第39話 二人の日常
「シャンタル様まだかなあ。早くナツミちゃんに会わせたいのに」
ドリンク事件からしばらくして。
雑談に花を咲かせていると、バルトロメアがふと呟いた。
まだ帰宅に焦るような時間じゃないけど、遅くなればそれだけ会っている時間が減ってしまう。慌しいのはあまり好きじゃない。
「でも、いざ会うってなったらやっぱり緊張しちゃうな」
「怖い人じゃないから平気だよ。ちょっと口が悪いところがあるけど、それが可愛いところでもあるし。だからナツミちゃん、肩の力抜いて」
言い終わらないうちから肩を揉まれる。少し驚いたけど、なかなかいいポイントを突いてくるので続けてもらった。
ふあぁ……気持ちいい。知らないうちに疲れが溜まってたのかな。毎日楽しいからストレスはないと思うんだけど。
また顔がだらしなくふやけちゃいそうだけど、バルトロメアしか見てないし別にいいかな。なんか、そういうのを隠さずにいるのが自然なような気がするし。少なくともあたしはそう思う。
そんな自己完結をしたところで、遠くから物音が聞こえてきた。これは、もしかして。
「あ、やっと帰ってきたみたい」
「真打ち登場だね」
「お客様はナツミちゃんなのにー」
これで終わり、とばかりにギュッとツボを押される。うぐ、なかなか効いたよ今のは。
「迎えに行ってくるから、ちょっと待っててね」
部屋を出たバルトロメアの足音が遠ざかり、いよいよだなと身構えてしまう。と言っても特に何かをするわけじゃないんだけど。
とりあえず髪の毛をいじってみよう。窓ガラスになんとなく反射される自分の姿を頼りに手櫛をかける。大して変化しなかった。
手持ちぶさたをなんとかしたくてグラスに手を伸ばす。喉が渇いたような気がするので懲りずにゴクリ。ピッチャーの中身は半分以下にまでなっている。我ながらよく飲んだものだ。
さっきまでバルトロメアと話していたせいか、急な静寂が耳に痛い。屋敷が広いから、外からの生活音が全然聞こえない。どこかへ隔離されたような気分ってこんな感じだろうか。
そんな寂しさを訴えるあたしの鼓膜へ、かすかな話し声が聞こえた。
「もう……どこまで行って……」
ぼんやりと、そんな声が聞こえた。このよく通る独特の高い声色はバルトロメアだ。
「……って……じゃない……」
こっちの聞き覚えがない声がシャンタルさんだろう。何を喋ってるのかはっきりとはわからないけど、低めでこれまた特徴的な声だ。テオドラさんみたいなハスキーボイスとはまた違い、クールさが強調された印象を受ける。
新たな情報を得て、あやふやだった脳内シャンタルさんの姿が出来上がっていく。お姉様タイプみたいな大人の女性かな、なんて考えてみたけど……果たして正解は一体。
コンコン、と扉がノックされた。軽く咳払いをしてから、どうぞと返事をする。落ち着けあたし。普通でいいんだ。
「ふふっ、待った? シャンタル様、連れてきたよ」
体を覗かせたのはバルトロメアだった。右手が部屋の外に伸ばされたままだけど、あの先に本日の主役がいるんだろう。
視線を数秒合わせ、頬を緩めたバルトロメアが全身を部屋へと入れる。そうすると繋いだ手の先にいるシャンタルさんも釣られて入ってくるわけで。
「わぁっ……」
あたしに思わずそんな声を出させたシャンタルさんは、ちょこんとした小柄な女性だった。
第一印象は、可愛らしいの一言に尽きる。色素が薄い白銀色の髪を頭の左側で結んでサイドテールにしており、歩くたびに揺れて可愛さの底上げをしてくる。
ぱっちりとした瞳は黒目がちで、年上のはずなのに幼ささえ感じさせる。こちらを観察するように見開かれた目と、やや尖らせた口元。初対面の相手に警戒心をむき出しにする少女みたいで母性本能がくすぐられる。
