第44話 出立の前夜
何か目標があると時間が過ぎるのは早くなる、とはよく言ったものだ。まさに今、あたしはそれを実感していた。
それもそのはず、出発はもう明日へと迫っていたのだから。遠足前夜みたいな期待感が溢れて止まらない。こればっかりは仕方ないよね。
この世界に来てからラクスピリア以外の風景を見たことないから、新しい場所を見られるんだと思うとどうしてもワクワクしちゃう。
例えるなら地下の迷宮を抜けた先に広がる新天地。そして辿り着いた城下町で売っている新しい武器防具、その値段に愕然とするところも含めてあたしは好きだ。
……まあ、ここはゲーム世界じゃないからそういうのはないんだろうけど。
持っていく物の準備は意外と簡単に済んだ。初めてのことだし、何を用意したらいいのかテオドラさんに訊ねてみたんだけど、旅路の行程や宿泊施設などはあらかじめ決まっているから、特別何が必要ってことはないらしい。
それに、あたし元々そんなに物を多く抱えてるわけでもないんだよね。むしろテオドラさんの方が準備に手間がかかっているだろう。仕事に必要な道具とか書類とか、間違いなくあたしよりも荷物が多くなるはずだ。
少しくらいあたしに持たせてくれるといいんだけどな。きっとテオドラさんのことだから大丈夫って言うんだろうけど、別に頼ってくれたってバチは当たらないわけだし。むしろ嬉しいし。共同作業って感じするし。
なんてことを考えてしまうほどにやることがなくなってしまったので、あたしは自室を出てリビングへ向かった。まだ寝るには早い時間だし、それ以前に高揚感で目が冴えてしまって寝付けそうもない。
その途中、階段の前で視線を上に向ける。今頃テオドラさんは部屋で明日の準備をしているのかな。
あたしも手伝えたらいいんだけど、今もテオドラさんは自室にあたしを入れたがっていないようなのだ。誰にだって侵入されたくない領域ってのはあるものだけど、それがちょっとだけ悲しく思えてしまう。
「テオドラさん……どうしてるのかな」
短く息を吐いて気持ちを切り替える。こんな時は冷たいものでも飲んで頭をリフレッシュしよう。確か、夕食前に作った冷茶がまだ残ってたはずだ。明日からしばらく家を空けるわけだし、残さずに片付けられるものはそうするべきだ。
見ると、予想以上に量が残っていた。容器ごと出してコップに注ぐ。少しずつ飲みながら、なんとなしに棚を開けてみる。どこに何があるかなんてわかりきっているのに、ただじっとしていられないから適当な行動を取り続ける。
そう、意味なんてない。この家のことなら隅々まで把握しているつもりだから。目隠し状態でウロウロしても、歩幅と直感で目的地に辿り着ける自信もある。
どうせ暇だし、ちょっとやってみようか。目を閉じて、向かう先は廊下への扉。現在位置はキッチンの前だから、このまま少しだけ歩いて壁にぶつかったら後はそれに沿って進めばオッケーだ。別に手を使っちゃいけないなんてルール決めてないもんね。
「ふふっ、余裕余裕」
さてと、難なく最初の角へ到達。あとはもう簡単だ。方向さえ決めればもう壁に触れている必要もない。椅子や机といった障害物はリビングの向こう側だし、こっちには注意すべきトラップもない。
簡単過ぎて拍子抜けだね。ほら、この辺で手を伸ばせば扉にタッチできるはず……って、あれっ、もうちょっと先だったかな。空を切った手の行き先を惑わせて、結局前方に伸ばして目的地を探る。
まるでキョンシーみたいな格好になっていることだろうけど、そこはまさに文字通り目を瞑ってもらうってことで。
そうやって余計なことを考えていたせいか、突発的事態に迅速な反応ができなかった。扉の開く音が聞こえても、あたしの足は止まってくれなかったのだ。
「うわっ。夏海、どうしたんだいきなり」
かくして、あたしはリビングに入ってきたテオドラさんの体へ飛び込んでしまったのだった。
テオドラさんが上手に受け止めてくれたから激突はしなかったけど、自分の間抜けな行動を見られたことに対する恥ずかしさはどうにも消せないから別の意味で痛い。
なんとか誤魔化せないものか。このまま何も言わずに抱きついたままうやむやにするって手もなくはないけど、そんなことをしたら先にあたしの精神がゴリゴリ削られてどうにかなってしまいそうだ。
