第33話 接近の食卓
「ただいま」
「お帰りなさい!」
準備を済ませて、あとはテオドラさんの帰りを待つだけだと意気込んでいたら、ガチャリと玄関の戸が開いた。
計算通りだ。帰宅時間が規則的なのを利用したら簡単だった。よーし、幸先のいいスタートだね。
「どうしたんだ? やけに元気みたいだが」
「今日はそういう気分なんです。あっ、鞄持ちますね」
テオドラさんがポカンとしてる。ふふっ、また新しい一面を見ちゃった。こういうの、なんだかとても楽しい。癖になりそう。
仕事から帰ってきたテオドラさんは、まずお風呂に入るのがいつもの行動パターンだ。今日もそれは例外ではないようで、既に準備をしてある浴室へテオドラさんを見送った。
なんだか漫画とかドラマにありそうな場面だなあ、なんて考えに浸ってる場合じゃない。この間にも、あたしに休みなんかない。最後の仕上げをしておかなきゃ。
と言っても、事前準備は万全なので大したことはしない。ただ、疲れて帰ってきたテオドラさんに一息ついてもらうための重要な一手だ。
準備を済ませて、さあいつでも来てくださいと待ち構える。そうするとなかなか来ないのはお約束なのだろうか。
待ちきれずにリビングを出た。廊下の向こうから浴室の光が漏れているのが見える。シャワーの音もわずかに聞こえ、つい今のテオドラさんがどんな姿なのかを想像しそうになる。少ししたけど。
そうこうしているとシャワーの音が消え、脱衣所にテオドラさんが出てきた気配がする。
つまり、もうすぐお風呂上りのテオドラさんと対面することになるわけだ。
なぜだか気分の高揚が増してくる。今までにもそんな姿は何度も見ているはずなのに。
別に裸を見るわけじゃない。一緒にお風呂へ入ったこともないし。そもそも、あたしとテオドラさんが同じ湯船に浸かってる場面が想像できない。
なんの動きもないワンシーンを思い浮かべるだけならできるけど、そこで何を話すとか視線をどこにやるとか細かいところは無理だ。
女同士だから恥ずかしくないよ! なんて二次元世界ではお決まりの言葉があるけど、実際はそんなのが誰にでも当てはまるわけがない。少なくともあたしは照れるというか意識してしまうだろうし。
でも、別にテオドラさんと一緒に入浴したくないかと問われるとそうじゃない。距離は近くなるだろうし、関係が一歩進むかもしれない。
たとえばの話。
髪を洗ってあげたりとか背中を流したりってのは、なんだかとても甘い雰囲気がしていいと思う。疲れもそれだけで吹き飛ぶかもしれないし、そういう意味では一緒に入るのもアリなのかも。
そりゃ確かに恥ずかしいけど、テオドラさんのためって思えばできなくもない。体に触れられるってのも見逃せないポイントだろう。
もっと言えば眼福とかいう話にもなるけど、それは果たして向こうにも同じことが言えるのだろうか。あたしの体なんか見ても面白くないと思うんだけど。
その点、テオドラさんの肉体は素晴らしい。変な意味じゃなくて、単純に言葉通りに。諸国を渡り歩く外交という職務によって鍛えられたのだろう。
それなのにスタイルも崩れることなく、バルトロメアほどではないけど目を見張るには十分な曲線美を維持している。
純粋な興味として、服の奥にどんな素肌があるのか気になるところではある。
腹筋なんてもちろん割れてるくらい鍛えていそうなのに、女性特有の柔らかさを失っていないあの外見。そのアンバランスさをこの目で確かめて実際に触れてみたら、きっととろけるような達成感を味わえるはず。
……って、そもそもあたしはテオドラさんとどうなりたいんだろう。
あくまでリトリエとして一線を引くべきなのか、そんなの気にせず踏み込めばいいのか。なんだかまた難しいことになりそうな予感。
すぐに答えは出そうもないし、ゆっくり考えてもいいよね。今あたしの目の前にいるテオドラさんとの時間は、まだたっぷりあるんだから。
……ん?
目の前に?
