第2話 夏海の一日(1)
「んっ……」
顔を照らす朝日の熱で目が覚めた。
どうやらカーテンの閉め方が甘かったらしい。隙間から差し込む光の筋があたしの顔面を横断している。寝返りを打たずに目を開けていたら危なかった。
「ふわあぁ……なんだ、まだ六時かあ」
いつもならまだ寝ている時間だけど、変に目が冴えてしまった。何か変な夢を見ていたような気がするんだけど思い出せない。
まあ、夢ってそういうものだし気にするようなことじゃないよね。
夢の内容を思い出して記録し続けたら頭がどうにかなるって聞いたことあるし、深追いしないに越したことはないでしょ。
せっかく早く起きたことだし、居間に下りて朝食をもらおうかな。
起きてすぐは何も食べる気にならないけど、このまま部屋に居続けたら間違いなく二度寝して後悔するから体を動かさないと。
寝癖で跳ねた髪をそのままに部屋を出る。
居間に向かうついでに洗面台の鏡で確認すると、寝ぼけた顔にボサボサのセミロングが合わさって妙な味わいを出していた。とても外出できるような姿じゃない。
身長は高くも低くもない。体重も普通だし、スリーサイズはお察し程度。
こんな見てくれなのになぜか人に懐かれやすい体質を持っているけど、あたしには平均的という言葉がぴったりだ。
それが当てはまらないのは現状くらいか。どんなにくすんだ日常でも慣れてしまえば楽園だ。
慣れてしまう、ということ自体がいけないのはわかっている。
だけど、変わるには相応のエネルギーが必要になる。今はその力を蓄える充電期間なんだ。
「おはよー」
「あら夏海。今日は早いのね」
眠気が取れない目をこすりながら居間の戸を開けると、朝の支度で忙しそうにしている母が出迎えてくれた。
我が光浪家の家事全般を支える母は、結婚前まで銀行員として働いていた。
そこで知り合った男性と職場結婚し、専業主婦となったところへあたしが生まれたというわけだ。
「変な夢見たせいで目が冴えちゃってさ」
「朝ご飯はどうするの?」
「食べる。適当な残り物とかなんでもいいよ」
一般的な核家族である我が家。しかし、それを構成する一員のあたしは世間からはみ出した異端者である。普通なら、朝は慌ただしく出勤や通学の準備をするものだろう。
そんなこととは無縁のあたしの身分は、学生でも社会人でもない。ニートやフリーターと名乗ることもできず、変な溝に入り込んでしまった。
光浪夏海。あたしは現在、浪人中なのである。
「うーん……何食べようかな」
冷蔵庫の中身を物色したが、目ぼしい食べ物は見付からなかった。
けれど、なんでもいいと言った手前ここで引くわけにはいかない。
結局、冷えたキンビラごぼうを摘まむことにした。レンジにかけようか少しだけ悩んだけど、寒い時期でもないし別にいいかなと適当な結論を出しておいた。
ニュース番組に目を向けてチビチビ食べていると、居間と両親の寝室を繋ぐ引き戸が開かれて父が顔を出した。
その姿は何年も見慣れているため特に驚きを感じることもない。
「おはよう……なんだ夏海、今日は早いな」
下着姿であくびを噛み殺しながら娘の前に現れるような人だけど、これでも某大手銀行の支店長をやっているから侮れない。
業界での知名度も高いようで、名前で検索すればスーツを着た本人の画像が出てくる程度には有名だ。
「おはよ。てかお父さんまでお母さんと同じこと言わないでよ。あたしが早く起きたって別にいいじゃない」
「いやいや、悪いなんて言ってないさ。ただ、感心だなって思っただけだよ」
困り顔で弁解するその様子からは、支店長の威厳なんて微塵も読み取れない。最近はお腹も膨らんで頭皮も寂しくなりつつある。
だけど、あたしはそんな父を尊敬している。家庭と仕事をきちんと分けている証拠がこの緩みきった態度なんだってわかっているから。
そもそも、なんの苦労もなしに支店長の地位まで上り詰めることなんて、コネでもなければどう考えたって不可能だ。
