第53話 未来の約束
「ナツミ様、昨夜はよく眠れましたかな?」
「えーっと……まあ、はい」
歯切れの悪い言葉と共に泳がせた視線が、日光を受けて輝く窓を捉えた。夜の暗さが嘘のように明るい。
深い森の中とはいえ、見渡したすべてが木々に覆われているわけではない。太陽が昇れば相応の明るさを取り戻すのも当然だ。
村から出発する前に村長さんへ挨拶がてらお礼を言いにいこう――そんなテオドラさんの提案で、あたしたちは今こうして屋敷の応接室にいる。ふかふかのソファに体が沈んで心地いい。
向かい側に座る村長のリマドさんは、朝からピッチリと燕尾服の装いを決めていた。目を凝らせば見えるオーラっぽい何かも穏やかで目に優しい。
「十分に疲れが取れた。快適な安眠だったぞ」
「それはそれは。もったいないお言葉でございます。大切な会談の前に英気を養えたのならば幸いです」
そっか、英気か……テオドラさんが喜んでくれるなら、好きなようにしてもらうのもアリっちゃアリかも。テオドラさんにお願いされたらあたしはきっと断れない。
って、いやいや待て待て。さっきそれじゃダメだって考えたばかりでしょ。何かあたしにできること、できることを考えろ……。
「滞りなく話が進めばいいのだが……ところで、フリアジークの情勢について何か耳に届いているか?」
「そうですな。特別目立った事件も聞いておりません。至って平和と言えるでしょう。ただ――」
リマドさんが言葉を切った。顎に手を当てて、何やら思案顔を作っている。ついさっきまで、あたしも似たような顔をしていたはず。
しかし深刻具合は圧倒的にあたしが負けている。えっと、変な事件とか起きないよね。そういうのはお話の中だけで十分だから。
「相変わらずロビンハルト様がお一人で多数の案件を取り扱っているようです。以前いらっしゃった商人の話では、同盟国間で近々大きな事業を始めようとしているとか」
「その様子だと、奴は今も休みなく動き回っているようだな。話の速やかな進行は期待できないか……」
うーむ……これは変な事件、ってことになるのだろうか。
なんだか難しい話になってきたぞ。そして、ほんのり外交と政治の香りがする。今の話に出たロビンハルトって人がフリアジークの偉い人なのかな。
ということはテオドラさんが会談する相手でもあって、それはつまりテオドラさんと同じ時間を過ごすわけで、名前の響きからして男っぽいわけで……。
なんだろう、モヤモヤする。特に最後の点に関して。
「そういえば、ジリオラ様はお元気ですかな? 以前お会いしたのはいつ頃だったか……なかなか村を空けることもできぬもので」
「ああ、変わりなく公務に励んでいらっしゃるよ。少し前の話になるが――」
それからも政治っぽさを感じさせる二人の話と情報交換は続き、あたしは割り込むこともできず聞き役に徹していた。内容を完全に理解しているかは別の話。
でも一つだけわかったことがある。この挨拶とお礼を兼ねた会談も、立派な外交の一環なんだということだ。
そういう場にいると、一緒に同じことをしている気がしてなんだか嬉しい。役に立っているかは疑問だけど、そこはひとまず見ないようにしておく。
テオドラさんはこれから向かうフリアジークの最新情報を得て、リマドさんは懇意な間柄を構築して村の今後を明るくする。あたしの素人観察だけど、そんな空気を感じた。
そうじゃなければ国の内情について話さないだろうし、こんなこともネタにしなかったはずだ。
「ほう、するとその異世界から召喚された客人というのがナツミ様なのですか」
「そうなんです、一応」
急に話を振られたけど、我ながらいい感じの受け答えができたと思う。言葉が詰まらなかったところが特に。
「そんなナツミ様を見初めるとは、テオドラ様も隅に置けませんなあ」
「とっ、突然何をっ! そういうわけではなく……もないことも……」
思わず両目が思いっきり開いてしまう。
なんでテオドラさんは語尾を濁してるんですか。なんで照れてるんですか。なんでチラチラ見てくるんですか。そういうことされると熱が感染するんですが。
なんというか、変に意識させられたせいで昨夜のことを思い出してしまう。あの時もこんな風に距離近かったなあ……。