「夏海? どうしたんだ、そんなところに立って」
はっとして見開いた目が、首を傾げるテオドラさんの視線とぶつかった。薄暗い廊下に、火照り気味の肌は鮮明に浮かび上がる。
そして、いつの間にか浴室の近くまで来ていたことに気付いた。まるで誘蛾灯に吸い寄せられる虫じゃないか。急に恥ずかしくなってきた。
「な、なんでもありません! それよりほら、早く来てください」
強引に誤魔化した勢いでテオドラさんの手を引く。
照れ隠しとはいえ、ちょっと無理やりすぎたかな。
いや、むしろちょうどいい。あたしが焦ってたら、これからのことなんてちゃんとできるはずがないんだから。
……あれ? これってもしかして、テオドラさんと初めて手を繋いだことになるんじゃないだろうか。すべすべしてて柔らかい。
仕事柄、体の鍛錬は怠っていないのに全然そんなことを思わせる肌触りじゃない。普通の女の子みたいにふわふわしているしいい匂いもする。
なぜだか手汗がすごく気になる。一度意識すると、それだけでじんわりとあたしの手が湿ってくるような嫌な気分。テオドラさんに不快な思いをさせてないだろうか。
横目でテオドラさんの顔をチラリと窺ってみた。ポカン、とした表情で目をパチクリさせている。やっぱり驚かせちゃったかな。
それと、さっきよりも頬が赤くなっている気もする。軽くのぼせちゃったのかもしれないし、早くまったりしてもらわないと。
「さあ、どうぞテオドラさん」
リビングの扉を開けて、あたしが作り上げた安らぎの場所へと手をかざす。
表現が大げさかもしれないけど、それだけ頑張ったってことだ。
「今日は一体どうしたんだ? いつもと雰囲気が違うようだが」
「それはこれからのお楽しみです。テオドラさんは座ってゆっくりしていてください」
そう言い残してキッチンへと向かう。大切なのは最初の一手。もちろんそこも考えている。
冷蔵庫から秘蔵の一品を取り出し、テオドラさんの前に置いた。何も知らなければ単なる瓶入りの飲み物だと思ってしまうだろうが、そんな単純なわけがない。
「これは……」
ふふっ、驚いてる。
無理もないよね。だって、これは普段なかなかお目にかかれないような飲み物なんだから。
「ちょっと奮発しちゃいました。テオドラさんに飲んでほしくて……あたしの気持ちです」
こちらの世界にも、お酒と呼ばれるような物がある。飲めば気分が高揚し、代償として個人差はあるものの酩酊を味わうアレだ。
一つ違うのは、ここではそれが特別な扱いを受けていることだ。基本的に祝い事や歓迎の席などで出されるもので、めでたいことの象徴みたいになっている。
別に嗜好品として楽しんだって構わないし普通にその辺で売られているんだけど、なかなかそうする人はいないらしい。こういうのが文化の違いってやつなのかな。
ともかく、あたしはそこに目をつけたわけだ。これを最初に出せばインパクト十分だろうという思惑。どうやら大成功のようだ。
「お仕事お疲れ様でした。さあ、どうぞ飲んでください」
注がれたコップとあたしの顔へ交互に目をやるテオドラさんは見てて飽きないんだけど、いつまでもそのままじゃいられない。
料理だって早く食べてもらいたいし。
「……ああ、いただくよ」
テオドラさんが口をつける様子を見守る。この目で見届けないと、始まったって気持ちになれないもんね。
どうかな、口に合わないってことがないといいんだけど。少なくともあたしはいい味だと思ったから買ってきたわけだし。
世界が異なれば法律も違ってくるわけで、あたしが飲んだって何も問題はない。ちゃんと味見のできるところで確かめてきたんだから。
そのおかげで、合法的に一足早く酩酊とはなんぞやを体験できたわけだけど、あれは割と衝撃が大きかった。変な言葉だけど、こりゃ堪らんわって思ってしまったのだ。癖になること間違いなしの、喉越し爽快とかいう感覚も理解した。
けれど体が火照ってくる予感があったので早々に切り上げた。やっぱり、あたしにはまだ早かったらしい。
ということで、ここは大人であるテオドラさんに楽しんでもらいましょう。
さすが大人の女性。ただ飲むだけの動作も精錬されている。多少のフィルターはあるだろうけど。
「……」
あんまりまじまじと見つめていたせいか、ふとテオドラさんと目が合った。
なんとなく目を逸らしにくい。テオドラさんってこんなに睫毛が長かったんだ……。
