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異世界恋愛(要素を含む)の短編

叩いても真実の愛は出てきません

作者: 有沢楓

掃除したら出てきました。

※妹への「因果応報」はありません。

「お義姉様はこう叩かれるのがお好きなのよ」


 薄く開いた扉の向こうから小さな笑い声が聞こえて、ジニア・サザーランドは足を止めた。

 銀のトレイに乗った茶器が、動揺でカタカタと小刻みに揺れる。


 義理の妹、ミリアムの新しい青いデイドレスの腕が振られているのがちらりと見えた。それから手入れの行き届いている金色の長い髪に結ばれたリボン。

 華やかな顔立ち、誰に対しても自信ありげな態度、伸びた背筋。


 その彼女がふと目線をこちらにやったので、ジニアは何事もなかったように扉の前に立って声を掛けた。


「お茶をお持ちしました」


 ミリアムは来ることが分かっていたように扉を開くと、姉の頭の先からつま先までを眺める。

 烏のような黒髪をきつく結い上げ、義母から押しつけられた黒く辛うじてドレスと呼べる型の服、黒いブーツ。黒ずくめで色と呼べる色は、目の青しかない。


「あらお義姉様、使用人のような格好をなさって」


 ミリアムの眉が不愉快そうに潜められる。


「これは……その」

「せっかくの避暑地なのだから、羽目を外してもっと華やかなドレスでも着ればいいのに。先日、私のお古を差し上げたばかりでしょう?」

「……」

「それにお茶菓子もないのね。どうせお茶も冷めているんでしょうから、私が用意させるわ。お義姉様のお願いは、誰も気にかけないんだもの」


 そこでミリアムは室内を振り返った。


「それではわたくしは失礼いたしますわ。どうぞごゆっくり、ノーマン様――あ、先ほどのお約束、くれぐれも忘れないでくださいね」


 ジニアからは見えなくても分かる。満面の笑顔を浮かべたのだろう、彼女は美しく一礼をして、ジニアの横を抜けていく。

 メイドを連れて、子爵家の磨かれた廊下に靴の音と、ジニアだけに聞こえる声を残して。


「……さっさと出ていけばいいのに」


 颯爽と歩き去る姿をジニアは伏し目がちに、少しの間眺める。

 幼い頃は共に野原や森に出かけて花を摘んだのに、今では全く正反対だ。

 華やかで、服も菓子も好きなだけねだり、捨てて、我が儘だと噂されようが、いつだって堂々としたひとつ下の義理の妹。まるでふたりの実母の行く末のように。


 ジニアの実母は、体の弱い人だった。父であるサザーランド子爵とは政略結婚だった。

 だからジニアがまだ幼い頃病で去ってから、すぐに――そう、すぐにやってきたのがミリアムの母親の男爵令嬢で娘まで連れてきても、子爵家の人々は迎え入れて、次第にジニアから興味を失った。

