは残っている。テオドラさんに報いるため、対峙するべき相手はただ一人。


 それに備え、今はテオドラさんと色々なものを交換しよう。

 体温、吐息、肌触り。髪の流れと脈打つ鼓動。何もかもが尊い証明としてあたしに刻まれていく。


 秘めた感情は芽吹くどころか、とっくに満開を迎えていた。落花の時は、わたしが生きている限り訪れないだろう。

 代わりに消えたのは、あたしの心を苦しめていた漆黒の花。この花が咲く季節は、きっとあたしには訪れない。

 だって、あたしの心にある花壇はもう鮮やかな花でいっぱいなんだもの。

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