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光浪夏海の異世界百合物語  作者: 虹月映
第四部  平穏への日々
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閑話  彼女の行方

 彼女はゆっくりと瞼を開いた。

 全身が酷く重い。寝起きという事実を差し引いても、それは通常の範疇を超えていた。

 

 何日ぶりかもわからぬ覚醒で、意識には今も霧がかかっている。何度か瞬きをしてそれを振り払うと、自分が今どこにいるのかが目に映る。

 まず天井の木目が見えた。規則的に波打つ模様は人の顔を錯視させると言われるが、今の彼女にはそれを認知するだけの余裕さえなかった。もし室内を見渡すことができれば、壁や床も板張りであることがわかるから、この家は木造であろうことが推理できただろう。


 寝かされていたベッドから体を起こす。途端、彼女を激しい頭痛が襲った。後頭部、耳の裏側を貫かれたような鋭い痛みが脈打つ。彼女は頭を押さえ、苦渋の表情を作った。

 連鎖反応とでも言うべきか。頭から順番に全身の神経を痛覚が走り抜けていく。肩、腕、腰、膝、脛――よく見れば、体の至る所に傷の治療をされた形跡がある。

 

 頭を抱え、彼女は震えた。

 痛みに対してではない。謎の負傷へ湧き上がった不気味さがそうさせたのだ。生半可なことではこんな怪我をするはずがない。

 ならば、自分は一体何をしていたのか――己の存在さえも、彼女は恐怖の対象として捉えつつあった。

 

 

 

 


 深呼吸を繰り返し、痛みが引いてから室内を見渡す。窓と机と椅子と扉――簡素な内装をいくら眺めても、なぜ自分がここにいるのかという問いかけへの答えは見つからない。

 そう。彼女の中にもそれは存在しない。彼女は記憶を失っているのだった。


「……私は」


 声は出た。だが、自分の喉から出たそれは耳に覚えがなく、じわじわと嫌悪感がこみ上げてくる。

 この体さえも、自分のものである実感がまるでない。長時間の睡眠で乱れた長い金髪も、触れただけでわかる鍛錬の証拠も、それでいて女性らしさを失っていない肌も、すべてが異質な存在に思えてしまう。

 

 おぼろげだった輪郭が浮かび始め、徐々に自身の異常を確かなものとして察していく。手足は動く。声も出る。言語という概念は理解できる。呼吸もできるし意識も今でははっきりしている。

 ただ、これまで自分が何をしていたのかを完全に思い出せなかった。彼女の中では、自分の人生はほんの数分前に始まったばかりに等しいのだ。


「おや、目が覚めたかい」


 前触れなく、見知らぬ女性が入ってきた。彼女はゆっくりと顔をそちらに向け、来訪者の姿を確かめる。

 柔和な笑みに、恰幅の良い体。彼女にわかるのはその外見までで、女性が持つ人の良さそうな雰囲気は明確には感じられなかった。脳内で比較する他者の存在が消滅しているのだから無理もない。

 

 何者だろうか、と彼女は警戒の姿勢を崩さない。本能と言えるのだろうか、自然と彼女は自衛の手段をいくつか考えていた。その体に刻み付けられた戦いの記憶に彼女の指先が触れる。

 彼女の周囲だけ空気が鋭くなっていく。しかし、女性はそれを気にすることもなく踏み込んで彼女の全身に遠慮なく視線を走らせた。


「酷い怪我して運び込まれた時はどうなるかと思ったけど……あんた意外と丈夫なんだねえ。体つきもいいし、どこかの兵隊さんでもやってたのかい?」


 質問の意図するところはわかる。身の上を探ろうというのだろう。互いに見知らぬ関係ならそれが当然のことだ。

 そういった常識的な知識はあった。だが、彼女にはその質問に対する答えを持っていない。むしろ自分がその解答を知りたいくらいだった。徐々に膨らんでいく、この違和感を解消してくれる答えを。


「どうしたんだい? ああ、ここはアラッカって言う小さな村だよ。なんもない田舎だけど、皆のんびり平和に暮らしてるのさ。静かなところだし、ゆっくり休んで傷を癒してくれれば」

