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【ミュート】と【ブロック】と【通報】

作者: 山崎 桜
掲載日:2026/05/27

 視界の縁にいつの間にか薄い札が三つ、ふわりと浮かんでいた。それは画面でも窓でもなく、空気の質感に溶け込むようにしてそこにあった。人の頭上にそっと掲げられたその札には、黒い文字でただ三つの言葉が刻まれているだけだった。ミュート。ブロック。通報。誰もそれに触れず、誰もそれを見ていない。見えているのは僕だけだった。


 僕の名は蓮。二十歳を少し過ぎ、夜の街の片隅で働きながら、日々をやり過ごしている。朝は遅く、昼は短く、夜は長い。仕事の合間に飲む缶コーヒーの温度や、古い電車の座席のへたり具合、雨に濡れた傘の匂いが、僕の時間を支えている。そんなささやかな手触りの中に、ある朝、世界の表面にもう一枚、薄い膜が張られていることに気づいた。膜の上に小さな札が並び、通りを行き交う人々の上に同じ札が浮かんでいる。最初は夢だと思った。だが指先がその札に触れたとき、冷たさが指先を伝い、札は確かな反応を返した。世界は、僕だけに別の言葉を差し出していた。


 最初のうちは、札の存在を確かめること自体が遊びのようだった。満員電車で大声で電話をする男の上の札を押してみると、彼の声はふっと消え、車内の空気が少しだけ静かになる。ミュートは耳栓のように、世界の騒音を切り取ってくれる。僕はその静けさに救われた。苛立ちが溶け、胸の中のざわつきが収まる。誰かの無神経な言葉に心を乱されることが減り、夜の帰り道に感じる疲労が少しだけ軽くなった。


 だが、便利さの裏側に、僕はすぐに気づいた。ミュートした相手は現実には消えない。誰かが転んで助けを求めても、僕は見ないふりをすることができる。ある日、駅のホームで老人が倒れたとき、僕はミュートの札に指を伸ばした。騒ぎに巻き込まれたくなかったのだ。指先が震え、押す寸前で止めた。誰かが助けに行った。助けは来たが、僕の胸の奥には冷たいものが残った。ミュートは心の平穏を守るが、同時に共感の筋肉を萎えさせる。僕はその夜、湯船の中で自分の手のひらを見つめ、指の間に残る水滴を数えながら、自分がどこかで小さな臆病者になっていることを知った。


 次に覚えたのはブロックの感触だった。ミュートが「聞かない」選択なら、ブロックは「存在を遮断する」選択だ。ブロックした相手は僕の視界から完全に消える。写真も、会話の断片も、思い出の端っこに残る匂いさえも、ゆっくりと薄れていく。バイト先での些細な口論が尾を引き、直人という同僚の顔が僕の中でざわついた夜、僕は無意識に彼の上の札を押した。彼はいつも笑っていたが、その笑いが僕を傷つけることがあった。言葉の端に含まれる軽さが、僕の自尊心を削っていった。瞬間、直人は世界から消えた。安堵が胸を満たすと同時に、ぽっかりと穴が開いた。


 消えた直人のことを思い出そうとすると、写真の中の彼の顔が薄れていく。アルバムのページをめくる指先に、空白が触れる。友人に直人のことを尋ねられても、説明できない。ブロックは他者を排除するだけでなく、自分の過去をも削るのだと知ったとき、僕は初めて恐怖を感じた。人の記憶は、他者との交差点で成り立っている。誰かを消すということは、その交差点を一つずつ取り除くことに等しい。僕は自分の世界の地図が、知らぬ間に書き換えられていくのを感じた。


 そして通報。通報は札の中で最も重く、最も不可逆な力を宿していた。通報を押すと、その人間は消失する。消失とは、単に視界から消えることではない。存在そのものが世界から抹消されることを意味した。記録も、記憶も、痕跡も、すべてが白紙に戻る。最初に通報を使ったのは、夜の路地で酔った男が若い女性に手を上げようとしたときだった。周囲の人々は躊躇し、誰も手を出さなかった。僕の胸の中で何かが切れた。これ以上見ていられない。僕はその男の上の札に指を置き、押した。指先が触れた瞬間、世界が震え、男は光の粒子のように散って消えた。消えた直後、周囲の人々は何事もなかったかのように立ち尽くし、誰も彼のことを覚えていなかった。僕は安堵とともに、説明のつかない空虚を抱えた。


