第36話 過去の感涙
「――それで、あたしはラクスピリアに来たんです」
あれからしばらくして。
いつまでも黙っているわけにはいかないとお互いに考えが一致したらしく、ちらほらと言葉を交わし続けた。
その流れで互いのこれまでの歩みとか自分のこととかを話すことになり、あたしはなぜ異世界へと移り住むに至ったかの経緯を話し終わったところだ。
ちなみに、もう体は離れている。さすがにずっとあのままでいるのは心臓に悪い。少しずつ増やしていけたらな、なんてのは欲深すぎるかな。
それでも隣に座ってるのは変わらないから距離は近いままなんだけどね。これくらいならもう自然に振舞える。
だから言葉も流れるように出てきた。緊張とか口下手とかは今のあたしには無縁の概念だ。
「そうだったのか。夏海も苦労したんだな」
もちろん多少の脚色はあるけど、大筋では間違ったことは言ってない。
友達がいなかった、なんて恥ずかしくて言えるわけないし、そこは省いても問題ないところだし。少しくらいカッコつけたっていいじゃない。謙虚の心は忘れちゃダメだけど。
「あたしなんて、そんな……まだまだこれからです」
「何を言っているんだ。こんなに心のこもった料理を作ってくれたじゃないか。それは夏海の才能だと思うぞ」
「あ、ありがとうございます!」
「前から料理はよくしていたのか?」
「本格的にはしてないんですけど、母の手伝いをするくらいで――」
自分のことを話すと、それが些細なことであってもテオドラさんは興味深そうに耳を傾けてくれる。相槌を打つ動作さえ心地良い。
だからあたしはどんどん自分のことを話してしまう。過去のことを話し尽くせば最近のことを語る。
もちろん、今日バルトロメアが来て外交課へ行くことになった裏話も開放済みだ。話してみればなんてこともなく、雑談のネタとして受け入れてもらえた。
バルトロメアの雇い主である、シャンタルさんについてもその流れで話を聞けた。事前に聞いていた通り、同期で何かと気が合う仲間らしい。
不思議だ。言葉が矢継ぎ早に出てくる。口に出すよりも、頭に浮かぶことの方が多くて追いつかない。いくら喋っても終わりなんてなさそうだ。
女子は話好きってのは本当だったんだ。そりゃあたしだって紛れもない女性だけど、昔はそんな話し相手なんていなかった。どこか気分が鬱屈していたのはそのせいだったのかも。
喋っただけ心が晴れていく感覚。教室で休み時間のたびに集まってキャーキャー騒いでいた女子集団の気持ちが今ならわかる。黙っているなんてできるはずないよね。
それにしても、こういうことって本当はもっと最初のほうに話すべきなんじゃないだろうか。
それどころか、あたしたちって互いに自分のことをあまり話してない気がする。どこかで無意識に線を引いていたのかもしれない。
テオドラさんがどこで生まれたのか。なぜ外交課へ勤めるようになったのか。一人暮らしが長いようだけど、両親や兄弟なんかはいるのだろうか。考え出すと知らないことが多すぎて困ってしまう。
でも、それは不快なものじゃない。嬉しい困惑だ。
だって、知らなければこれから知っていけばいいんだから。新たなテオドラさんを見つけられる。その喜びが持つ甘さの味をあたしは覚えてしまったのだ。
「テオドラさんは、このラクスピリアで生まれたんですか?」
だから、あたしはなんの気なしにそう訊ねてしまった。
瞬間、テオドラさんの表情が曇った。
ほんのわずかだけ差した影は、今までの明るい表情の中であまりにも明確に映えている。
鮮明な暗闇を、あたしは確かにこの目で見た。
「……いや。私は別の国の生まれでね。幼い頃、こっちへ移り住んだんだ」
それなのに。
あたしは最初、何かの見間違いかと思った。
それほどまでに、生い立ちを語るテオドラさんの表情が元通りになっていたからだ。
冷たい影なんてどこにも見当たらない。いつもの優しく凛々しいテオドラさんだ。
あの暗さは一体なんだったんだろう。あんな顔、何か過去に秘密を抱えていないとできるはずがない。
あたしにはそう断言できる。隠したい過去を持つあたしなら。
「それからは、ずっとここで育ったんですか?」
でも、その部分に手を伸ばすことはできない。
心の奥に秘めた痛みは、他の誰かが暴いていいものじゃない。
だからあたしは待つことにした。いつかテオドラさんが話してくれる時まで。
胸に刻むべきは、今ここでテオドラさんが語ってくれる言葉だ。
「ああ。その頃にとても世話になった人がいて、何から何までよくしてくれたんだ。その人はラクスピリアの外交官でね。私もあんな風になりたいと思うようになったんだ」
