第47話 一緒の部屋
そうして部屋に辿り着いたわけだけど。
やっと休める安らげる! とはならないのがあたしの運命らしい。
「広いなあ……」
まず、内装は予想通りの代物だった。広さや装飾は言うまでもなく、一目見ただけで一般人には向かない空気があたしでもわかった。なんだあの極上の座り心地を目指しましたみたいなソファーは。
けれど、そんな悩みを深く感じている暇はなかった。発端は、女将さんのこんな一言だった。
「それにしても、ナツミ様はリトリエだとおっしゃっておりましたね。テオドラ様がそういった方をお側に置かれるとは予想外でした」
そっか、今までは一人で出張してたって言ってたっけ。そりゃ珍しくてちょっと突っ込んだことも言いたくなるってものだ。
なんてことを考えていたら、テオドラさんがこう答えたのだ。
「ああ、夏海は私のために色々としてくれて……大切な存在だ」
その瞬間、時が止まるという言葉の意味をこれでもかってくらい体感した。
テオドラさんは深い意味もなく言ったっぽいので何も変化がないが、あたしを含む他二名は違った。
「あらまあ……やはり、そういうことでしたか」
女将さんはすべてを悟った如来様のような顔であたしたちを見ている。残ったあたしについては自分で評するのもアレなので置いておく。
「テオドラ様もようやく心を許せるお相手を……変わられましたね。長年ここでお世話をさせていただいたわたくしにとっても、これは喜ばしいことでこざいます」
「……? 女将、一体何を言って」
そこで言葉を切ったテオドラさんは、何かに気付いたようにあたしの方を向いた。予想外の直球を受け止めた余韻から立ち直れず、俯き加減と顔の熱を絶妙に混ぜ合わせているあたしの方を。
さすがのテオドラさんも、それで事態を察知したのだろう。みるみるうちにあたしと似たような顔色になって、頭の中で思考を高速展開しているような仕草を前面に押し出している。
「い、いやその今のは他意などなく言葉通りの意味であって、いや、そうではないこともないのだがそうであることもなくもなかったりして決して変な意味ではなくてだな」
「ええ、わかっておりますとも」
テオドラさんの弁明は女将さんの優しくて深すぎる笑みにあっさり切り落とされた。
慌てて繰り出した弁明らしき何かが、他ならぬ確固たる証拠になっている。そのことにテオドラさんは気付いているのだろうか。多分気付いていない。
「ご安心ください。何度も利用されているテオドラ様もご承知の通り、他のお客様はもちろん従業員であっても呼び出されない限りこのお部屋には近付くことがございません。どうぞ、お二人の時間を心ゆくまでご堪能くださいませ」
警備や管理の体制がしっかりしているのは評価できるところだけど、今の状況では一概に決めかねてしまう。どれだけ優遇された特別室なのここは。密会に使う部屋かっての。
……いやいやいや、なんだ密会って。
そりゃ確かにあたしたちはこの部屋で二人きりになるけども。誰かが不意にやってくることもない一種の隔離空間になるけども。存分にテオドラさんと同じ時間を共有できるけども。
それってつまり、ラクスピリアでの生活と大体同じじゃないか。違うのは場所と状況くらいだ。
たったそれだけのはずなのに……どうしてあたしの鼓動はさっきからうるさいのだろうか。嬉しいぞと叫んで元気に自己主張しているのはなぜなのか。
答えの鍵を握る人物は、あたしのすぐ側で今もアタフタし続けている。
「お、女将、私たちのことはいいから持ち場へ戻れ。他の仕事もあるのだろうし、私もするべきことがある」
「あらまあ……そうですね、わたくしとしたことが気が利きませんで」
最後まで得心顔をそのままに、女将さんは「ごゆっくりどうぞ」と言い残して去ってしまった。
ご丁寧にも、気まずくもありながら心地良さも感じる絶妙な雰囲気を置き土産にしていくサービス精神を披露してくれた。旅館の部屋に残すのは地元の銘菓くらいにしてほしいのだけど。
「……」
「……」
さて。このまま沈黙が続くのは非常によろしくないぞ。
テオドラさんの窺うような視線をまともに受けながら、何気ない風を装って言葉を探す。
「えっと……広いお部屋ですね」
「あ、ああ、ここは特別な部屋だからな。公務で使うようにラクスピリアから手配されているんだ。関係者でなければ存在すら知らない部屋だ」
「へえ、そうなんですか」
「そうだ、うむ」
もちろん、話の内容はまったく頭に入ってこない。脳内の大半を占めるのはテオドラさんの言葉、すなわち大切な存在という文字列だった。
深い意味などなく、当然のように放たれたその言葉。テオドラさんにとって、それは常識にも等しいことだからこそ、意識せずにポロっと口から出てしまったのだろう。
あたしが意識してしまうのは必然だ。大切な存在と思われていることが、偽りなどない本当の気持ちだとわかったのだから。
こんなにも心が揺さぶられる理由は一つしかない。あたしも同じ気持ちだからだ。今ここでテオドラさんに心の内をすべて解放できたら、どれだけ楽になれるだろう。
それができないから、燻った火が体内の変な部分を炙り続けて際限ない熱を生み出している。あたしに少しでも勇気があればこうはならない。
