閑話 彼女の決意
太陽はゆっくりとその姿を現し、襲撃の夜は明けていく――。
一夜にして大量の喪失を味わった彼女には、誰も頼るべき存在がいない。
たった一人では何もできない少女が今後どのようにして生活していくか。
それが大きな問題となった。
通念上の考えでは、孤児院が属していた国で保護されるべきであろう。
しかし、その国は襲撃後の復興作業に追われていた。彼女一人を特別扱いして満足な待遇を用意するだけの余裕など生まれるはずもない。
またしても彼女は何も得ることができない。
そして、残酷な現実さえも彼女は無表情で受け止めていた。
いや、それが非情であることを理解する心自体が消えていたのだ。
このままでは、彼女の未来が闇に閉ざされる。
そんな時に一筋の光が差し込んだ。
彼女を救った恩人が名乗りを上げたのだ。自分が彼女を引き取り、責任を持って育てると。
その国にとって好都合とも言える申し出が却下される理由などない。
甘ったるい激励の言葉をその背に浴びながら、彼女は今まで育った国から送り出された。
眩しい朝日は何も祝福してくれない。
彼女は小さな手を引かれるまま、恩人と共に歩き出した。そこには自分の意思など少しも介在していない。
旅路の途中、彼女は様々な話を聞かされた。これから向かう国がどのようなものなのか。そこはどんなに素晴らしい場所なのか。
そこには、新たな住人となる彼女を歓迎する意図もあったのだろう。
言葉は勝手に彼女の鼓膜を震わせる。話が途切れぬよう、必死に話題を探している姿は滑稽ですらあった。
だからであろうか。
彼女は自分に語りかけてくる女性にわずかな関心を持った。
後に考えれば、それが彼女の今後を決定する原初の光だったと言える。
恩人はセレナと名乗った。彼女は孤児院で与えられた自分の名を伝えた。この人になら名前を教えても構わない。そう思えたのだ。
セレナに名前を呼ばれると、彼女の心に温かな日差しが差し込むようだった。
そして、それは自分がセレナを呼んでも同じことだった。
彼女のように幼い人間を新たに住まわせるなど、簡単に済むことではないだろう。まして孤児院出身という「訳あり」の存在である。
それでも彼女が一切の問題もなく迎えられたのは、セレナの尽力があってこそである。
表には出さないが、彼女も雰囲気程度に感じるものがあった。
彼女はセレナが暮らしている家に住むことになった。
それからの日々は、彼女にとって初めての連続だった。
孤児院での生活が劣悪だったわけではない。大人の女性と暮らすことが新鮮だったのだ。
そしてその女性は自身の恩人でもある。彼女がセレナに並々ならぬ興味を持つのも必然だった。
彼女はセレナの職業に注目した。
政府の役人として働くセレナは、主に外交関連の職務に当たっている。他国へ会談のために出張することも珍しくない。
その一環で彼女が救われたのである。
もしセレナがあの国へ出張していなければどうなっていたか。無益な想像は彼女の背筋を震えさせる。
けれど、そんな時は決まってセレナが優しく包み込んでくれる。
彼女は温かい安息の場所を手に入れたのだ。
仕事柄やむを得ないことではあるが、セレナは長期間家を空けることが多い。
留守を預かることに不安を感じたのも最初の頃だけ。セレナに再び会えた時の喜びを知ってからは、笑顔で送り出すことさえできるようになった。
帰りを待つ間、彼女は様々なことを考えた。
自身のことから未来の生活まで。過程は無数に枝分かれするが、結論はいつも同じところへ辿り着く。
セレナに近付きたい。
次第にその想いは強くなっていた。
その名も知らぬ感情に、彼女自身が身を焦がされるほど。
大抵の場合、一ヶ月程度でセレナは戻ってくる。出張は定期的な職務であり、一年の半分程度がその時間にあてられる。
出張の対価として休日と手当が与えられ、そこで過ごすセレナとの時間が彼女は好きだった。
特別なことはしない。年頃の子らしい遊びを要求することもなければ、どこかへ出かけるということもしない。
触れられるほど近くにセレナがいる。それだけで十分幸せを感じられた。
彼女にとって、ただ一人だけこの世で心を許せる存在。
それがセレナだった。