 最初は正義のつもりだった。理不尽な暴力、差別、執拗な嫌がらせ、嘘を撒き散らす者――世界から消してしまえばいい。そう考えると、夜の街は僕の手の中にあるように思えた。通報を押すたびに、胸の中に小さな勝利の火が灯る。だが力を行使するたびに、世界は少しずつ薄くなっていった。消えるたびに、街の色が抜け、店の灯りが弱まり、誰かの笑い声が遠ざかる。僕は通報を押すたびに、世界の輪郭を削っているような気がした。やがてその削りは連鎖を生み、僕の制御を超えて広がり始めた。


 朝が来るたびに、何かが欠けていることに気づいた。最初は些細なことだった。いつも行く喫茶店の常連の顔が一人、ふっと消えている。店主はそれに気づかず、いつものようにコーヒーを淹れている。僕は席に座り、カップの縁に映る自分の顔を見つめた。誰かが消えたことを誰も覚えていないという事実は、世界の重力を変えてしまった。記憶の網目が一つ、また一つとほころびていく。僕はそのほころびを見つめるたびに、胸の奥が冷たくなるのを感じた。


 日々の中で、僕は自分の行為を正当化する言葉を探した。あの男は暴力を振るおうとした。あの女は嘘で人を傷つけた。あの上司は部下を踏みにじった。だが正当化の言葉は次第に薄くなり、やがて僕は理由を探すこと自体が虚しい行為であることに気づいた。消すという行為は、裁きでも救済でもなく、ただの消去だった。消去は世界の履歴を塗り替え、存在の証を消し去る。僕はそのことを知りながら、なお札に指を伸ばしてしまう自分を止められなかった。指先が震え、札の縁が冷たく、押すときの感触が指の腹に残る。快感と嫌悪が同居する奇妙な感覚だった。


 ある夜、僕は通りのベンチに座り、空を見上げた。星は見えず、街灯の光が薄く広がるだけだった。遠くで犬が吠え、風が枯れ葉を運んでくる。僕は自分が消した人々の顔を思い出そうとしたが、記憶は紙のように薄く、指先で触れると破れて消えた。消えた人々の残像は、僕の胸の中でだけかすかに震えている。僕はその震えを聞き取りたくて、耳を澄ませた。だが世界は静かで、僕の呼吸だけが夜の空気を揺らした。


 日が経つにつれて、街は静寂に包まれていった。最初は数人、次に数十人、やがて数百人が消えた。消えた人々の代わりに空虚が残る。店は閉まり、電車は運休し、街灯は点かなくなった。僕は自分が引き起こしたことの重さに押し潰されそうになった。通報を押すたびに、世界の色が抜けていく。僕は自分の手で世界を削っているのだと、はっきりと理解した。写真の中の笑顔がぽっかりと空白になっているのを見て、僕は嗚咽した。通報は正義の行為だと信じていた自分が、いつの間にか人々の命や記憶を奪う判事になっていた。


 残されたのは僕だけだった。街は廃墟のように静まり返り、風が空き地を吹き抜ける。空には鳥の群れすら見えない。僕は自分の行為が世界を滅ぼしたのだと確信した。だが、なぜ僕だけが生き残ったのか、その理由はわからなかった。ある日、ふと見上げると、僕自身の頭上にも小さな札が浮かんでいた。三つの言葉が並んでいる。ミュート、ブロック、通報。僕は震える手でそれを見つめた。通報の札は赤く光っていた。最後の一押しで、僕は世界を終わらせることができるのかもしれない。あるいは、通報を押すことで消えた人々が戻るのかもしれない。どちらにせよ、選択は僕に委ねられていた。