だけど身長は低いし、あんなに細い腰は抱き締める力加減を間違えたらポキリと折れてしまいそうだ。むしろ幼い外見だから手を出すのが逆にためらわれる。さすがに異世界には条例とかないよね。
どこからどう見ても、あどけなさが抜けない小さな女の子。それがあたしの思うシャンタルさんの最終イメージだった。
温かい視線を向けて何時間でも愛でていられる。バルトロメアが可愛いと連呼していたのが今なら納得できた。
それに、こんな外見なのにあたしやバルトロメアより年上というギャップも見逃せない。そして、さっき少しだけ聞こえたクールな声色を加えることで、そのレベルは反則ラインを軽々と超えてしまう。
「あっ、えっと……」
生唾と一緒に言葉も飲み込んでしまったらしい。何を話したらいいのか全然思いつかない。根っこの部分ではまだまだ人見知りなところが抜け切れていない。
ろくに喋らずじっと見つめ続けているあたしに痺れを切らしたのか、シャンタルさんの唇が動いた。さっきはよく聞こえなかったけど、今度はちゃんとこの耳に声を刻み付けなきゃ。
「へえ、あんたがナツミか。バルトロメアから話は聞いてるぜ。とっても素敵な友達ができたって散々言ってたからな。だが……夢中になるのも無理ねえか、こりゃ」
最初、あたしの耳が壊れたのかと本気で思った。
声色は確かに低めでクール、カッコいい女性というイメージぴったりだった。それはいいんだ、うん。
それよりも言葉遣いだよ。今の荒っぽい喋りは、本当に目の前の小さな子、もといシャンタルさんから発せられたものなんだろうか。
凛とした声色と男勝りな口調。アンバランスでチグハグな両者が頭の中で錯綜して、結局あたしはポカンとした顔になってしまった。
「そっちもバルトロメアから聞いていると思うが、一応の自己紹介はしとくか。私はシャンタル・ルアルディ。あんたんとこのテオドラとは同期で長い付き合いをさせてもらってる。主人共々、よろしくな」
せっかく挨拶をしてくれているのに、あたしは予想外のことに放心して何も言えずにいた。
それでもなんとか小さく頷けた、ような気はする。よく考えなくても無礼極まりない行動なんだろうけど、この時のあたしに正常な思考を求めるほうが間違っていた。
「……ん、どうした? 緊張してるのは見てわかるが、まあ力抜けよ。ナツミは大切な客人なんだし、それにテオドラのリトリエなんだからなおさらだ。自分の別荘かなんかだと思ってくつろいでくれ」
あたしがポカンとしている間にシャンタルさんは一通り喋り終え、バルトロメアに「汗を流してくるから手を離せ」と言い残して立ち去ってしまった。
「……」
再び静寂に満たされた部屋の中、シャンタルさんを見送っていたバルトロメアが振り返る。なんてことない風を装っているけど、頬の緩みが抑えられないのが透けて見える。
無言のまま視線を交わし、次第にその胸中に抱く感情が同じことに気付いていく。ほら、もう頬の緩みが二人とも抑えられない。
「ねっ、可愛いでしょ!」
「うん! 何あれバルトロメアうらやましい!」
開口一番に意見が揃い、あたしの考えが間違ってなかったことを知る。
ちっこい見た目なのに言葉遣いは荒い。それはまるで子供が背伸びしてるみたいでとても微笑ましい。あの声さえも大人ぶった雰囲気を作って出しているように思えて最高のスパイスになっている。
ギャップ萌えなあたしにとって、シャンタルさんという人はまさに二次元世界から出てきたような存在だった。
「バルトロメアが夢中になるのもわかるなあ。反則でしょ、あれは」
「でしょ? よかったあ。ナツミちゃんもシャンタル様の可愛さをわかってくれて」
自分を褒められたかのようにバルトロメアは得意気だ。シャンタルさんのことが好きでたまらないのだろう。