 だって、「真実の愛」を貫いた二人だというのだ。そして息子を産む可能性があったのだから。


 義母はそれでも、ジニアが目障りだったらしい。

 幼い頃はマシだったが、最低限の食事と教育を与えた後は放置していた。タイミング悪く家族の輪に加われないことも増えた。

 子爵は忙しくて顧みる余裕もない――ジニアが自分の処遇について、尋ねたことはない。

 館の女主人が軽視すれば、彼女が連れてきた侍女らも軽視する。


 結局弟が生まれることなく婿取りをするしかないと決まってからますます疎まれるようになったジニアは、いつの間にか使用人のまねごとまで頼まれるようになっていた。


「……どうしたんだよ、ジニア。お茶を淹れてくれないのか」


 低めの声に突然名を呼ばれて、びくり、と背筋を震わせる。

 おずおずと顔を上げると、寝室と続きになった小さな書斎の椅子の上に幼馴染みの姿があった。

 同じ黒でもジニアと違う、艶のある黒檀のような髪と瞳。

 襟元を少し着崩していて、シャツのラフな服装でも元々の姿勢と育ちが良いのか、やはりミリアムのように貴族――貴公子然として見える。

 甘い顔立ちは社交に出ればそつのない笑顔で、それなりに女性の視線を集めていた。婿入り先を探す貴族としては及第点だ。


「ノーマン様」

「お前はちっとも打ち解けてくれなくなったな」

「ミリアムとはすっかり打ち解けられているようで、何よりです」


 ノーマン・クリフトン。

 クリフトン伯爵家の次男で、サザーランド家の客人だ。

 サザーランドとは領地も毎年夏の避暑の別荘も近く、そして年齢も近かった縁で、いつしか互いの別荘や家を行き来するようになった仲だ。

 というよりそれを狙って父親と義母が、別荘に招いていた貴族の子息達の一人だった。

 義母は彼がお気に入りで、婿に迎えようと娘を売り込んでいた――勿論、ミリアムのことだ。この国では男性しか爵位を継げない。


「あれを打ち解けてと言えるんなら、一方的にって補足しなきゃな。お前に関しては打ち解けて『くれなくなった』って言ったんだよ、ジニア。

 幼馴染みなんだし、学校も同じ美化委員会で。あの頃は先輩なんて言ってもうちょっと可愛げがあっただろ……」


 ノーマンのため息に、書斎机にお茶を淹れるジニアの胸がつきりと痛み、眉が下がった。

 その表情を見て彼はほんの少し慌てたように付け加える。


「もちろん、学生時代と成人した今じゃ、立場が違うことは分かってるけどな」

「その通りです」


 見てくれが最低限整っていれば、学校内では自由に過ごせた。友人や彼と会話することだって。美化委員を選んだのは放課後の仕事があって、家に遅く帰ってもいいからだ。

 社交界だって監視付きではあったが、参加することはできた。


 できなくなったのは、学校を卒業して一年ほどして、両親がジニアの縁談を探し始めてからだ。

 その頃にはノーマンはしばしば用がなくとも家を訪れるようになっていて、ミリアムに手紙やプレゼントを寄越し、ついでにジニアにもとくれた。

 彼を婿にできると思った両親は、家に小姑が残っているのでは邪魔だし、妹が先に結婚するのは外聞が悪いと判断したのだ。


「婚約者が決まるまでは、男性のお客様とはなるべく話をしないようにと言われております」

「それで使用人のまねごとを?」


 ジニアは困ったように微笑を浮かべた。しおれた花のようだと義母からはよく言われるから、笑うのはあまり好きではない。


「お発ちになるのは今夜でいらっしゃいますね」

「ああ。一ヶ月も世話になったな」


 ノーマンはこの一ヶ月、仕事の都合でサザーランド家の別荘に滞在していた。いや、本来は実家の別荘にいるはずだったのだが、ミリアムがねだり、彼女に甘い両親が乗り気だったから。


「……いえ、私は何も」

「それで最後にミリアムが俺に――あ、これは水だな、もう」


 お茶に口を付けたノーマンは、顔をしかめる。もう一脚のティーカップは当然ジニアでなくミリアムのためのものだったが、恥をかかせる方を誰かが――義母の息が掛かった誰かが選んだらしい。