「それで今のお仕事を?」
テオドラさんは深く頷いた。顔を上げたその目は細められ、どこか遠くを見ているようだ。
「あの人は私の憧れなんだ……」
その視線が射抜くのは、あたしの顔だった。
期せずして、再び見つめ合う形になる。しかし今度は立場が逆転していた。
柔らかいテオドラさんの視線は、ただ見つめられるだけで全身を抱擁されている錯覚を植えつけてくる。
緊張する全身。呼吸の荒さが一段階上昇し、唇がわずかに開いてしまう。
ゆっくりと、テオドラさんの手が伸びてくるのがわかる。あたしは動くこともできず、じっとその動きを目で追っている。
顔の左側へ迫る指先は白く滑らかで、これがあたしの頬へ触れたらと思うと未知の宣告を受けた気分になる。
「……んっ」
押し殺した吐息はテオドラさんに聞こえてしまっただろうか。
触れた指は、あたしの頬を滑って耳元へ達した。耳たぶに先端が触れ、掌全体が頬を包み込む。
そしてテオドラさんは、固まっているあたしに向けて、こんな言葉を告げたのだった。
「夏海は、その人によく似ているんだ」
その時に見たテオドラさんの表情を、あたしは決して忘れない。
細められた目と、微笑を湛える唇。色付くという変化を見せつつも、緊張や焦燥を一切感じさせない頬。
表情は儚げなのに、あたしはとても穏やかな安らぎのイメージを受け取った。
「そう、なんですか」
たったそれだけを口にするだけで喉が枯れた。
もちろん、喋ろうと思えば声は出たと思う。けれどあたしは場の雰囲気に飲まれていた。
テオドラさんの視線は熱と涼しさを兼ね備えており、その相反する渦があたしの全身を痺れさせている。
テオドラさんにとって「その人」というのはとても大切な存在なんだ、という推察が浮かぶ。そんなの顔を見れば誰だってわかる。
ただ、その感情が通常のラインを超えていることに気付くまでに至るのはどれくらいだろうか。
家族に向ける親愛の情とは異なる、もっと違う次元に向けているような……。
答えに辿り着くことはできそうもない。
あたしが似ているという誰か。
それが何者なのかを訊ねられるはずもなく、あたしは不思議な視線に射抜かれ続けるのだった。
「そうだ! 食後に甘い物なんてどうですか?」
よくわからないけど、ぬるま湯のように奇妙な心地良さを帯びた雰囲気の中で。
それをあたしは無理やり引きずり出した言葉で振り払った。デザートを作っていたのは嘘じゃないし、この空気が耐えられなくなったわけでもない。
ただ、このままだと本当に未知の領域へ足を踏み入れて戻ってこれなくなりそうな予感があった。
多分、それは悪いことでもなんでもない自然なことだと思う。でも心の準備ができていないし、言い知れない不安もあった。
そういったものを全部吹き飛ばす勢いで、あたしは寄せ集めの気合を振り絞ったのだった。
「作ってあるので、持ってきますね!」
返事を待たずに席を立つ。思いのほか足取りはしっかりしている。
去り際に見たテオドラさんの顔は、まだあの不思議な表情をしていた。強引に空気を切り替えたことに不満を感じている様子はないので、とりあえず安心かな。
キッチンで、そっと自分の頬に触れてみる。
「熱っ……」
思わず声が出てしまうほどだった。右側でこれだから、テオドラさんに触れられていた左側なんて火傷じゃ済まないレベルかもしれない。
そんな体を冷ますためじゃなく、目当てのデザートを出すために冷蔵庫を開ける。それはすぐに見つかった。
甘さの中にも爽快感を残したすっきりとする味わいのプリン。本来なら材料を混ぜて裏ごししてオーブンへ入れる前には気泡が入ってないか確かめて……と手間がかかるスイーツだ。
けれどここは異世界。簡単に作れる素があるので遠慮なく使わせてもらった。
お菓子作りなんて調理実習くらいしか記憶にないあたしでも簡単にできるくらいのお手軽さだ。
そんな代物をあたしの価値観でプリンと呼んでいいのかは正直わからないけど、それはラクスピリア式ってことで。郷に入ってはなんとやらって言うし。
だからって便利な素を使ってハイおしまい、なんてことはしていない。
味見もちゃんとして、甘さ控えめのすっきりした口溶けなのを確認している。テオドラさんが甘い物を苦手だとしても、これなら食べてくれるかもしれないと考えてのことだ。
これは必要なことだったので、また味見かという指摘は受け付けておりません。頑張った体には糖分というご褒美が必要なのは当然じゃないか。脳の大事なエネルギーだよ?