 僕は膝をつき、過去の写真を取り出した。そこには笑顔の友人たち、家族の集まり、何気ない日常の断片が写っている。だが写真の中の何人かの顔は既に消えていた。空白の部分がぽっかりと開いている。僕はその空白を見つめながら、涙が止まらなかった。通報は正義の名の下に行われたが、その代償はあまりにも大きかった。僕は通報ボタンを押す手を止めようとした。だが世界は既に変わっていた。消失の波は僕の制御を超えて広がり、戻すことはできないのではないかという恐怖が胸を締め付けた。


 最後の夜、街は完全な静寂に包まれていた。風が古い看板を揺らし、遠くのビルの窓が黒く光るだけだった。僕は立ち上がり、頭上の札に指を伸ばした。指先が通報の文字に触れる直前、ふと別の考えが浮かんだ。消すことではなく、取り戻す方法はないのか。僕はこれまでの行為を悔い、もし可能なら償いたいと願った。だが世界はもう戻らないかもしれない。僕は指を引いた。空気が震え、世界が再び動き出すことを願った。だが何も起こらなかった。静寂は深まり、夜は重く、星の光さえ届かない。


 指先は震え、僕は通報の札を押した。押した瞬間、世界は光を失い、音が消え、空気が薄くなった。人々は一人、また一人と消えていった。消失は静かで、残酷だった。笑い声も、怒声も、ささやきも、すべてが溶けるように消えた。僕はその光景をただ見つめるしかなかった。最後の一人が消えたとき、世界は完全な無音と無色の空間になった。建物はそこにあるようでいて、重力を失った模型のように薄く、影だけが残った。僕は立ち尽くし、手の中に残る冷たさを感じた。通報は世界を終わらせた。僕は自分が最後の存在であることを知った。


 孤独は深く、時間は意味を失った。僕は歩いた。足跡は砂の上に残らず、声は空虚に吸い込まれた。かつての友人たちの顔を思い出そうとしたが、記憶は紙のように薄く、指先で触れると破れて消えた。僕は自分の行為の痕跡を抱えて生きていくしかなかった。世界は消え、僕だけが残った。空に浮かんでいた札は消え、代わりに静かな問いだけが残った。問いは答えを求めず、ただそこにあった。僕は問いに答えを見つけられないまま、ただ歩き続けた。


 歩きながら、僕は過去の小さな出来事を反芻した。誰かと交わした何気ない言葉、すれ違いざまの視線、雨に濡れた傘の匂い。そうした些細なものが、消えた世界の中で宝石のように輝いた。僕はそれらを拾い集め、胸の中にしまい込んだ。記憶は脆く、いつかまた消えるかもしれない。だが今はそれを抱えていることが、唯一の救いだった。僕は自分が犯したことを赦すことはできないだろう。赦しは他者から与えられるものであり、他者がいなければ意味をなさない。だが赦しを求めることはできる。僕は自分自身に向かって、静かに言葉を投げかけた。許しを乞うような、懺悔のような、しかし誰にも届かない声だった。


 日々は続き、季節は移ろった。風は冷たくなり、街の空気はさらに薄くなった。僕は時折、遠くの方でかすかな光を見つけることがあった。それは幻かもしれないと自分に言い聞かせながらも、僕はその光に向かって歩いた。光はいつも遠く、近づくと消え、また別の場所に現れた。僕はその追跡をやめられなかった。光は希望のようでもあり、罠のようでもあった。追いかけるたびに、僕は自分の内側にある何かを見つめ直すことになった。


 あるとき、僕は古い公園のベンチに座り、空を見上げた。風が木の葉を揺らし、落ち葉が静かに舞い落ちる。僕はふと、誰かの声を聞いたような気がして振り向いた。だがそこには誰もいなかった。声は記憶の残響だったのかもしれない。僕は目を閉じ、耳を澄ませた。遠い日の笑い声、母の台所の音、友人と交わした馬鹿話。そうした音が、僕の内側でゆっくりと蘇る。消えたはずのものが、僕の中でだけは生きている。僕はその事実に慰められ、同時に深い悲しみを覚えた。生きているということは、誰かに覚えられることでもある。覚えられることは、存在の一部を保つことでもある。僕は自分が誰にも覚えられない存在になってしまったのではないかと恐れた。


