廻る廻る
男は、もう悪いことをした自分を覚えていなかった。
それが幸せというものだと、
信じて疑わなかった。
朝はパンを焼き、夜は子どもを風呂に入れ、
「今日どうだった?」と聞く。
聞かれた子は、だいたい「ふつう」と答える。
それでよかった。
ふつうが続く人生を、
男は初めて手に入れたのだから。
過去のことを思い出すことはなかった。
人を傷つけ、
追い詰め、
奪い、
笑って背を向けた日々。
あれはもう、誰か別の人間の記憶だった。
妻がふと聞くことがある。
「ねえ、あなたって若い頃、どんな人だったの?」
男は少し考えて、肩をすくめる。
「さあ。たいしたことないよ。
運が良かっただけだ」
それは嘘ではなかった。
彼は罰を受けなかった。
少なくとも、自分自身では。
異変は、子どもが帰ってこなくなった日から始まった。
連絡は取れた。
命もあった。
ただ、言葉が減った。
食卓で、箸を持つ手が止まる。
風呂に入っても、湯船の端から動かない。
「学校、何かあった?」
そう聞くと、子どもは一瞬だけ笑った。
「ふつうだよ」
男はその笑顔に、なぜか胸が詰まった。
理由はわからない。
でも、体が先に知っていた。
ある夜、子どもがぽつりと言った。
「ねえ。
悪いことした人って、どうなると思う?」
男は即答できなかった。
脳ではなく、喉が詰まった。
「……反省すれば、やり直せるんじゃないか」
子どもは首を振る。
「やった人じゃなくてさ。
やられた人は?」
その言葉が、男の中で何かを叩いた。
記憶ではなく、痛みを。
後日、学校から呼び出しがあった。
いじめ。
暴力。
黙認。
笑い声。
説明を受けながら、
男の視界は揺れていた。
──ああ。
理解してしまったのだ。
自分が、かつてどちら側にいたのかを。
帰り道、子どもが言った。
「パパは、悪いことしたことある?」
男は立ち止まり、空を見上げた。
思い出せない。
それでも、答えは決まっていた。
「……あるよ」
「じゃあ、今は?」
「今は、忘れてた」
子どもは少し考えて、言った。
「そっか。
じゃあ、ぼくは覚えてるね」
その声は、静かだった。
責めるでも、泣くでもない。
ただ、事実を置いていく声だった。
男はその夜、初めて泣いた。
理由のない涙だった。
いや、理由が多すぎて、形にならなかった。
自分は罰せられなかった。
その代わり、
自分が壊した“因果”が、
いちばん大切なところに戻ってきただけだ。
幸せな家庭。
忘却。
平穏。
それらは、免罪符ではなかった。
業は、
忘れた者ではなく、
守りたい者を通って、
ちゃんと回収される。
男は今日も朝食を作る。
パンを焼く手が、少し震える。
それでも、聞く。
「今日どうだった?」
子どもは少し間を置いて答える。
「……昨日よりは、まし」
それだけで、
この地獄は続いていく。
でも、
今度は逃げられない。




