第40話 事態の発覚
何かが違っていた。
いつもの夜、テオドラさんとの夕食。いつもと変わらない、それでいて大切な時間のはずだった。
料理を失敗したわけじゃない。座る場所はあの日から変わらず隣のまま。食事を始めた時間だって普段と大した違いはない。もちろんあたしが大胆なイメチェンをしたわけでもないし、それはテオドラさんも同じだ。
じゃあ、何が違うのか。
そう問われれば、なんとなくなら答えられる。というか、一目瞭然だった。
「……はぁ」
とても小さく、ひっそりとこぼれた溜息。発生源はあたしじゃない。テオドラさんだ。
普段はクールで無表情気味だけど、凛とした雰囲気を携えているテオドラさん。
それがなんだか今日は少し気落ちしているような、何か問題を抱えているような……そんな難しい顔をしていた。
うまく言い表せない違和感の正体はそれだった。珍しい光景ではあるものの、何が原因かなんてあたしにはわからない。
「んー……」
もぐもぐと口を動かしながら考えてみる。テオドラさんだって人間なんだから悩みくらいあるだろう。いつもはそれを表に出さないってだけで。
それが今はあたしにもわかるくらい浮き出ている。きっと相当に大きな何かがあるんじゃないか、と思う。それがなんだと問われたら、残念ながらまったくわかりませんとしか答えられないんだけど。
それなら質問してみるか、という選択肢は真っ先に浮かんだけど効果はなかった。とっくに実践済みで、返ってきたのはうやむやな言葉だけだった。
うむむ、長いこと暮らしていると何かしらの問題が湧き出てくるって聞くけど、まさかこれがそうなんだろうか。割と早いお出ましのような気がする。
でも、そういう山場を乗り越えてこそ二人の仲は深まっていくって言うよね。結果ばかり強調されて、一番重要な過程については放任されてるのがほとんどだけど。
あたしに何ができるのだろう。テオドラさんが落ち込んでいたら、なんとかしてあげたい。それって自然なことだと思うし何よりあたしがじっとしてられない。
「んむぅー……」
何か閃かないかなあ。
テオドラさん、テオドラさんのために、何か……。
「……ど、どうした夏海。あまり見られるのは、その」
あ、テオドラさん赤くなった。こういうところはいつも通りなんだけどなあ。言葉も内面も含めて、隠し事ができない素直な性格っていいよね。
……隠し事、か。
じゃあ、今のテオドラさんは何かを隠してるってことになるんだよね。だから不自然に困惑しちゃってるのかもしれない。
あたしじゃ相談相手にならないかなあ。もしそう思われてたらちょっと寂しいかも。
いやいや。人に話せないような悩みだって誰にもあるものじゃないか。だから、あたしはこうして見守るしかないわけで……。
「んむうぅー……」
唸りながら考え、その間視線はテオドラさんに釘付け。一点の曇りもない眼力にあたふたするテオドラさんの様子を楽しむ余裕を、今のあたしは持ち合わせていない。
やっぱり……待つしかない、か。
結局そんな結論に落ち着いた。
話してくれた時に落ち着いて受け止められるよう、今から心の準備くらいはしておこう。それが今あたしができる最良の方法ってやつじゃないかな。
うん。あたしはいつも通りの姿でいよう。だって、テオドラさんのこと信じてるから。
というわけで。
余裕も生まれてきたから、さっき見逃していたものを取り返さなくちゃ。
「……ふむ」
「な、夏海……」
ぷしゅう、と湯気が出そうなほど赤くなっているテオドラさんの様子を眺める。可愛らしくて、ずっとこのままでいたくなっちゃう。
あ、耳まで真っ赤。柔らかそうだけど、触ったらどんな反応を見せてくれるのかな。くすぐったがるのか、それとも身を縮こまらせて震えを我慢するのか――。
っと。ダメダメ。暴走したら普通じゃなくなっちゃうじゃないか。落ち着けあたし。いつも通りにしてないと。
頭の中ではクールダウンのために謎の数式を思い浮かべているので、この状況が儲け物だなんて八割くらいしか思ってない。
翌日の夜も、テオドラさんは相変わらずどこか妙な雰囲気を背負ったままだった。
でも、昨日と一つだけ違うことがある。それはテオドラさんの表情だ。苦悩というよりは、吹っ切れたというか、決意を固めたというか。
考えの整理がついたのかな。それならひとまず安心だね。あたしの出る幕はなかったみたい。
「ふふっ」
「夏海、どうした?」
「いえ、なんでも」
つい笑いが漏れちゃった。嬉しかったのかな。テオドラさんが元に戻りつつあることが。
さてと、これでまた和やかな日々を送れるね。よかったよかった。気掛かりがなくなったせいかご飯が進む。今日はぐっすり眠れそう!
