第52話 目覚めの時
「んっ……」
翌日、モゾモゾと体を動かしながら目を覚ました。瞼が重くてすぐ目は閉じてしまったけど、一応は意識を保っている。
意味もなく寝返りを打ち、なぜかベッドが広いような気がして違和感を抱く。一人で寝ているんだから当たり前なんだけど、昨夜はなにかあったような……。
ダメだ。寝起きで回らない頭じゃ考えもまとまらない。とりあえずこの温かい布団で二度寝でもしておこう。
「おはよう。いや、また寝てしまうのならおやすみかな?」
その一言で、あたしの怠惰な朝は終わりを迎えた。鼓膜を震わせる声が、心地良さと共に意識を覚醒させていく。
呼びかけられた方を見れば、既に身支度を整えたテオドラさんが立っていた。今すぐ旅立てそうな姿はいつ見ても凛々しくて憧れる。
同じ寝起きのはずなのに少しの隙もない表情。うん、今日もかっこよくて素敵ですね。なんてことをぼんやり思いながら思考回路を立ち上げていって……。
そうだ、全部思い出したぞ。
テオドラさんが昨夜は隣に寄り添ってくれたんだ。そのおかげでグッスリ眠れたから、アホみたいな寝惚け姿を晒してしまったわけで。
……なんか、色々な要素が照れに変換されて妙な熱が頭を沸騰させている。とっくに眠気はどこか遠くへ押し流されてさようなら。
「お、おはよごじゃいます」
今のあたしはどんな顔をしているのだろう。赤いとかじゃなくて、寝癖とかという意味で。寝起きのせいで呂律も回ってないし声色もとんでもないし救いようがない。
とにかくあたしも身繕いをしよう。
いつまでもこんな姿をテオドラさんに見せるわけにはいかない。どうせ見るなら少しくらい悪あがきをさせてほしい。その優しい微笑が眩しいので逃がしてほしい。
「そんなに慌てなくても出発の時間はまだ先だ。ゆっくりでいいぞ」
「いや、その……そう、髪の毛! この髪を直すのがいつも大変で」
適当に頭を触ってみると、髪が不自然に跳ねているであろう部位があった。肩くらいまでのセミロングでそんなに長いわけじゃないけど、やっぱり多少の寝癖は避けられない。
うがー、手櫛じゃ直らないぞ。しょうがない、今日も道具を総動員してリフレッシュといきますか。
洗面台の前に陣取り、外には見せられない髪形と対峙する。そんなあたしを見ているテオドラさんと鏡越しに目が合った。
今日もテオドラさんはすっきりしたショートが似合ってる。あれくらいなら寝癖とも無縁かすぐに直せるかなんだろうなあ。
「そういえば昨日の朝も大変そうだったな……」
テオドラさんが何やら呟いている。独り言のつもりなら失敗だ。あたしに丸聞こえなのだから。
見られながらセットするのはなんだか恥ずかしくてこそばゆい。でもボサボサ頭を見られるのはそれ以上なので、あたしに選択権はない。
なるべく視線を意識しないように心がけてヘアメイク道具に手を伸ばす。それを見計らったのかなんなのか、狙い澄ましたようなタイミングでテオドラさんの声が届いた。
「夏海、私に手伝えることはないか?」
……えっ?
今なんて言いました? ってとぼけるのは無理がある。はっきり聞こえたからこそ、変な間ができるくらい固まってしまったのだから。
「いや、わざわざテオドラさんの手を煩わせるようなことは」
「……夏海のために、何かできないか?」
なにゆえそこでシュンとした顔になってるんですか。
何かできないかって、一緒にいてくれるだけで十分過ぎるくらいだし、昨夜のことも合わせたらお釣りを通り越して全額キャッシュバックなんですけど。
でも、その気持ちが嬉しくないわけじゃないし、むしろ色々してほしいと思ったり思わなかったり……。
なーっ、もう。グチャグチャするのは頭の外側だけでいいのに。
「……それなら、なんですけど」
踏み出せ、あたし。
昨夜はできたじゃないか。テオドラさんが望んでいる。あたしも嫌じゃない。言わない理由がどこにある。
「これを持って、髪のこっち側を押さえてもらえますか?」
「ああ、いいとも! ……こんな感じでいいか?」
途端にテオドラさんはイキイキした表情に早変わり。ここまでわかりやすい顔をしてくれるのは珍しい。てか初めてかもしれない。
こんな顔もするんだ……とつい見入ってしまい、またしてもテオドラさんと鏡越しに目が合った。
交わる視線。
ほんの少しだけ時が止まったような錯覚に襲われる。
……えっ、今のは一体なんだったの。
「夏海、次はどうすればいい?」
「あ、えっとですね、ちょっとそのままで待っててもらえますか? こっちの方を先に済ませますので」
テオドラさんが声をかけてくれなかったら、あたしはずっと固まっていたかもしれない。
低血圧のはずだった体は既にフル稼働で、頬や耳といった皮膚の薄い箇所へ重点的に血を送っている。
鏡への視線は自分の頭部へ固定。髪を整えながら、中身の乱れも削ぎ落としていく。
さっきのはアレだ。髪を誰かに整えてもらうなんて親とか美容師さんとか以外だと初めてだから、そういうところに奇妙なスイッチがあったとかそういうのだ。
