第30話 対話の行方
そんな衝撃事実の発覚から数日。表面上はいつもの日常が流れている。テオドラさんはまた規則正しい生活リズムに戻り、あたしはそのサポートをする。
変わらぬ日々。
変わったのはあたしの心境くらいだ。
午後の空いた時間。休憩も兼ねてリビングでお茶を飲むことにした。
最近はこうして様々な紅茶を作るのがひそかなマイブームだ。
茶葉の香りはリラックス効果があるようで、頭の中が冴え渡るような気分になる。
同時に巡る思考。
休日なんだから、いくらグータラしたって別に嫌じゃない。仕事で疲れたらああなることは、父親を見て深く理解しているつもりだし。
そう、理解。
理解しているんだけど……それとこれとは別問題というか、なんて言ったらいいんだろう。
頭では受け入れているのに心がそれを認めていない、みたいな感じ。
うーん、モヤモヤする。
その時、呼び鈴が鳴った。
誰だろう。特に来客の予定はなかったはず、というか基本的に誰かが尋ねてくること自体あまりない。
あれっ、それってよく考えたら寂しいような二人だけの世界が出来上がってるような。
いやいや、なんだ二人だけの世界って。そりゃ確かに一つ屋根の下で暮らしているけど、別に特別なことなんて何もないし。
「はいはーい、どちら様ですか?」
無用心に玄関を開けてしまったのは、そうやって余計なことを考えていたせいだろう。
そのせいで、突然の襲撃に反応できなかった。衝突に続いて体の自由を奪われ、温かい圧迫感に全身が包まれる。
「ナツミちゃん、久しぶり! 元気してた?」
眩しい陽光に照らされながら、あたしはバルトロメアから久々の情熱的な抱擁を受けたのだった。
「なるほど、テオドラ様がねえ……」
テーブルの上で揺らめく二つの湯気。発生源である飴色の紅茶には、まだどちらも手をつけていない。
隣では、バルトロメアが神妙な面持ちで深く頷いている。今までの話を頭の中で整理して、何を言うべきか考えているのだろう。どんな言葉が飛び出してくるのか予想もつかない。
一方のあたしは抱えていたものを開放して身軽になって心は晴れ晴れ、とはならず緊張に身を硬くしていた。
背筋がピンと伸びて姿勢が正しくなる。椅子の背もたれがその役割を果たしていない。
なぜこんな状況になっているのか整理しておこう。
予告なしに訪ねてきたバルトロメアだったが、それにはちゃんと理由があった。
ずっと出張していたバルトロメアの雇い主さんが、あと数日のうちに帰ってくるらしい。ちょくちょく話は聞かされていたからそんな気はしなかったけど、結構な長さの出張だったようだ。
久々の対面を目前に控えて、バルトロメアの気分も高揚している。盛大な歓迎の準備を色々とするから忙しくなって、しばらく会えなくなっちゃうかも……と告げる沈んだ面持ちは長続きしなかった。
「で、ナツミちゃん。何か悩み事とか抱えてない?」
自分の用件は伝えたから、とばかりにバルトロメアの表情が切り替わった。細められた瞼から飛ばされる視線は鋭く、まるで稀代の探偵にでも見据えられているようだった。
「溜め込んでることがあるなら相談に乗るよ。誰かに話せば多少は気が楽になるんじゃないかな」
雰囲気だけでなく中身もしっかりと兼ね備えられていたようで、見事な推理によってあたしの変調はあっさりと見抜かれてしまった。
いつものように最初から腕とか指が絡まっていたので、現実的にも心理的にもあたしに逃げ道なんて用意されていなかった。
そして、あたしはテオドラさんが持つ裏の顔と、それに付いて回るモヤモヤを打ち明けたのだった。
「うーん、ナツミちゃんが悩んでるなら協力したいんだけど……」
言葉尻を濁し、バルトロメアが周囲に視線を走らせる。急に来たから準備なんかしてないけど、普段から片付けを徹底しているから見られて困るような物はない。
もしかすると見落としがあるかもしれないので、あたしも目だけをこっそり動かして確認してみる。
よし、大丈夫。最初の惨状と比べたら別世界にすら思える。
あれから長いようで短いような、あっという間の日々だった。充実した毎日は新発見の連続で、緩やかながらも怒涛という言葉が一番しっくりくる表現だと思う。
この生活を始めると決めた時から、そうなることは心のどこかでわかっていた。その証拠に、あたしは翻弄されることなく適応できている。
身構えていなければ、きっと洗濯機に存在を忘れられたまま放り込まれたポケットの中のティッシュみたいな有様になっていたはずだ。
