「その橋は、あなたが渡り切る前に消えますよ」~婚約破棄されて追放された朝露錬成のギフト令嬢は、王家が壊した硝子の橋を独り占めして幸せになります~
「セレネ・アルディス、貴様との婚約を破棄する。国境の硝子橋を朝露で維持できぬ無能など、王家に不要だ」
王太子レオンハルトの声が、大理石の広間に高らかに響いた。
ずらりと居並ぶ貴族たちの視線。くすくすと漏れる嘲笑。そのどれもが、私——セレネ・アルディスに向けられている。
……ふうん。
私は淡青の瞳を伏せて、静かに息を吐いた。
『誰でも維持できる、ね。前世で〈朝露は蒸発する〉って理科の授業、この人たち受けてないのかな』
前世、私は現代日本の橋梁設計士だった。過労で人生を終え、気づけばこの剣と魔法の世界——アルディア王国の伯爵令嬢に転生していた。
そして授かったギフトは【朝露錬成】。地味だと嘲られる力。
だが私は前世の構造力学を組み合わせ、国境の谷にかかる『硝子の橋』を——王国唯一の交易路を——たった独りで、毎朝維持してきた。
朝露を編み、硬化させ、光を弾く硝子の橋へと変える。日が高くなれば蒸発して崩れるその橋を、毎日、毎日、夜明け前に錬成し直して。
「お姉さまはずるいのよ」
甘ったるい声。義妹のミルカが、王太子の腕に絡みつきながら唇を尖らせる。
「あんな橋、聖女の力があればわたくしにも維持できますわ。お姉さまはただ、独り占めしてサボっていただけ」
サボる。
毎朝、まだ星の残る空の下、凍える谷風に指をかじかませながら橋を編んでいたことを、サボると。
『……なるほど。じゃあ、やってもらおうかな』
私は顔を上げた。
喚かない。泣かない。ただ、静かに微笑む。
「承知いたしました。婚約破棄も、辺境追放も、謹んでお受けいたします」
レオンハルトが鼻を鳴らす。
「聞き分けがいいではないか。無能なりに身の程を知ったか」
「ええ。……ただ、ひとつだけ」
私は深く、優雅に礼をした。
「では、明日の朝から——どうぞ、ご自由に」
広間の誰も、その言葉の意味を理解していなかった。
──────
追放の準備は、驚くほど早く終わった。
もともと私の持ち物など、大したものはない。前世の記憶を書き留めた設計図の束と、錬成に使う道具だけ。
「お嬢様」
荷造りをする私の傍らで、侍女のティナが唇を噛んでいた。小柄な身体を怒りで震わせている。
「お嬢様が無能なら、この国は全員無能でございますね。毎朝、夜明け前に起きて谷へ向かうお姿を、わたくしはずっと見てまいりました。あの方々は何も知らないのです」
「ありがとう、ティナ。……あなたも、無理についてこなくていいのよ」
「まさか。お嬢様の行くところ、どこへでも」
頼もしい侍女に苦笑して、私は最後にひとつ、確認をした。
硝子の橋——あの橋には、私だけが知る仕掛けがある。
『魔力署名』。
橋の構造の芯に、私自身の魔力の紋を編み込んである。前世の構造力学でいう、いわば『鍵付きの継手』だ。私の署名を持たぬ者が触れても、朝露は決して硬化しない。再錬成も、維持もできない。
つまり——あの橋を保てるのは、この世界で私ただ一人。
『我慢して、尽くして、それで無能呼ばわり。もう、いいや』
私は谷を見下ろした。朝焼けに、硝子の橋がきらきらと虹色に輝いている。美しい。前世でも今世でも、私が命を注いで造った、たった一つの作品。
「橋は、置いていく。私の署名ごとね」
蒸発するのは、明日の朝。私がもう、編み直さない朝から。
私は背を向けて、歩き出した。
追放先は、橋の向こう側——竜人が治める辺境自治領。
冷酷と噂される、竜人将軍の領地へ。
──────
辺境自治領の門をくぐると、噂の竜人将軍が待っていた。