セレナと過ごす日々の中で、彼女は様々な知識を会得していった。それらは特殊な役職に就くセレナから教えられたものである。
自分から頼んで学んだ部分もある。セレナに並々ならぬ興味を抱いている彼女だからこそ、多角的な関心を持つことができたのだ。
知識が増えるたびに彼女は達成感を覚え、それだけセレナに近付けた喜びを得るのだった。
その他に、戦闘術も教わった。これも彼女がセレナに要望を出した結果である。
防衛された国内から出れば、いつ襲撃を受けるかわからない。関係が悪化している魔物はもちろん、盗賊のような無法者にも注意を払わねばならない。
つまり、出張を生業とする者は自衛の手段を持つことが不可欠なのである。
事実、セレナは卓越した戦闘技術を持っている。そうでなければあの夜、彼女を救うことなどできたはずがない。
それでも最初から並外れた強さを持っていたわけではない。未熟な頃その背中に刻まれた傷跡を戒めとし、弛まぬ努力と鍛錬を重ねた結果なのである。
彼女にはその傷が勲章のように思えた。
最初に見た時は驚きが大きかったが、それにまつわる話を聞かされてからは考えが変わっていたのだ。
セレナは彼女の申し出に戸惑った。
戦闘の手法を教えるということは、彼女に危険を及ぼしかねないからである。それに、力を制御する心の持ち方も習得させなければならない。
しかし、そんな苦悩も最初のうちだけであった。彼女の懇願する様を目の当たりにして、その意思を潰してはならないと思うようになった。
彼女がここまで必死になるのには何か理由があるのだろう、と考えたのだ。
加えて、我を通すようなことを初めて言われた衝撃もあった。不思議と心が温かくなるのをセレナは感じていた。
以降、セレナと彼女の新たな二人三脚が始まったのである。
そんな生活を続けるうちに、彼女に人間らしい感情が表れるようになった。襲撃を受けて以来薄くなっていた彼女の精神が、少しずつ力を取り戻していったのだ。
国の人々が彼女に対して好意的に接していたのも一因であろう。
国柄の違いか、その空気は襲撃を理由に彼女の受け入れを拒否した国にはなかったものである。
何もかもが順風満帆に進んでいた。
彼女はようやく手に入れた安息に浸り続けていた。
セレナに出張命令が下ったのは、そんなある日のことだった。
特別なことなどなにもない、普段と同じ他国への旅。セレナも彼女も、そこに疑問を感じることなどなかった。
一ヶ月が過ぎた。通常ならば出張が終わる頃である。
セレナは戻ってこなかった。
それでも彼女は待ち続けた。
今までも数日帰りが遅れることはあった。だから予定日を多少過ぎても、セレナと再び会う時への期待が高まるだけだ。
セレナはいつものように疲れを感じさせない顔で、彼女が待つ家の扉を開けるに違いない。
彼女はそう信じて疑わなかった。
その望みは叶うことなく、時は緩やかに流れていく。
更に一ヶ月が経過した。
それでもセレナは戻らなかった。彼女一人では家の中はあまりにも広すぎた。
平静が崩れていく。
時は流れ、一つの小さな動きがあった。
政府からの使者が彼女を訪ねたのである。
使者は彼女にセレナの情報を伝えた。この数ヶ月、政府もセレナの行方を追っていたようだ。
そこで得られた情報は、どれも彼女を希望の中へと引き戻すことはなかった。
セレナが出張先の国を後にしたところまでは足取りが掴めている。
だが、自国へと戻る道中で行方がわからなくなったらしい。同行者がいなかったので、消息は誰にもわからない。
失意に沈んでいる彼女にとって、使者の言葉は単語の羅列でしかなかった。
それでも時間をかけて言葉は体の奥底へ染み渡り、セレナの喪失という事実を彼女に刻む。
事態の全貌を把握した彼女は、機械のように定められた日々を送り続けた。何をどうしようなどという意思は一切なかった。
しかし、それは無気力という言葉が当てはまる生活ではない。
ただ自然に体が動いていたのだ。成し遂げるべき目標を達成するために。
長旅に必要な物を見繕い、セレナに教えられた鍛錬法を欠かさずに続けた。
国を出て、自分がセレナを捜し出す。
それが彼女の生きる理由になった。
当てのない旅であることは彼女も理解していた。
それでもこのまま待ち続けるという選択を、彼女は良しとしなかったのである。