あたしも話ばかりじゃなく、こうして一目見ただけでそれが本当だとわかった。ほんの少し見て声を聞いただけであたしが心を奪われそうになったのだから、ずっと一緒にいるバルトロメアは相当なレベルに違いない。
あたしなりにシャンタルさんの魅力をまとめてみよう。
なんかこう、放っておけない気持ちにさせられるんだよね。保護欲とか母性をくすぐるって言うのかな。大体はあの小さな身長のせいだけど。
若く見えるのは女性にとっていいことなんだけど、シャンタルさんは限度というものを軽々と飛び越えている。それらしい格好をさせたら、高校生どころか中学生と言っても十分通用すると思う。
ぐぬぬ、なぜだか少し負けた気分。何がってそりゃ若さ的な意味でなんだけど口にはしない。
「……ナツミちゃん」
「ん?」
あたしが勝手に敗者の気持ちを味わっていると、バルトロメアが神妙な顔つきになっていた。どうしたんだろう。
「アタシね、本当にシャンタル様のことが好きなの」
「うん、それは見てわかるけど」
「応援……してくれる?」
「そりゃ、まあ」
ぐい、と詰め寄られたせいで言葉が詰まる。間近に迫ったバルトロメアの顔は真剣そのもので、普段の陽気な姿を知っているから尚更それがわかる。
もう目を逸らせない。言葉通りの意味でも、バルトロメアの本心からって意味でも。
嫌悪感なんてもちろんない。それなら優しく背中を押してあげるのが友達ってものだよね。今までそんな相手がいなかったから推測でしかないけど、少なくとも間違ってはいないと思う。
「もちろん応援するよ。頑張ってね」
「ありがとうナツミちゃん。アタシ、きっとこの想いを成就させてみせるから」
ぎゅっ、と握った手が熱い。それだけならいつものことだけど、今回はバルトロメアの手が少し震えていた。
静かな言葉に込められた決意が伝わってくる。なんとなく、繋いだ手を握り返してみた。震えはもう止まっている。
バルトロメアは真剣な表情の色を薄め、今では爽やかな笑みを湛えていた。普段とはかけ離れた落ち着いた雰囲気をまとい、別人ではないかと思いかけた。
その代わり、というわけじゃないけど……恋をする女性は綺麗になるって本当なんだな、とあたしは思い知らされていた。
あたしも素直になれば、こんな風になれるのだろうか……なんてことを思ったのはまた別の話。
自分のことも大切だけど、今はバルトロメアのことを見てあげなきゃね。
「シャンタル様、なんだか長いこと走ってたみたいですけどお疲れじゃありませんか? 脚とか腰、ほぐしますよ?」
「あんなんで疲れるような鍛え方してねえよ。だから離れろ暑苦しい」
「もう、そんなこと言っちゃってー。大丈夫ですよ。後でちゃんとやってあげますから。いつものように、ね」
「……余計なこと言ってんじゃねえ。大体今は客が来てるだろうが。お前が呼んだんだから、けじめぐらい付けろ」
「あ、それはいいんです。ナツミちゃんはアタシたちを応援してくれてますから。ねっ、ナツミちゃん?」
「ま、まあね」
応援するイコール見られてもオッケーという謎理論は一旦置いておくとして。
テーブルを挟んで向かい側にある二人用ソファー。並んで座れるそこでは、バルトロメアがシャンタルさんに怒涛のアタックを仕掛けている。
今は落ち着いてきたけど、シャンタルさんが来たらすぐに引っ張って自分の横に座らせてベタベタし始めていた。その甘さといったら、ガムシロップも裸足で逃げ出すくらいだ。
なぜあたしの前にそんな光景があるか。別に難しい経緯があったわけじゃない。
バルトロメアはシャンタルさんのことが好きで好きでたまらない。それなりに友達付き合いも長いことやってるので、彼女の性格も理解している。
その二つを掛け合わせて、あとはシャワーから戻ってきたシャンタルさん本人を投入すればどうなるか。結果はご覧の通り。
