第24話 新生活の開始
テオドラさんの家を片付け始めて、どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
自分の部屋は後回しにするくせして、なぜか他人の部屋とか公共の場所は掃除したくなるんだよね。それこそ時間経過を忘れるくらい熱心に。
あ、テオドラさんはもう他人じゃないか。これから一緒に暮らすわけだし。
……一つ屋根の下、か。
意識するようなことじゃない、とは思いつつもうまくいかないのが心というもので。
ただのルームシェアみたいなものだろ、なんて気楽に考えようにも、そもそもあたしが誰かと暮らすこと自体が問題なんだよね。
だって何が起こるかわからないし。
不安もあるけど、それ以上に期待に近いものが溢れてくる。
あたしは一体何を期待しているのだろう。そりゃ悪いことはなさそうだけどさ。
ともかく。
この勢いだといつまでも片付け続けてしまいそうだったので、適当なところで区切ることにした。ついでに余計な考えも振り払う。
必要ならこれから少しずつでもやっていけばいいし、テオドラさんを疲れさせちゃうかもしれないからね。
あたしは一度、中央庁へ戻ることになっている。結果がどちらに転ぼうと、それは最初から決まっていたことだ。
縁がなかった場合はいいとして、いくら今回みたいに即決したとしても正式な契約手続きが必要になってくる。
テオドラさんもそのことは理解していたようで、話は滞りなく進んだ。後日改めて訪問することを約束し、来た時に比べるといくらか片付いた家を後にした。
「それでは失礼します」
「気をつけて帰るようにな。夜になれば気温も下がるから、体調も崩さないように」
「はい。テオドラさんもお元気で」
「なんだかそう言われると、しばらく会えなくなるみたいだな」
「あっ、すみません。そんなつもりじゃ」
「わかっているよ。手続きや準備が終わればまた会えるし、その後は……」
一緒に暮らすことになるのだから。
その言葉は続かなかったけど、何を言おうとしていたのかはわかった。
テオドラさんも意識しているのかな。もしそうなら嬉しい。ちょっとどころじゃなくてかなり。
胸の奥にある緊張が少しだけほぐれた気がした。こうやって自分の気持ちは明確な輪郭になっていくのかな。
テオドラさんに見送られ、玄関の戸を閉める。またここに来るぞ、と意気込んでから振り向いて歩き出す。今のあたしは向かい風にだって止めることはできない。
「ナツミちゃん」
と思ったら、たった一声であたしの足は止められてしまった。
「あれ? どうして」
家の前ではバルトロメアが待ち構えていた。その顔は期待と不安を滲ませている。
そんな表情は珍しかったので、つい見入ってしまう。やはり美しいことに変わりはない。
向かいの店に行ったはずなのに、いつからここにいたんだろう。
「えへへ、待ちきれなくてさ」
心が温かくなり、瞳が少しだけ潤いを増す。テオドラさんとの話し合いが、あたしの中にある何かを変えたせいだろうか。
それとも、ただ単に感情が表に出やすくなったのかな。多分いいことなんだろうけど。
「……どうだった?」
声色がいつもより暗い。まるで自分の受験番号を探しているような様子に、なぜだかあたしの心は大らかになっていく。
まったく、こんな時はいつものように明るくしてくれていいのに。なんてことを考える余裕さえあった。
「うん、あたし決めたよ。テオドラさんのリトリエになる」
途端、バルトロメアの様子が一変した。
大きく目を見開いたまま、両手で唇を覆っている。全身が小刻みに震えているのは、決して寒いからというわけではないだろう。今はまだ太陽が沈むような時間じゃない。
「おめでとう、ナツミちゃん!」
そしていつものように抱き締められた。けれど、今更こんな不意打ちに驚くあたしではない。テオドラさんとの会話で成長したんだから。
バルトロメアの体にそっと腕を回して抱き返す。祝福の気持ちをあたしからも伝えるために。
「ありがとう。バルトロメアが支えてくれたおかげだよ」
「ううん、ナツミちゃんの実力だよ。アタシはただ一緒にいただけだもん」
「それが良かったって言ってるのに」
とりとめもない言葉のやり取りをしながら、あたしたちは熱い抱擁を交わしたのだった。
通行人が普通に歩いている道のど真ん中で。
「……えっと」
気付いた時には既に遅く。
その後、あたしは真っ赤な顔で俯きながら中央庁へ向かうハメになったのだった。
ちなみにバルトロメアは当然のように平気な顔をしつつ「赤くなってるナツミちゃんも可愛いなあ」と余裕たっぷりだった。
そして、色々な手続きやあたしの引越し作業が終わった。思えばあっという間の数日だった。
これで名実共にあたしはテオドラさんのリトリエになったわけだ。
なんだかムズムズするような達成感が心地良い。見える世界の色彩まで明るく変わったような気もする。
これが生まれ変わった感覚ってやつなのかな。
悪くない。やみつきになりそう。今ならなんだってできそうな気分だ。そう。あたしは新たに生まれ変わったんだから。
そんな心躍る状態のあたしだけど、そうやって気を紛らわせていなければ緊張に押し潰されそうな現状に置かれている。
耳の奥でドクドクと脈動が響き、喉が異様なまでに渇いて、両手の震えは抑えようとすればするほど酷くなる。なんというか自分でも追いかけきれない状況だった。
一体どうしたと問われるかもしれないが簡単なことだ。テオドラさんの家に向かう道を歩いているだけなのだから。
そこにはもちろん今日からテオドラさんとの共同生活が始まるんだという意味合いと意気込みもあるし、新たな生活への不安だってある。
心の強さまでは新生できなかったわけだ。そもそも精神方面なんてそんな簡単にどうこうできたら苦労しない。
いつもなら隣で励ましてくれるバルトロメアだけど、今日はいない。あたし一人だ。
これからはあたしが自分の力で道を切り開かなければならない。ずっとその優しさに甘えるわけにもいかない。
だから、今あたしが一人でこの道を歩いているのは自分なりの決意表明みたいなものだ。晴れ渡る空と温かな空気は、あたしを祝福してくれているのだろうか。どちらでもいいけど、それならプラスの方向に受け取っても構わないだろう。
視界の片隅で小さな薄桃色の花が揺れている。人が歩くために舗装された道でも、その隙間で力強く生命の息吹を感じることができる。
ふと、心のざわめきが静まる。
こんなことで安心できるなんて、本当にあたしって単純なんだから。
かすかに感じる甘い香り。花弁に鼻を近付けているわけではないから、きっとこれは気のせいだ。
人通りもまばらな街路。思い出したかのように吹くそよ風に押されるように、ふと高い空を見上げた。
ゆっくりと目を細め、そのまま視界を黒く染めていく。
目を閉じたのは数秒だけ。勢いよく目を見開いて光を取り入れる。
よし。もう大丈夫。
緊張が消えたわけじゃない。鞄を持つ手には今も余計な力が入っている。
でもそれでいいじゃないか。
元々あたしはこういう性格なんだ。今更どうこう言っても仕方ない。等身大のあたしでぶつかっていこう。
それよりこれからを楽しまないと。
眩しいほど輝く予定の日々は、今ここから始まるのだから。