「えっと、その……そうだ! もう明日の準備は終わったんですか?」
「ああ、時間はかかってしまったがな。あとは明日に備えて体を休めるだけさ」
「それなら、お茶でもどうですか? ちょうどあたしも飲んでたところだったんです」
「いただくよ」
リビングの隅にあるソファーへテオドラさんを誘導する。簡素で小さなデスクと並んで備え付けられたそれは、普段ほとんど使われていない。食事はキッチン近くのテーブルで済ませちゃうからね。
そんな観賞用のインテリアと化しつつあった部分を有効活用させてもらったわけだ。明日の準備で疲れているだろうし、ゆったりとくつろいでもらいたいもん。
よし、ここまではとても自然な流れだ。あのままテオドラさんに抱かれて空回りという結末は見事に回避できたぞ。
……少しだけ名残惜しいかも。
そんな雑念とほのかな温もりが消えないまま、あたしもテオドラさんの隣に座って一息ついた。やっぱりこの位置は落ち着ける。テオドラさんが傍にいてくれることって、こんなに安心できることなんだなあ。
それに、間に何も遮るものがないって素晴らしい。触れられるほどの距離にいることがまじまじと感じられて、なんだか胸の奥がポカポカする。
「夏海、明日から出張だが……緊張などはしていないか?」
「緊張よりも、なんだか期待の方が大きいです」
「そうか、ならいいのだが……」
なんだろう。テオドラさんの言葉、どこか歯切れが悪い。何かあったのかな。少し飲んだだけでお茶にも目をくれないし、とても気になる。
「テオドラさん……?」
「少し……話をしてもいいだろうか。出張に行く前に、聞いてもらいたいことがあるんだ」
改まった雰囲気に姿勢を正す。口調も重いし、何かあるのだろう。よろしくないことを告げられるのかもしれない、なんて考えたら胸の奥がズーンと鈍く苦しくなる。
緊張しつつ頷いたあたしを一瞥し、テオドラさんは遠くへ視線を投げた。
「私たちが向かうのは、フリアジークという国でな。森と山に囲まれた自然の地形を利用して栄えてきた背景を持ちながら、経済も発展しつつある先進国だ。そして――」
テオドラさんが、ゆっくりとこちらへ向き直る。その瞳に宿った、今まで見たことのない輝きにあたしは目が離せずにいた。
とても静かだった。外からの物音すら聞こえない、純粋な静寂があたしたちを包む。
聞き逃してはならない、と意識してそばだてた耳に、その言葉は確かに届いた。
「――私が、幼少期を過ごした国なんだ」
特別どこか変という内容ではなかった。ラクスピリアで生まれ育ったわけじゃないのは前に聞いた通りだな、とは思ったけどそれだけだ。
だけど、テオドラさんが沈んだような表情をしているのには何か意味があるのだろう。その正体をあたしは知りたい。
「それじゃあ、里帰りってことになるんですか?」
「いや、そうはならない。私の故郷は、もう存在しないのだから」
「……どういうことですか?」
重くなりつつある空気を感じ、思わず生唾を飲み込む。嚥下する音がテオドラさんに届いていませんように。
そんな祈りが不要なほど、テオドラさんは思い詰めた顔をして何かを絶え間なく思案しているようだった。逡巡しているのがあたしの目でもはっきりとわかる。
やがて、決意したようにテオドラさんの口が開いた。
「私は……フリアジークの孤児院で育ったんだ。生まれた場所や親の顔もわからない。物心が付くころにはもうそこにいた。だから、それが故郷というわけだ」
テオドラさんの言葉はゆっくりと、しかし確実にあたしの中へ染み渡っていった。
突きつけられたテオドラさんの出生。そんな過去があったなんて知らなかった。テオドラさんを見つめていた視線が、知らず下がる。突然の衝撃に頭を押さえつけられてしまった気分だ。
けれど、同時に湧き上がる前向きな心もあった。テオドラさんの新たな情報を知れた喜び。もっと知りたいという欲求。
「その……今はもうない、というのは」
だから、あたしは再び顔を上げた。テオドラさんの揺れる瞳を見据え、その不安定さを支えるような気持ちで。
「襲撃されたんだ。得体の知れない奴らに……そのせいで、犠牲になった子もいて……そこで、私は」
前置きを全部すっ飛ばして、あたしはテオドラさんの手を握った。テオドラさん自身も気付いていないであろう震えを止めてあげたくて、つい実力行使に出てしまったわけだ。