「はあ……すまねえな、こいつはいつもこんな感じでよ。ナツミも一緒にいて疲れることねえか?」
「いえ、そんなことは全然」
大体こうなるのは予想通りだったし。今更これくらいで驚くような精神はしていない。
それどころか、平和だなーなんて思うくらいだ。さっきまで見せていたシリアスな姿はどこへやら。バルトロメアはいつもの陽気さを取り戻している。
でも、だからってあれが嘘だとは思えない。これがバルトロメアなりに考えた結果なんだろう。第三者のあたしが想像できないような、何か深いところで通じ合うものがあるのかな。
シャンタルさんだって表面上の態度こそツンツンしているけど、そのスキンシップを嫌がっている様子はない。
それどころか、バルトロメアに重ねられた手を受け入れて、指を絡めやすいように開いていたのをバッチリ目撃した。心なしか、その時は表情も柔らかくなっていた気もする。
二人を繋ぐ見えない糸。それを簡潔に言い換えれば、信頼という二文字になるのだろう。
あたしとテオドラさんの間は、その二文字が入るスペースが用意されているんだろうか。少なくとも、こうして堂々とイチャつく未来は想像できない。単純に照れるし恥ずかしい。
「まあ、それならいいけどよ。本当は無理やり連れてこられたんじゃねえかって心配になってな。不満があったら遠慮なくぶつけてやってくれ。それがこいつのためにもなる」
「ちょっとシャンタル様? アタシのこと、なんだと思ってるんですか? それにさっきから、こいつこいつって……ひーどーいーでーすー!」
ゆさゆさ、とシャンタルさんの体が横に揺れる。不満顔のバルトロメアが動かしているせいだ。
ちょっと険悪な雰囲気かな、と思いかけて中断する。遠慮のない言葉と行動の応酬は、信頼があるからできることだと気付いたからだ。
気を使わずに言いたいことをぶつけ合える関係って、正直憧れるし羨ましい。何があっても最後は笑って解決とか最高じゃないか。喧嘩しないに越したことはないんだろうけど。
「私はただ事実を言ってるだけだろうが。少しは自分の突飛な行動を振り返ってみたらどうだ?」
「それじゃまるで、アタシがいつも暴走してるみたいじゃないですか!」
「違うってのか? そりゃ驚きだな」
二人のやり取りが続くにつれて、あたしの存在がどんどん蚊帳の外へ押し出されていく。そもそも二人の目には互いのことしか見えてないんじゃなかろうか。
うん、それでいい。
もっと二人だけの世界を見てみたい。微笑ましくも興味深い二人の関係を、余すところなく見届けてみたくなった。
「むーっ。そんなこと言うなら、もうシャンタル様と一緒に寝てあげませんから!」
ぷいっ、とバルトロメアがそっぽを向く。頬をわざとらしく膨らませて、拗ねてますよアピールを見せていた。指でつついたら空気がプシュウ、となって楽しそう。
そんなことを考えてしまうくらいにあからさまで、あざとさすら感じさせる姿だったから気楽に眺めていたわけなんだけど。
「なっ……バ、バルトロメア? お前、何を言って」
どうしたわけか、シャンタルさんが本気で衝撃を受けたような表情をしている。目を見開いて、だんだん顔が青白くなっていくような……。
はて、どうしてこうなった。バルトロメアのブラフに気付かないシャンタルさんじゃないと思うんだけど。まさか、実はどこか抜けてるところがあったりするのかな。どこまでギャップを重ねれば気が済むのだろうか。
なんてことを考えていると、バルトロメアが種明かしを始めた。
「あーあ、アタシに頭を撫でてもらわないと眠れないシャンタル様は今夜からどうするんでしょうねえ。連続徹夜生活にでも挑戦してみますか?」
「ちょっと、おい本当にそれ以上は」