ガルド・ヴォルグレイヴ。
漆黒の鱗に、鋭い金色の瞳。見上げるほどの長身。全身から放たれる威圧感に、後ろのティナが小さく息を呑んだ。
なるほど、これは確かに冷酷そうに見える。
「……お前が、あの橋を編んだ者か」
低く、地を這うような声。
私は前世ぶりの営業スマイルを浮かべた。
「元・婚約破棄された無能令嬢です。よろしく」
次の瞬間。
ガルドの金の瞳が、かっと見開かれた。
「無能……?」
「はい」
「無能、だと? 朝露を——蒸発する朝露を、恒久構造に変える錬成が……無能……?」
真顔だった。あまりにも真顔で、彼はぐっと拳を握りしめている。
「あの橋がどれほどの技術の結晶か、貴様の国は……理解していないのか。谷底の風速、朝露の凝結点、硬化後の荷重分散——あれを毎朝独りで再構築できる者を、無能と呼んで追放しただと?!」
『……この人、わかってる』
私はぱちぱちと瞬きした。
前世の職場でも、今世の王宮でも、誰にも理解されなかった橋の価値を。この竜人は、一目で見抜いている。
「私はな、あの橋を編んだ職人を、長年ずっと探していた」
ガルドは低く呻いた。
「交易が途絶えれば、民が飢える。あの橋は、この辺境の命綱だった。それを造った者に、どうしても礼を言いたかった。——それが、追放された令嬢だったとは」
威圧的な竜人が、不器用に、けれど心の底から敬意を込めて頭を下げる。
「よく来てくれた、橋の設計者よ。ここでは、お前を無能などと呼ぶ者は一人もいない」
背後で、ティナがそっと涙をぬぐったのが気配でわかった。
『……あぁ、なんだ』
報われる、というのは。
こういうことか。
──────
——同じ頃。国境の谷。
私が追放された、翌朝のことである。
義妹ミルカは、意気揚々と硝子の橋のたもとに立っていた。
「見ていてくださいませ、レオンハルト様。聖女の力で、この橋を維持してみせますわ」
夜明けの光の中、橋は昨日と変わらず美しく輝いている。私が去る前、最後に編んだままの姿で。
ミルカは自信満々に、橋へと手をかざした。
幻術のきらめきが、指先に舞う。彼女の『聖女ギフト』——その正体は、光を操るだけの幻術系。維持しているフリだけなら、確かにできる。
「ほら、こんなに簡単……」
だが。
日が昇る。谷の縁から、朝日が差し込む。
その瞬間——橋が、きらめいた。
違う。輝いたのではない。
溶けはじめたのだ。
硬化していた硝子が、みるみるうちに朝露の粒へと還っていく。編み目がほどけ、光の雫となって、ぱらぱらと谷底へ散っていく。
「え……?」
ミルカの顔が凍りつく。
「え、え、なんで?! 待って、止まって、崩れないで——!」
王国唯一の交易路が、朝日の中で、静かに、そして完全に、蒸発していく。
虹色の霧が谷を満たし——やがて、何も残らなかった。
ただの、深い谷が口を開けているだけ。
「橋が……橋が消えた……」
レオンハルトが呆然と呟く。
「聖女! なぜ維持しない!」
「そ、そんな話は聞いてない!」
ミルカが金切り声を上げた。
「朝露って……勝手に橋になるんじゃないの!? 一度できた橋が、なんで消えるのよ!? 聞いてない、こんなの聞いてないわよ——!」
誰も答えられなかった。
朝露は蒸発する。
そんな、理科の初歩すら——この国の誰も、知らなかったのだから。
──────
橋の消滅は、王国に破滅的な影響をもたらした。
硝子の橋は、王国と近隣諸国を結ぶ唯一の交易路だった。谷を迂回する陸路は、馬車で二十日以上かかる険路。橋がなければ、物流は事実上、停止する。
半月。
たった半月で、王国経済は麻痺した。
