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アルバイト 1

作者: 南野 国賴

 あの目をどう表現したらいいだろうか。

 

 出勤のラッシュにはまだ早く、それでもそろそろ人が出始めてきている早朝だ。

 いつもどおり電車に乗り込んでまず異様さに気付く。いつもと何かが違う。目が泳ぐ。

 やがてそれが何か判る。臭いだ。そうだ臭い。一日の初めには相応しくない。

 いや相応しくないと言うよりこれから仕事をはじめる早朝の爽やかな時間には絶対に在ってはならない臭いだ。それもこんな都会のど真ん中で。

 都会を離れ自然の中をドライブしている時、開けっ広げいる窓から涼しげな風と共に牛舎の匂いや鶏糞の香りが漂って来る事がある。

 しかし、たしかに臭いが我慢できないものでもない。むしろ田舎が感じられいい香りだと思う人もいるかも知れない。

 だが今臭っているのは明らかに違う。人糞だ。

 たとえ清々しい大自然の中でもこれを良い臭いだといえる人はあまりいないだろう。

 自分が持っている汚い物だからだろうか。

 昔式の汲み取りなどでバキュームカーのあの臭いがしたら大急ぎで窓を閉めてしまう。 

 とにかく人糞というのは臭い。それが臭っているのだ。こんな朝っぱらから都会の、しかも電車の中で。

 次に目が探す。原因を突き止めないといけない。何処からの臭いか。まさか自分じゃ無いだろうと、靴の底を調べたり洋服のチェックをする。

 自分では無い様だが臭いの元を見つけない事には安心できない。そっと息を吸いながら臭いの方向を探しつつ周りの様子を伺う。

 そしてそこに見つける。髪は伸び放題のむさ苦しい二人組を。凝視する。そしてその目線はやがて憎しみを込めた敵意の視線へ変わる。

 臭いの元はどうやらこの二人らしい。

 臭い。とにかく臭い。尋常ではない。

 どう見てもこれから仕事に行くようには見えない。だが酒を飲んでいる風でもない。 

 薬でもやっているのだろうか。こんなに臭いとは脱糞してるに違いない。  

 目が据わっている様にも見える。自分たちの状況が判っているのか。糞を漏らしたまま電車に乗って来て誰も気付かないとでも思っているのか。

 いや、下手な事は言わない方がいいだろう。しかしこの臭いは堪らない。もし臭いがこちらの洋服にでも染み付いたら大変だ。今日一日会社には居辛くなる。

 何かに付け一言を言わないと収まらない上司など黙ってはいないだろう。

 移動しよう、静かに。そう思った時ドアが閉まる。遅かった。電車は静かに走り出す。

 回りの人間の目の動きで二人を気にしてるのが分る。迷惑そうな目。さげすんだ目。そして敵意をあからさまに出している目。

 あの二人組は立ったままだ。二人の前のシートは空いてるが誰も座ろうとしない。二人組も知らん顔をしてる。それはそうだろう。 

 もし脱糞したまま座ったらどういう事になるか、考えただけで恐ろしい。そうか、理解は出来ているのかもしれない、今の自分達を。

 なるべく距離を置きその二人を見ていた。 

 次の駅で新しい客が乗ってきて人の少ない彼らの周りに陣取る。

 中にはなんと二人の前の空いてるシートへ座り込んで自慢げな顔をしている者もいる。

 しかしやがて何故そこが空いてたかを理解する。そして腰を上げる。次の駅で降りるならある程度我慢も出来ようがまず無理だ。そして再び二人の周りに空間が出来る。

 そんなことを五駅程繰り返し、そして降りて行った。


「全く、あれは何だったんだ」

 俺達が降りた後、悪夢の様な出来事を思うだろう。俺達が降りたからといって直ぐに臭いが消える訳でもない。

 後から乗り込んで来た何も知らない客は、誰かが屁をこいたと思うかも知れない。

「まったく最悪な一日の始まりだ」

 皆そう思い、自分が屁の犯人にされては大変だと、わざとらしく鼻を啜ったりするかもしれない。

 駅から家まで早足で歩いた。共同生活をしていた二人はどちらも黙っていた。ただ情けなかった。何故こうなったんだ。こんな事をするために東京に来たんじゃない。

 俺たちには夢があったんじゃないか。そうだ、その為に今辛抱しているんだ。あと二日だ。あと二日我慢したら辞めよう。

 使い捨ての様な短期のアルバイトだった。

「うちでチャンと就職しないか」社長が言った事がある。

 でも、もしそれが本気だったら今日だって、通勤用に軽トラの一台くらい貸してくれてもよかったのにと思う。

 一晩中糞まみれになり、臭いを振り撒きながら通勤電車に乗る。そんな事の心配まで頭が回らない程どうでもよかったという事だ、俺たちは。


 仕事は下水管の掃除だ。

 車の少ない夜中にするのが殆んどだ。仕事自体はそれ程苦にはならない。

 簡単に説明をすると長いホースの先端から水を逆流させて泥を集め取る、という事だ。

 そしてその小さな下水管が大きなマンホールへ集まる。実際は直径二、三メートル、深さも五メートルもないかも知れないが、夜中の暗闇で見たらとてつもなく大きく深く奈落の底まで続いているようだった。

 そこに集まった下水は蒸発しゴミは沈殿し固まっていく。 

 ゴミといっても早い話が糞だ。半年や一年溜まった糞は固く、地上からのバキュームでは吸いきれない。そこで人海戦術となる。

 クレーンでドラム缶と一緒に降り、スコップで掘り起こしすくい取る。硬いといっても掘り起こした糞は柔らかい。

 ドラム缶へ入れる時、注意しないとシズクが飛ぶ。最初は気をつけていたが、汗をかき疲れが来たらもうどうでもよくなる。

 肉体労働ってのはそういうもんだ。空気は薄くドラム缶を上げるごとに休憩を取る。嗅覚も麻痺し臭いもなくなる。今思い返しても酷かったと思う。

 

 もう随分昔の話だ。

 今でもあの電車の中での目を思い出すと辛い。が、それより、残り二日のあの現場を終わらせたという事に我ながら関心する。

 誰もやりたがらず、途中で投げ出してもよかった様な使い捨てのアルバイトだったが、友人と二人黙ってやった。今ならとても出来ないだろう。純粋で真剣だったんだと思う。

 途中で止めたら何もかも消えてしまう気がした。

 夢は途中で終わってしまったが、通り過ぎた時間が愛おしく微笑んでくれた気がした。

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