第四章
筆記用の筆は二本まで。硯は装飾のないものに限る。墨は固形のものは机の上においてもよいがこれも装飾のないものに限る。墨つぼは机の上に出してはいけない。ちり紙も袋から出す。試験会場には時計がないので時計は各自が用意する。受験票は顔写真が見えるようにして机の右上に置いておく。
あたしゃは、もう一〇回以上読んでくたくたになった試験要綱を穴が開くぐらい凝視しながら、文机の上に明日持っていくものを並べて過不足がないかどうかチェックしました。明日になって、足りないものがあったとしてももう取り返しがつきません。最後のページに書いてある会場図を舐めるように確認して、あたしゃは試験要綱を閉じました。しかし、一息つく間もなく、また胸中にむくむくと不安が沸き上がってきます。たまらず試験要綱の最初の一ページ目を再びめくろうとしたところで、いきなり側頭部に衝撃が走りました。パシィン!という乾いて気持ちのいい音が鳴り響きますが、不思議と殴られた箇所は痛くありません。
見ると、あたしゃの横に立った鍵坊が渾身のフルスイングを終えたところでした。どこから持ってきたのか、はたまた作ったのか、その手には大型のハリセンが握られています。
「様子を見に来てみれば、おっさんいつまでそんな荷物チェックやってんだよ!さっきもやってたよな!さっきっつっても、もう二時間も前だが、まだやってんのか!?そんなにその要綱には見るものがあるのか?そんなに持ち物が多いのか?もういいから寝ろやぁ!」
そうです。もう皆さんお分かりかと思いますが、ついに天満宮試験の前日となってしまったのです。時は一二月の半ば。この地方では例年通りすでに初雪を観測し、しんしんと降った雪によってあたしゃの社殿は辺り一面の雪景色。さながら陸の孤島です。
しかし、そんな積雪に伴う悪路もものともせず、彼は雪が降っても変わらず毎日ここを訪れ続けました。あたしゃの日々の鍛錬、向上した神気によって多少はこの神社に繋がる道に積もる雪は軽減されているのですが、それでもくるぶし以上には積もってます。そこをずぼずぼ穴をあけて彼は健気にやってくると、今日も一日頑張りますと宣言して意気揚々と学校に向かっていきます。
あたしゃももう何冊目になるかわからない祈願台帳に彼のお祈りを書きながら、あたしゃも頑張るよお、とその日の勉強を再開するのですが、今日だけは流石に彼を見送る声が震えました。いつかは来るとわかっていましたが、受験前日がこんなに緊張するものとは。
いまからじたばた足掻いたところで、やれることなんてたかが知れてんだ。今日は午前は作っておいた苦手リストアップノートを見て、午後は得意分野の総まとめをしろ。間違っても今日は苦手な問題を解き直すとかすんじゃねえぞ。士気が下がって明日が不安になるだけで、いいことなんて一つもないんだからな。という鍵坊の今日の教えのもと、今日はいつもより早めに勉強を切り上げると、胃もたれをしないようにさっぱりとした夕食を鍵坊と一緒に食べ、じゃあ明日必要な荷物をチェックしたらさっさと寝るんだぞ、と鍵坊と別れたのが二時間ほど前のことです。
けれど、いざ要綱を開いて内容を確認すると、その一文一文が気になって、何か見落としていることはないかと不安で仕方ないのです。あたしゃだって一度は布団を敷いて部屋の電気を消して寝ようとしたのですが、もう暗い部屋の中にさっきの要綱の文字が飛ぶわ躍るわで大変だったのです。叫びながら慌てて電気をつけると躍っていた文字は消えましたが、不安は消えてくれません。というわけで、あたしゃはもう何度目かになる要綱のチェックを繰り返していたわけです。
というあたしゃの言い訳を鍵坊はつまらなそうに耳をほじりながら聞くと、あー、はいはいわかった。いいもんがあるからちょっと待ってろと言って自分の社殿に戻っていきました。
しかし、なんだかんだ言って鍵坊はやっぱりいい神です。口が悪いのも、いわゆるツンデレというか、こうやって外は雪が積もっているにも関わらずちゃんとあたしゃが寝ているかどうか様子を見に来てくれますし、何を持ってきてくれるかはわかりませんが、あたしゃのためにまたこうして社殿を往復してくれるわけです。はっきりとは言いませんが、鍵坊はあたしゃのことが好きなのに違いありません。
そうして、にこにこしながら鍵坊の帰りを待っていると、ものの五分くらいで彼は戻ってきました。
「うわ、なんだよその生暖かい眼と気持ち悪い笑顔はよ。やめろ、その崩れた顔が俺に伝染して俺まで不細工になったらどうしてくれるんだよ」
予想通りの辛辣な言葉に、やっぱり鍵坊はツンデレだと思ったあたしゃはさらにうふふー、と笑みを深めたのですが、そんなあたしゃに彼は何かを手渡しました。
渡されたものを見ると、ポータブルプレーヤーです。なるほど、これでクラシックか何かを聴くことで眠りを誘うということでしょう。いささか古典的な方法な気もしますが、確かに効果はありそうです。
「プレイリストの最初のやつにいい曲を選んどいたから、そいつを聴け。たぶんすぐ寝られると思うぜ」
そういって鍵坊は電気を消しに向かってくれます。あたしゃは鍵坊の優しさに感謝しながら布団に入り、イヤホンを耳に入れました。さて、どんな優しい前奏が始まるのでしょう。細く優しいヴァイオリンでしょうか。それとも、上品で淑やかなピアノでしょうか。
しかし、再生ボタンを押すとたちまち聞こえてきたのは、その二つとはあまりにもかけ離れた、暴力的なエレキギターの絶叫でした。叩くよりも破壊しようとしていると表現した方が正しいドラミングがそれに続き、狂信的な歌詞が耳の中で爆発します。
「お前を荒魂にしてやろうかぁぁぁぁぁああああ!!!燃えろ!爆ぜろ!堕ちろおおぉぉぉあああああああ!!!!!」
あたしゃはびっくりしてイヤホンを耳から引きちぎり、呪われたプレイヤーを遠くにぶん投げました。投げられたプレイヤーはちょうど電気を消そうとしていた鍵坊の足元に転がり、彼はそれを拾い上げながら不思議そうにあたしゃを見てきます。
「あれ?おっさん、お気に召さなかったか?」
え?おかしいのはあたしゃでしょうか。お気に召すも何も、なんで就寝前にイカれたサイコ系パンクミュージックを爆音で聴かなきゃいけないんでしょうか。それとも、あたしゃが間違って違うプレイリストをかけてしまったのでしょうか。
鍵坊からプレイヤーを受け取り、プレイリストを確認してみます。一番上にあるプレイリストをタップし、入っている曲を呼び出してみると、画面に髑髏がいっぱい描かれたアルバムジャケットが表示されました。その界隈でカルト的な人気を誇る、天宇受賣命の分霊四人組ヘビメタバンドのベストアルバム『昇天To Hell 荒魂Mix』だと、詳細の欄に書いてあります。
いや、昇天 To Hellて、昇るのか堕ちるのかどっちなんでしょう。というか一応我々は日本の神なんですからHellとか宗派的に問題ないんでしょうか。
て、そういうことじゃないんですよ。だから、なんで就寝前にこんなカルトミュージック聴かなきゃいけないんですか。どう考えてもおかしいでしょう。
あたしゃが目を剝いてそう抗議すると、鍵坊はいつものやれやれ、という表情でこちらを見返してきました。やっぱりこいつ腹が立ちます。
「まさかおっさん、寝る前には静かなクラシックを聴くべきなんて、そんな古典的な考えしてたわけか?」
鍵坊はへへっ、と笑い、ちっちっちと指を振りました。
「赤ん坊に音楽を聴かせたある実験ではな、クラシックよりも、ヘビメタみたいな激しい音楽を聴かせた方が赤ん坊は早く眠るっていう結果が出たんだ。だからこれで正しいんだよ。おら、さっさともう一回聴けや」
いや、それはたぶん音楽をまだあまり理解してない赤ん坊だからこそ、うるさい音楽を早く遮断しようということで眠りが要求されたとかそういうことじゃないかと思います。てかそれってつまりあたしゃを赤ん坊と同レベルに見てるってことじゃないですか。いくら何でも失礼すぎるでしょ。とかなんとかぐちぐち文句を言うあたしゃを全く意に介さず、鍵坊はあたしゃを布団の上に組み伏せました。抵抗できないあたしゃの耳に、鍵坊は慈愛に満ちた笑みを浮かべながらイヤホンをはめにきます。首を振って何とか逃れようするあたしゃの抵抗もむなしく、再びしっかりと耳にイヤホンがはめ込まれると、さっきよりもさらに爆音で、もはや音楽というより破壊活動の効果音が炸裂しました。
「お前も堕ちろ!!俺も堕ちる!!!みんな堕ちればハルマゲドンンンンッッッッ!!!!!!」
