第5話 突然の異世界
「んっ……」
ぼんやりとした眠気に包まれたまま目を覚ました。
重い瞼をそのままに寝返りを打ち、つい今しがたまで見ていた夢の輪郭を思い出す。あのお婆さんと強面のおじさんは一体何者だったんだろう。
まあ、いいか。
夢に意味を求めてもしょうがない。とりあえず起きてお気に入りサイトでも巡回しよう。
「……ん?」
床に足を付けた瞬間、とても激しい違和感に襲われた。
あたしの部屋は冷たいフローリングのはずなのに、伸ばした足は柔らかい弾力に包まれている。
寝ぼけ眼で見てみると、足元には高級そうな絨毯が広がっていた。
どうやら一部だけではなく、部屋全体に敷き詰められているらしい。角の部分もきっちり揃えられていて、手が込んでいるのがわかる。
いや待て。ここはどこなんだ。
間違いなくあたしの部屋じゃない。
ここは六畳なんかじゃ収まらない広さだし、備え付けの家具はなんだかキラキラしているし、整えられた棚に並ぶ本には謎の文字でタイトルが書かれている。
なんとなく振り返ると、あたしが今まで寝ていたのは豪華な天蓋付きのベッドだということがわかった。こんなの写真でしか見たことないよ。
「なんなの、これ……」
あたしがいるのは疑いようもなく謎に包まれた部屋だった。
こんな貴族御用達みたいな部屋とあたしにどんな接点があるというんだろう。どう考えても場違いだ。
それ以前にどうしてあたしはここにいるんだ。
ああ堂々めぐり。誰か答えを教えてくださいお願いします。
「おはようナツミ。目覚めの気分はいかがかな?」
あたしがそう願うのを待っていたかのように部屋の扉が開いた。
聞き覚えのある声に顔を上げると、夢の中で見たままの姿でジリオラさんが立っていた。その顔に浮かぶ柔和な笑みは何を意味するのだろう。
「ようこそ、我が国ラクスピリアへ。異世界よりの来訪者へ心からの歓迎を送ろう」
「……えっ?」
そこでようやく寝起きの頭が回り始めた。
おぼろげだったさっきの夢が鮮明になりつつあり、今の状況を次第に理解する。
あの夢で起こった一連の出来事。その延長線上に現状があるのなら結論は一つしかない。
最後の抵抗として太腿をこっそりつねってみたら痛かった。
これはもう夢じゃない。
「もしかして、ここ本当に異世界なんですか?」
「さよう。先刻も話したように、ナツミには我が国への貢献をしてもらいたい」
「……マジですか」
放心状態の中、今後起こるであろう展開を瞬時に思い描く。これは最近よく見る巻き込まれ系主人公と同じ状況だ。
きっと流されるまま勇者とかに仕立て上げられて、国家予算に対して雀の涙にもならない軍資金を持たされて、城下町の隅っこにある酒場兼ギルドで仲間を集めるように言われるんだ。
夢の中ではそれもアリだと受け入れられた。でもこれは現実なんだ。前提条件がまるで違う。
理屈はわからないけど、あたしは確かに異世界へ飛ばされてしまっている。楽観的なことなんか考えられるはずがない。
「ナツミのように若い人材は貴重じゃからのう。まずはこちらの世界に慣れることから始めてもらうとして」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
このまま言葉巧みに丸め込まれて反論する間もなく魔王討伐の旅に放り出されるなんてまっぴらゴメンだ。
せめてちゃんとした説明くらいはしてほしい。
それでもこういう場合、大体のお約束的展開は避けられないだろう。
一番の心配はそこだけど、とにかく今は言葉を繋がないと。黙ってたらいいように事を運ばれてしまう。
「いきなりそんなこと言われても、その、困ります」
「ふむ……話し合いではナツミも快諾しておったではないか。だからこそこうして招き、詳しい話をしようと思っておったのじゃが」
「いや、でもですよ? さっきのは夢の中だったわけだし、そこでの発言や行動はノーカウントってことになったりとか」
「どうやらまだ混乱しておるようじゃな。無理もない。異世界を訪れるなど初めての経験じゃろうて。しばらく考える時間を設けるべきじゃったか」
そんなことを呟いたジリオラさんは杖を持ち直し、懐から緑色に光る小さな宝石を取り出した。
なんだろう、あれ。
紐みたいなのが伸びているみたいだけど、こっちの世界のアクセサリーかな。
「これを持っておくと良い。そちらの世界で言うところの、通信機と翻訳機の役割を兼ね備えた首飾りじゃ」
え、なんですかその便利アイテム。
よくわからない疑念が解消されないまま、それがあたしの首にかけられた。
透き通った光沢は吸い込まれそうな魅力を帯びているけど、これ呪われたりしてないよね。
なんてことを考えるのはやっぱり失礼だろうか。
正直今は何も信用できない。すべてを疑って身を守らないと、あたしのちっぽけな心はすぐ粉々に砕けてしまうから。
「はあ、ありがとうございます」
それは何気なくペンダントを手に乗せた瞬間のことだった。
まず頭の中が冴え渡った。