「夏海、話があるんだが……いいか?」
なんてことを考えていたらこれですよ。なんですかその改まった態度は。
そうだよね、そんな簡単に済むわけがないよね。あたしが甘かったですごめんなさい。
「はい……なんでしょうか」
食事の後片付けを済ませ、テオドラさんの隣へ座る。興味半分、恐怖半分で言葉を待つ。うう、喉の渇きが気になってきた。
「実は、な……」
自然と姿勢が正しくなる。増えていく瞬きの合間に、テオドラさんが逡巡する様子が映る。頭を掻いたり、目を瞑ってみたり、顎に手を当てたり、唇を結んで固まったり……。
そんなに焦らされたら、それだけ邪推が捗っちゃうんですけども。だって、言葉が詰まるってことは話そうとしている内容が重苦しいって伝えてるようなものじゃないか。
いっそ一思いにバッサリ斬って!
というあたしの念が届いたかはともかく、テオドラさんはようやく決意した顔で向き直り、核心を口にした。
「その……出張、に、行くことが決まっ、た」
視界が揺れた。
比喩でもなんでもなく、あたしの見ている世界がブレて霞んだ。
これでもかってくらい目を見開くあたしの前では、言葉を搾り出したテオドラさんが苦々しい顔をしている。それ以上何も言ってくれないし、そもそもそんな表情をすること自体が普通じゃないし、尋常じゃないくらい動揺しているに違いない。
「えっと、どこまで行くんですか?」
そして、それはあたしも同じことだった。少なくとも、そんな見当外れの質問をしてしまうくらいには。この世界の地理に詳しくないあたしが知ってもしょうがないじゃないか。
「あ、ああ……フリアジークという国でな、ここからは結構な距離がある。予定では二ヶ月以内には戻ってくることになっているが……」
「そう、なんですか……」
やっぱり知ってもどうしようもなかった。それどころか、二ヶ月という長い時間を突きつけられて衝撃が広がっていく。
それは冷静さを失わせるには十分過ぎるほどで、様々な疑問が湧き出て外へこぼれる。
「あの、テオドラさん」
その中で最も大きな事柄が言葉となって形を成す。
「その出張は……お一人で行くんですか?」
「……」
声は確かに届いた。けれどテオドラさんからの返事はない。
それ自体が答えみたいなものだった。瞬きが多くなるテオドラさんの表情から、何を言おうとしているのかが痛いほどよくわかる。
あたしが二ヶ月間、どうなるのかという運命が突きつけられる。自分の頭がひどく重たく感じられて視線がじりじり下がっていく。
「そう、なるだろう。出張は国から下される勅令、重要な仕事だ」
「……それじゃあ、やっぱり」
あたしはその間、一人になるんですか――その言葉は形になる寸前で霧散した。
俯いた顔を上げた瞬間、テオドラさんの表情を真正面から見てしまったからだ。眉根を寄せ、口を真一文字に結んで俯いている。両の瞼は堅く閉じられ、溢れ出そうな感情を必死に抑えているようだ。
きっとテオドラさんも辛いんだ。そう思っていることはつまり、あたしと同じようなことを考えているってことだ。
都合のいい解釈でしかないけど、それが唯一の希望の光だった。
でも、それなら。
あたしが言えずに飲み込んだワガママな言葉もテオドラさんの中にあるかもしれない。
一緒にいたい、という単純なのに伝えられない欲求が。
「あの」
「でも!」
言葉が交わった。思いのほか大きいテオドラさんの声に背中がビクっとなる。
「あ、すみません。なんでしょうか?」
「いや、夏海から……」
「いやいや、テオドラさんこそ」
「私は後でいいから夏海から」
こうなるとテオドラさんは譲らない。あたしから言うしかない、か。
「出張の間なんですけど、あたしはどうなるんですか?」
「ああ、そのことで私も言おうとしていたことがあるんだが……」
テオドラさんの声を聞くたびに動揺が底なしに湧き上がってくる。そして考えはぐるぐる巡る。
置いてかれるのかな、でもそんなの嫌だ。じゃあついてく? それっていいのかな。