もはや歌詞も意味不明です。あたしゃは目をぎゅっとつぶって、ふさげない耳を何とか遮断できないものかと意識を集中しました。しかし、そうやって瞼の裏の暗闇に意識を集中し、余計なことを考えないようにしているうちに、だんだん意識が遠のいていったのです。
あたしゃははっと、飛び上がるようにして目を覚ましました。耳に強烈な違和感を覚え、慌てて手を耳にやりますが、呪われたポータブルプレーヤーはまるで最初からなかったかのように忽然と姿を消していました。
社殿には早朝の薄明かりが広がり、どこか神聖な静けさが満ちています。枕もとの時計に目をやると、五時半を少し過ぎたところです。起きるまでまだ少しありますが、目も覚めてしまったのであたしゃは布団から身を起こしました。体を起こすと、体温で温んでいた布団の隙間に部屋の冷気が入り込んできます。あたしゃは身震いして、布団を肩にかけ立ち上がりました。寒いのは苦手ですが、それくらいで布団に戻ったりしない程度にはあたしゃはこれまでで精神を鍛えたのです。
白い息を吐きながら、あたしゃは格子窓から外の様子を伺いました。薄く伸び広がった朝の弱い光線に当てられて、社殿の周囲に積もった雪はまるでそのものが光を発しているようでした。
ついに運命の試験当日がやってきたわけです。しかし、不思議と昨日のような不安は心のどこを探しても見当たりません。昨日あれだけ騒がしさをもたらしたポータブルプレーヤーとともに、あたしゃの不安はどこかに行ってしまったようです。不安が不在になってしまった心の場所には、今は静かな自信が控えてくれています。今日まで培ってきたその成果、それがいかほどのものか、早く実力を試したいという昂ぶりさえも、小さいながら確実に心の奥底にあって、ふつふつと自信が湧いているのも感じられます。
全国に散らばる人界勤務の神のために、今日の天満宮採用試験は各地域にある主要な天満宮で行われることになっています。もちろん、験を担ぐために各地の天満宮の中でも特に有名な神社、つまり太宰府天満宮、北野天満宮や湯島天満宮にわざわざ訪れて受験する神も多いのですが、あたしゃは一番近い試験会場で受けることにしていました。今日も彼のお参りを見届けてから受験に向かおうと思ったからです。
というわけで、まだ出発までは時間があるので単語帳を開いて簡単な確認をしていると鍵坊がやってきました。
「おっ、おっさん、もう起きてやがったか。いつまでもだらしなく寝てたらたたき起こしてやろうと思ってたが、流石におっさんも成長したもんだ」
そういいながら、朝飯だ、と言って笹の葉にくるんだおにぎりを渡してくれます。あたしゃはお湯を沸かしてお茶を入れ、二人で早めの朝ごはんにしました。いつもは饒舌の鍵坊も今日ばかりはやけに大人しく静かです。しばらくはおにぎりを食べる音と、お茶をすする音だけが社殿の中に響きました。ゆっくりとした時間が流れ、なんてことのない質素なひと時ですがあたしゃはとても幸福に感じました。
「しかし、なんだかんだであっという間だったな」
ポツリと、鍵坊が呟きました。あたしゃは口に持っていこうとした湯飲みを掲げたまま、鍵坊の言葉に思いをはせました。
確かに、思えばあっという間の日々でした。実際、今が一二月ですから時間的には半年強の時間しか流れていないわけではあるのですが。けれど同時に、五月、あたしゃが天満宮試験の受験を決意した日は、もうセピア色にあせた写真のように遠い思い出のようにも感じられます。
おそらくそれは、当時のあたしゃをかけ離れたものとして感じられるほどに、あたしゃが成長できたということでもあるのでしょう。思えばこれまでいろいろありました。あまりに勉強がつらくて深夜に逃走を図るも、社殿を出るところを見られ鬼のような形相で竹刀を振り回す鍵坊に追われたこと。神気を高めるために瞑想を行うも眠気に耐えられず、意識を失うたびに鍵坊に水をぶっかけられたこと。どうしても覚えるのが苦手な歴史問題に対して、一問正解するたびに千円のおこづかいがもらえる一方で、一問間違えると五千円の罰金が掛かるという鍵坊特製システムを導入した結果、めきめきと暗記能力が向上したこと。九月に受けた模試で初めてあたしゃがB判定になったときは、鍵坊は飛ぶように喜んでくれました。本当に、鍵坊はこの期間ずっと、あたしゃのことを支えてくれました。鍵坊がいなかったら確実に、今のあたしゃはいなかったでしょう。
そして、あたしゃにさまざまな醜態をさらさせながら、しかし決意を固めさせてくれた疫病神。あたしゃに歌を送り、講演のあとにこっそりと勉強のアドバイスもしてくれ、そして帰り際に学業成就のお守りもくれた天満大自在天神。数多くの人があたしゃの前に現れ、あたしゃの支えとなってくれました。
しかし何といっても、どんなにつらい時でも、どんなに逃げたい時でも(たまに本当に逃げましたが)、どんなにめげそうなときにも、あたしゃの心の中にはずっと彼の姿がありました。あの日から、ただの一日も欠かさず、何を祀っているのかもわからないこの神社に参拝し続けた彼。たまに様子を見に彼の家を訪れると、彼はひとり親を支え、幼い弟妹の世話をしながら、しかしそんな自身の境遇に腐ることなく遅くまで机に向かっていました。
彼を支えようと、力になろうとあたしゃは天満宮の社格を得ることを決意したわけですが、その実支えてもらっていたのは実はあたしゃの方なのです。本当に不甲斐ない神で、申し訳ないと思ってやまないのですが、だからこそ今日、その恩に報いなければならないでしょう。
そんな思いが通じたのか、社殿の外で鈴が鳴らされました。もう耳慣れて久しい彼の拍手を聞きながら、あたしゃは祈願台帳を開きます。
「おはようございます。いつもお世話になっております。○○県○○村、一‐三‐一三に住む、菅名明です。時が過ぎるのは早いもので、今日で一次試験までちょうど一か月となりました。日々、自分に出来ることを精いっぱいやっているつもりですが、正直、不安なところもあります。前に比べて自信もついてきましたが、驕ることがどれだけ危険か、僕は身をもって知りました。ゆえに僕は、自分の誠の道を信じて、後悔だけは絶対にないように、今日も一日頑張りたいと思います。いつもは恐縮ながらお力添えを願っておりますが、今日は僭越ではありますが、日ごろ支えてもらっている感謝を言わせてください。神さま、そして母さんや学校の友人たち、様々な支えがあって今日の僕はここにいます。いつもありがとうございます。――では、今日も一日頑張ってきます!」
彼は深く礼をすると、晴れやかな顔をこちらに向けて歩み去っていきました。
まったく、神には願い事をすることはあっても、日々の支えになっていることのお礼を言うものではないでしょうに。それに、もう結果が出たならまだしも、まだ彼は受験すらしていないのです。
しかしまあ、そういうところが彼らしいのですが。
あたしゃは外出用の狩衣に着替え、いつもよりも強く帯を締めました。鍵坊は荷物の入った風呂敷を手渡してくれると、優しくあたしゃの肩を掴みました。
「いい顔してるぜ、おっさん。かつてのへぼ貧乏神とは大違いだ。……まあ、模試でも受けに行くつもりで、気楽にやってこいよ。肩の力抜いてな。大丈夫だ、今のおっさんなら、神頼みすら必要ねえよ。っと、それは流石に俺たちにはとっちゃ禁句か?」
鍵坊のあっけらかんとした笑いに、あたしゃもつられて笑います。戸を開けると、まぶしい朝日があたしゃを迎えてくれました。白い光の中、しっかりとあたしゃは、一歩を踏み出しました。
* * *
僕は、小田先生の横顔を見ていた。しかし、じっと注視する僕の視線に先生の真剣なまなざしは揺らぐことがなく、ただひたすらに机の上に広げられたものに注がれている。赤のサインペンが紙面を走る、シュッ、シュッ、という音だけが妙に僕の耳に届き、決して無音ではないはずなのに教務室のほかの雑音は聞こえなかった。
やがて、細かく動いていた先生の瞳がその動きを止めた。静かに張り巡らされた緊張の糸が限界まで引き延ばされ、けれど次の瞬間には弛緩したように、先生は前のめりだった姿勢を解いて椅子の背もたれにどっかりと身を預けた。太く息を吐きながら、先生はペンにキャップをつけて机の上に放り投げる。
「ったく、だから、試験前日に添削を持ってくるなって言っただろ。もう今更じたばた足掻いたって仕方ないくせに、間違った問題があると明日まで無駄に気になっちまうもんなんだからよ。あー、肩凝った。なんでこっちまで気が気じゃない思いをしなきゃいけないんだ」
