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廻る廻る

掲載日:2026/01/03


男は、もう悪いことをした自分を覚えていなかった。


それが幸せというものだと、

信じて疑わなかった。


朝はパンを焼き、夜は子どもを風呂に入れ、

「今日どうだった?」と聞く。


聞かれた子は、だいたい「ふつう」と答える。

それでよかった。


ふつうが続く人生を、

男は初めて手に入れたのだから。


過去のことを思い出すことはなかった。


人を傷つけ、

追い詰め、

奪い、

笑って背を向けた日々。


あれはもう、誰か別の人間の記憶だった。


妻がふと聞くことがある。

「ねえ、あなたって若い頃、どんな人だったの?」

男は少し考えて、肩をすくめる。

「さあ。たいしたことないよ。

 運が良かっただけだ」

それは嘘ではなかった。

彼は罰を受けなかった。

少なくとも、自分自身では。



異変は、子どもが帰ってこなくなった日から始まった。

連絡は取れた。

命もあった。

ただ、言葉が減った。

食卓で、箸を持つ手が止まる。

風呂に入っても、湯船の端から動かない。

「学校、何かあった?」

そう聞くと、子どもは一瞬だけ笑った。

「ふつうだよ」


男はその笑顔に、なぜか胸が詰まった。

理由はわからない。

でも、体が先に知っていた。


ある夜、子どもがぽつりと言った。

「ねえ。

 悪いことした人って、どうなると思う?」

男は即答できなかった。

脳ではなく、喉が詰まった。


「……反省すれば、やり直せるんじゃないか」

子どもは首を振る。

「やった人じゃなくてさ。

 やられた人は?」

その言葉が、男の中で何かを叩いた。


記憶ではなく、痛みを。

後日、学校から呼び出しがあった。

いじめ。

暴力。

黙認。

笑い声。


説明を受けながら、

男の視界は揺れていた。

──ああ。

理解してしまったのだ。


自分が、かつてどちら側にいたのかを。

帰り道、子どもが言った。

「パパは、悪いことしたことある?」

男は立ち止まり、空を見上げた。


思い出せない。


それでも、答えは決まっていた。

「……あるよ」


「じゃあ、今は?」


「今は、忘れてた」

子どもは少し考えて、言った。


「そっか。

 じゃあ、ぼくは覚えてるね」

その声は、静かだった。


責めるでも、泣くでもない。

ただ、事実を置いていく声だった。



男はその夜、初めて泣いた。

理由のない涙だった。

いや、理由が多すぎて、形にならなかった。

自分は罰せられなかった。


その代わり、

自分が壊した“因果”が、

いちばん大切なところに戻ってきただけだ。

幸せな家庭。

忘却。

平穏。

それらは、免罪符ではなかった。

業は、

忘れた者ではなく、

守りたい者を通って、

ちゃんと回収される。

男は今日も朝食を作る。

パンを焼く手が、少し震える。

それでも、聞く。


「今日どうだった?」

子どもは少し間を置いて答える。

「……昨日よりは、まし」

それだけで、

この地獄は続いていく。

でも、

今度は逃げられない。



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