という言い訳を頭の中で展開しつつプリンをテオドラさんの前に置いた。山吹色にそれが、わずかに揺れる。
「こういったのも、お口に合うといいんですけど」
「夏海が作ってくれたんだろう? おいしいに決まってるじゃないか」
相変わらずの天然ジゴロな言葉を真正面から受け止め、頬を緩ませつつ元の席へ座る。
自然な流れというか、体が勝手にそこを目指して動いていた。隣にいるのが普通になってきたのかな。いい傾向だね。
というわけで、再びじっくりと観察しちゃいましょうか。言葉では受け入れてくれても、本当にちゃんと食べてくれるのかはこの目で見届けないと。
――よし、食べてくれた。甘い物が苦手って顔もしてないし、ほっと一安心。
それでもじっと見つめていると、それを察したテオドラさんがこちらに目を向ける。その色からは、あたしのプリンがどうだったのかを読み取れない。なんだかちょっと無表情になってる気もするし。
どうですか、と訊ねるより先に開いたのはテオドラさんの口だった。
「おいしいよ。こういうのも作れるなんて、夏海はすごいな。私には真似できない」
「そ、そんなすごいだなんて……」
慣れたはずの素直な賛美があたしの心を惑わせる。うう、なんでまたドキドキしちゃうかなあ。
そして、それを楽しんでいる自分もいるから手に負えない。もっと褒めてほしいと深層心理が欲を出し、あたしに上目遣いをさせる。
ぶりっ子じゃないんだから。ほら、テオドラさんは真面目な顔してる。あたしもちゃんとしなきゃ。
……と考えていたんだけど。
あいにく思い通りにはいかなかったのである。
「夏海」
名を呼ばれると同時に、頭へ手が乗せられた。髪に絡む繊細な指使いで思わず体が震えてしまう。
そこに隙が生まれたのかもしれない。そうでもなければ、あたしに起こった変調はあまりにも唐突すぎるものだったから。
「今日は本当にありがとう。今までで最高の夜だったよ」
視界が揺れた。
瞬きをするごとに瞳は潤み、喉と鼻の奥が詰まったように苦しくなる。それらは自覚すればするほど大きくなり歯止めが効かなくなる。
どうしてそうなったのか。後になって考えれば答えはすんなり出てくる。
嬉しかったのだ。
誰かのために何かを頑張って、成し遂げて、認められたから。溢れんばかりの達成感を得ることができたから。
そして何より、一番認めてほしい人に感謝を述べられたから。
「テオドラ、さん……」
けれどその時のあたしにそんな余裕があるはずもない。溢れる感情に、冷静の二文字は跡形もなく流されてしまっていた。
小さく名前を呼んですぐ、こぼれそうな涙を隠すようにテオドラさんへ身を寄せた。さっきまで安らぎを与えてくれた柔らかい温もりは、今では切ない気持ちを増幅させる正反対の装置になっていた。
肩に押し付けた額から、あたしの思考が流れ出てテオドラさんに伝わってしまう気がする。
それでもよかった。これ以上喋ろうとしたら、何かが決壊する予感があったから。
ただでさえ、いきなり抱きついて驚かせているんだ。泣き叫んだりしたら迷惑どころの話じゃない。今ならまだ抑えられる。
そんな混乱するあたしの頭上から、不意に優しい色彩の声が降ってきた。
「ふふっ、どうしたんだ夏海? 私はどこにも逃げたりしないぞ?」
穏やかな口調で的外れなことを言うテオドラさん。
そのずれた調子に、思わず吹き出してしまった。泣き笑いなんて始めての経験だ。
顔はうずめたままだから自分でもわからないけど、むしろそれがよかったと思う。変な顔なのは間違いないし。
元々悲しかったわけじゃないし、涙の理由が一気に吹き飛んでしまった。
ただ、まだ涙が完全に引いたわけじゃない。 だからもう少しだけ、テオドラさんとの密着を楽しんでおこう。こういうのも役得って言うのかな。
「夏海は見てて飽きないな。こんなことをするなんて思いもしなかったよ」
そんなことを言いながら頭を撫でてくれる。心地いいのでそれはそのままにしてもらうとして。
まさかテオドラさんも同じことを考えていたなんて。
振り返ってみれば、今日のあたしは昨日までとはガラリと変わっているように見えたかもしれない。別人か、ってくらいだ。
それはテオドラさんにも言えることでもある。今日だけでどれだけの新発見をしたか数え切れない。
きっとこれからも新たな一面を見つけては小さな喜びを感じるのだろう。
なんか、いいな。こういうの。
抱かれているからもちろん体はあったかいんだけど、心の奥までポカポカしてくる。
テオドラさんも、そんな風に幸せを感じてくれているといいんだけど。
まあ、いいや。
今はこの肌に感じることだけに意識を集中させよう。
初めて手にした、何物にも変えがたい安らぎが消え去ってしまわないように。