そう言いながら先生が返してくれたノートには、添削してもらった記述問題三題のところに、細かな赤線やただし書きは少しはあるものの三つの大きな丸が書かれていた。
「あ、ちなみに、俺は別に手心を加えてないからな。俺は今日は添削に来るなって言っておいたんだから、それを押してまで来てバツ食らって凹んでもそれはお前のせいだからな」
「そんなことわかってますよ。先生のせいにするとか、そんなに僕は子供じゃないですから」
添削の結果と先生の警告の齟齬に笑いながら、僕はノートを閉じた。先生が真剣に添削をしてくれたことはさっきの横顔を見ればわかることだし、先生の言いたいことが最後まで気を抜くな、ということだというのもわかっている。まあそれに実際、先生には悪いけれど添削と言うのは口実で、先生と話をしたかったというのが本心だった。まあそれなら普通に会いに行けばいいだろうとも思うのだけれど、それだといかにも「お言葉」をもらいに行く感じで、なんか僕は嫌だったのだ。
だからということもあるのかもしれないけれど、僕はなんだか自分から口火を切るのがためらわれた。先生も机の前の壁に貼ってある世界地図を見るともなしに見つめて、しばし無言の時間が流れる。やがて無言に耐えかねたのか、期待した通り先生が口を開いた。
「あー、なんだ。一次試験だってこれからだし、無事にそれをクリアしたところでまあ二次試験が本番みたいなところもあるから、実際はまだまだ受験はこれからなわけなんだがな。まあそれでも、今日でいったんの折り返しと言うか、区切りなわけだな。……どうだったよ、実際」
「どうって言われても、そうですね……」
なんてざっくばらんな質問だろう。先生の適当さに思わず笑ってしまう。けれどその質問の短さとは対照的に、そこから引き出されてくる時間の蓄積は一言では語れないほどだ。まるで、閉じている分にはほんの数ページのあっさりした本のようなのに、いざ開いてみると緻密に描かれた細かい絵が、様々な工夫を凝らして織り込まれた仕掛けによって飛び出し、立体的な世界を見せてくれる飛び出す絵本のよう。高校一年の時から東京への進学を考えて独力で何とか勉強を続けて、ちらりと見ると受験勉強に染まった三年間のようだったけれど、絵本の細かい装飾に目を凝らせば、それだけではない、しっかりと高校三年間の思い出の数々がそこには描きこまれていた。
「あっという間、と言うにはいろんなことを、本当にいろんなことを経験した三年間でしたけど、やっぱり思い返すと、あっという間でしたね。体育祭とか、文化祭とか、あとは日常の何気ない時間とか。――僕はこの高校は、消極的理由と言うか、別に行きたいと思って進学した学校じゃなくて、高一の時から大学進学のことを考えて、一人でやってやるって思ってて。だから、別にこの高校に何も期待してなかったし、なにも望んでなかったんですけど。けど不思議ですね、いざこうやって思い返してみると、ちゃんとこの高校を楽しんでたんだんだなって、思い出がちゃんと残ってるもんなんですね」
「まあそりゃあなぁ、受験だけ考えんなら、予備校にでも通えばいい話だからな。けど高校は、それだけの場所じゃねえ。どんな偶然か、まあ住んでる地域とか、入試のレベルとか、そういうのはあるにせよ、たまたま同じクラスになった四〇人弱が、毎日の大半を一緒に過ごして、一緒に飯食って、一緒にバカな話とかするわけだからな。たまには喧嘩して、誰かに恋したりして、そうして、気がつかないうちに影響されて、影響を与えて、そいつの人となりができてくんだ。だから高校の本質ってのは、勉強するところでも、部活するところでもなくて、そういった、同じ年恰好の人間が集まる「場」そのものにあんのかもしれねえな」
「場、かぁ……」
地球上のある一地点、例えば高校のこの校舎だって、本質だけを見たら、鉄筋コンクリートと、窓ガラスと、リノリウムの床の集合体でしかない。けれどそういった冷たい入れ物に、ひとたび人が集まれば、ちょっと想像もつかない、驚くべき物語の数々が生まれるようになる。人と人を結び付け、人とモノを結び付け、人を物語と結び付ける、そんな一地点の不思議。ふっと頭によぎるものがあって、僕は思わず笑ってしまった。
「ん?どうした菅名、急に笑い出すなんて、気持ち悪いぞ」
「ちょっと!少しは手心加えてくださいよ」
先生の無害な毒に少し二人で笑い、僕は思い返すように少し遠くを見た。
「いや、流石にこの一年は、三年生だし、本当に受験一色だと思ったんですけどね。全然そんなことなかったなって。その、先生が今言った「場」じゃないですけど、その場所のおかげで、いろんなことをしたし、いろんな人に会えたし、いろんな話も出来たなって。最初にその場所に行ったときは、全然そんなこと思ってもなかったのに」
「ああ、この前話してた神社か」
「はい。本当に田んぼのど真ん中にあって、あたりには何もなくて、そこにだって行きにくいし、もう場所としては最悪なんですけど。けど、そんな場所なのに、そこから多くの物語が生まれたんです。風邪をひきながらも無理にお参りに行ったら風邪が治ったとか、なんか喋り方と格好がおかしい宮崎の民俗学者に会ったり、真っ暗になってから神社に行ったらなぜか母さんがいてお互いに飛び上がったりとか」
「いやまて菅名、お前神社でそんなおもしろドッキリなことしてたのか」
慌てて僕の会話を制そうとする先生に僕は笑いかけた。確かに文面だけ見たら僕の神社での思い出はだいぶあほらしいものになっていると思う。
「けど、どれも僕にとってはかけがえのない思い出なんです。あんなに何もない場所で、けれどそこには神社があった。ぼろぼろで、今になっても何の神様かよくわかりませんけど、けど僕にとっては最高の神様。僕のことをずっと見守ってくれて、ずっと支えてくれて、多くを与えてくれた、かけがえのない神社なんです。もしかしたら、もし、あの神社を見つけなかったら、今の僕はないかもしれない、そう思うくらいには、ですね」
「やっぱりお前、変わってるよなぁ。今どきの高校生で、そこまで神社に熱上げるやつは、全国広しといえどもお前だけだろうよ」
先生はさっき放り投げたペンを拾って、はぁ、とため息をつきながら頭の裏を掻いていたが、やがて僕の顔をしっかりと見つめると、不敵に笑って見せた。
「けど、そこまで世話になった神社なら、絶対合格通知もって、お礼参りに行かないとな」
「任せてください。僕はこれでもお参りのプロですよ」
先生は笑いながら僕の背中を叩いて、送り出してくれた。
教務室から生徒玄関へと向かう廊下で、僕はその二人の人影を認めた。時刻はまだ四時を少し回った程度だが、一月の中旬となればもう日暮れの時刻だ。今日は幸運にも曇りの多いこの地域では珍しい冬ばれの日で、昼間は青というより白に近い薄い晴れ空の中で、太陽が精いっぱいの弱い光線を雪の降り積もった大地に注いでいた。しかしそんな弱弱しかった太陽は、地平線が近づき自分の今日の役目が終わるころになって、今日の怠慢を反省したのかもしれない。この前いつ見たか思い出せないくらいには久々に燃えるような夕焼けを降り注がせ、あたりは一面濃い茜色に染まっていた。
だから生徒玄関でも、白い壁とか水色に塗られた靴箱とか、そうした各々が持っていた色はすべて脱色されて、すべてが均一に真っ赤に塗られていた。そうした一面茜色の世界を背景にして二人の人影が立ち、彼ら自身は逆光によって影法師のように真っ黒だ。だからもちろん僕には彼らの顔は見えなかったのだけれど、きょろきょろとあたりを見回す小柄な人影と、その一歩後ろでけだるそうに猫背で立つ人影を見れば、それが誰なのかは容易に想像がついた。
小柄な人影の方は、向こうから歩いてくる僕の姿を認めると、まるでばね仕掛けのようにぴょんと跳ねてこちらに駆け寄ってきた。
「先輩!よかった、会えました!行き違いになったかと思いましたよ!」
元気な声を上げながら近づいてきた影法師は距離が縮まるとだんだんその影を薄くし、ついに輝くような笑顔をたたえた鮮花になった。その後ろからうち履きをパッタパッタ言わせてやってきた人影も像を結び、いかにも、「俺は別に来たくて来たわけじゃねえ。ただ、鮮花がどうしてもって言うから」という顔をした小山になった。
「二人とも、もしかしてわざわざ待っていてくれたの?」
「私たちには、それくらいのことしかできませんから」
「私たちって、俺はお前が無理やり待たせたんだろうが……」