シャンタルさんは焦燥を隠そうともせず、バルトロメアとあたしの間で交互に視線を走らせている。目が回るんじゃないかってくらい高速の動きから、バルトロメアの言葉は真実なんだろうなあと察するのは簡単だった。
ふむふむ、シャンタルさんにそんな裏側があったとは。考えてみると、喋らなければ見た目は幼くて可愛いんだし、甘え上手なところがあるのかも。
そこがバルトロメアの本能へ深々と突き刺さってこんな風になった、というのは案外的外れではないだろう。自分だけに心を許してくれた、ってことの証明にもなるわけだし。
「シャンタル様はそれでいいのかなー。アタシなんていなくてもいいのかなー」
誰に向けてでもなく言い放つバルトロメアは、ツンとした態度を崩さない。シャンタルさんも狼狽してうろたえ続けている。突然の暴露に冷静さを失っているのだろう。
ふむふむ、二人の力関係がわかってきたぞ。やっぱりバルトロメアは、こうやって自分のペースに相手を引き込んでこそだね。
そんなことを気楽に考えながら傍観者として見守るあたしは、きっと弥勒菩薩みたいな顔になっている。なんらかの悟りが開けそうだ。あくまでも気分だけは。
「……バルトロメア、その、なんだ」
おや、シャンタルさんが何か喋り始めたぞ。顔色から察するに、名案は浮かばなかったのだろう。渋々といった雰囲気が、泳ぐ視線と声色からも伝わってくる。
「すまない、言い過ぎた」
シャンタルさんは力なく俯いて、小さく謝罪の言葉を発した。ああもう、そんな深刻になることじゃないのに! いいじゃん、添い寝してることがバレたって! マイナス要素になんかならないって!
早く許してあげなよ、と思いながらバルトロメアを見る。最初こそ頑なな態度を作っていたけど、次第にその表情が柔らかくなっていく。
見慣れた明るい笑顔。そこにいくらかのいたずら心が含まれているのもいつものことだ。
「反省していますか?」
「ああ、悪かったと思っている」
「うふふっ。いいんですよ、わかっていただければ。甘えんぼなシャンタル様を受け止めてあげられるのはアタシだけですものね」
そう言ってシャンタルさんの頭を撫でるバルトロメアは、今までに見たことないほど清々しく輝いた表情をしている。なぜか背筋が少し震えた。
一方、まんまとしてやられたシャンタルさんは悔しそうに唇を結んでいた。それも徐々に強張りが薄れていったけどね。素直に喜んじゃえばいいのに、と思ってからあたしというお邪魔虫がいることに気付く。
もし二人きりだとどうなっていたんだろう。あたしが目の前にいてこれだから、きっと想像できないくらいアレがソレな感じになるのかも。詳しくは言わないってか言えないけど。
「仲良しだねえ、ほんと」
「ふふっ。だって、シャンタル様のこと大好きなんだもん」
なんとなくこぼした呟きに、そんな言葉が返される。それだけで十分お腹一杯だ。
すぐ横で「だ、大好きって、おい……」とシャンタルさんがうろたえている。
そんなデザート代わりの姿も堪能して、あたしは心の中でごちそうさま、と一礼したのだった。
「あっ、もうこんな時間」
二人のイチャコラを見ていたら、もう太陽が傾きつつあった。そろそろ帰ってテオドラさんを迎える準備をしないと。
「帰るの? アタシ送ってくよ」
「ううん、途中で買い物してくから大丈夫。ありがとね」
そのまま二人の時間を過ごしてね、という野暮なことは口走らずに済んだ。言わなくてもそうするだろうし、踏み込んでいいラインかどうかの判別はあたしにだってできる。
「悪いな、ろくなもてなしもできねえでよ。またいつでも遊びに来てくれ」
「はい、また仲の良さを見せ付けてくださいね」
「期待に沿えるかはわかんねえけどな」
シャンタルさんが白い歯を見せて笑みを浮かべる。やっぱり、これが二人の日常なんだなあと改めて思った。そうじゃなければ、こんな笑顔は作れない。