 ジニアは仕方なくもう一方のカップにも注いで口を付ける。確かに、香りも何もしない色つきの水に近いものだった。


「申し訳ありません。ミリアムがまた新しいお茶を用意すると思いますが……」

「お茶はいいよ。それより、ミリアムがわざわざくれた服は着ないのか?」


 ジニアは眉根を寄せる。妹がどこまで彼に話したのか。

 気にはなったが、首を振る。あの服は似合わないだろう、と思っていた。思っていたが――、次の一言でほんの少し後悔した。


「じゃあ、その服でお茶を出すってことは、もうちょっと“メイドごっこ”をしたいってことだよな」

「……え?」

「実はまだ荷物の整理が終わってないんだ。大事な捜し物があるんだ。手伝え」


 ジニアは一瞬考えたが、頷いた。

 ノーマンの前からは、すぐに下がるようにと義母に口うるさく言われている。従わなければ何を言われるか分からないが、かといって彼の不興を買うのも許されないだろう。


「お手伝いいたします。お捜し物は何か伺っても宜しいでしょうか」


 彼女は控えめに、部屋の中に目を走らせる。

 来たときと同じだけのトランクが書斎机の前に置いてあり、本棚にも暖炉のマントルピースにもサイドテーブルにも、周囲には彼の私物は何も無いように見えた。


「――『真実の愛』」


 ぱっと顔を上げれば、彼の口角が上がっていた。

 ジニアはぴたりと、動きを止めた。

 それからしばらく頭の中で、何度か言葉を反芻してから恐る恐るノーマンの目を見る。


「書名ですか?」

「いいや」


 狂気に取り憑かれたり高熱に浮かされたりはしていない。

 ただ、表情は既にお行儀の良い貴公子ではない。楽しんでいるのだと判断できる。

 判断できるくらいにはかつては距離が近かった。文字通り、額をくっつけて遊んでいた頃もあった。


「大丈夫だよ、誰も聞いてない。他のメイドはミリアムが連れて行ってしまったからな」

「他の、といっても私はメイドでは……」

「じゃあ、元美化委員でも」


 からかうように笑う姿を見たのは、いつぶりか。

 今は部屋が片付いているからすっかり忘れていたが、学生時代彼も美化委員だったくせにその辺にいろんなものを置きっぱなしにしがいがちだった――それをジニアに片付けさせていた、そういう一面を思い出す。

