第10話 夏海の選択
「ここじゃな。適当な椅子に腰掛けてええぞ」
ジリオラさんが開いた扉の先には、十畳ほどの広さを持つ部屋があった。
中心に大きな机が置かれており、それを囲むように椅子が並べられている。隅にある観葉植物はあたしの背より少しだけ高い。
あたしが想像する会議室の内装そのままだ。使われ方も似たようなものだろう。
さっきナサニエルさんもそんなこと言ってたし。
「ここまで先延ばしが続いて申し訳なかった。じゃが、ようやく落ち着いて話せそうじゃな」
椅子を二個分空けて座ったジリオラさんは、その傍らに肌身離さず持っていた杖を立てかけた。
自由になった手を机の上で組み、わずかに細めた目であたしを見ている。
その視線は決して厳しさや冷たさを帯びたものじゃない。けれど人に見つめられるのはどうしても慣れない。
特に人見知りってわけじゃない、と自分では思っているけど、目を合わせるのは苦手だ。
フラフラしていた視線はジリオラさんの口元へ辿り着き、そこから言葉が紡がれる瞬間を目にする。
「そうじゃな……まずリトリエとは何かというところから話すとしようかのう」
「お願いします。あたしは何をすればいいのか、教えてください」
ジリオラさんは心得たとばかりに深く頷いて、背もたれに体重を預けた。
その拍子に軋んだ椅子の音が、あたしが生唾を飲み込む音をかき消してくれた。
「それほど難しいことではない。先刻ナツミに昔話をしたであろう。傷付いた者たちへの献身をもって、安らぎを提供するのがリトリエの使命じゃと」
「傷付いたってことは……看護師さんみたいなことをするんですか?」
「看護師か。特別な医療知識などは必要ないから少し違うのう。ナツミに頼みたいのは、心の寂しさを癒すことじゃからな」
「その癒すって、具体的には何をすればいいんですか?」
「それは一概にこうだとは決められんのう。人と接することじゃからな。答えも人の数ほどあるということじゃ」
うむむ。
ジリオラさんの言いたいことはわかったけど、明確な答えはぼんやりとしたままわからない。対人関係にマニュアルを求めちゃいけないってことだよね。
でも、言ってみればレンタルサービスみたいな印象を受ける。
最近はそういうビジネスもあるみたいだけど、自分で使おうという気にはならない。やっぱり金銭が絡んでくることだし、時限付きの関係なんてちょっとね。
この辺りは異世界ならではの、考え方や価値観の違いってやつだろうか。色々と似ていることが多いみたいだけど、少しはこういうこともあるよね。
なんてことを考えていたら、ジリオラさんがすべてを理解したような笑顔を見せた。
まさか心を読まれてたりしないよね?
「なに、気に病む必要はない。妙な者が紛れ込まぬよう厳重に審査しておる。事前に顔を合わせて話をすることも可能じゃから、自分の目で確かめるとええ」
とりあえず心配がいらないとわかって一安心。
こっちからも一つ質問をしてみよう。
「審査や面談って……そもそもどうやってその、リトリエってのを始めるんですか?」
「おお、うっかりしておったわい。そこも重要なところじゃったな。年寄りになると物忘れがひどくてのう」
高笑いと一緒に自虐を放ってから、ジリオラさんは話を続けた。
「まずはリトリエを求める者がここへとやって来る。そこで書類を提出し、希望する条件に合うリトリエ候補に内容が伝わる。そこで気に入れば面談をして、双方に異論がなければ晴れて成立となるわけじゃ。納得できなければ遠慮せず断ればええ。望まぬことをする必要もないからのう」
「へ、へえ……」
一連の流れは一応頭の中で想像できた。何も特殊なことはしてないけど、十分な理解を得たとはちょっと言えないかも。
まだ話は終わっていないみたいだし、何かあれば全部聞き終えてから質問してみよう。
「まあ、口で説明を続けても混乱を招くだけじゃな。こんな老いぼれよりも適した者が後々来るじゃろう。現役のリトリエじゃからな」
「それって、さっきナサニエルさんとの話に出てきた人ですか?」
「うむ。あやつもナツミが異世界から来た事情をわかっておる。滅多な者はよこさんじゃろうて」
それってつまり、あたしの教育係ってことだよね。