どういうわけかテオドラさんも目を離そうとはせずに固まっている。もう酔ってしまったのか、さっきよりも更に顔の赤みが増している。明日まで引きずらなければいいんだけど。
そうだ、お腹に何か入れれば少しは紛れるかも。
「お料理、持ってきますね」
緊張する体を無理やり動かしてキッチンへ向かう。
途中、こっそり見たテオドラさんのコップは中身がほとんど減っていなかった。テオドラさんもお酒に弱い体質なのかもしれない。次からは気をつけなきゃ。
さてと。
ここまでは予定通り。次の手順を頭の中で再確認し、小さく頷く。
大丈夫、少しくらい行き当たりばったりでも、むしろスパイスになっていい味が出ると思えばいいんだ。
「これは……もう少しかな」
そう呟いて確認するのは料理の具合だ。
なるべく作りたての料理を食べてもらいたいので、あと一手間を加えれば完成というところで止めてあるのがいくつかある。
それでも多少は待たせてしまうことになるけど、ちゃんと策は考えてある。
「テオドラさん、まずはこれをどうぞ」
最初に出したのはサラダだ。簡単に作れるからこそ小回りがきく。特に一品目として時間を稼ぐ場合、とても有効な逸品となる。
「他の料理もすぐ出しますので、もう少しだけ待っててください」
「なんだか大掛かりになりそうだな」
「えへへ、気分が乗っちゃって」
「やっぱり、今日の夏海は少し違うな。一体どうしたんだ?」
「なんでもありませんよ。日頃の感謝の気持ちです」
これ以上話を続けるとボロが出そうなので、そこで背を向けた。
まさか仕事してる姿を覗き見して感動しました、なんて言えるはずないし。
気持ちを切り替えて仕上げを進めていく。下ごしらえは済んでいるし、二人分だから量もそんなに多くない。
そもそも時間をかけるつもりなんて元からない。待たせたりしたら悪いのはそうだけど、なぜかさっきからテオドラさんの視線を感じるのだ。
背中がムズムズするくらい突き刺さっている。こんなのが長く続いたら色々とおかしくなりそう。
あれでバレてないと思ってるのかなあ。構ってオーラがキッチンまで伝わってくる。いや、離れているからこそなのかも。
そうやって微笑ましくテオドラさんを観察しながら料理を運んでいく間に、いいこと思いついてしまった。なんで今までそうしなかったのか不思議なくらいの妙案だ。
「これで料理は全部です。いっぱい食べてください」
「これを全部夏海が……大変だったろう?」
「いえ、そんな。あたしなんてまだまだです」
テーブルに料理を並び終え、会話をしつつどうやってさっきの思いつきを実践しようか考える。
直球で堂々と向かうべきか、それとも一拍置いてみるか……むう。
「疲れただろう。夏海もそろそろ座ったらどうだ?」
「はい、ではお言葉に甘えまして……」
思いもよらない助け舟に、あたしは素直に乗ることにした。実はテオドラさんも無意識に誘ってたりして、というのは飛躍しすぎかな。
きっとテオドラさんはいつもあたしが座る場所を想定しているんだろうけど、残念ながらその予想は外れることになる。
なぜなら、あたしが腰を下ろしたのはテオドラさんの隣だったからだ。
「……夏海、なぜそこに」
「この方がテオドラさんを間近で見られるかな、と思いまして」
「そ、そうか」
「ダメ、でしたか?」
「いや別にそんなことはないぞ、うん」
不意打ち大成功。
テオドラさんは冷静に振舞ってるつもりなんだろうけど、動揺しているのが見てわかる。手元とか視線とか、近いから細かい変化も見逃さない。
なんだか不思議な気分。常習犯になっちゃいそう。だって、うろたえるテオドラさんがなんだか可愛いんだもの。
それに、間近で見ているから普段よりも意識してしまう。
物理的な近さだけじゃなく、一緒にいるんだという感じが強い。憧れの存在が手を伸ばせば触れられるところにいる。じっと見てしまうのも無理ないよね。
お風呂上りの少し濡れた髪がよくわかる。肩に届く手前くらいのショートヘアが、頬と耳の間に張り付いている。いつもは見落としてしまうようなところを見てしまい、不思議な高揚感が全身に広がっていく。
見える世界まで変わった気分だ。まるで今にも雫が滴りそうな毛先の奥に覗くうなじが、特に何がどうしたというわけでもないのに色っぽく思える。
まるでそこから滲み出る桜色の香りに引き寄せられるように、あたしは目が離せずにいた。触れたら柔らかく指を押し返してくれそうな、テオドラさんの瑞々しい肌。