えへへ、と笑っていた鮮花は、小山の言わなければいい一言にその笑顔のまま肘鉄を食らわせた。柔らかい脇腹に不意打ちを食らった小山はぐふっと声を上げ、大げさによろめいてみせる。何ということはないやり取りに笑いながら、僕は本当にこの二人の友人を失わなくてよかったとしみじみ感じていた。
この前語りそびれてしまった、この二人との事件の顛末を語ろうと思う。二人との関係が修復できたのは、ひとえに二人が僕に対して、与えてくれる心の余地を残してくれていたからだ。僕一人がそれを望んだところで、二人が歩み寄ってくれなければ、それは決して叶わなかっただろう。
母さんと夜、神社で話をした次の日、僕はいつもよりも早く学校へ行き、朝練に向かおうとしていた鮮花を学校の廊下で引き留めた。携帯電話を使って連絡を取ることも考えたけれど、結局それをしなかったのは、それを逃げだと考えたからだ。大事な話は、直接会って話さなければならない。発した言葉で相手を傷つけてしまったならば、その傷を癒すためにも、言葉の力を使うべきだと、そう考えた結果だった。
「鮮花っ!」
呼び止められた鮮花は、しばらく僕に背を向けたままじっとしていた。しばらく沈黙が流れ、やがて、ゆっくりと彼女はこちらを振り向いた。前日の張りつめたような、強力な意思を持った瞳、その強い力に昨日僕は刺し貫かれ、己の愚かな過ちに初めて気がついたわけだが、しかし、今振り返り相対した彼女の顔には、そういった力は全く宿っていなかった。むしろ、逡巡と後悔の色がどうしようもなく滲んでいる。
彼女にそんな顔をさせた自分の愚かしさに、どうしようもない後悔の念と、自分への怒りがこみあげてくる。どうして彼女がそんな顔をしなければならないのか。どうして彼女が気に病む必要があるのか。いつも力のない僕を支えてくれ、力になってくれる彼女に笑顔を与えることはあっても、そんな顔をさせることだけは絶対にあってはいけなかったのだ。
「先輩……、昨日は、私……」
「鮮花。ごめん」
鮮花が自分を責める理由なんてどこにもない。僕は強い意志で彼女の声を遮った。
「本当にごめん。昨日の僕は最低だった。そういうことを言うつもりじゃなかったと言って、許されることじゃない。それに、謝ったって、昨日のことがなくなるわけじゃない。けれど、それでも謝りたい。本当にごめん。僕は鮮花を傷つけた」
僕は鮮花に正対すると、深く頭を下げた。
「やめてください先輩!私も、先輩の気持ちも考えずに、自分のことだけを考えた言葉でした。あんなこと言う資格、私にはないのに……。それまでやってきたことが、すべて無駄になってしまうかもしれない。そんな怖さの中で先輩は受験勉強を頑張ってるのに、私は自分のことしか考えてなかったんです」
僕は首を振った。
「いや、鮮花は正しいよ。それまでやってきたことが、すべて無駄になるなんて、そんなことは考えちゃいけなかったんだ。だってそれはさ」
僕は鮮花の瞳を覗き込む。彼女の揺れる瞳に映り込むように、今までの思い出がよみがえってきた。
「僕と鮮花の、これまでの思い出も全部否定することになるんだ。一緒に帰ったり、鮮花が手伝いに来てくれて、一緒に料理を作ったり、一緒に勉強した、そんな些細だけれど、でも僕の受験のすごい励みになった日常のこと。夏に神社で一緒に草取りだってした。そういう時間が無駄だったなんて、そんなこと絶対ない。僕にとってそれらのことは、何ものにも代えがたい、なくちゃならない時間だったんだ」
鮮花は途中から俯いてしまい、顔を窺うことのできない僕には彼女のさらさらの黒髪から覗く小さなつむじと、髪をかけた小ぶりな耳を見ることしかできない。やがて、彼女のつむじが小刻みに震え、耳がすごく真っ赤になっているのに気がついた。
その変化に動揺して、何か声をかけようかと迷っていると、鮮花が顔を上げた。こちらを少し睨むように、けれど嬉しそうに、そしてちょっと笑いを堪えるように、そんな複雑な感情をいっぱいに湛えて上目遣いにこちらを見る鮮花に、僕はちょっと目を逸らしたくなってしまった。こっちはものすごく真剣で、鮮花のどんな反応にも真摯に向き合おうと思っていた手前、心の中に沸き上がった感想の置き場所に大変困る。だって、この鮮花――めちゃめちゃ可愛いじゃないか。
「先輩――あの、私のこと、というか、私との思い出を、ですか。そんなに大切に思ってくれるのは本当に、嬉しいんですけど。……この、誰が聞いてるかわからない学校の廊下で、そんな青春小説の主人公みたいな台詞を、そんな真面目な顔で言われると、さすがに恥ずかしいというか、ごめんなさい。――あっ、いや、ごめんなさいってそういう意味じゃなくて、ちょっと、心臓がばくばくいってていうこと聞かないっていうか……はぁー……」
鮮花はいきなり脱力すると、その小さな頭を僕の胸にぽすっ、と預けた。
「えっ、ちょっ、いやっ、えっ」
予想外の行動に、僕はどうしたらいいかわからなくなる。心拍数が急上昇して、たぶんその心臓の鼓動が鮮花に聞かれてるんだろうなって思って、もっと鼓動が早くなる。鮮花の髪からふうわりといい匂いが香ってきて、それを嗅いでドキッとして、香りを嗅いだことがばれるんじゃないかと思ってまたドキッとする。一刻も早く解放してほしいが、顔をうずめた鮮花にその兆しはない。
こういう時はどうしたらいいんだ……。貧弱な僕のデータベースには回答は一つしかなかった。けれど、そんなことしていいのか。気持ち悪いとか思われたらどうすんだ。女の人って、男に体触られるの嫌がるよな、てかその前に紳士的に考えて……。えいくそっ、ままよっ!
僕はおずおずと右手を伸ばすと、まるではれ物に触るように、すごくぎこちなく、鮮花の頭を撫でた。ゆっくり、慎重に、寸分のミスも許されない。僕はすごく真剣だったし、鮮花が嫌がるかと不安だったが、鮮花はされるがままに大人しかった。
やがて、さすがに僕のメンタルがもうこれ以上耐えられない限界を迎えそうになった時、ようやく鮮花が顔を上げた。その顔はいたずらっぽく、けれどすごくうれしそうに笑っていた。
「ふふっ、これで喧嘩両成敗ですね」
「鮮花……さては鬼の眷属か?」
「なんか言いました?」
「何でもありません」
シラを切って直立不動の姿勢をとる僕に鮮花が睨みをきかせ、そして二人同時に噴き出した。心の底からの笑い。やはり鮮花とはこうでなくては。すごく幸せな時間が、流れていた。
やがて、お互いの笑い声はまるで潮が引くように収束に向かっていく。けれど、幸せの残滓はお互い顔に残したまま、僕は鮮花に向き合った。
「じゃあ、先輩。昨日のはこれでおしまいです。これからまた通常運転で、よろしくお願いしますね」
「うん、こちらこそ。ありがとう。引き留めちゃってごめんね。朝練、頑張って」
鮮花は軽く手を振ると、朝の光の満ちる廊下の中をテニスコートの方に向かっていった。僕もそれにこたえて手を挙げる。こうして、一度脱線しかけたレールは、さらなる強度をもって再び道を走り始める。
ただ、小山とのレールは、もう少しばかり複雑に絡まっていた。鮮花と朝会った日、小山は学校を休んだのだ。鮮花との関係修復で心に余裕ができていた僕は、小山には失礼ながら、授業の合間の休みや昼休みの片手間に、どうやって小山と関係を修復しようかと考えた。
仲直りをするなら早い方がいいから、例えば小山の家を訪ねるとか。いや、それはちょっと重すぎる。けど、携帯電話で連絡するのはどうも軽すぎるし、真摯じゃないから出来るだけ避けたい。学校を休んだということは、小山は少し一人で落ち着いて昨日のことを考えたいということだろうか。となると、小山が落ち着くまではそっとしておいた方がいいのだろうか。
そんなことを考えているうちに終礼が鳴って、その日の授業はすべて終了となった。結局悶々と考えるだけでなにか解決策が浮かんだわけでもなく、僕はどこか消化不良な感じで帰り支度をした。まあ仕方がない、さすがに小山も明日は来るだろうから、その時にちゃんと向き合って話をすればいい。とりあえず今日は母さんの帰りが遅い日だから、頭を切り替えて夕食をどうするか考えよう。
そんなことを考えながらどこか上の空で学校を出ようとしたところで、僕ははたと足を止めた。校門の柱に寄りかかる格好で、そこに小山が立っていたからだ。小山は僕を認めてもなんら行動をとらず、表面上は無関心を装う風だったが、けれど僕から目を逸らさず、そこに立っている理由が僕にあることを否定する感じでもなかった。
「小山……」