 学生時代に引き戻されたような気持ちで、彼女は口を開く。


「ノーマン様は正気ですか、それとも、狂気に囚われておいでです?」

「正気だよ」

「より悪いですね」

「病気の方が正確かもしれないけど」

「そうとう重傷なご様子で」

「そう、恋の病……お前、呆れるなよ」


 ジニアの表情に顔をしかめたかと思うと、ノーマンは立ち上がって机を回る。


「この家に『真実の愛』があるって子爵夫人がしつこく仰るのでね、だったら最後にお見せしてから帰らないとな。

 もしジニアが隠し持ってるなら叩いたら出てくるかもしれない。逆さまにしようか、ジャンプしてみて――ほら」


 ジニアの前に立った彼はそうっと手を伸ばして彼女の頭頂を撫でるように軽く叩き、突然の接触に固まっている肩を持ってくるっと一回転させ――、


「ちょっと、待ってください!」

「まだ見付からないな」


 続いて腰を抱き、ダンスのように回転する――いや、ダンスだ。ワルツ。すっかり忘れているそれを、数歩リードされただけで足が思い出しかける。

 たった三十秒ほどだったのに、つま先を床につけたジニアはばっと体を引くと、思わず叫ぶ――昔みたいに。


「ノーマン、止めて! モノじゃないんですから、叩いても、ジャンプさせても、『真実の愛』は出てきませんってば!」

「やっといつものジニアに戻ったな」


 非難するジニアは頬を押さえる。久々に動かした表情筋が痛い。

 代わりにノーマンはジニアの首筋に目をやってから、笑いを収めると、何故か側に置いてあった茶色の羽箒を手に取って、ジニアに渡した。


「じゃあ、これから一緒に掃除をしよう、『真実の愛』を探すために」

「待ってください、ハタキなど、貴族の令息の持つものじゃないでしょう――真実の愛なんて、部屋中掃除したって出てこないでしょう?」

「……実は建築を学びに、しばらく外国へ行くことになった。それでここにある思い出の品を持ち帰ろうと思ったんだ。ご両親に許可は頂いたぞ」


 いまいちジニアは納得がいかないが、口を挟むより先に彼は自分で本棚に向かい始めた。


「両親が……」

「どこかに挟んであるかもしれないから、慎重に」

「……思い出の品ということなら手伝います」


 この部屋は、いつしかノーマン専用になっていたから、あってもおかしくない。


「でも昔からこうやって、私に片付けを手伝わせてましたよね……何故か私がお義母様に用事をいいつけられたり、叱られたりすることが分かっている日に限って、失くしたり」


 ある時は手袋を花壇に、ある時は教科書を別棟の教室に。一人で探しに行かされる日もあれば、一緒に行く日もあった。


「お前の様子を見てればよく分かる。答え合わせはミリアムがしてくれたからフィードバッグには事欠かなかった」

「……やっぱり、わざとだったんですね」


 ジニアは渋々マントルピースの上の小物をずらしていた手を止めて、非難の目を向けた。


「卒業パーティーにパートナーを誘う花をわざと忘れて、私に届けさせようとしたこともありましたよね? しかも直前の時間に、昇降口で」

「あれは驚いたな、布で巻いた謎の物体だった」

「見られたらおしまいですよ」


 感心した口調だが、分かっているはずだ。あんな日に後輩の女性から花を渡すのは、プロポーズと同じくらい致命的だってことくらい。

 それもジニアにとっては、誰かに見られて噂で義母の耳に入ったら、退学させられていたかもしれなかった。


「あの日は結局誰を誘ったんですか?」

「脈がなさそうだったから、誘うのを諦めた」

「そうですか。あ、これは写真……」


 林立する写真立ての中に、おすましして写っている小さい子供が三人並んでいた。この後近くの森に「探検」に行って帰ってきて、ジニアだけこっぴどく怒られたのを覚えている。