どんな人が来るんだろう。優しくて話しやすいといいな。もっと言うなら女の人で。
「ナツミは大切な客人でもある。ワシもできる限りの協力をするつもりじゃよ」
それは、ふとした拍子だった。
今の言葉で気になることが思い浮かんだ。なんでもっと最初のうちに訊ねなかったのか不思議なくらいの疑問を口にしてみる。
「そういえば、あたし以外にも別の世界から呼んだ人っているんですか?」
特に大きな意味もない質問のつもりだったけど、ジリオラさんの様子が少し変わていた。
滲み出る無念といった雰囲気を隠すことなく、苦々しい表情を作っている。
「それがな、おらんのじゃよ」
「えっ?」
「どうも異世界という言葉に拒否反応を起こしてしまうようでな。見知らぬ土地への不安もあるじゃろうから仕方ないことじゃ」
ってことは、あたしが異世界人第一号ってことになるわけか。
たったそれだけのことなのにワクワクしてきた自分は本当に変な方向へかぶれている。
あ、だから今ここにいるのか。
確かに普通の人だったら「異世界来てよ」なんて言われたら鼻で笑うか無視するかだろう。とんでもなく非現実的な話になるし。
「異なる世界を繋いで干渉する方法が完成して以来、何人もの素質ある若者へ声をかけてきた。しかし、そのほとんどに夢物語だと切り捨てられてまともな会話さえ困難じゃった。ここまで深く話し合えたのはナツミが初めてなんじゃよ」
チラリとしか見えなかったが、ジリオラさんの瞳が揺らいだ気がする。
不安と弱気が混ざり合ったその色は、挫折を経験した人にしか出せない。
あたしも同じだ。
受験に失敗した時はこんな表情ばかりしていた。冷たい悟りの境地へ達したつもりになり、いっそすべてを諦めてしまおうとも考えた。
だからだろう。
あたしはほとんど意識せずこんな質問をしていた。
「……どうして、そこまでして探し続けるんですか?」
あたしは立ち止まってしまった。けれどジリオラさんは立ち向かった。その差はどこにあるのだろう。
人間性だなんてつまらない答えは期待していない。目標を立てるのは誰にだってできる。
けれど折れずに突き進むことは難しい。ジリオラさんはそれに必要な何かを教えてくれそうだと思ったのだ。
「ワシはな、新しい風を吹かせてみたかったのじゃよ」
遠くを見るような目になって、ジリオラさんは語り始めた。後ろ向きな光はもうそこには窺えない。
「リトリエは安定と栄誉を兼ね備えた役職じゃ。しかしな、だからこそ変化が起こりにくい。それでは未来への先行きも見えないのではないかと考えてな。今まで大丈夫ならこれからも安心だ、などという保証など存在せんからのう」
持論を力強く語るその姿は、前と変わらない自信に満ち溢れていた。
長い歴史を歩み、世界のすべてを見てきたと言われたら素直に信じてしまいそうな威厳までその身にまとっている。
「異世界を繋ぐ術が完成した時、ワシは真っ先に異文化交流を目指した。それがこの国をより素晴らしいものへ変えると信じておったからのう。そうやって出会ったナツミは、いわば今後の国を担う先駆者となるわけじゃ」
「あ、あたしがですか?」
何を言っているんだこの人は。あたしにそんな器があるはずないじゃないですか。
ちょっとだけ心が躍ったのは置いておくとして。
「ナツミにはその素質があるからのう。元来持って生まれたそれは人を引き付ける。思い当たることはないか? 周囲に集まる人が皆、ナツミへ好意的に接しておったはずじゃ」
確かにそうだ。心当たりがありすぎる。
今はもう繋がりが薄くなってしまったけど、クラスメートはみんな仲良くしてくれた。
女性同士のドロドロした実態なんて無縁だったし、それ以前にも対人関係で苦労した記憶はあまりない。
今でこそこんな有様だけど、昔はいわゆる「ぼっち」と呼ばれる状態にはならなかった。一緒に登下校したり昼食を囲む友達と楽しく過ごしていたのだ。
「思い当たる節があるようじゃな。それは他の誰にも真似できない一種の才能じゃ。人を引き付ける能力など、滅多に習得できるものではないぞ」
自分に秘められた力がある。
そんな絵空事が実在するなんて、今この瞬間まで信じていなかった。それらは空想だとわかった上で好き勝手に思い描いて楽しんでいたのだから。