僕は小山に近づいた。まずは目を見てしっかりと謝ろう。小山に関してはお互いに非があると思うけど、それでもこちらから誠意を見せるのが何よりも大事だ。お互いに歩み寄らないと、真の解決には至らない。そうして口を開こうとするのを、しかし小山は手を前に出して制した。
「いい」
「いいって、お前……」
真意を測りかねた僕に、けれど小山は首を振った。
「違う。いや……頭突き合わせて真剣に謝りあうってのは、ほら、俺らもう、ガキじゃねえから……」
小山は言い淀みながらそういうと、ぶっきらぼうに右手を差し出した。意図を理解して、僕は思わず笑ってしまう。
「なんだよ、小山。素直じゃないな」
「うっせえ、茶化すんじゃねえ」
恥ずかしさからか手を引っ込めようとするのを、しかし僕は逃がさず掴んで、しっかりと握手を交わした。
「ごめんな、小山。さすがに言い過ぎたよ。俺」
「だから謝るのはなしだって――いや、俺が悪い。俺が悪いのに、なんだかむしゃくしゃしちまって、お前に当たっちまった。すまん。――別に俺は、お前に落ちてほしいとか、そういうことじゃなかったんだ。けど、なんかお前は、しっかりと自分を持ってて、目標に絶えず進んでて、そんなお前を、俺はすげえなと思ってたはずなのに」
「やめろよ、小山。向かい合ってそういうことを言われるとさすがに恥ずかしいし、それに俺はお前が思ってるほどできた人間じゃないよ」
「けどよ」
「それにさ、まだ、何も終わってないだろ。確かにお前の言った通り、俺らはもうガキじゃないかもしれないけど、けどまだ高校生だし、むしろいろいろこれからじゃないか。何も諦める必要なんてないし、むしろどんどん欲していくべきたと思う。急ぐ必要も、焦る必要もないんだ。真摯に取り組めば、欲しかったものは、いつの間にか手に入っているんだと思う」
「菅名――お前、なにイタいこと言ってんだよ」
「だから雰囲気壊すなよ!」
僕はおらっと小山の肩を殴りつけた。小山も笑いながら、僕の肩を殴り返してくる。けれど互いに固く握った握手は離さずに、僕らは下校しようとする下級生が変な目でこちらを見ているのに気がつくまで、馬鹿な絆の深めあいに興じていた。
こうして二人とのトラブルは、まるで日差しを浴びた水たまりのようにあっさりと消えてなくなり、後には何も残らなかった。まさに雨降って地固まる。禍根は何も残らず、けれど鮮花との距離は前よりもさらに近くなって、小山もぶっきらぼうだけれど、その裏の優しさがわかるようになった。
だからこうして試験の前日に、わざわざ二人が帰りがけの僕を待っていてくれたという事実に向き合うと、二人とのトラブルも、必ず通らねばならない通過儀礼のような、なくてはならない甘美な思い出に思えてくる。まあそれはたぶん結果論で、過去の事実をより美しいものにしようとする僕の記憶の傲慢なところなのだろうけれど。
「まあ応援しかできませんけれど、先輩なら大丈夫ですよ。なんならあたしの応援なんて意味ないくらいには楽勝ですよ」
「まあ、俺は特に何もねえけどよ……。出し惜しみだけはすんなよ。後でああやっときゃよかった、こうしとけばよかったってのは、ほんと、きついからな」
「ありがとう、精いっぱいやることしかできないけど、やれることをやってくるよ」
今は二人の激励には、そう応えることしかできない。けれど言葉を重ねるより、無事合格を勝ち取ることが、何よりも二人への返礼になるだろう。
「それにしても、きれいな夕焼けですね。――こんな夕焼け、本当に久しぶり。雲一つなくて、この分だと明日もよく晴れそう。やっぱり先輩の日ごろの行いですかね」
鮮花の意味ありげな視線を、僕はちらりと目を合わせることで応える。
「どうかな。けどまあ、明日も、試験に行く前に無事にお参りに行けそうなのは確かだね」
三人でしばし、めったにない冬の、燃えるような夕焼けを眺める。爛熟した果実のようなそれは、こぼれそうなその身を地平線のかなたに隠そうとしていた。
* * *
その日、あたしゃは鍵坊とともに、微動だにせず額を突き合わせて、いつもの文机にしゃんと背中を伸ばして正座していました。部屋の中に動くものはおらず、ただ、時計の針の進む、コチ、コチ、という音だけが嫌に響いて耳に届きました。
「あと一分だ」
時計に素早く目を走らせた鍵坊が、短くはっきりと必要最低限に言いました。いよいよです。あたしゃはもうこれ以上伸びない背筋をさらに伸ばし、ゆっくりと呼吸をしながら静かにその時が来るのを待ちました。
秒針が五〇を跨ぎ超え、残りあと一〇秒です。二人ともその瞬間を見逃さまいと、瞬きすら我慢して一点を見つめました。
「おおっ!」
変化は緩慢に、けれど着実に起こりました。最初にその兆しがあったのは、今まで書き溜め、ずらりと文机に並べた祈願台帳のうち、かなり最初期に書いた、左端に積んであった冊子です。道祖神の利益を叶えるものであることを示す黄色い背表紙の右上の角が、じわりと水色に染まりました。染みはまるで、水絵具を注ぎ入れたかのようにじわじわと表紙の黄色い表面に広がっていきましたが、およそ半分まで行ったところでその動きを止めました。すると今度は、残った黄色の方が、まるでさざ波が立ったかのように震え、渦を巻くように水色の方に広がっていきます。黄色と水色、鮮やかな二色は渦を巻きながらだんだんとその境界を薄れさせていって、渦がほどけるころには完全に一色に交わりました。それは見るも鮮やかな、春の芽吹き初めの山を連想させる若竹色でした。
「うおお、こんな色の祈願台帳初めて見たぜ。道祖神と天満宮の社格を合わせるとこんな色になるのか」
そうです。鍵坊と二人、まんじりともせずに待っていたのは、本日の正午に、天満宮試験合格を受けて、ついにあたしゃの社格に天満宮が追加されるその決定的瞬間だったのです。人界にて勤務するすべての神は、人々の願いを聴き、自らの神気でその願いを支えるために祈願台帳にその願いを書き記しますが、それぞれが担う利益によって種類、つまり色が異なるのです。
あたしゃが長年使ってきた道祖神の祈願台帳は目が覚めるような黄色の表紙をしていまして、今それに加わった天満宮の利益を司る祈願台帳は冴えわたる知識を表すかのような水色なのです。あとは例えば八幡宮の祈願台帳は燃えるような赤だったり、縁結びの利益でも名高い大国主の祈願台帳はそれを反映してか実はかわいいピンク色だったりします。
そして、今回あたしゃも長い人生、もとい神生の中で初めての経験だったのですが、ある神が複数の社格を有することになった場合、それぞれの社格の色がまじりあってあたしゃのこの若竹色のような新たな色の祈願台帳となるのです。
そして、自慢ではないのですが、この色のまじりあった祈願台帳は、そうそうお目にかかれるものではありません。そもそも複数の社格を有した祈願台帳を持っている神なんて、それこそ人々の集まる土地において多くの信仰を集めて、複数の神社が合祀された名のある神くらいなものなのです。まして、道祖神はその性質上どこかの大神社になったりすることなんてほとんどありませんから、道祖神の祈願台帳がほかの社格の色と交わるなんて、本当にこれが初なんじゃないでしょうか。それこそ、高天原とか出雲会議とかでこれ見よがしにこの祈願台帳をちらつかせたらちょっとした話題くらいにはなると思います。
まあだからこそ、鍵坊とその歴史的瞬間を見逃さないようにと二人で馬鹿みたいに膝突き合わせてじっと祈願台帳の色が変わる瞬間を待っていたわけなんですが、歴史的瞬間とか、ちょっとした話題になるとか、あたしゃは自分の成し得たことを自慢げに語っていながら、実際のところまだ実感が全然湧いてないというのが正直なところでした。果たして、確かに祈願台帳の色は変わりましたが、それによってあたしゃは彼の願いを聞き届けられる神に本当になったのでしょうか。
あたしゃが不安を隠しきれずそう言うと、色の変わる瞬間を見た興奮が一通り冷め、茶を飲みながら海苔せんべいをぼりぼり食っていた鍵坊は不思議そうにあたしゃの顔を見、それから眉にしわを寄せました。
「確かに、天満宮の社格を得たってのに、おっさん何も変わってないよな……。ほんとに天満宮の利益持ってんのか?」