市場から輸入品が消え、輸出品は山と積まれたまま腐りはじめる。物価は高騰し、商人たちは悲鳴を上げ、民の不満は日ごとに膨れ上がった。
王宮は慌てて、方々から技師を集めた。
「朝露を硬化させよ! いくらでも報酬は出す!」
だが。
誰一人、朝露を橋に変えられなかった。
それもそのはず。朝露を恒久構造に錬成する技術など、この世界には——前世の構造力学を持つ私にしか、存在しないのだから。
さらに絶望的なことに。谷底に残された橋の基部には、私の『魔力署名』が刻まれたままだった。
他者が再錬成を試みても、署名が拒絶する。どんな高名な錬成士が挑んでも、朝露は指先で虹色に散るばかり。
近隣国は、莫大な報酬を掲げて「橋を再建できる者」を募った。
各国から集った錬成士たち。だが、全員が匙を投げた。
「これは……人間業ではない」
「署名が解けぬ限り、何人たりとも触れられぬ」
「設計者本人を連れてくるほかない」
設計者本人。
そう、この世界でただ一人、あの橋を編める者。
——竜人自治領に、身を寄せている令嬢。
王国が追放した、『無能』令嬢である。
──────
「橋の再建を、我が自治領が請け負おう」
ガルドがそう宣言したとき、会議の間の竜人たちがどよめいた。
私は隣で、静かに設計図を広げていた。
「条件は二つ」
ガルドが金の瞳を光らせる。
「一つ。橋は自治領側にのみ再建する。通行料は、すべて自治領が徴収する」
「二つ」——彼は私を見た。
「設計と署名は、セレネ・アルディスに一任する。何人たりとも、彼女の判断に口を挟むことは許さぬ」
『……いいの? そんなに私を信頼して』
視線でそう問うと、ガルドは当然だと言わんばかりに頷いた。
「橋を造った者が、橋の主だ。当然のことだろう」
当然。
前世でも、今世でも、一度も言われたことのなかった言葉。
こうして私は、再び橋を編んだ。
ただし今度は——自治領のために。
夜明け前、谷に立ち、朝露を編み、硬化させ、光の橋を架け直す。魔力署名を、より強固に、より排他的に組み込んで。
完成した硝子の橋は、以前よりもなお美しく、なお堅牢だった。
そして。
王国は、頭を下げる立場に転落した。
かつて私を『無能』と嘲り、追放した国が。
今や、通行料を払わねば橋を渡れない。物資を運ぶことも、交易を再開することも、すべて竜人自治領の——すなわち、私の許可なしにはできない。
『我慢して、尽くして、無能呼ばわりされた私が』
橋の中央に立ち、朝日に輝く硝子を見下ろす。
『今は、この橋の主』
痛快、というのは。
こういうことを言うのだろう。
──────
王太子レオンハルトが、自治領へ嘆願に来たのは、それからほどなくのことだった。
かつての華やかな美貌は、憔悴して見る影もない。
「セレネ……頼む。橋を、王国側にも架けてくれ。この通り、頭を下げる。かつての婚約者のよしみだ——」
私は橋の中央に立っていた。
朝露を編んだ、私だけの橋の上に。
「あら、殿下」
静かに微笑む。喚かない。声を荒げない。ただ、淡々と。
「わざわざ谷の向こうから、ようこそ。——それで、こちらまでお渡りになりますか?」
レオンハルトの顔に、わずかな希望が差した。彼は一歩、橋へと足を踏み出す。
その瞬間。
「あ、申し遅れました」
私は、ふっと目を細めた。
「その橋、あなたが渡り切る前に消えますよ」
「……何?」
「署名の許可、出していませんので」
レオンハルトの足元。
硬化していた硝子が、じわりと——朝露に還りはじめた。
彼の靴の下で、光の雫が滲み、編み目がほどけ、足場がゆらりと透けていく。谷底の、暗い深淵が、その透明の向こうに覗いた。
「ひっ——!」
レオンハルトは、悲鳴を上げて後ろへ飛び退いた。