次に清涼剤を大量に投与されたような爽快感が全身を走り抜け、気付いた時には視覚から得られる情報が少しだけ増えていた。
「……えっ? な、なにこれ」
と言っても不可視の存在が見えるようになったわけではない。
ただ、今まで意味不明の記号でしかなかった文字が理解できるようになっただけのことだ。
文字自体の発音はわからない。けれど、見るだけでその意味が瞬時に理解できる。
本の背表紙に記されたタイトルくらいしか今は見る物がないが、たとえ複雑な長文が出てきてもするする読み解いてしまう自信があった。
未知にして不思議な感覚だった。それだけでも十分過ぎるほどの驚きが体を満たしている。
けれどここは異世界。こんなもので終わるはずがなかった。
「驚いておるようじゃな。それが首飾りの効力じゃ」
ジリオラさんは今まで使っていた日本語ではなく、全く別の聞き覚えのない言語を喋った。
通常なら意味を理解できず字幕か吹き替えに頼りたくなるだろう。
あたしは普通じゃなかった。
ぶつけられた言葉の内容を難なく理解してしまったのだ。
耳に届いた瞬間にはもう、頭の中で難解な言語が意味の通る日本語に変換されている。
「これがあればナツミの言葉もワシらの言語に自動翻訳されるから、他の奴らとも会話できるぞ。どうじゃ、便利じゃろう?」
確かに便利だ。
むしろ革新的とも言えるだろう。言葉の違いという問題を簡単に取り払ってしまったのだから。
いや待て。取り払っちゃいけないよね。
だって着実にあたしがこの世界に移住する地盤が固められていることになるんだから。
結局流されてしまう現状に身の危険すら覚える。
焦りは冷静な判断を奪い去り感情的な部分を表に押し上げる。
気付けばあたしは叫んでいた。
「もう! なんでもいいから、あたしを元の世界に戻してよ!」
もちろん、それが無理な注文だということはわかっている。
異世界と現実世界を結ぶ門は既に閉じており、次に開くのは五千年後とかいう無茶苦茶なことになっているはずだ。
もうあの家には帰れないと思ったら叫ばずにはいられなかった。
ゴネてこの世界での好待遇を引き出そうなんて考えはこれっぽっちもなかった。
その時あたしは心の底から帰りたいと願い、同時にそれが叶わぬことであることも理解していた。
だからこそ、次にジリオラさんが告げた確定的な一言はあたしにとんでもない衝撃を与えた。
「そうか。申し訳ないことをした。では今から元の世界へナツミを送り返そう」
「そんな、無理とか言わな……えっ?」
今なんて言ったの?
空耳でなければ、あたしは元の世界に戻れるみたいなんだけど。
それってアリ?
予想外の返事に頭が真っ白になる。
いや帰れるならもちろん嬉しいんだけど、それでいいのかこの世界は。
「先刻は注意し損ねてしもうたが、世界間の移動時には意識を切り替える必要があってな。そのためナツミには再び眠ってもらうことになるが、安心せい。ワシの魔法であっという間に済ませるからのう」
「えっと……あたし、帰れるんですか?」
「当然じゃ。どうした、自分から帰りたいと言ったのに奇妙な顔をしておるが」
「いやまあ、それはその」
だって素直に受け入れていいのかわからないんだもの。
半分諦めかけていたのにあっさり解決策が出てくると戸惑ってしまう。
面倒な性格だな、と自分でも思うけど変えられないのもまた性分だ。
「それとも気が変わったかのう?」
「い、いえ! 帰りたいです!」
「では準備を始めよう。なあに、すぐ終わるから案ずることはない。そこに腰掛けて楽にしとるがええ」
言葉通りにベッドの端っこに座る。ふっくらとした弾力が心地良い。こんなベッドで寝たら目覚めもバッチリなんだろうな。
なんて余計なことを考えることもできるようになった。もしかすると本当に帰れるのかもしれない。
ジリオラさんは杖の先に手をかざして何やら呟いているけど、そんな簡単に済む話なんだろうか。半信半疑なのも無理ないよね。
そもそも本当にここが異世界だなんて保証はない。
この部屋が大掛かりな舞台セットで、盛大なドッキリが進行中という可能性だってある。一気に現実感が薄れる想像だけど。
何やら難しい呪文の詠唱が聞こえてきた。
紡がれる古代の言葉は英知を司る神へ捧げる祝詞のようなものだ。
これにより自身の中に秘められた魔力を増幅させ、より難解な魔術を使役できるようになる。
「……ん?」
ちょっと待って。
なんであたしはそんなことが理解できているの?
あ、これもペンダントの力か。
さすが便利アイテム。ジリオラさんが今まさに発動させようとしている呪文の詳細まで手に取るようにわかっちゃうんだもの。
えっと、なになに……?
ふむ、相手を強制的に眠らせる呪文みたいだね。かなり高位で扱いが難しいけど、眠らせた対象が目覚める時間まで操作できるらしい。
相当な修行を積まないと詠唱すら許されない禁術手前の魔法なんだってさ。
ホント、すごいなあ。
「って、いやいやいや! それってかなり危険な魔法じゃな」
そこであたしの意識と記憶はプツリと途切れた。