しなやかな手の甲に指を滑らせると、ピタリとテオドラさんが動きを止めた。あっけに取られたようなその顔と向き合うあたしの頬は、なぜだか知らないけど緩んでいる。
「テオドラさん、無理に話さなくてもいいんですよ」
「いや……そうはいかない。夏海には知っておいてもらいたいんだ。私のことを、私がどうして今ここにいるのかを」
「でも、つらそうじゃないですか」
「情けないな、私は……」
「そんなことありません! あたしだってテオドラさんのこと、もっと知りたいです!」
言いながら、テオドラさんと手を重ね合わせる。繋がれた手がもたらす温もりは相変わらず安心を授けてくれる。
ついでに体ごと近寄った。これで一言一句聞き漏らさずに受け止められるだろう。接近によって得られるあれこれは副産物としてありがたくいただいておくとして。
「ありがとう、夏海」
「別に感謝されるようなことはしてませんよ」
「ただ言いたくなっただけさ。それも駄目かい?」
「……別にいいです。それより、お話の続き聞かせてください」
「そうだな。孤児院が襲われた日、私は――」
過去の出来事を語るテオドラさんは、もう震えてはいなかった。
――――
長い独白が終わると、リビングは再び静寂に支配された。それまでテオドラさんの言葉に耳を傾けていたせいか、やけに静けさが強く感じられる。
あれから、あたしはテオドラさんの生い立ちを知った。現在に至るまで何があったのか、どのような道を歩んできたのか。その軌跡が頭の中で一筋の線となって紡がれる。
孤児院がなくなってしまったことで正真正銘の天涯孤独になりかけたこと。その時に助けてくれた女性、それがセレナさんだったこと。連れられて訪れたラクスピリアで新生活を始めたこと。
そして、順風満帆に生活が続くと思っていたある日の事件。戻らないセレナさんを追うために奔走したテオドラさんの日々。諸国を巡り、そして行き着いた今の仕事。
現在に至るその顛末を、あたしはすべて聞いた。告げてくれた事実と内容を、胸の奥で大事に温めておきたいと願う。
「こうしてセレナと同じ職に就けば、いつかどこかで会えるかもしれない。手がかりだって得られるはずだ――そんなことばかり考えてきた人生だったよ」
話す前は葛藤に満ちていた表情も、今では清々しさすら感じるほどに変わっていた。ずっと言えずに溜め込んできたんだろうな。
あたしが受け止めたことで、その重荷を少しでも軽くできたのなら嬉しい。もっとテオドラさんと色々なものを共有したい。
「今回の出張も当然仕事ではあるが、何か些細な情報でも構わないから得られないかと考えている。時が経つことで変わるものもあるだろうからな」
「テオドラさん……」
あたしの呼びかけに続く言葉は出てこなかった。その理由は手が届くほどの間近にある。
テオドラさんが、再び険しい顔を作り始めたのだ。まだ何か秘められたことを絞り出そうとしているのだろうか。
安心してください。あたしはどんなことでも受け止めてみせますから。あまりにも予想外なことはちょっと動揺しちゃうかもだけど、それでも逃げるなんてことは絶対しません。
そんな思いが伝わりますように、なんて念じながら繋いだ手を握り直す。組み合わされたこの指を離したりなんかしないんだから。
「夏海、今までの話を聞いても……それでも、私と共に来てくれるか?」
失礼かもしれないけど、何をそんな当たり前のことを、と思ってしまった。あたしがテオドラさんから離れるなんてこと、あるはずがないのに。
でも、テオドラさんの曇りつつある表情を見て思い直す。きっとあたしには想像もつかないような思案を重ねて、こう言ったに違いない。きっと勇気も振り絞ったことだろう。
それならあたしにできるのは、その決断を真正面から受け止めることだ。そして、嘘や偽りのない気持ちを返答として告げないと。
「当然じゃないですか。何があっても、あたしはテオドラさんと一緒にいたいと思ってますから」
「……そう、なのか?」
珍しくテオドラさんが弱気だ。そんなに不安そうな顔しなくたって、あたしがテオドラさんを否定するわけないのに。どうしたらこの気持ちが伝わるんだろう。
悩んだのは一瞬。行動に移ったのは即時。あたしはテオドラさんの体に腕を回していた。
「昔のこと話してくれて、ありがとうございます。あたし、とても嬉しいです」