でも……やっぱり一人は嫌だ。
理由や理性なんかよりも真っ先にそう思った。テオドラさんと離れてしまったら、何かが壊れそうな気がする。
不意にテオドラさんが立ち上がり、窓の方へと歩いていく。ガラス越しに映るその表情は、外の暗闇に吸い込まれてよく見えない。
テオドラさんは外をぼんやり見つめたまま、次の言葉を続けようとしない。それはつまり、言いにくいことだって意味だ。あたしが考える最悪のストーリーがありありと目に浮かぶ。
置いていかれ、この家に残されるあたしが見える。思えばここに来てからの新生活はどこもかしこもテオドラさんありきだった。一人になったあたしは、きっと掃除も洗濯も料理もしなくなる。
だって、元々あたしはそういう人間だったから。テオドラさんがあたしを変えてくれたんだ。
一緒に行くのは無理な話だろう。でも、そう考えると尚更あたしの欲は深くなっていく。離れたくない、という気持ちが溢れる。
あたしも席を立ち、背を向けるテオドラさんに近付いた。気配を察して、テオドラさんが顔を半分だけこちらへ向ける。
「夏海、私は……」
「あたしも一緒につれてってください!」
「……え?」
テオドラさんを遮って、あたしは正直な気持ちを叫んだ。逃げたくなる気持ちを抑えて拳をぎゅっと握ったら、想像以上に大きな声が出て自分でもビックリしたけどもう止められない。
何が起こったのかわからないような顔をして振り向いたテオドラさんに、あたしは構わず欲望をぶつける。
「ワガママ言ってるってわかってます。足手まといにしかならないと思います。でも、それでも! あたしは……」
テオドラさんと一緒がいい。
その言葉を発せられないほどにあたしの喉は狭くなり、瞳が潤んでいく。重い頭を俯かせ、何も見たくないと目を閉じた。
こんなことを言うなんてリトリエ失格かもしれない、と今更ながら思う。そうしたら当然テオドラさんと一緒になんかいられない。
どちらに転んでも似たような結末。なんだよそれ。責任者に文句の一つでも言いたくなるレベルじゃないか。
なんであんなこと言っちゃったんだろう。テオドラさんに幻滅されたら元も子もないっていうのに。
あたしって、ダメだなあ……。
「夏海、私もだよ」
「……えっ?」
私も? 何が?
疑問を口にする代わりにゆっくり目を開き、顔を上げてテオドラさんへ視線を送る。
そこにあったのは、普段以上に凛々しさを増し、覚悟と決意に満ちた表情だった。迷いのない瞳はあたしを貫き、告げる言葉が通る道を作り出す。
「私も同じことを言おうとしていたんだ」
頭の中が真っ白になった。
渦巻いて頑固に居座っていた自己嫌悪が、テオドラさんの一言で嘘みたいに消え去ったのだ。それはもう、汚れ落としのコマーシャルにそのまま使えそうなくらいにくっきりと。
空白の思考に、テオドラさんの言葉はいとも簡単に染み込んでいく。
今のあたしにとって、これ以上ないほどに嬉しい言葉たちが降り注ぐ。
「夏海。私と一緒に来てほしい。国にこの身を捧げたグナルタスとして、この言葉はふさわしくないだろう。それでも私は夏海と離れたくない。足手まといなものか。夏海がいるだけで、私は……」
「テオドラさん……」
互いに言葉が詰まる。考えだけじゃなく、その理由まで一緒だったらどれだけ嬉しいか。
だけど、今のままでも十分過ぎるほど幸せだった。歓喜に体が震えるってよく聞くけど、今のあたしがまさにその状態だった。
「だから夏海。どうか私と」
「はいっ!」
皆まで聞かず、衝動のままテオドラさんの胸に飛び込んだ。体温の心地良さに顔を数秒預け、ゆっくりと見上げる。
あっけに取られたその表情が次第に赤く染まっていく。さっきまで纏っていた美麗な雰囲気はどこへやら。早くも視線が泳ぎ始めている。
その見事な変化は、あたしだけが見られる特別な場面。嬉しくて幸せで頬が緩み、なぜだか涙が出てしまう。
だから、顔を下げて再びテオドラさんに身を落ち着ける。本当はもっと眺めていたかったんだけどね。