「どうした夏海。私の肩に何かついているか?」
「いや、そういうわけじゃないんですけど」
慌ててごまかすあたしの姿はさぞ滑稽だったろうけど、テオドラさんには悟られていないようだ。小さく首を傾げてから、自分の肩や背中を見ようとしている。
「ほら、食べてください。冷めちゃいます」
「慌てなくてもちゃんと食べるさ。夏海が作ってくれたんだから」
多分無意識なんだろうけど、そういうことを不意に言われると動揺を隠すのに必死になってしまうから控えてほしい。クールな微笑も添えてくるから尚更だ。
目を逸らそうにも逃げ場なんてない。部屋着は薄手でラフだけど、だからこそ不意にわかる体の線は猛烈な破壊力を持っている。袖の奥に潜んで時に見え隠れする何かなんて、正体を確認した瞬間にゲームオーバーだ。
けれど、それと視線を外せるかという問題はまた別だ。普段こんなに近くまで寄ったことなんてないから、心のどこかに興味があったのかもしれない。
ともかく、あたしはテオドラさんから目を離せずにいたのだ。
そんなにまじまじと見つめていれば、さっきのように気付かれてしまうのも当然の流れだ。テオドラさんがチラチラと見てくるのがわかる。
しかし、今度は声をかけてくる様子はない。顔は正面に向けたまま、横目であたしを窺っているだけだ。食事を続けながら、あたしがどう動くのかを探っている。
嫌だとか思われてないだろうか。不安はあるのにやめられない。許されるのなら、このままずっとテオドラさんのことを近くで見ていたい。
テオドラさんの反応が面白いから、というのも確かにある。
けれどそれが全部じゃない。
何かこう、未知の感覚とでも言うべきなのだろうか。今ここで離れることは愚の骨頂だと脳のどこかが告げている奇妙な気分。
まあ、それでなくても離れる気なんてさらさらないけどね。今まで知らなかったことを見つけるために観察は終わらない。
せわしなく揺れているテオドラさんの瞳は吸い込まれそうなほどに黒く、ぱっちりした二重瞼に縁取られている。
これが人を惹きつける目ってやつだろう。実際あたしが釣られているわけだし。
綺麗だなあ。あたしもこんな澄んだ瞳が欲しかった。
……おや?
なんだかテオドラさんの頬がまた赤くなってきたような気が。さっきは治まっていたのに、いつの間にかぶり返したようだ。
こんなにお酒が弱かったら、いつかあたしと一緒に飲んで女子会もどきをするなんてのは難しいかも。いや、別に飲まなくたってそういうことはできるか。
なんてことを考えていると赤みがどんどん増していく。それはもう、アニメか漫画に出てきそうなくらいの勢いで。湯気とか出ても不思議じゃなさそうだ。
露骨すぎて、もはや面白い。ますます目が離せなくなっちゃう。見続けたらどこまで赤くなってくれるんだろう。
「……」
沈黙の時間。外も静かで人の気配すら感じられない。時計が秒を刻む音なんてのもないから、聞こえるのはあたしとテオドラさんの息遣いくらいだ。
それと、あたしだけに聞こえるもう一つの音がある。他ならぬ自分の鼓動だ。
見つめることで確かにテオドラさんは赤くなった。その一方で、あたしも無事でいられるはずもなかった。こんなに距離が近かったら当然の反応じゃないか。
あたしの頬も熱くなっている。見たり触れたりしなくても十分にわかる。それどころか全身が温もりに包まれて、あたしまで酔っ払ったみたいになっていた。
でもね、だからって引き下がるわけにはいかないわけですよ。今日のあたしは一味違う。今までやらなかったことをするって決めたんだから。
それにしても、なぜあたしはこんなテンションになっているんだろう。
これがバルトロメア相手なら違っていたんじゃないか、とは断言できる。多少なりとも過剰なところはあるけど、あれは単なるじゃれ合いの域を出ないものだから。
なら今はどうなのか。
その答えは、多分とても近くにあるのだろう。だって、あたしの顔が赤くなっているのが何よりの証拠になるわけだし。
でも、今はそんな難しいことを考える時間じゃないとも思う。
テオドラさんの隣で、あたしだけが見られる姿を目の当たりにしている。それだけでいいじゃないか。
一度に色々なことを考えたら頭がパンクするのはよくわかっている。
だからあたしは見つめ続ける。テオドラさんが流し目を見せるたび、その視線を交差させながら。