ううっ、並んで赤くなるあたしたちはリマドさんから見たらさぞ滑稽に映っていることだろう。泳ぎ惑う視線じゃ睨むこともできないじゃないか。
「おや……これはこれは。耄碌老人が余計なことをしてしまいましたかな。ほっほっほ」
軽快に笑うその声が何を意味するのか、あたしにはわからなかった。
正しく言うと、理解するだけの余裕がなかった。並んで座っているせいでテオドラさんの肩や手や太腿が微妙で絶妙な加減で触れているのが悪い。
……いや、悪くないです。
テオドラさんが近くにいるって実感できて嬉しいです、はい。
即席の会談を終え、あたしたちは村の出口でリマドさんに見送られている。
村に入ったのとはちょうど反対側。この先にフリアジークがあるんだろう。木しか見えないけど。
「帰りにも世話になる。その時はまたよろしく頼む」
「かしこまりました。再会の時を心よりお待ち申し上げております」
「えーっと、また来ます!」
言葉としては間違ってないはず。
とにかく前を向いて進もう。見送りを感謝しながら手を振って別れを告げるのは例外として。
歩き始めると、すぐに周囲が高い木だらけになった。そよ風が葉を揺らすのか、ザワザワという音が定期的に聞こえる。
だけど、少しも怖くは思わなかった。
理由としては時間的に明るいからというのもあるし、テオドラさんと手を繋いでいるのもある。
村から出てすぐ、テオドラさんが手を差し伸べてくれたのでこうしているというわけだ。
まるであたしの考えを読んでいるみたいな行動に内心とても嬉しくて不自然になっていないか少し不安。手汗は大丈夫だと思う。思いたい。
それにしても、またテオドラさんにリードされてしまった。
やっぱりあたしにできることなんてないのかなあ……もらってばかりじゃ申し訳ないというか、こんな近くにいながら何もできないなんて自分が許せないというか。
少し考えてみよう。あたしに何ができるのか。こういうのは自分の行動を振り返って紐解いていくのがよさそうだ。
昨夜はテオドラさんに寄り添ってもらって、その前は一人で出歩いてトラブルに巻き込まれて心配かけて、大切だって言われてドキドキして、テオドラさんの過去を聞いて受け止めて――。
うむ、自発的な行動が見当たらないぞ。
それどころかあたしが勝手にどこか行ったからチンピラ三人組の件が起こったわけで、自分でしたことが迷惑になっているんじゃなかろうか。
まて、諦めるのは後にしよう。
もう少し遡れば出てくるじゃないか。あたしだけの、自分にしかできないことが。
あたしが持つ、この能力が。内面を察知できる気がする程度に成長した、相手の心理を操作する能力が。合わせてゆるキャラみたいな外見に変化した意識内の魔力スライムが。
最後のはともかく、ここが一つの取っ掛かりになるんじゃなかろうか。テオドラさんに対して使う気はないしそもそも無効なんだけど、別の角度から考えてみるのはアリだと思う。
そう決心したら、つい手に力が入ってしまった。あたしなんかのへなちょこパワーじゃ大した変化はなかったかもしれないけど、変に思われたら困る。
ちらっと横を見上げれば、テオドラさんは変わらず前を見ている。どうやら気付いてはいないらしい。ひとまず安心。
それなら……このまま少し強めに繋いでてもいいよね。うん、力を抜いたらそれで気付かれるかもしれないから仕方なくだよ。
テオドラさん、きっといつかあたしにできることを見つけます。だから、それまでもう少し待っていてくださいね。
周囲の木々が密度を薄くし始めた。そろそろ森を抜けるのかな。
長かったような、短かったような。振り返ってみたけど、あるのは今まで歩いてきた道だけ。あたし一人だったら絶対に入ろうとは思わなかっただろう。
顔を前向きに戻すと、テオドラさんと目が合った。いつから見られていたのか考えて少しだけ焦る。
でも、それくらいで過剰に動揺する時代は終わった。今ここにいるのはあたしとテオドラさんの二人だけ。こっちから視線を送り返すことだってできるんだから。じろじろ。
「夏海、変なことを言うようだが……何か悩み事を抱えてはいないか?」