「夏海、一緒に来てくれるかい?」
「そんなの……当たり前じゃ、ないですか」
テオドラさんはずるい。
こんな状態で答えを求められたら、涙声が出るに決まってるじゃないか。問いかけを無視することなんてできないし、喋ったことでまた涙が溢れてくるしいいことない。
「そうか、よかった……ありがとう」
テオドラさんは本当にずるい。
そんなこと言いながら抱き返されたら、耐えられなくなるに決まってるじゃないか。突っぱねることなんてできないし、安心したことで力が抜けて逃げ場がない。
だから、そのまま抵抗せず流れに身を任せた。前よりも優しく、抱き方を覚えたようなテオドラさんの腕は心地良い。
背中に回した手をそっとずらし、あたしからも抱き返してみた。ずるいことばかりするテオドラさんにお返しだ。
少しだけ強くなった抱擁の中、あたしはゆっくりと目を閉じた。
「さて、どうするべきか……」
抱擁の後に来る照れ全開のはにかみを交わしながら、元いた場所へと戻って並んで腰掛けてクールダウン。
同じ想いを持ってることを確かめ合ってはい終了、めでたしめでたし。
なんて簡単に済むようなことは異世界でもありえないのはさっきと同じ。テオドラさんが深く溜息をつくように、避けて通れない問題が残っているのだ。
「夏海の同行を認めてもらうには……うむむ」
そう。あたしが出張に行く、ということについてだ。テオドラさんが言うには、部外者が同行したことは記憶にある限りではないらしい。
つまり、前例がないというわけだ。それが何を意味するか、あたしの基準で考えても間違いではないらしい。困難を極めるだろうことはどう考えても明らかだった。
「こっそりついていく、ってことはできないんですか?」
「国の外へ出る門には常に門番が控えている。警備に執念を燃やし、蟻の子一匹たりとも見逃すようなことのない連中だ」
「ですよね……」
「それに、仮にそこを突破したとしてもだ。夏海がいないことはすぐに発覚するだろう」
「あー……バルトロメアあたりに感付かれそうですね」
「つまり、秘密裏にというわけにはいかないことになる。正式な手続きを踏んだ上で、となるわけだが……」
やっぱり結論はそこへ落ち着いてしまう。前例という壁をいかに壊すか、そのうまい解決策を考えなければならない。
これが単なる観光なら難しい話にはならなかった。けれどこれは仕事なのはもちろん、他国にもかかわってくる話だ。下手したら国際問題レベルに発展するかもという想像は決して行き過ぎてはないと思う。
それに、あたしは外の世界を知らない。ラクスピリア国内は平和そのものだけど、門から一歩外へ出たら何が待ち構えていることやら。少なからず危険だってあるに違いない。
そういったことに対して、あたしの覚悟はできている。数々の困難があるとわかっていても、あたしはテオドラさんと一緒にいることを選んだんだから。
そのために、ただ指をくわえて待っているなんてできるはずがない。あたしだって、やる時はやるって決めたんだ。
じゃあその時っていつだと問われたら?
自信を持って、今だと答えよう。
「夏海を連れて行くことが認められるかどうか……正直、私からはなんとも」
「やってみせます」
小さく、しかし力強くあたしは告げた。
何もできないあたしだけど、このラクスピリアにいるからこそ使えるワイルドカード。それを振りかざす時が来たんだ。
「ジリオラさんに直談判してきます」
「夏海、無茶なことは……」
「あたしに任せてください」
顔を上げてテオドラさんの目を真っ直ぐ見据える。その瞳が数秒揺れて、ゆっくりとあたしの視線を受け止めてくれる。
体の内と外から溢れる熱の中、あたしは精一杯のハッタリを宣言した。
「だって、あたしはこの世界に召喚された選ばれし人間なんですから。多少の無理くらい通してみせますよ!」
光浪夏海。異世界生活数ヶ月目。
あたしは今、一世一代の大博打を宣言した。