ですよね。鍵坊の言葉に、あたしゃの不安はさらに加速しました。あたしゃも、別にそんなに期待していたわけじゃないんですが、いや、嘘です、実はめちゃめちゃ期待してたんですが、祈願台帳の色が変わるとともに、あたしゃ自身も、例えば頭がめちゃめちゃ冴えわたって超頭が良くなるとか、顔が若返ってあの天満大自在天神みたいなクール系イケメンフェイスになるとか、全身から隠すことのできない金色の強キャラオーラを迸らせて、「うおお、力が、あふれ出てくる!これが、新しい俺の力……!」みたいな台詞を吐く、なんてことがあるんじゃないかと思っていたのです。けれど、鏡を見ても、いつもの悲しくなるくらいに萎んで貧相で貧乏くさい見飽きた顔ですし、身体だって積年の腰痛、肩こり、慢性疲労、生活習慣病によるけだるさが一気に吹き飛ぶ、みたいな兆候は皆目ありません。
そんな風に、あたしゃが手鏡片手に全身のいたるところを映して、どこか変化がないかとおろおろしていると、せんべいをくわえてその様子を見ていた鍵坊はいきなり噴き出しました。
「ぶはははは!いやおっさん、ごめんて!まさか真に受けると思わなくて。うはは、やっぱおっさん最高だぜ」
このやろう、こっちは本気で心配していたのに、無垢なあたしゃをからかって、しかもひとの家のせんべいを遠慮もせず次々食うとはいい度胸じゃないですか。あたしゃは無言で手鏡を置くと、むっすーとした表情で鍵坊の胸倉を掴んで思いっきり持ち上げました。ちょうどせんべいを嚥下しようとしていた鍵坊は喉を詰まらせ、ぐえげ、とまるでカエルがつぶれるような声を出しました。
「ギブッ!ギブギブギブ!入ってる!気管に入ってる!」
のたうつ鍵坊をしばらくそのまま悶えさせたのち、解放してやります。しばらく、ぜひゅー、ぜひゅーと荒い呼吸を繰り返したのち、鍵坊はこちらに向き直ると頭を下げました。
「すいません……ちょっと冗談が過ぎました……」
あら、鍵坊が珍しく素直に謝ってきました。その素直さにあたしゃは機嫌を直し、空になった鍵坊の湯飲みに茶を注いでやります。ついでに自分の湯飲みにも茶を入れ、ずずりと二人で啜りました。
「で、まあさっきの話だが、別に社格が追加されて祈願台帳の色が変わることはあるとはいえ、基本的に別に神自身が劇的に変化するってことはねえよ。おっさんだって、最初に道祖神の資格を得たとき別に変化なかっただろ」
確かに、大学を卒業して晴れて道祖神として祈願台帳を得たとき、別に分霊元の塞の神みたいな髭づらゴリラになるということはありませんでした。そんなことになったらたぶんもっと道祖神のなり手は少なくなっていたことでしょう。
「あくまで神にとって大切なのは、人からの祈願を成就させるための神気、つまり中身にあるわけで、社格っていうのはあくまで器みたいなものだからな。器がどうであれ、おっさんという中身、つまり本質は変わらないわけだ。まあその中身を、それぞれ形の違う器に入れることによって、神気の届く先が道祖神になったり、天満宮になったりするわけだな」
だんだん頭がこんがらがってきました。つまり、どういうことでしょう。首を傾げたあたしゃに鍵坊は笑うと、さっき色の変わった祈願台帳の一冊を手に取って見せます。
「つまり、おっさんがずっと書き留めてきたこの祈願台帳、彼の願いは、しっかりと天満宮への祈願として届くようになったわけだ。おっさんの頑張りによってな」
鍵坊の言葉に、なんだか肩の力が抜けるようでした。ずっと思っていたこと。道祖神であるあたしゃに、力添えが欲しいと、受験勉強の支えになってほしいと、そう願い続けた彼の祈願が、何とか実を結んでほしい。そう思ってがむしゃらに天満宮の社格を望み続けたわけなのですが、これでようやく、彼の願いが正式な学問の神への祈願として機能するわけです。
「おいおっさん、呆けてる場合じゃねえぜ。何なら、こっからが本当のスタートって言ってもいいくらいなんだからよ」
確かにその通りです。今日は何を隠そう、彼の一次試験のその前日なのです。ぎりぎりとはいえ祈願台帳の色変わりもしっかりと間に合いましたし、むしろ試験前日に色変わりを迎えるというのは、何か運命的なものを感じてしまいます。しかも、格子戸の向こうに覗く景色は、この時期では珍しい快晴に恵まれており、一面の雪原が日光を浴びてきらきらと輝いています。この分だと天気は明日まで保って、彼の試験会場までの道のりも安泰でしょう。
とはいえ、油断は禁物です。明日もしっかりと彼の、一応試験前最後となる参拝を無事に迎え、試験時間中はここで、これまで鍛えた神気をいかんなく発揮して、彼の受験勉強がうまくいくように祈ることこそが、これまでのあたしゃの集大成となる最大の任務でしょう。
そういってむん、と胸を張ると、鍵坊は、まあそんなに肩ひじを張るな、変に力を入れると空回りしてうまくいくものもいかなくならぁなと笑いました。確かに、今日くらいは、明日に備えてゆっくりとした時間を過ごしてもいいかもしれません。鍵坊もそのつもりのようなのか、穏やかな顔で晴れ渡った外の様子を眺めています。
二人で、何とはなしに気ままな話をし、湯飲みが空になったら新しい茶をついで、ゆったりと外を見ているうちに、次第に日は傾いて、燃えるような夕日を社殿の中に注ぎました。久しぶりに見た鮮やかな夕焼けに、しばし言葉を失って見とれているうちに、空は次第に濃紺色の割合を増していき、夜の気配がしずしずとあたりを覆っていきました。
「さてと、明日も早いことだし、俺もそろそろ自分の社殿に戻るかなぁ」
鍵坊が腰を上げたその時、鳥居をくぐってくる人の気配がありました。彼が学校帰りにもう一度お参りに来たのかと外を窺うと、そうではありませんでした。薄闇に沈んだ境内をこちらに歩み寄ってくる人影は二つ。珍しい来客ですが、あたしゃは依然見たことがありました。片方の小柄な女の子は、よく彼と一緒にいて、夏にここの草刈りもしてくれた子です。もう一方の背の高い男の子は、確か彼と同級生で、素直ではありませんが心の中では彼のことを気にかけていた、ちょっと不器用な子だったと思います。
「神社に参りに来るなんて、初詣くらいしかねえな。あいつほんとに毎日ここに来てんのか」
「まあ、先輩はちょっと不思議くんですからね。あ、だからってからかっちゃだめですよ。先輩は真剣なんですから」
「別にからかったりしねえよ。……で、どうすんだ?普通に賽銭なげりゃいいのか?」
「先輩曰く、お賽銭入れてから二礼、二拍手して、お願い事を声に出していって、最後にもう一度礼をするといいみたいですよ」
「えっ、声に出すのか?周りに聞こえるだろ」
「けどそうしないと神様にも聞こえないんですって。あと、お願い事届ける先を教えるために、住所も言った方がいいみたいですよ」
「まじかよ……俺は遠慮しとこうかな、馬鹿みたいだし……」
「いいじゃないですか、せっかくなんですし。どうせ聞いてるのあたしだけですから気にしないでください」
「いや、そういうことじゃないだろ……」
「ほら、しのごの言わない」
まず女の子の方が賽銭を投げ入れ、二礼をしてよく響くように二回手を叩きました。その様子を見ていた彼も、渋々ながら賽銭を入れると、女の子に続きます。
「○○県○○村、一‐三‐一六に住む、早出鮮花と言います。いつもこちらでお世話になっている、菅名明の後輩です。明日、先輩が受験の一次試験を迎えます。先輩自身ももう何度もお願いしているとは思いますが、どうか私たちからも、明日の試験へのご助力を、お願いいたします。先輩は今日まで、本当にずっと頑張ってきました。その結果が、どうかしっかりと実を結んで、晴れやかなものでありますように」
「えっと、同じく、○○県○○村の、五‐六‐二七に住む、小山俊介と申します。あいつの同級生です。あいつとは、腐れ縁と言うか、中学は一緒にテニスやってたんですけど、あいつの家が大変なことになって、あいつがテニス辞めて、それからは別に疎遠ってわけじゃないんですけど、なんかすれ違うというか、そんな関係でした。この前は喧嘩もしたんですけど、けどやっぱあいつ一人でいろいろ考えてるなって。すげー大人だなって、そう思いました。だからなんていうか、あいつがやりたいと思っていることが、ちゃんと叶えばいいと思います。――あいつがすげー頑張ってるのは確かなので。ですからえっと、お力添え、ですか?どうか、よろしく、お願いします」
そうして二人は深々と礼をしました。あたしゃも祈願台帳に二人の願いを書き込む手を止めて、見えないのはわかっていますが、二人に礼を返しました。
「先輩、めちゃくちゃちゃんとお祈りするじゃないですか」
「うるせえ、だから茶化すんじゃねえよ」
二人はそんなことを話しながら境内を後にしました。いつの間にか鍵坊があたしゃの隣に立っていて、二人で彼らの後姿を見送ります。
「よかったな、おっさんが契機かどうかは知らねえが、彼はいろんな子に支えられてる。頼もしい限りじゃねえか。こりゃもう、おっさんはお役御免で、お払い箱かもなあ」