「俺も見付けたよ。ジニアとミリアムと一緒に作った押し花」


 残っていた絵本の中から現れる、タンポポの押し花が三本。


「こっちの箱は……石だらけですね」


 お菓子の入っていた紙箱には拾ってきたちょうどいい石。丸かったり不思議な形だったり、珍しい色だったり。

 それから他の箱には、蛇の抜け殻や宝石と間違えていたガラス片。


「今となっては、大したものではないですね」

「俺にとっては今でも大冒険の思い出だ」


 ジニアは視線を感じ、自分の額に手を伸ばす。短く盛り上がった傷跡が手に触った。



 ――二人は部屋中で、そんな小さな思い出を書斎机の上に積み上げていった。


「こんなにあったんだなあ……」


 最後にノーマンが、庭から引っこ抜いて植えっぱなしにした果樹の植木鉢を机の脇に置いた。


「これも、俺もミリアムも放置してたのに、こんなに育ってしまったんだよな」

「私が水やりしてたから、です」

「知ってた」

「知ってたならお礼くらい言ってもいいじゃないですか……これ、全部は持って行けないですね」


 にやりと笑われ、ジニアは机から目をそらして問いかける。

 積み上げて山盛りになった、殆ど忘れられていた――でも覚えがあるガラクタは、そのまま思い出の数で、ハタキをかければまた輝いて見える。

 忘れていて、忘れようとして、見たくなかった。


「……見ろよ」

「見たくない、です」

「『真実の愛』っていうのは、見返りなく相手の幸せを願うことだろ。この思い出や、この時間みたいに」


 顔を上げればジニアの視界は滲んで見えた。

 今まで積み上げてきた時間や、この掃除の時間をくれた人“たち”がもうすぐ目の前から去ってしまう――向き合いたくなかった事実が目の前に迫っている。

 目の前にいたノーマンが手をハンカチで拭うと、ぽんぽん、と優しく頭を叩かれる。撫でるように。


「こうされるのが好きなんだろう? ミリアムが教えてくれた」


 ジニアの喉がぐっと詰まる。


「ぜんぜん違います」

「何だ、違うのか?」

「これは、私がミリアムが小さい頃にしてあげたやり方で、私が好きなんじゃありません――あの子が好きだったんです。……混同、してるんですね……」


 ジニアは、幼い頃の一心に見つめてくる妹の無邪気な瞳と、今日の目の前で去って行った妹の背中と言葉を思い出す。

 「……さっさと出ていけばいいのに」なんて彼女は言ったが、目の前の、おそらく永遠の別れを前にしてもあんなふうに「我が儘」を突き通す勇気はジニアにはない。


「なんだ、そうか」

「……さあ、さっさとこれ全部、いるものといらないものに分けてしまいましょう」


 捨ててしまえばすっきりするはずだ。

 涙を拭い、顔を上げて微笑を浮かべたが、彼は全く笑っていなかった。


「お前の縁談が決まりかけているんだってな」

「……そう、らしいです」


 数日前、義母から勝ち誇ったように聞かされた。

 それは予想できていたことで、でもそんなに早いとは思っていなかった。複数人の釣書を何度かちらりと見せられただけだったから。


「らしいって、直接聞いてないのか?」

「お相手には一度もお会いしたことがないから、どんな方かもよく知らない、です」

「……そうか、やっぱり。

 ミリアムが言うには、後妻なんだってさ。別に後妻自体が悪いわけじゃないが……ジニアと同じくらいの息子がいるところに行くのは、色々と、不都合もあるだろう? しかもそいつの素行が悪いとなれば……」

「……な、何で、そんな」


 ノーマンの片手が高く上がる――そしてジニアは、咄嗟に顔をかばった。


「――ほら」


 その手首に優しく手が添えられ、下ろされる。友人であり先輩の顔が目の前にありながらジニアの顔はこわばっていた。


「……ご、ごめんなさい。私、ノーマンのこと、怖いわけじゃ……」


 叩かれることなどないと頭では理解していても、体がいうことを聞かない。さっきまであんなに自由に動いていたのに――習慣だ。繰り返し叩かれて染みついた習慣だった。

 ノーマンの顔が曇る。


「ミリアムの言う通りだったな。もっと早く決断すれば良かった」

「……」

「今まで本当に一方的に、あいつに好き放題言われてきたんだよ。『馬鹿』『意気地なし』『いつまでぐずぐずしているつもりだ』って。

 今朝なんか、視線で殺されるかと思った」


 本当に初めは、義母はそこまで冷たくなかった。けれど何年か経った頃だろうか、彼女は仲の良かった姉妹を見て苛立つようになっていった。

 ちょっとしたことで怒鳴り、手を上げるようになり――ミリアムがジニアをかばったとき、義母は余計に義妹の見えないところで彼女を叩くようになった。

 使用人は義母の機嫌を伺うから、なかなかミリアムが表立って動くことはできなかった。


 だから見かねた彼女は、我が儘に振る舞うことにしたのだ。

 ドレスをジニアのサイズで作らせて、すぐにお下がりだと渡す。お菓子を食べられないくらい求めて、残りを始末しろと言って、ジニアにくれた。

 我が儘で意地悪な後妻の妹という評判を社交界で立てられても気にしないように振る舞っていた――半分は本当だし、どうせ噂なんていつか消えるし、外国に行って本当の私を見てくれる王子様と結ばれるからいいの、と言って。