「……夏海」
「もっともっとテオドラさんのこと知りたいって思ってます。だから、あたしからもお願いします。一緒に連れて行ってくれますか?」
「ああ、もちろんだ。私について来てくれ……!」
絞り出される力強い声と共に、あたしの頭にふんわりと優しい手が置かれた。気持ちが伝わったことがわかり、頬のブレーキが壊れたように緩みきってしまう。
でも気にしない。体をくっつけていることでお互いの表情は見えないから、何も我慢する必要がない。
そう。欲望を抑え込む必要だってない。だから、もうしばらくこうしてくっついていよう。予告なしにこんなことしちゃったけど、テオドラさんも受け止めてくれてるしいいよね。
と言うより、あたしが離れたくない。この幸せに満ち溢れた顔を見せる勇気は、今のあたしには到底扱いきれない代物だから。
――――
「うーむ……」
確かに「もっとくっついていたい」とは思っていた。テオドラさんの温もりは最高の安らぎを与えてくれるから。
でも、しばらく時間が過ぎていくと頭の中で冷静な部分が占める割合が増えていく。そして浮かぶ一つの考え。
あたしは一体いつまでこうしているつもりなのだろうか。
別にテオドラさんとのハグが嫌ってわけじゃない。むしろあたしからお願いしたいくらいに心地良いんだけど、それとこれとは別のお話。
現実的な問題として、明日が出張の旅立ちということがある。早めに休んで体力を温存するべきなのではないか。
経験豊富で勝手を知っているであろうテオドラさんはまだしも、初心者未満のあたしはいくら対策をしてもし過ぎるということはないだろう。
このまま寝ちゃえば……とも少しだけ考えた。けれど、それならちゃんと二人で一つの布団に入って眠りたい、と余計な思考の中へ入りかけたところでやめた。
それよりも、まず直視すべきことが目の前にある。テオドラさんが一向にあたしを離そうとしないのだ。
あたしの動きを制限するその手は今も後頭部に置かれ、時折そっと撫でてくれる。ちょっとこそばゆい。
今までは、なんとなくだけど少し離れて顔を見合わせてエヘヘとはにかむ、みたいな流れができていた。なのに今はその気配すらない。どうしちゃったのテオドラさん。あたし個人としては歓迎なんだけど少し戸惑う。
その上、なんだかテオドラさんの方からあたしに体を預けてきてるっぽい状況になっている。肩に感じる他より強めの密着はそういうことを意味しているのだろう。
「テオドラさん、もしかしてお疲れですか?」
出張の支度に加えて、過去の経験を打ち明けるという一大イベントを済ませたんだ。いくら芯がしっかりしているテオドラさんでも、体や心がクタクタになっているだろう。
「そうかもしれないな……だが、こうしていると体の奥底から癒されていく感じがするよ」
「ふふっ、お役に立てて嬉しいです」
素直な言葉が新鮮で、喜びのあまり笑みがこぼれてしまった。テオドラさんが歩み寄ってくれたことがこんなに嬉しいなんて。今日はなんだか予想外のことばかりだ。
とりあえず、テオドラさんがこうしていたいと言うならそれに従おう。それって、あたしからもテオドラさんに歩み寄っていることになるよね。
眼前に迫るテオドラさんのサラサラなショートヘア。さっきからとてもいい香りに包まれて、なんだか酔ったような気分になっている。
だからなのかな。あたしもいつもは考えないようなことばかり頭に浮かぶ。もっとテオドラさんに頼ってほしい。甘えてほしい。求めてほしい。
そんな、とても単純で難しい欲望たちが溢れ出す。
出張の中で、そんな今まで見たことのないテオドラさんを知れたらいいな。だらしない生活の様子を見せてくれた、あの初対面の時みたいに。
テオドラさんに悟られないよう、ゆっくりと長く深呼吸をする。胸いっぱいに魅惑の芳香が染み渡る。
なんだか今日はぐっすり眠れそうだ。遠足前夜になかなか寝付けないタイプのあたしが思うんだから間違いない。テオドラさんの存在をこの胸に秘めたあたしにとって雑念なんか敵じゃない。
……まあ、それを実証するにはテオドラさんが満足してくれるのを待つ必要があるけどね。
テオドラさんもちゃんとわかっているだろうから、頃合がいいところで寝ようと持ちかけてくれるだろう。
だから、今はもう少しだけこのままで……。