けれど、何事にも例外はある。実際あたしが今悩んでいることなんて、まさにそんなイレギュラー極まりないことじゃないか。
そんな未来設計が下手なあたしだけど、一つだけ予想できたことがあった。
「そのままでいいと思うけどなあ」
「……やっぱそうなるか」
大雑把にも聞こえるバルトロメアの答え。
それこそ、あたしがひそかに望んでいた言葉だ。この答えが返ってくることもわかっていた。
何より、あたし自身がそう思っているのだから。
「ナツミちゃんも、本当はわかってるんじゃない?」
その目で見つめられると、自分を守る嘘や偽りが消されてしまう。
バルトロメアは秘めた心境までも見抜いていると言わんばかりに、あたしの奥深くに埋まった言葉たちを引っ張り出してくれる。
「それってさ、ナツミちゃんを信頼してるってことじゃない? だらしない姿みたいな弱さを隠さず出してくれるってのはね、甘えてくれてる証拠なんだよ」
バルトロメアの言葉は心の中に一切の抵抗もなく染み込んでいった。
それは紛れもなく、あたしの中に受け入れる準備が整っていたという証拠だ。
湯気が薄まってきたカップへバルトロメアが手を伸ばす。ただ飲んでいるだけなのに、どこか優雅さを感じてしまう。
バルトロメアが紅茶を飲んでいるということは、あたしの手が開放されたことを意味する。
けれどあたしの自由は奪われたままだ。指摘された心の裏側に向けて、思考回路が総動員されているから。
きっかけも原因も、別に特別な何かがあったわけじゃない。
真面目な性格のテオドラさんに隠し事など向いているはずもなく、誰が見たって同じ答えを口にしただろう。
テオドラさんはあたしに心を開いてくれている。しかも通常より数段上のレベルで。あたしが掃除という名の大処分祭りを開催しても、最初こそ戸惑っていたけど結局認めてくれるくらいだ。
特に何をしたわけでもなく、気付けばそうなっていた。むしろ最初からフルオープンだった気もする。
バルトロメアに指摘されるまでもない。
この生活を始めて数日足らずで、薄々ながらもそんな気はしていた。
けれどそれは自分勝手な思い込みで、あたしが口にするのはなんとなく違う気がしていた。
でも、バルトロメアがそう言ってくれている。第三者の視点から指摘してくれる。
「そういうのも含めて、テオドラ様なんだよ。それに、だらけた姿なんて他の誰も見たことないよ。テオドラ様ってとても仕事熱心だし、アタシも最初は信じられなかったくらいだもん」
バルトロメアの言葉は核心を突いている。それはもう否定できない事実だ。
もちろんそれはわかる。
わかるんだけど、まだどこかでモヤモヤしている。
今まで通りなら、その漠然とした何かに惑わされて延々と無駄な思考を続けていただろう。そうならなかったのは、モヤモヤの正体が簡単に掴めたからだ。
それはすなわち、このままでいいのだろうか、という未来に対する不安だった。
テオドラさんとの生活は、きっとこれからも続いていくし、あたしもそうしたい。先のことなんて誰にもわからないけど、そんなすぐ投げ出すような脆い決意なんか持っていない。
そんな強いのか頑固なのかわからない意思を持っているからこそ、小さなことが気になってしまうのだろう。
それに、なんだか他人事のようには思えないのだ。別にテオドラさんを他人と言っているわけじゃないし、そもそも同居してるんだから一蓮托生というかこの辺はひとまず置いておこう。
とにかく。
あたしの心はまだ完全に晴れ渡ったとはいえない状況なのだ。
「うーん……」
「ナツミちゃん、まだ何か不安? いいよ。今日はなんでも聞いちゃうから、いっぱい話して!」
ウキウキした様子で、再び手を握ってくる。そんなバルトロメアに促されるまま、あたしは胸に抱えたモヤモヤを並べ立てた。
自分でも何を言っているのかわからないほどに、とりとめなく散らかった感情のカケラたち。整列することもなく我先にと飛び出しては予想外の形を成していく。
耳を貸すだけでも大変な労力のはずなのに、それでもバルトロメアは手を離さないでいてくれた。
変わらないな、バルトロメアは。会う機会が減っても前のままだ。
この親近感がとても安心できる。今では自分から握り返したりできるもんね。
ほらほら、絡めた指をくすぐっちゃうぞ。
やっぱりバルトロメアと一緒の時間は楽しい。
ただそこにいるだけで心が安らぐ。テオドラさんとは違う居心地の良さを感じる。
昔のあたしにはなかった温もりを教えてくれた。それに対する感謝はいつまでも忘れないだろう。