 今日のこの時間だってそうだ。メイドを連れて二人きりにして、別れの時間を作ってくれた。


 ジニアが複雑な顔で俯いていると、目の前に手が差し出される――そこには、汽車のチケット。


「……手伝ってくれたお礼、ですか」

「馬鹿、何を聞いてたんだ。今から一緒にここを出る」

「ミリアムとした、約束っていうのは……」

「ああ、あれ? 外国のいい男を紹介しろって言われてる」

「子爵家は」

「ほとぼりが冷めたら戻ってくる。いや――」


 ノーマンは再度、にやりと笑ってジニアの方に手を伸ばした。

 背後から聞こえる、聞き間違えるはずのない三組の足音に背筋を震わせたジニアの肩をもう片方の腕で抱き、


「……お待ちください、お母様! お父様も!」


 ミリアムの上げたきつい声よりも大きく音を立てて、扉が開き――ジニアが両親の顔を目の端に捉えたとき、


「よそ見をするな」


 顎が持ち上げられ、唇が塞がれ――。


「――ッ、んっ!」


 次の瞬間。


「ジニア……!」


 絹を裂くような義母の悲鳴が耳朶を打つ。


 目を見開き胸板を押し返そうとしたら、口付けの寸前で止っていた唇を離されてタイミングを失う。

 何が起こったのかと見上げようとしたら、頭を胸に抱え込まれて視界を塞がれる。


「――ご覧の通り、ご両親の反対にもかかわらず貫いた『真実の愛』によって、私も忘れ物を見つけ出しました。彼女を持ち帰らせてもらいます」


 顔は見えないが、自信ありげな声が頭上から響いている。


「いつの間にそんな、男性を誘惑するなどふしだらな!」

「誘惑なんてされてませんが、いつ頃からと言うなら、子供の頃からですよ。ジャングルの山猫から私たちを守ってくれた勇敢なお嬢さんですからね」


 その言い方では何を言っているのか両親は理解しないだろう、とジニアは思う。

 探検に行って、その辺の野良猫が飛びかかってきたので咄嗟に前に出たら、引っかかれただけのことだ。

 熱を出したにもかかわらず、やはり二人を危険にさらしたと両親に怒られたが。


「それから、伯爵家の次男を婿に迎えることをご検討いただきたい。領地経営の観点からは、彼女が後妻になるより益があると思いますが。ミリアム嬢に関しては――」

「ええ。もちろん、お義姉様なんかに誘惑される男性に用などなくてよ、のろまのノーマン!」


 伯爵夫妻が返事をするより早くミリアムの声が部屋に響けば、彼女に甘い両親は黙り込む。

 最後の一言だけが彼への皮肉で、ジニアの頭上から小さな舌打ちが聞こえた。


「全く……その通りだな。では、失礼。そこの荷物は後で取りに行かせます」

「……えっ?」


 胸に抱かれたままノーマンに半ば抱きかかえられるように部屋から連れ出されたジニアは、しばらく進んだ先で歩みが止ったので、やっと彼の胸から離れることができた。

 手を繋がれながらも肩で息をして空気を吸い込むと、異議を唱えた。


「ちょっと、話し合いは?」

「お前が目の前にいると、伯爵夫妻も俺も、お互いに冷静じゃなくなるからな。俺の両親も交えて別途する。文書でもいい」

「私、何の用意もしてないし、こんな服で外に行くのは……」

「結果論だけど、この方が『真実の愛』らしいだろ。

 服だって大人しく、ミリアムがくれたドレスを着ていれば良かったんだ。どうせあとであいつが何とかしてくれるから、とりあえずうちの別荘まで行くぞ」


 手を取られて屋敷の外に連れ出されれば、馬車が待っていた。押し込まれるように乗ると、すぐに景色が流れていく。


「――本当に今夜、外国に?」

「出発は明後日だ。それまでに決めてくれればいい。逃げるのは確定――あいつのお前への『真実の愛』を無駄にするな」


 向かいに座った彼の視線に促されて、手に握ったままのチケットを見れば、確かに旅券の日付は明後日を示していた。


「俺があげられる選択肢はふたつだ。お前が俺と結婚して外国まで着いてきて、ついでにミリアムに似合いの男を探すか。もしくは、俺と結婚してうちの家に残るか。

 伯爵家を乗っ取った後は離婚してもいい。白い結婚なら簡単に離婚……とはいかないが、自由になれる」

「結婚しない選択肢って……幼馴染みだからって、人助けのために結婚しなくても、」

「人助けって本気で思ってるのか? ……やっぱり気付いてないのか」


 はあ、と軽く溜め息をつかれる。


「同じ委員会に入ったのも、わざと色々失くしたのも。卒業パーティーの花を置いてきたのも、ミリアムをダシにしてサザーランド家に行ってたのも、というかさっきまで滞在してたのも。遠回りだったのは認めざるを得ないが」