どうでもいいことで調子に乗る時代は終わった。
唐突に図星を突かれたあたしは、無様な動揺を見せてしまう。
「えっと、そんなことは特になきにしもあらずでして」
「……そうか、ならいいんだ」
テオドラさんの視線が逸れる。あたしから離れていく。逸らし際に細められた意味ありげな瞼が見えなくなる。
違う、あたしはこんなの望んでない。
隠す必要がどこにある。テオドラさんを悲しませるくらいなら、あたしの貧相なプライドなんか砕け散ってしまえ。
「あ、あのっ!」
裏返りそうなほど上擦った声。
それでもテオドラさんは振り向いてくれた。あたしを見てくれる瞳はもう隠れていない。
「実は……悩みというか、ちょっと考えてることがありまして。大したことじゃないんですけど、その」
テオドラさんは静かに次の言葉を待ってくれている。
視線を迷わせ、瞬きを繰り返し、俯いた顔を上げ――あたしは秘めた言葉を吐き出した。
「あたし、テオドラさんのために何かがしたいんです!」
「……私の、ために?」
息が荒くなる。心臓の鼓動も速くなる。喉の奥が詰まった感じがする。
そんな満身創痍のあたしとは対極なほどテオドラさんはリアクションがなかった。ポカンとした表情ってこういうものなのだろうか。
「前から考えてたんです。あたし、テオドラさんに守ってもらってばかりで、頼りっぱなしで……恩返しってわけじゃないんですけど、何かあたしにできることがあればって思ってて……それで」
「夏海」
右半身に、ふにっとした感触が満遍なく襲ってきた。
見るまでもない。テオドラさんが体を寄せてきたのだ。
「私は、夏海がこうして側にいてくれるだけで十分過ぎるほど満足しているし、幸せなんだ」
「……あ、ありがとうございます」
頭の中が一瞬で真っ白になった。
空白の頭にまず芽生えた感情は、喜びだった。存在そのものを認められるなんて、光栄って言葉でも足りない栄誉だ。
けれど。
「でも、それだけじゃダメなんです」
そうだ。決めたじゃないか。
流されるだけじゃなく、自分で動かなきゃダメなんだ。
「あたしができることを探したいんです。具体的にはまだ思いつかないんですけど……でも、したいんです」
「夏海……」
そよ風があたしたちを撫で、鳥のさえずりが走り抜ける。
あたしに何ができるか、その答えはまだ見つからない。
けれど、理由ならもうわかっている。目を逸らすことさえ許さないほど、心の深奥で疼く熱い感情。それが騒ぐから何かせずにはいられなくなってしまったのだ。
まずは自分にできることを探す。あたしの心にケリをつけるのはそれからだ。
今はまだ、この時間に手をかけたくない。
「それなら……私から一つ、頼んでもいいか?」
「はい、ぜひ!」
「ラクスピリアに戻ったら、また夏海の料理が食べたいな」
今度はあたしがポカンとする番だった。
そんなことでいいなら、いくらだっていつまでもできるじゃないか。
「お任せくださいっ!」
でも、それがテオドラさんの望みなら。
あたしはそれを叶えたいと思うのだった。
「楽しみにしておくよ。そのためにも、まずはやるべきことを済ませなければな。ほら、明るくなってきたぞ」
気付けば森の出口まで来ていたようだ。木の葉が作り出す微妙な暗さに慣れていた目を細め、左手で庇を作る。
広大な草原の先、遠くに町らしき一角が見えた。他より高く豪華な建物を中心として市街地が広がり、周囲が外壁で囲まれている。なんとなくラクスピリアと似た構造っぽい。
「テオドラさん、あれがフリアジークですか?」
「ああ、もう少しで到着だ」
やっとここまで来たんだ。なんだか達成感みたいなのが胸に満ちる。
でも、これが終わりじゃない。折り返し地点ですらないかもしれない。
テオドラさんは外交会談、あたしは自分にできること探し。やることはまだ残っているのだから。
「夏海、森を抜けて疲れてはいないか?」
「平気です。フリアジークまで一気に行っちゃいましょう」
「そうか、夏海は頼もしいな」
きゅっ、と繋いだ手を握り直す。それはどちらからともなく訪れた一瞬。
光はもう眩しくない。目的地に向けて、あたしたちは一歩を踏み出した。