沸き上がった熱を留めることはできず、すぐに顔全体に広がって頭をぼうっとさせる。顔の周りだけ湿度が急上昇している気分だ。
この旅館は温泉もあるらしいけれど、それを堪能する前から既にのぼせているあたしはなんなんだ一体。
「あの、テオドラさん」
これ以上抑えてはいられない。茹だった頭は体へ勝手に指令を送り、あたしをテオドラさんの横へと座らせる。
それこそ肩や手が触れそうなほどの近さで。今はそうしないと、逆におかしくなりそうな気分だった。
「さっき……あたしのことを大切な」
「そ、それはその、さっきも言ったように変な意味ではなくてだな、つまりはあれだ」
あたしが言い終わる前にテオドラさんは必死に何かをまくしたてる。内容なんてほとんどない、けれど決して空っぽなんかじゃないその言葉たちは不思議と心地良い響きを伝えてくれる。
どうしてそんなに動揺する必要があるのだろう。あたしはただ、無尽蔵に溢れて仕方ないほどの嬉しさを伝えたいだけなのに。
「わかってます。あれはテオドラさんの素直な気持ちだって」
「いや、だからその」
「あたし……テオドラさんの想いが聞けて嬉しいです」
「う、嬉しい、のか」
「当たり前じゃないですか。大切な存在だって言われて、さっきからずっと嬉しくてたまらないんです」
その気持ちが嘘じゃないと表現するように身を乗り出す。元から近かったせいで実際はそんなにグイグイ行くことはできず、せいぜい密着具合が増した程度だ。ちゃんと伝わってくれたらいいんだけど。
「わ、わかった。夏海の気持ちはわかった」
よかった、わかってくれた。こうやって気持ちを伝え合うのは大事だもんね。ろくに話し合いもせずにすれ違って、変な誤解を生むのは好きじゃない。
これでよし、と納得して改めて見るとテオドラさんの顔まで赤くなっている。近寄りすぎて熱が移っちゃったかな。少し離れよう。
「そういえば、さっきすることがあるって言ってましたけど」
「あ、あれはいいんだ。特に何も急ぐことはないんだ、うん」
「本当にいいんですか? もしテオドラさんのお仕事を邪魔するようなことになったら、あたしは……」
「いや本当に大丈夫だ……そうだほら、外を眺めてみたらどうだ? さっきとは違う景色が見えるはずだぞ」
おっと、忘れるところだった。高いところからの展望は見逃せないよね。
ということでガラス張りの壁みたいな窓へ向かう。カーテンを閉めるのに一苦労しそうな大きさだけあって、言葉通りに辺りを一望できた。
「うわぁ……すごい」
思わず目を見開いてしまう。感嘆の吐息で曇った窓ガラスはすぐに透明さを取り戻し、その景色を再び届けてくれる。
遮るものが何もない景色は、ラクスピリアの中央庁で見た以来だろうか。いや、それ以上だから初めてと言っていいかもしれない。
視界を染める一面の青。空と海が交じり合う水平線は遥か遠くに伸び、雲と波という白を生み出し合っている。
線上にいくつか見える途切れは遠方の陸地によるもので、きっと向こうからもあたしのいる場所が同じように見えていることだろう。
「はぁ……」
しばらく景色に目を奪われ続ける。そうすると妙な考えが浮かんでくるもので、世界に対して自分がいかにちっぽけか、なんて思春期みたいなことを悩みそうになる。
あたしはとっくにそんな時期を通過したので、考えが留まることなく先へ進む。
もっと単純な、自分自身についてのことだ。自分が今ここにいるという事実。この広い特別な部屋にテオドラさんと二人でいるということ。
……テオドラさんと二人きり。
また同じようなことを考えているぞ。落ち着けあたし。ラクスピリアでの暮らしと一緒のことだぞ。
いや待てよ。もちろん普段から一つ屋根の下で生活していたわけだけど、ここは旅館の一室。極端な言い方をすれば寝起きをする場所だ。
そうだ、ラクスピリアでは当たり前のように寝室は別だったじゃないか。
一人寝の夜には慣れていたし、離れていてもテオドラさんが同じ空間にいることがわかっていたから不安なんてこれっぽっちもなかった。
けれど今夜は。
ちらりと横目で部屋の奥を見る。部屋の大きさに負けないくらい立派なベッドが二つ並んでいる。一つじゃないことがせめてもの救いに思えて少し緊張がほぐれた。
でもなあ……誰かと寝るなんていつ以来だろうか。修学旅行を勘定に入れるべきか考え、あれはプライベートじゃないからと外すことにした。
そうするともっと昔、親と一緒に寝ていた頃か……と更なる過去の入口に差し掛かったところで脳内ストップをかける。何が楽しくて幼少期の思い出を探らなければならないのか。精神的によろしくない。
そんなことより今に目を向けよう。別に一緒の布団で寝るわけじゃないんだからどうってことはない。いや、一緒の布団じゃないから問題なのか。
いやいや、一日の終わりと始まりを間近で迎えるということが大切なのであって、それはつまり無防備な姿をテオドラさんに晒してしまうかもしれないという心配があるわけだ。
うむ、そうだ。そういうことにしておこう。
「うぅ……熱い」
そうでもしないと、サウナにでも入ったかのような汗と呼吸と早鐘は落ち着いてくれないだろうから。
どうか様子がおかしいことにテオドラさんが気付きませんように。
そんなことを祈りながら、あたしはクールダウンが終わるのを待ち続けるのだった。