鍵坊は、冗談だよ、冗談、と笑いながら、自分の社殿へと帰っていきました。けれど、確かにあたしゃと、そして彼は、ここに至るまでの過程で多くのことを積み上げてきたのであって、そこにすでに結果へと至る多くの要素があったように思います。あたしゃだって、天満宮試験までの勉強では多くのことを思い出しますが、本番はあっけないほどにあっという間に終わってしまい、気がついたらこうして祈願台帳の色が変わっていました。だから彼の明日の試験だって、あたしゃが祈る間もなく、何事もなかったかのようにすんなりと終わってしまうものかもしれません。
そう考えながら床を敷き、あたしゃは早めに社殿の明かりを落としました。明日はいつもより早く起きて、受験前最後のお参りに来るであろう彼をしっかりと準備して待って、あの鮮やかな祈願台帳に彼の祈願を書いてあげよう。暗くなった部屋の中でそうぼんやりと考えて、だんだん意識が遠のいていって、しかし、いきなり強い力で肩を揺さぶられました。
「おい!起きろおっさん!」
目を開けると、さっき部屋を出ていったはずの鍵坊が激しく肩を揺さぶりながらこちらを見下ろしています。なんでしょうか、忘れ物でもしたなら別に起こさなくてもいいから勝手に取って行けばいいのです。けれどそこで、部屋がさっきよりも明るいことに気がつきました。夜の漆黒ではなく、夜明けを予感させる灰色が部屋を満たしています。時計に素早く目をやると、いつの間に眠り込んでいたのか、時刻はすでに五時半を回っていました。
けれど、あたしゃはすでに頭が回り始めていて、いつの間にか朝を迎えていたことよりも、鍵坊が急にあたしゃを起こしに来た事態に胸が騒いでいました。急いで床から体を起こしたあたしゃの肩を掴んだ鍵坊の顔は、薄闇でもわかるくらいに張りつめていました。
「おっさん、やばいぞ。とんでもない吹雪だ」
* * *
どうしてこんなことになってるんだ。だって、昨日はあんなに晴れていたじゃないか。僕は自室の窓を猛烈に叩く雪のつぶてに呆然として、そう思うことしかできなかった。
ふと、さっき自然に目が覚めた時、時刻はまだ五時を少し回ったところだった。やっぱり試験で少し緊張してるからだろうか、けど起きるまでまだ少しあると布団をかけなおそうとしたとき、ふと、部屋が静かすぎることに気がついた。それは、嫌な静けさだった。世界中から音がなくなったかのような、安心よりも孤独を強く感じさせるような、不自然な静けさ。僕は胸騒ぎがして、布団から身を起こした。なんだろう、もうすぐ夜が明ける時刻の、すべてが整えられたような静謐さは、そこにはなかった。ただ無音なだけ。突き放されたかのような静けさだった。布団から降りて、分厚い遮光カーテンを恐る恐るめくった。
窓の向こうから聞こえてきたのは、チリチリと言う、静けさに遠慮したようなかすかな音だった。けれど、僕にはその音で十分だった。だって、その音は、窓に雪が吹き付ける音。断熱のための分厚い窓ガラスは、一面に雪がこびりついてもう視界が効かなくなっている。辛うじてかすかに空いた雪の隙間からも、暗闇の中を白い雪が暴力的に飛びすさる様子しか見えなかった。
僕は部屋を飛び出し、リビングのテレビをつけた。東京の情報番組やら、教育系の短歌の講座番組やらを煩わしく切り替え、ようやく民放のニュース番組が映った。少し緊張した面持ちの女性アナウンサーは、県全域に大雪特別警報が発令されていることを報じていた。気象庁も予想外の異常気象であり、不要不急の外出は出来るだけ避けてください。また、交通機関にも大幅な乱れが予想され――。
「明……」
後ろを振り返ると、テレビの明かりを受けて母さんが立っていた。きっと、テレビの音で目を覚まさせてしまったんだろう。テレビの白い光でぼうっと浮かび上がる母さんはまるで幽霊みたいだ。
「母さん……僕、行かないと」
「行くって……今テレビ見たでしょ。大雪特別警報で、ダイヤもひどく乱れるって。……今日は無理しないで家にいなさい。予備日があるんでしょ」
確かに予備日はある。この時期に流行するインフルエンザとか、それこそこういう天候の乱れのせいでどうしても試験を受けられなかった学生のための予備試験が、確か二日後くらいに。けれど、それは本来なら実施されないことが望ましい試験だ。運営側も出来れば実施を望まない試験だし、それゆえに試験難易度も少し高い。今日まで万全に整えてきた試験対策とはいえ、出来れば余計なハンデは負いたくない。
「それに、まだ電車が止まったって決まったわけじゃない。まだ朝も早いし、確かにいつもよりも時間はかかるかもしれないけど、ちゃんとたどり着ける可能性だってある。ここで手をこまねいて僕は後悔はしたくないんだ」
不安そうに胸の前で手を握りしめる母さんから視線を外すと僕は自室に戻り、急いで身支度を整えて鞄を手に取った。荷物は昨日のうちに準備をしておいたから問題ない。ただ、電車の中にいる時間が少し長くなるかもしれないから、何か参考書を持っていこうか。最低限、本当にあっさりと確認するために使い込んだ本を二冊だけ入れているけれど、これじゃ足りないかもしれない。机の上の本立てに手を伸ばしかけて、結局辞めた。当初の予定にないことを無理にやろうとして、下手に調子を崩したくはない。
ダッフルコートを着込んでリビングに戻ると、ちょうど母さんも自室からダウンジャケットを着込んで出てくるところだった。手には車の鍵が握られている。
「どうしても行くっていうのなら、母さんが車で送る。自動車道なら水が出て消雪もされてるし、多分除雪車も出てるだろうから。それに、この時間ならまだ渋滞もそんなに起きてないだろうし――いくら電車だからって、この雪の中一人で行くのは危険よ」
母さんは有無を言わせない強い口調だったが、僕は首を振った。
「だめだよ。訓と南がいる。いくら家だからって、二人を置いていくわけにはいかない。二人には母さんが必要だよ」
「でも――」
僕は母さんに一歩近づいて、しっかりとその目を見た。
「母さん、僕は大丈夫だから。無理はしないし、それに、――僕は一人じゃない。これまでもいろんな人に支えられてきたから。一人じゃ絶対無理だったけど、ちゃんとここまで来たから。だから、僕は大丈夫」
母さんはしばらく僕の目を見つめ返していた。それから、ちょっと待ってなさい、といって、リビングを出ていく。少しすると、母さんは風呂敷で包んだ小さな包みをもって戻ってきた。
「この中に、今日のお弁当と、それから朝ごはんが入ってるから。何も食べないで試験受けるわけにもいかないでしょ。お弁当は昨日作り置いてたからよかったけど、朝ごはんは今握ったただのおにぎりなんだけどね。けどまあ、何もないよりはましでしょ」
「僕、母さんのおにぎり好きだよ」
母さんは小さく笑った。
「なんかバタバタしちゃったし、こんなこと言っても無理かもしれないけど、出来るだけ平常心でいつも通りにね。普段通りにやればいいの。母さん、家で待ってるから」
「うん、ありがとう。――じゃあ、行ってくるね」
マフラーを厚く首に巻いて、僕は玄関のドアを開けた。とたん、真っ白い突風が顔に吹き付けてくる。玄関先で見送る母さんが何か言ったが、風が強くて聞こえないまま、玄関の扉は風にあおられて閉じてしまった。
威勢よく家を出たはいいが、正直、悪天候は予想以上だった。狂ったように舞い踊る雪で視界は五メートル先も見えないくらい真っ白だ。傘は全く用をなさないから、フードを深くかぶって頭の先から突っ込むように前に進んだ。
自宅前の通りに出て、そこで立ち止まる。左に折れれば、駅へと通じる道に繋がっている。時刻は五時半を少し回ったところだ。どうしよう。昨日までは、当然ながら試験当日の今日も会場に行く前にお参りに行こうと思っていた。むしろ今までの総決算たる今日こそ、一番お参りに行かなきゃいけない。けど、この雪は予想外だ。
神社は駅とは反対方向、この通りを右に曲がらなければならない。普段なら一〇分ほどで行けるが、今日はどれほどかかるだろうか。
少し迷って、意を決して右に折れた。今まで、欠かさずお参りは続けてきた。一日も欠かさずだ。だから今日だって、これくらいの雪で諦めるわけにはいかない。時間だって、まだ少し余裕はある。