「わから、ないんだ」


 女性の言葉を遮る彼女は顔をしかめ、困惑の色を隠そうともしていなかった。

 先ほどから女性が話す言葉は、彼女が発した言語とは異なっていた。それでも彼女の頭脳はそれを理解した。知らないはずの言葉が、彼女自身にわかるよう勝手に翻訳されているのだ。見に覚えのない言語知識が彼女の意識を圧迫する。

 彼女の唇が震え、ただ一つ、今の彼女にふさわしい言葉が溢れ出す。

 女性に伝わるよう、使う言語を変えて。

 

「わからないんだ。私は一体、何者なのか――」






 それから彼女と女性の間で詳しい会話がなされた。事情を察した女性は懇切な態度を崩さず、彼女が理解できるまで何度も事実を繰り返し述べ続けた。

 なぜ彼女はこの部屋で眠っていたのか。その顛末を、女性は余すところなく語った。

 

 彼女が発見されたのは五日前の夕刻だった。村の裏山にある畑から帰宅途中だった農夫が、山道の崖下で倒れている彼女を発見したのだという。

 一大事ということで村から人が集められ、しばらくして彼女は無事救出された。元々は清廉であったはずの衣服は無残に破れ、転落時の衝撃が素人目にも窺えた。

 この山は旅人の往来する整備された道が一部に走っており、おそらくそこから迷い込んで歩くうちに足を踏み外したのだろう、と村人集は結論を出した。

 とにかく村へ連れ帰らなければ、と医者のもとへ連れて行ったまではよかった。これで安心だ、と予想外の力仕事に汗を流した男達は、どこか達成感を感じながらその日は眠りについたのだった。

 

 翌日、医師は村長に彼女の治療結果やその他わかったことなどの報告をした。

 一命は取り留めたものの、意識が戻るには時間がかかるであろうこと。それまでは医師の自宅で保護すること。そこまでは問題なく村長も了解した。

 問題は次だった。彼女の身元を証明する所持品が一切なく、この怪我人は何者なのかがわからなかったのだ。

 普通であれば、個人を特定できる物でなくとも、何かしらの護身用具は所持して然るべきだろう。人里離れた地域では法の目をすり抜けて無法集団が結成されることも多い。そんな情勢を鑑みずとも、女性が一人で、しかも徒手空拳で旅をするなど正気の沙汰ではない。

 

 しかし彼女はそういった装備も持たず、完全な丸腰だったのである。どこかで落としたか、それとも盗まれたか。それとも――野盗にでも襲われて逃げる途中で転落したのか。

 医師と村長は推論を飛ばし合うが、結局は彼女の目覚めを待とうということで落ち着いた。念のため、村の警備をしばらく強化しようという副産物もあったが、こちらは無事杞憂に終わった。

 

 ともかく。

 何があってこの村へ辿り着いたかは知らないが、これも一つの縁。そんな温かい考えに守られて、彼女は眠り続けていたのだった。目覚めてすぐに現れた女性、その正体は医師の妻であった。

 そして、彼女は記憶がないことを告白した――。

 

「――とりあえず、まだ休んでなさい。あんたが目覚めたってことをみんなに伝えてこなきゃ」


 女性は足早に部屋を後にした。足音が遠ざかるにつれて、彼女の孤独感は増していく。

 記憶喪失。その概念は理解できる。原因不明、詳細不明、対策不明――わかったのは自らが無力ということだけだった。

 

 窓の外には、女性の言葉通り穏やかな風景が広がっていた。風に揺れる草木と青い空。眩しい陽光は何もかもを照らして熱を与える。雲は停滞しているのかと錯覚するほどの低速で空の果てへと流れていく。

 ぼんやりと、彼女は自分の未来を考えた。これから自分はどうなってしまうのか。記憶を取り戻せるのだろうか。過去に何があったというのか。遠くに走る地平線からその答えが浮かんでくるはずもない。

 すべては今では遠い忘却の果て。帰るべき故郷の存在も、彼女を待つ人がいることも、何もかも思い出せない。





 

 そう。

 セレナという自分自身の名前さえも。

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