必死で、来た方へと逃げ帰る。転がるように、無様に。
私は、彼の背にそっと声をかけた。
「朝露は、蒸発するんです。——ご存じありませんでした?」
『理科の授業、受けておけばよかったですね』
心の中で付け足して。
私は、王国へと続く谷を——もう二度と架けることのない虚空を、静かに見下ろした。
ざまぁ、というのは。
こんなにも、清々しいものだったのか。
──────
王太子が逃げ帰ったあと。
私は橋のたもとで、ガルドと並んで谷を眺めていた。
「……見事だったな」
ガルドが低く言う。
「あの男、腰を抜かしておったぞ」
「まあ。ちょっとした演出です。実際は、渡り切れないほどには崩しませんよ。……たぶん」
「たぶん、か」
ガルドの喉が、くくっと鳴った。竜人の、不器用な笑い方だった。
しばらく、二人で沈黙した。
谷風が、私の銀灰色の髪を揺らす。前世から数えて、初めて心穏やかに眺める朝焼けだった。
「セレネ」
ガルドが、ふいに口を開いた。
真顔で。金の瞳を、まっすぐ私に向けて。
「この橋を、二度と壊させはしない」
「……ええ。頼もしいです」
「……お前ごと」
「——」
一瞬、言葉の意味が処理できなかった。
お前ごと。
橋を守る。そのついでに、私も守る、と、この竜人は今——。
『え、それって、つまり、そういう』
前世で仕事漬けだった私は、こういう場面にひどく耐性がない。
かあっと、頬に熱が上る。感情を抑えた静かな美貌が、と評されてきた顔が、前世ぶりに——素で、真っ赤になった。
「な、なんですかそれ、意味わかりませんっ」
「事実を述べただけだが」
真顔。あくまで真顔。
背後で、ティナが「まあまあまあ!」と両手を頬に当ててニヤニヤしているのが、痛いほど気配でわかる。
『不覚』
橋は完璧に設計できるのに。
この竜人相手の距離感だけは、まったく計算が立たない。
──────
騒動が一段落した頃。
自治領を、一人の来訪者が訪れた。
灰色のローブ。理知的な眼差し。感情を読ませない、穏やかな微笑を絶やさぬ青年。
「教会から参りました。異端審問官のイーヴォ・ケレンスと申します」
用件は、義妹ミルカの『聖女ギフト偽装』の調査だという。
王国が崩壊しかけたことで、彼女の聖女詐称が問題視され、教会が乗り出したらしい。橋を維持できなかったこと自体が、偽聖女の何よりの証拠となった。
『ミルカ、いよいよ破滅か』
ざまぁの締めくくりとしては、申し分ない。
「調査にあたり、本物の橋の錬成について伺いたく。——差し支えなければ」
私は求められるまま、簡単に説明した。朝露の凝結、硬化のプロセス、荷重の分散、そして蒸発する性質を前提とした毎朝の再構築。
イーヴォは、静かに聞いていた。
そして、ふと——微笑みのまま、こう呟いた。
「……朝露錬成、ですか」
「はい」
「凝結点。蒸発。荷重分散、構造署名——」
彼は、灰色の瞳をわずかに細めた。
「ずいぶんと、こちら側ではない言い回しをなさる」
——ぴくり。
私の指先が、止まった。
こちら側ではない。
それは、まるで。
この世界の言葉ではない、と——知っている者の、言い方だった。
「……審問官様は」
私は慎重に、問いを選んだ。
「どちらの言い回しを、ご存じで?」
イーヴォは答えなかった。
ただ、穏やかに微笑んで、灰色のローブをひるがえす。
「いずれ、また。——朝露の橋姫どの」
去り際、彼はほんの一瞬だけ、振り返った。
その眼差しの奥に、確かに——見覚えのある、あの『懐かしさ』が、揺れた気がした。
前世を、知る者の。
彼は、敵か。味方か。
そして——私と、同じ場所から来た者なのか。
谷風に、朝露の橋がきらめく。
物語は、まだ終わらない。