これでも一応あたしも女子なので、髪にこだわりの一つや二つ持っている。だから自分でセットするようにしていたし、友人がふざけて頭をワシャワシャなんてしようものなら、ざけんなこんにゃろーとやり返していた。
でも、今はまったくそんな気分にならない。テオドラさんの手で髪に櫛を通されると、呼吸の色が少しだけ変わる気がする。もう一度髪を撫で下ろしてほしい、と何回心の中で願ったことか。
固定していた視線はあっさり揺らぎ、あたしの髪に触れるテオドラさんに向いていた。
髪の具合を確かめていた――と言い訳できるギリギリの境界線を作り上げ、そこが新たな釘付けポイントになる。テオドラさんは髪のセットに気を取られているから、今だけは好きに見つめ放題だ。
そういえば。
テオドラさんが先に起きているってことは……寝顔、完全に見られたよね。
港町の時はベッドが離れていたという弱すぎる言い訳ができたけど、密着していた今回は逃げ道がない。
一緒に寝たんだから仕方ないことなのはわかってる。でも、もし変な顔をしていたらと思うと気が気じゃない。
よだれなんて垂らしていたら発狂ものなんだけど、幸運なことにあたしの頬にそういう痕跡は見当たらなかった。
だから多分、大丈夫だったのだろう。そういうことにしておきたい。
まあ、昨夜あたしもテオドラさんの寝顔を見たわけだし……結局おあいこってことか。
だからもう静まれあたしの心臓。髪を触られるくすぐったさに逐一反応するんじゃない。
「これでどうだ?」
「は、はい! 完璧です! ありがとうございました!」
朝から元気な声が出るものだと我ながら感心する。半分テンパっている、というのが正解。
「夏海の髪は綺麗だな……」
テオドラさんがあたしの髪に目を奪われている。自分が整えた部分に感心し、達成感を覚えているような目だ。いつもの柔らかい笑みが、なぜだかあたしの心の奥に優しく突き刺さる。
だからなのか、あたしは何も言えない。振り返ることもできず、鏡に映るテオドラさんの様子に目を奪われるばかりだ。
テオドラさんは離れようとしない。髪を眺めながらも、チラチラと視線をこちらに向けてくる。鏡を仲介して何度目が合ったことか。
いつまでそこにいるんですか、とアイコンタクトを送る。うまくいったかは不明。
返ってきたのは眩しいほど輝く視線。小首を傾げる仕草が本当に強烈で反則でズルいと思った。
洗顔道具を出して、これからの行動を暗に示す。それでも動かないので、いいのかなと思いつつも実行した。
冷たい水は熱い頬を引き締め、余計なあれこれを流し落としてくれる。目を閉じると感覚が鋭敏になるというのは本当らしく、髪に触れるテオドラさんの指使いまでわかった。
いや、集中すべきはそっちじゃない。
流し落としたそばから溢れてくる余計なあれこれは一体どうしたらいいのか。
これ以上目を閉じているのは危険だ。さっさと顔を拭いて終わらせよう。
「……ん、あれっ?」
おかしいな、どこへ行った。
洗顔で目を閉じていたせいで、タオルの置き場を見失ってしまったようだ。困ったな。
確かこの辺にあったはずなんだけど……と勘を頼りに泳がせた手が予想外の場所で目標を掴んだ。
突然差し出されたタオルに困惑しつつも顔を拭いて目を開けると、そこにはテオドラさんがいた。
鏡越しではなく、すぐ隣に。
集中しかけていた意識を無理に逸らしたせいか、その移動にまったく気付かなかった。
「……ありがとうございます」
「お安い御用さ」
一旦離したタオルを戻し、口元を隠す。冷やされたはずの頬は再燃を始めていた。
テオドラさん……最近の急激なその攻勢はなんなんですか。直球ばかり投げられてストライクが連発なんですけど。
でもアウトはいつまでも訪れない。だからってセーフとは少し違う。なんと言えばいいのだろう……わかるような、わからないようなこの気持ち。
ともかく、このままでは体がもたない。そっちが色々としてくるなら、こっちにだって考えがあるんだぞ。
されてばかりじゃダメだ。あたしだってテオドラさんのために何かがしたいんだ。
どんなことができるかはまだわからないけど……思いついたら、その時は。
行動の根底にあるものが違ったって構わない。あたしがしたいからそうする。それだけのことだ。
「夏海、着替えるのか? それなら私が」
「いえ、大丈夫ですから!」
それまでは、まあ……猶予期間ってことで、テオドラさんのこそばゆい攻撃を受け続けるサンドバッグになっててもいいかな。
「そうか、大丈夫、か……」
「……すぐ済ませますから待っててください。着替えたら朝食に行きましょう」
「っ! そうだな、待ってるぞ!」
表情がコロコロ変わるテオドラさん、なんだか可愛いなあ。
ああ、なんだかこっちまで緩んだ顔になっちゃうよ……。
いや待て、決めたんだから!
絶対にお返しするんだから!
腑抜けてなんかいないんだから!