あたしは最近になってようやくそれに気付いた。
だからあたしも何か一つやり遂げてやろうって思ったんだけど……結果は言うまでもないし言いたくもない。
とまあ、これであたしの家族がどんな人間なのかって少しはわかったと思う。
もう少し細かく説明すると両親共に上京組だとか嫁姑問題とは無縁だとか色々あるけど、その辺りは別に必要ないだろうから置いておく。
結論だけ言えば、紆余曲折があったけど今はこの郊外に建つ一軒家でそれなりに幸せな日々を過ごしているってことだ。
緑が多くて静かな雰囲気でありながら、最寄り駅まで徒歩数分という好条件。そんなこの町をあたしは気に入っている。
家族仲だって悪くない。父の下着は一緒に洗濯しないで、なんてことを言った覚えもない。多少の反抗期はあったかもしれないけどそれは誰にでもある歳相応の範囲内だ。
それに面と向かっては言えないけど、両親のことは好きだし感謝もしている。
だからこそ、浪人という現状が情けなくて申し訳ない。なんとかしようと足掻いた結果がこれだから尚更だ。
どうにかしたい、という気持ちはある。
きっかけさえあれば……と願い続けてどれくらいたったのだろう。
今もそんなものは現れない。
「さぁて、そろそろ行くとするか」
いつの間にか食事と着替えを終えていた父が立ち上がった。
考えごとに意識をやっていたせいで、周囲の状況が一瞬で切り替わったように感じる。
高い身長を着慣れたスーツで包む姿に母が付き添っている。今までも毎日続いてきた風景だ。
「今日は何時くらいになるかしら」
「そんなに遅くはならないだろうな。もし何かあったら連絡する」
「わかったわ。いってらっしゃい」
「いってらっしゃーい」
最後にあたしも見送りの言葉を投げておいた。座ったまま手を振ると、振り向いた父が小さく頷いた。
扉の開閉音を聞きながら、これまたいつの間にか置かれていたコーヒーに手を伸ばす。ブラックの苦味が眠気を少しだけ消し去ってくれた。
コーヒーを作ってくれた張本人である母は、居間に戻ってくるなりこう言った。
「さてと……洗濯物干してきちゃうけど、夏海はまだここにいるの?」
「んー、もう少ししたら部屋戻るよ」
「そう。なら電気とテレビ消していってね」
主婦のお手本みたいなことを言って、母は忙しそうに居間を後にした。今日はよく晴れているし、洗濯物も乾くだろう。
「……ふう、ごちそうさま」
キンピラごぼうだけでも意外と満腹になった。
朝は軽めに抑えておくのがいいとか言うけど、それだと昼前にお腹が鳴ってしまうのはどうしたらいいのだろう。
コーヒーを飲み終えるまでの暇潰しに、テレビに流れるニュース番組をぼんやりと眺めてみる。
昨夜犯人が逮捕された詐欺事件についてコメンテーターが難しいことを神妙な表情で語っている。
芸人からタレントへと転身した司会の男が話題を振り、それを受け取ったコメンテーターが独自の理論を展開する。
そこに意見を差し込むインテリ女優……昨日もこんな展開だった。毎日同じことやってて飽きないんだろうか。
テレビから新聞へと目を移す。
社説や投稿コーナーを流し読みして、あそこの株が暴落しそうだと適当な予想を立ててみた。投資なんかしてないけど。
いい時間になってきたし、そろそろ部屋に戻ろうかな。
言われた通りにテレビと電気を消して居間を出る。使い終わった食器は自分で洗っておく。それくらいやらないと自分の気が済まない。
階段を上ると、ベランダで洗濯物を干す母の姿が見えた。こちらに背を向けて、シャツのシワを伸ばしている。
これも毎日変わらない光景だ。
同じ内容の家事を日々繰り返している母を見ていると、胸の奥に得体の知れない何かが重く沈みこんでしまう。
その圧力に飲まれたあたしは、たった一つこんなことを考える。
あたしは一体何をしているのだろう。