けれど、告げられた言葉はあたしの考えを一変させた。
まだ半信半疑だけど、それはつまり心のどこかで自分だけの能力とやらを信じていることになる。
ジリオラさんが嘘を言っているようには思えない。真剣な様子は一瞬たりとも崩れていないのだから。
「……その、人を引き付ける能力、でしたっけ。それが一体なんの役に立つんですか?」
「リトリエにおいて重要なのは相手の心を開かせることじゃ。表面的に接するだけでは真の癒しなど程遠いからのう。しかしナツミならば、意識せずともそれが可能になるわけじゃ。心の奥へ続く道を向こうから作ってくれるのじゃからな」
実感はない。
たとえそんな能力があったとしても、今まで意識して使っていたわけではないから当然だ。
だからといってジリオラさんの言葉を突っぱねるつもりもない。
誰かの心を動かすという大仕事を任された喜びが、その期待に応えるべきだとあたしの背中を押している。
あたしは伸ばされた手を掴むだけでいい。
そうすれば変われる。そのためにあたしはここへ来たんじゃないか。
「本当に、あたしでいいんですか?」
だけど、不安を完全に拭い去るのは難しい。
受験の不合格を知ったあの日、あたしは世界から用済みだと切り離された感覚を味わった。
その余波はいつまでたってもあたしの片隅にこびりついて頭を俯かせる。
迷いが捨てられない。
求められた嬉しさと、変化への恐怖。
決断をせずに立ち止まっていれば傷付くことはない。それを理解してしまったからこそ動けずにいる。
もう、あんな思いは二度としたくないから。
「ナツミだから、こうして頼んでおるのじゃよ」
その声に顔を上げると、ジリオラさんの優しく緩んだ表情があった。
見る者を無条件で安心させるようなその笑みは、きっと長年の経験で得た技術なのだろう。
「ぜひ、我が国初の異世界人リトリエとなってほしい。ナツミの力が必要なのじゃ」
重く真っ直ぐな言葉を、柔らかく穏やかな笑顔で伝えられた。
そこまでしなくても、あたしの心は既に大きく揺れているのに。
話を聞く限りでは、こちらに不都合なことなんてない。帰ろうと思えばいつでもできるみたいだし、時間を調節できるから不自然さもないという優遇ぶりだ。
考えるほどに断る理由が消えていく。
誰かのために何かをするということに興味がないと言えば嘘になる。自分にしかできないことを成し遂げたい欲もある。
そうやって認められることで変わることを、あたしはずっと前からこの胸に秘めていたんだ。
それなら迷う必要なんてない。あたしには踏み出す意思がある。ジリオラさんはそれを必要としている。
もっと早く気付くべきだった。
それはとても単純な答えだということに。
「……あたしでよければ、やってみようと、思います」
背中と手が汗ばむのがわかる。途切れた言葉を繋げるたびに全身が熱を帯びていく。
なんだろう、この気持ち。じんわりと涙まで滲んできたけど、決して嫌な気分じゃない。
高揚感、というのが一番適しているのだろうか。
ともかく、今のあたしにそんなことを考える余裕なんてこれっぽっちもない。
ただジリオラさんが言葉を返してくれるのも待つばかりだ。
「ありがとう、ナツミ。どれだけの謝辞を並べても足りぬほど感謝しておるぞ」
「そんな、大げさですよ」
「大げさなものか。今この瞬間、ラクスピリアに新たな歴史の一歩が刻まれたのじゃ。これを喜ばずしてどうする。ナツミは我が国の英雄じゃよ」
力の込められた言葉が示す通り、ジリオラさんは深くじみじみと頷いていた。組んだ手にも力が入っているようで、その喜びがどれだけ大きいのかが読み取れる。
もしかして、あたしって知らず知らずのうちにとんでもない決断をしちゃったのかも。
英雄とか言っているし、将来あたしの名前が教科書に載ったらどうしよう。
「やれやれ、断られたらどうしようかと気にしておったから心臓に悪かったぞ。老いぼれには厳しい仕事じゃったわい」
そうしてジリオラさんは前と同じ高笑いを見せてくれた。
それほどまでに達成感があるのだろう。その原因があたしにあると考えたら、なぜかくすぐったいような気分になる。
なんだか、それなり以上にやっていけそうな気がする。根拠はないけどそう思えた。




