閑話 彼女の過去
彼女は両親の顔を知らない。
人は誰しもそういった存在があるのだということすらわからなかった。
物心が付いた頃、彼女はとある国の外れにある孤児院で生活していた。教会に併設されたそこでは同じ境遇の幼子らが集められており、保護者代わりの牧師とささやかな暮らしを送っていた。
毎朝決められた時間に起床し、朝食を済ませてから礼拝堂で祈りを捧げる。昼までは牧師が教諭となって一般常識や言語などの生活知識を教える。昼食の後は晴れた庭で駆け回り、くたびれた頃に昼寝の時間が訪れる。
その後も夕食から消灯まで、そこには絶えず子供たちの賑やかな声が溢れていた。
悲しみとは無縁だった。両親の記憶という、寂しさを感じる根拠そのものがないからである。
現状に奇妙なところなど何もない。これが普通なのだと、幼い彼女は心から信じていた。
物事の分別が付き始めた頃、彼女は牧師から自分が孤児であることを聞かされた。
両親の所在は不明で、生きている保証はない。孤児院の門にいつの間にか置き去りにされていた赤ん坊。それが彼女であったということまで、牧師が知る情報が余すところなく伝えられた。
残酷な現実を告げられたにもかかわらず、彼女は涙一つ流さず牧師の言葉に耳を傾けていた。感情を溢れさせることもなく、事実をその胸に受け止めていたのだ。
それでも複雑な思いは抱えていたようで、言葉にできない黒く染まった不快感が胸の奥で重く流れている感覚はあった。その夜は眠気すら覚えることができなかった。
これにより、彼女は誰よりも早く異変に気付くことができた。九死に一生を得たと言うにふさわしい偶然であろう。
すっかり目が冴えてしまった彼女は孤児たちが眠る寝室になんとなく居づらくなり、洗面所へ向かうことにした。
安らかな寝息が飛び交う部屋の扉をゆっくりと開き、冷たい廊下へと出る。
肩を抱いて歩く途中、彼女は窓の外へ目をやった。闇色の空に浮かぶ月が草原を照らしている。一見するとそれは普段と変わらない景色にも思えた。
だが、彼女の中で引っかかるものがあった。
その答えはすぐに導かれる。
深夜ということを差し引いても、外が静か過ぎるのだ。草原や木に潜む、虫や鳥の鳴き声さえも聞こえない。静寂が耳に張り付き、不穏な気配を生み出している。
周囲に視線を巡らせながら歩き、もうすぐ洗面所という時にそれは起こった。
体までも震わせる破壊音が鼓膜を突き刺したのだ。
窓や扉が砕け散る音だと理解した瞬間、触れただけで傷付きそうなほど邪悪な気配が建物内を包んだ。一瞬で臨界点まで濃度を高めたそれは、彼女の平静を奪うには十分すぎるほどだった。
魔物の襲撃──どこか遠くで起きている事件だとばかり思っていた彼女には、その事実を認識するだけで精一杯だった。むしろそこまで頭が回ったことは評価されるべきであろう。
震える体を律するという無理を通しながら、彼女はふらふらと廊下を歩く。視界は逃げ道を探してめまぐるしく動き、耳はわずかな情報も聞き漏らすまいと敏感になる。
ふと、鋭敏になった聴覚が何かを受け取った。
それは声だった。長年助け合って暮らしてきた、孤児仲間の声がする。
絶叫ではない。
ほんの一瞬高くなった声が、すぐに途絶えただけのこと。
それが何を意味するのか、彼女は心の奥で想像していた。
成熟していない頭脳でも答えはすぐに導き出される。
理解してしまった。認識してしまった。幻視してしまった。
身近な者が消えてしまう瞬間を。
彼女は走った。
形のない何かを振り切るように、足をもつれさせながら必死に駆けた。呼吸は既に安定とは程遠い荒さに満ちている。
廊下の角を曲がった途端、彼女は何かにぶつかって床に倒れた。今まで触れたこともないようなぬめりと弾力を持つ何かが彼女の行く手を阻んでいる。
擦り剥いた腕の痛みに顔を歪めながら、彼女はゆっくりと顔を上げた。そこに何があるかを確かめるために。
月明かりの中、切り開いた内臓のような色をした何かが浮かび上がる。正体は掴めないが、自分の認識を超えたおぞましい存在であることは本能が告げていた。
そこから垂れる得体の知れない液体が、彼女の足元へ落下した。じゅうっ、という音と共にその部分が蒸気と化して大気に溶けていく。
もはや彼女は身動き一つ取れなかった。異形の存在を目にした彼女は絶叫し、暴走する意識に沈みこんだ。
──その後、彼女が気付いた時には既に何もかもが過去の出来事だった。
あの夜に何が起こったのか。牧師や孤児仲間がどうなったのか。彼女の記憶は酷く曖昧になっている。
ただ一つだけ確実に覚えているのは、悲痛な面持ちの女性に抱き締められている場面だった。瓦礫の山となった孤児院の前でのことだ。
嗚咽を漏らすその女性に強い抱擁をされながら、彼女は一切の感情を窺えない無表情で空へと視線を投げていた。
焦点を失ったその瞳には、夜明けの朝日さえも眩しく映ってはいなかった。