 歩き続けるうちに、僕は小さな芽を見つけた。廃屋の隙間から伸びた草の緑が、灰色の世界にぽつんと色を差していた。僕はしゃがみ、その芽に触れた。指先に伝わる柔らかさは、消えたものたちの残像よりも確かな手触りだった。僕はその芽を見つめながら、初めて自分の中に小さな決意が生まれるのを感じた。消すことではなく、育てること。忘却の代わりに記憶を育むこと。僕はその芽を、誰かのためにではなく、自分のために守ろうと心に決めた。


 日々はゆっくりと過ぎていった。僕は拾い集めた記憶を、言葉にして紙に書き留めるようになった。紙は風に飛ばされやすく、雨に弱いが、それでも書くことは僕にとって祈りのような行為だった。名前を書き、出来事を書き、匂いを書き、笑い声の断片を書いた。書くことで、僕は消えた人々を自分の中に留めようとした。書かれた言葉は、誰かに読まれることはないかもしれない。だが書くこと自体が、存在を確認する行為だった。


 ある朝、紙の束を抱えて歩いていると、遠くでかすかな足音が聞こえた。僕は立ち止まり、耳を澄ませた。足音は確かに人のものだった。心臓が跳ね、僕は走った。足音の主は、薄暗い路地の先に立っていた。顔は見えなかったが、姿勢や歩き方に見覚えがあった。僕は息を切らしながら近づくと、その人はゆっくりと振り向いた。そこには、かつて僕が消したはずの誰かの面影があった。記憶の中で薄れていった顔が、今は確かにそこにあった。僕は言葉を失い、ただその人を見つめた。人は微笑み、そして何も言わずに手を差し伸べた。僕はその手を取ろうとしたが、指先が触れる直前に影は消えた。霧のように溶けていく存在を前に、僕は膝から崩れ落ち、嗚咽した。


 その日から、僕は歩くことをやめられなくなった。消えた人々の残像を追い求め、記憶の断片を拾い集める旅が始まった。旅は終わりのないものだった。僕は時に希望を見いだし、時に絶望に沈んだ。だが歩き続けることで、僕は少しずつ自分の内側に変化を感じた。消すことに慣れていた手が、やがて何かを抱きしめることを学び始めた。抱きしめるという行為は、消すこととは逆の力だ。抱きしめることで、存在は確かにそこにあると確認される。僕は見えない誰かを抱きしめるように、記憶を丁寧に扱うようになった。


 季節がまた巡り、風は少し暖かさを取り戻した。街の廃墟の中に、小さな緑が芽吹き始める。僕はその芽を見つめ、手を差し伸べた。芽は僕の指先に触れ、柔らかく震えた。僕はその震えを、自分がまだ世界とつながっている証拠だと受け取った。世界は完全には戻らないかもしれない。だが戻らないからといって、何もできないわけではない。僕はそう思い、ゆっくりと歩みを進めた。


 僕はもう二度と、札に指を伸ばすことはないと誓った。ミュートも、ブロックも、通報も、道具に過ぎない。大切なのは、それを使う者の心だ。僕は自分の心の重さを知り、選択の責任を負うことを学んだ。消えた世界の残響は、僕の胸の中でいつまでも鳴り続けるだろう。だがその残響は、僕をただ責めるだけではなく、僕に何かを教えてくれる。言葉は刃にも薬にもなる。僕はその両方を知ってしまった。選ぶことの重さを知ってしまった。


 夜が来るたびに、僕は空を見上げる。星はまだ見えないが、遠くにかすかな光が揺れている。僕はその光に向かって歩き続ける。歩くことは、記憶を抱きしめることだ。歩くことは、誰かを忘れないという小さな誓いだ。僕は消えた人々のために、そしてこれから出会うかもしれない誰かのために、歩き続ける。世界は脆く、言葉は重い。だが僕は、もう二度と誰も消さないと胸に刻み、静かに歩き続ける。


 数日後、結局僕は便利な札をタップして、音を消したり、存在を消したりしている......。何見てんだよ。お前も【通報】するぞ?

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