第29話 真実の姿
慌しくも充実した時間はあっという間に過ぎていき、リトリエになってから半月が経過した。
それだけ時間を過ごせば慣れが生まれてくるのが普通だろう。あたしも例外ではなく、日々の行動がパターン化されてきた。
けれど、それは決して飽きたという意味ではない。自分の生活リズムに変化がなくても、テオドラさんを見ていると十分な刺激が得られるからだ。
あたしとテオドラさんがどんな一日を過ごしているか、簡単に振り返ってみよう。
テオドラさんの朝は早い。仕事のある日は毎日決まった時間に起きて出勤の準備を始めている。
たまにあたしより先に起きていることもあって、そこはなんだか申し訳なかったりするけど今は置いておこう。今後の課題だ。
朝の身支度をするテオドラさんを横目に、あたしは朝食の用意をする。寝起きのお腹に優しく、なおかつお昼まで長持ちするメニューを考えるのはなんだか楽しい。
予想通りテオドラさんは朝食を抜きがちな人だったので、少しずつでも何かを口にしてもらって改善している途中だ。
そうしてテオドラさんを送り出したら、あたしは留守を守る主婦……じゃなくてリトリエとして家事を片付けていく。
この時間を利用してバルトロメアと会うこともある。ようやく雇い主さんが出張から戻ってきたらしく、バルトロメアはご機嫌だ。
会うたびにその雇い主、シャンタル・ルアルディという人がいかにかっこよくて可愛くて目が離せないかを熱弁してくるのだ。ノロケ話をする時のバルトロメアはキラキラ輝いており、見ているだけで元気を分けてもらえる。
あたしの時もそうだったけど、バルトロメアは一つのことに猛烈な勢いで突き進んでいくタイプなんだね。
テオドラさんの帰りは日によって異なるけど、夜遅くになることはほとんどない。夕食を一緒に食べるのが日課になっているくらいだ。
寝る時間も決まっているようで、その時間が近付くと寝室へ引っ込んでしまう。おやすみ、と挨拶はしてくれるけど少しだけ寂しい。
いや別に一緒に寝たいとかそういう女子校の修学旅行っぽいノリとかじゃなく、夜って訳もなく心細くなったりするからそのせいだ。
そういう事情もあって、テオドラさんの部屋には今も入れていない。
扉を見る限りでは鍵を取り付けている様子はないけれど、だからといって無断で踏み込む気にはなれない。あたしの知らない異世界セキュリティとかあるかもしれないし。
いいもん。いつか実力で入ってやるんだから!
というわけで。
こうして生活の一部を見てもわかるように、テオドラさんはとても真面目な性格だ。
規則正しいその生活リズムからは、あのダメダメな雰囲気など微塵も感じられない。
やはりあれは何か理由があったのだろう。そんなあたしの予想は的中していた。
その理由もすぐにわかった。
共同生活を始めて数日後のこと――。
その日は雲の多い夜だった。
「あれ、テオドラさんまだ起きてるんですか?」
やることを全部片付けたので、あたしもそろそろ休もうかなと思っていた頃だった。
いつもなら自室へと引っ込んで寝てしまうような時間なのに、テオドラさんはリビングで何やら難しい顔をしている。
「今日中に済ませておきたいことがあるんだ」
テーブルに広げている数枚の書類は、それに必要な物なのだろう。チラリと見ただけでも文字がビッシリなのがわかる。頭が痛くなりそうだ。
「すまない、仕事を持ち込んだりして」
「いえ、そんな……お茶でも淹れましょうか?」
「頼めるかい? ありがとう」
キッチンへ移り、テオドラさんが好む茶葉を取り出す。簡単に作れるのに味わいが深く、あたしも気に入っている。
翌日はテオドラさんの仕事が休みだということはあたしもわかっている。だからこそ、多少のイレギュラーや無理も許容範囲内ってことなのだろう。
働き者なんだな、と思う。まだ見たことはないけど、職場で働く姿もきっと凛々しさに溢れているはずだ。勝手にハードル上げちゃってるかな。
「あまり無理をしないでくださいね」
湯気の立つカップをテオドラさんの斜め前に置く。もちろん書類の邪魔にならないような場所へ。
出来立てで熱いはずのそれに、テオドラさんは少しだけ口をつける。猫舌ではないようだ。
「手早く済ませるさ。夏海は先に休んでてくれるかな」
テオドラさんより先に寝るなんて、と一瞬だけ悩んだけど、今はその言葉に甘えることにした。
そもそもそんな考えは昔ながらの夫婦みたいだ、という入り口から思考の迷宮に入りそうになったのを踏みとどまった形になる。
「わかりました。おやすみなさい」
「おやすみ」
その日はこうして特に何事もなく過ぎていった。
そして翌日。
あの衝撃は、今も記憶に鮮明な映像として残っている。
朝の暖かな空気を感じて目を覚ます。
規則正しいテオドラさんと暮らしているせいか、あたしにもそのリズムが刻まれているらしい。目覚ましの類を使わなくても、決まった時間に起きられるようになっていた。
睡眠で固まった体を軽いストレッチでほぐし、今日も一日頑張ろうと意気込んでリビングへ向かう。
眠気覚ましのために淹れたお茶を飲み、今日の朝食は何を作ろうかと考えていると、ふと気になることが思い浮かんだ。