「今は私が出張から帰ってきたから、その反動でこうなってるだけだぜ。いつもはもっと大人しい時もあるんだけど、そのバルトロメアはどこへ行ったのやら」
「アタシはちゃんとここにいますよーほらほら」
「んなくっつかなくてもわかってる。物の例えってやつだろうが」
「そんなのアタシだってわかってますよ。これはシャンタル様が可愛いからぎゅーってしてるんです」
「はあ……そうかよ」
ホントすぐにこの二人は自分たちの世界に入るなあ。油断も隙もあったもんじゃない。見逃さないように神経張っておかないと。
そんなわけでまじまじと観察していると、シャンタルさんと目が合った。目線が縫い付けられたように離せなくなる。
すると、その唇がゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「なあナツミ、お前はちゃんと考えてるか?」
「えっと、何をです?」
「主人が出張することになったらどうするか、ってことだよ。そろそろ心構えの一つでも作っておくべきだろうが」
「出張、ですか」
言われてみればそうだ。テオドラさんも同じ職業なんだから、当然いつかはその日が来るのだろう。今まで考えなかったわけではない。
でも、なんだか漠然として明確な答えが出てこない。テオドラさんとの日々が当たり前になっていて、それが変わるなんてことを考えることはできても理解ができない、みたいな。
「まあ……その時が来たら、ですかね」
今のあたしにはそう答えるしかなかった。帰りを待つか、あたしもついて行くか。それともまだ見ぬ第三の選択肢があるのか。
案はいくつもあるけど、それを言葉にすることはできなかった。だからそうやって曖昧な言葉で濁したんだけど。
「その時って……お前、もしかして」
シャンタルさんの呟きはそこまでしか聞こえなかった。目を細め、少しだけ俯きながら何かを考えているようだ。
もしかして変なこと言っちゃったかな。いや、変ではないにしろあまりよろしくないことを言った自覚はあるんだけど、はてさて。
「……まあ、そうだな。出張だなんて突然言われても困るって話だったか」
シャンタルさんは小さく溜息をこぼして首を横に振った。何か言いかけてたっぽいんだけどいいのかな。
少し気になるなー、と思っているところにバルトロメアが割り込んでくる。
「ナツミちゃん、時間平気?」
「あ、いけない!」
ゆっくりしている場合じゃなかった。ここで消費した時間で何ができただろうかと考えると更に気落ちすること間違いなしなのでやめておく。
代わりに、これからどうするべきか考える。今から買い物して帰って洗濯物を片付けて手早く料理を作って……テオドラさんの帰宅時間にギリギリ間に合うかどうか、ってとこかな。
少しくらい遅れても、テオドラさんなら笑って済ませてくれるだろう。でも、それではあたしの気が済まない。テオドラさんと一緒に暮らす存在として釣り合うように、もっとしっかりしなきゃいけないんだから!
「それじゃ、今日はありがとうございました!」
「おう、またな」
「いつでも来ていいからねー」
見送る二人に背を向けて、夕方の街を小走りで抜けていく。いいものを見れたけど、代償は少しだけ大きかった。
焦る気持ちと、それを抑える冷静さが頭のなかで衝突している。ごちゃごちゃになりつつある思考の中で、テオドラさんの帰宅時間はほぼ一定という規則正しさは一筋の救済だった。明確な指標というものはこういう時にありがたい。
そうして頭の中を別のことで一杯にしていたせいで、シャンタルさんの意味深な挙動と言葉はすっかり脳内辺境地へ追いやられてしまった。
あたしがそれらの言動を思い出すのは、もう少し後になってからのことだった。