「全部わざと……?」

「言っておくが、俺は人助けだけで結婚するほど馬鹿じゃないし、好きじゃないやつと口付けするほど……軽くも、ないし――いや一途だろこれは」


 声にどこか柔らかくて甘いものが混じった気がして、何故か、もっと綺麗に着飾っていたら良かったのにという考えがジニアの頭に浮かぶ。

 額の傷だってなかったら――そう思ったら、ノーマンの伸びた指が額の傷をそっとなぞった。


「本当は、白い結婚じゃない方が、いいんだが。どう思う?」

「あ……」


 身を乗り出されれば、見慣れたはず顔と声が子供の頃のように近くなって、懐かしいくせに何故だか胸がとたんにうるさく音を立て始めた。


「たぶん、触れるのに抗議しないくらい、お前だって、自分で思ってるより俺のこと好きだろう――俺の思い上がりじゃないなら」


 首筋に手が伸びて、立て襟の中に隠れていた細い鎖に掛かった。そうっと引き抜かれたそれが、姿を現す。先端に青い小さな宝石。

 ジニアの瞳と同じ目の色をした、昔もらった“ついで”のプレゼント。


 どくんどくんと、心臓が耳の中が騒がしい。

 腕が上がるのは怖い。でも頭を触れられるのも、口付けのフリをされるのすら不快ではなかった――不快ではなく、むしろ。


 彼女が否定できないでいるうちに、いつの間にか彼の話す主語がジニアに変わって、指が顎に触れて持ち上がる。


「いいのか。このままだと本当に口付けてしまうが」


 眉をひそめて、言い含めるような耳に落ちてから、今度はゆっくり、いやおそるおそるといった風に近づく顔から笑みが消えた。

 そして――いつまで経っても唇は近づかなくて、眉間の皺だけ増えていく。


「……避けないのか」


 そう呟かれて、困惑したように目が細められたとき、ジニアは遂に自分の心臓の音に耐えきれなくなった。


 ――なくしたと思っていた思い出も、感情も、大切なものは思ったよりずっと近くにあったらしい。

 もう失わなくていい、と思えばゆっくりと血が通っていくようで――これを自覚と彼が呼ぶのなら、そうなのだろう。


「はい」


 だから彼女は睫毛を震わせて決意を込めて見上げて、その音を止めた。



***



 その後、ジニア・サザーランドはジニア・クリフトンとなって国外でしばらく暮らした。

 サザーランド家の爵位はやがてノーマンが継ぎ、色々と面倒ごとはあったが、やがて平穏が訪れた。

 ただ、ジニアとノーマンにとってはひとつだけ解決しない面倒ごとがある。

 ミリアムはそのままノーマンが紹介した男性と婚約しているはずだが、しょっちゅう世話を焼きにくるのだ。時に彼を連れて。


「最近は妻も調子が悪かったし……たまには二人でゆっくり過ごしたいんだが」

「私がいなかったら結婚できてなかったでしょう?」


 新居の温室で、ノーマンの不満顔に対抗するミリアムは、胸を張ってそんなことを言う。

 ジニアは二人をなだめながら、前もって使用人に用意してもらったバスケットを持ち上げて見せた。


「今日は外でお茶にしましょう。お茶菓子も、昨日焼いてみたから一緒にね」


 そう言えばすぐさま二人は彼女の方を向いて笑顔を浮かべる。


「あら、それは素敵だわ――あ、ちょっと待って、彼も呼んでくるから」

「じゃあ、俺たちは先に行ってる。行こう、ジニア」


 ノーマンがさっさと立ち上がってジニアの手を引くので、そのまま庭に出れば境界線の向こうに、木立が広がっている。


「まったく、そろそろ姉離れして欲しいんだが。あと、妹離れもしてくれ」

「……それは、私もそろそろね」


 ジニアはゆっくりとそう答えて、不思議そうに見下ろしてくる顔に微笑する。

 大切な妹ではあるが、確かにお互いに子供時代はもう終わりだ。これからは互いに大人としての責任や家族が増えていくだろうから。

 それは先日、お医者様からも改めて聞いた言葉だった。


 そう、かつて自分はなれなかった両親の『真実の愛』。そんな暖かな、見返りが不要だと思えるものが宿るのは、どんなに素敵なことだろう。

 彼はどんな顔をして喜んでくれるだろう――喜んでくれる、という確信があることが嬉しかった。


「あのね、もし」


 ジニアは――それを何と切り出そうか考えながら、まだなだらかな下腹を押さえる。

 そう、例えばこんな風に言ったら。


「あの林で、綺麗な花や石や丁度いい棒を、この子が見付けたら――」

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