「……まだ寝てるのかなあ」
いつもならそろそろテオドラさんが起きてくる頃なんだけど。何かあったのかな、と考えればすぐに昨夜の光景が浮かぶ。
テーブルに広げていた書類は片付けられている。何時まで続けていたのかはわからないけど、遅くまでのめり込んじゃったのかな。
休日はこの時間に起こすように、とは指定されていない。疲れているだろうし、ゆっくり休んでもらおう。
そう考えて、あたしは自分のやるべきことを始めた。することは毎日いっぱいあるからね。なんだか充実してるって感じがする。
今まで適当に時間を潰してきた分を取り戻さなきゃ。こんな自分を昔のあたしが見たらなんて思うだろう。おかしな奴だな、って切り捨てるかもしれない。
ふんだ。そっちのほうがおかしいんですよーだ。
ところで、おかしなことといえばもう一つある。
テオドラさんがまったく部屋から出てこないのだ。
変だな、と感じ始めたのは昼前に買い物から帰ってきた時だった。
外出中にすれ違わないようにメモを残しておいたんだけど、読まれた様子がない。何かの拍子で飛ばされないように置いた小箱もそのままだ。
それどころか一階に下りてきた気配すらない。あたしが出かける前と今では、家の様子が何もかも同じだった。
いくらなんでも寝過ぎのような。
それとも、本当は起きているけど部屋にこもって何かしていたりして。あたしもよくやってたし、その気持ちはよくわかる。
だからといって放置するのは違うと思う。顔くらい見せてくれないと、その、不安というか寂しいというか。
どちらにしても、一度部屋の前で声をかけてみよう。お昼を食べるのかどうか確認しておきたいし。
「テオドラさん、起きてますか?」
部屋の扉をノックしてしばらく待つ。
返事はない。
「……テオドラさーん」
もう一度コンコン、と叩いてみた。
聞こえるのは外から届く人々の生活音だけだった。ベランダへの窓越しに景色を眺めてみるけど、見えるのは建物の壁くらいだ。角度が悪かったらしい。
さて、どうしよう。
部屋に入らないよう言われている以上、ここで呼んで起きないようなら早々に万策尽きたことになる。
かといって大声で叫ぶのもなんだか悪いし……はてさて。
左右をなんとなく確認してから、ドアに耳を当てて神経を集中させてみた。誰の目を気にしたのかと問われても答えは持ち合わせていない。
変な寝言が聞こえてきたらどうしよう。しかも万が一それがあたしに関することだったりしたら今後どんな顔して過ごしていけばいいのか誰か教えてほしい。
「……」
規則的な音が聞こえる。
低く重いその音は、まるで体の奥底で響く生命神秘を証明する鼓動のようだった。
もっと簡単に言うと、それはあたし自身の脈動だった。耳を塞ぐと聞こえるアレだ。
期待というか心配していた寝言や寝息などはまったく聞こえなかった。扉が厚いのか、それともテオドラさんの睡眠が高質なのか。
でも、なんとなく人の気配は感じた。扉一枚隔てた向こうに、テオドラさんは確かにいる。
根拠のない自信だけど、なぜか落ち着くことができた。そこにいるなら気長に待てばいい。いなくなったりはしないはずだから。
「まあ、しょうがないか」
自分を納得させて階段を下りる。
思うところはあるけど、それはテオドラさんを叩き起こしていい理由にはならない。
ただオンオフの切り替えが上手な人なんだ。そう受け止めたほうがはるかに楽だし効率的だと思う。
待てよ。
もしかしてこれもギャップと言えなくもないんじゃないだろうか。
外では完璧な姿のテオドラさんが、家の中ではその本性を見せる。
それはつまり、あたしだけが目にする姿だということ。
……信頼、されてるのかな。
それなら、やっぱりこのまま自然に起きてくるのを待つべきだよね。
よし。
まだまだあたしの仕事は残っているし、テオドラさんの目覚めが良くなるように頑張ろう。
昼食もテオドラさんが途中で起きることを考えて、すぐ温めなおせるようなメニューにしよう。
それなら、さっき買ってきた材料が役に立ちそうだ。早速取り掛かっちゃおう。
「おはよう、夏海」
ようやくテオドラさんが目を覚ました。
あくびを噛み殺す表情に加えて、髪は寝癖で変な絶壁が作られている。
何年着古したかもわからないパジャマ姿は、今のテオドラさんにとんでもなく似合っていた。
果たしてこちらの世界に女子力という概念はあるのだろうか。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「ああ。疲れも吹き飛んだよ」
爽快感を体現したようなテオドラさんの笑みに、私も頬を緩ませる。今日初めてテオドラさんの顔を見られて、多少は嬉しいなと思うところもあったりなかったり。
「なら、よかったです。夕食はお腹に入りそうですか?」
「もちろんいただくよ。今日は何を作ってくれるのかな?」
期待の眼差しを向けられて、あたしの思考は切り替わる。けれど裏側へと回った感情は消えたわけではなく、確かにそこで存在している。
窓から差し込むオレンジ色の夕焼けを浴びながら、あたしは確信していた。
これがテオドラさんの隠された姿なのだと。