しかし、状況は僕をあざ笑った。家並みを抜けて田んぼへの道に出た瞬間に、今までとは比べものにならないほどの突風が僕に叩きつけてきた。もろに食らって、思わずたたらを踏み、そしてそこから先の雪の積もり方が異常だということに気がつく。さっきまではくるぶしが埋まるかどうかというほどだったのに、ここから先は膝がもろに埋まる。それにこの風。とてもじゃないが顔を前に向けていられない。遮るものが何もない場所で、雪嵐はひたすらに猛り狂っていた。白い力がうねり、渦を巻き、あたり構わず叩きつけてくる。
視界を遮る白い塊の向こう、神社のあるはずのあたりに、力を籠めるように視線を送る。そうすれば、この嵐が弱まるんじゃないかと、神様が僕の意を汲んで、少しだけでいいから、道を作ってくれるんじゃないかと思って。
けれど、雪はますます激しさを増し、僕を笑うように狂い踊った。
だめだ。さすがにこれ以上の無茶は出来ない。無理を押してでも進んで、雪で隠れた用水路にでも落ちたら死ぬ危険すらある。神様、ごめんなさい。今日が本番ですが、行く前のご挨拶は叶いません。必ず、試験が終わりましたら伺いますから、どうか、僕を見守ってください。
僕にはそう念じることしかできなくて、猛り狂う雪嵐を前に僕は背を向けることしかできなかった。今来た道を引き返し、悔しさに気を落としながら駅へと向かう。
駅では、駅員たちが雪を掻き、ホースで水を撒いて雪を溶かして、辛うじてこの悪天候に抗っていた。除雪用の手押しダンプを押す駅員に状況を聞くと、遅延は起こっているものの、まだ運休はしていないという。今日が大学の一次試験だということを会社の方も知っていて、可能な限り電車を動かす方針らしい。
改札を抜けて駅のホームに立つ。時間が早いのとこの天候のせいで、ホームには僕を含めて三人しか人がいなかった。スーツを着た中年の男性と、腰の曲がったかなりのおばあさん。男性の方は半ばあきらめたような顔つきで携帯電話の画面を眺め、おばあさんはベンチにも座らず睨むようにじっと雪の吹きすさぶ空を見上げていた。
僕は何となく二人に近寄りがたくて、少し離れたベンチに腰掛けた。母さんから受け取った包みをほどいて、おにぎりを取り出す。少し大ぶりで、アルミホイルに包まれたおにぎり。
まだ小学校の低学年だったころ、遠足に行ったとき、アルミホイルに包まれた僕のおにぎりを見て友達は変なの、と言った。おにぎりは普通ラップで包むものでしょ、と。周りを見回してみると、確かにみんなラップに包まれたおにぎりを食べていた。僕は自分だけ違っているのがすごく恥ずかしくて、家に帰ってから母さんにその話をして、今度からはラップに包んでと言った。母さんは少し困ったように笑って、それからはちゃんとラップで包んでくれるようになった。けれど、母さんの少しおおぶりなおにぎり、ちょっと大きい海苔で全体を包んで、頭に塩をかけているから一口目もしょっぱくておいしいおにぎりは、やっぱりアルミホイルで包まないとなんか変な気がした。だからいつの間にかラップがまたアルミホイルに変わっていたときは、なんだか僕は嬉しくて何も言わなかった。
何で今、そんなとりとめもないことを思い出しているんだろう。けれどそれがなぜか嬉しくて、少し心が楽になって、僕は大きな口でおにぎりの頭にかぶりついた。いつもと同じ味、溶けた塩味が口に広がっておいしい。しかも、いつの間に用意していたのか、白い米の間からは小さく切られたカツが覗いていた。試験日だからカツとは、話にはよく聞くけどまさか母さんがやるとは思わなくて、思わず笑ってしまう。吹雪のこととか、神社に行けなかったこととか、そういうイレギュラーで少し硬くなっていた心がほどけて、今ばかりは純粋に母さんのおにぎりを味わった。
二つのおにぎりを食べ終わって、アルミホイルを二つの小さな玉に丸めたころに、ゆっくりと雪の向こうから電車がやってきた。雪で灰色にけぶる外気の中、オレンジ色の車内燈をつけた電車の中は暖かそうだったけれど、乗客はひどくまばらだ。濡れた傘と靴が冷たい印象を放って、お互い干渉しあわないように離れて座っている。僕も空いたボックス席に一人で座って、少しなんともなしに車窓を眺めた。模試とかを受けるために電車にはしばし乗っていたが、窓の外に見慣れた風景はどこにもなかった。どこもかしこも白くぼんやりと浮かんで、まるでこの電車で異世界へと運ばれていくようだ。
電車はゆっくりとした前進と停車を繰り返し、ひどくゆっくりと進んでいった。二か所の駅に停車したが、乗る人も下りる人もなく、停滞した時間に飲まれそうになる。
しかしやがて、電車が都市部に近づくにつれて、時間はゆっくりと流れ出した。車窓に映じる建物の数が増え、心なしか雪の勢いも弱くなったように感じられる。次に止まった駅では三人が乗り込み、その次の駅ではさらに多くの人が乗ってきた。増えだした人の気配に安心して、僕は鞄から参考書を取り出した。平安を妨げる外の雪に、どうしても意識が吸い寄せられるということがなくなってきたからだ。
しかし気がついたことに、電車は駅に停車したまま動かなかった。不審に思って外に目をやると、思い出したように車内放送が流れた。
「乗車中のお客様にお知らせいたします。この列車はただいま、降雪に伴うダイヤ乱れの影響で、運転間隔の調整を行っております。お急ぎのお客様には大変ご迷惑をおかけいたしますが、発車までしばらくお待ちください」
別に今までも散々遅れたんだから、この駅で多少止まったくらいでなんてことはない。そうふと腕時計を見て、僕は驚愕した。いつの間にか時刻は七時半を回っていた。試験会場の大学のある終点の駅までは半分を過ぎたが、なんとそれまでに一時間以上も乗っていたのだ。
そして気がついた。乗客が増えたのは、都市部に近づいたせいもあるが、時刻がすでに人の動き出す時間を回っていたこと、そして電車が遅延して本来なら前の電車に乗るはずだった人がずれ込んできたからだということ。そして、都市部に近づくにつれて、電車はより繊細になり、些細なことで停車するということ。
僕は衝動的に立ち上がった。この電車に乗っていたら間に合わないかもしれない。ここで降りてタクシーにでも乗るべきだ――。しかしその時ちょうど扉は閉まり、電車は重々しく発車した。乗客はようやく動き出した電車に少し安堵の様子すら見せていたが、僕は心に浮かんだ懸念を拭い去ることができなかった。けれど今の僕には、再び坐りなおすことしかできない。もはや参考書を開くことはできず、吹雪く外の様子をただ見ることしかできない。やがて、電車は鉄橋に差し掛かり、そしてその手前で歩みを止めた。
「乗車中のお客様にお知らせいたします。ただいま、強風の影響で列車横転の危険性があるため、列車を一時停車しております。お急ぎのお客様には大変ご迷惑をおかけいたしております。発車までしばらくお待ちください」
車掌のアナウンスの、やけに冷静な声が余計に焦りを誘った。しばらくして、再び放送が流れる。
「乗車中のお客様にお知らせいたします。本列車ですが、この前を走ります電車が強風の影響で脱輪した可能性があり、その復旧を待つ必要性からしばらく停車いたします。お急ぎのところ大変恐縮ですが、現在のところ復旧のめどは立っておりません。繰り返します。本列車は――」
列車はそれから、まったく動かなくなった。
* * *
「いったいどうするってんだよ!」
鍵坊に答えるのももどかしく、あたしゃは社殿の格子戸を掴んで開け放ちました。とたん、白い花弁のような雪が中に吹き込み舞い踊りましたが、そんなものに目をくれている余裕はありません。頭から突っ込むように外に出ようとしますが、とっさに鍵坊に腕を掴まれ、強い力で引き戻されました。振り払おうとするも逆に肩を掴まれ、強い光を放つ鍵坊の瞳があたしゃを見据えました。
「おい!ちょっとは話を聞きやがれ!どこに行くのかって聞いてんだよ!」
どうするもどこ行くもないじゃありませんか!こんだけ雪が降ってて、あたしゃの神気じゃどうにもできなくて、そうなったらもうあたしゃが彼のところに行くしかないんです!
あたしゃがわめきながら腕を振り回して暴れると、鍵坊は舌打ちしながら体の向きを変え、あたしゃを壁に思いきり叩きつけました。
「だから、おっさんが行ったところでどうにもなんねえっつってんだよ!おっさんは受験の神だ。天満大自在天神の分け御霊なんだよ!アンタの役目はここで彼が受験会場に着くよう祈ることと、彼が無事に着いてから、試験で全力が出せるように神気で支えることだろうが!自分の役目をはき違えるんじゃねえ!」
いいえ、嘘です。鍵坊はあたしゃなんかよりずっと頭がいいんだから、あたしゃが考えていることなんてすでに思いついているはずなんです。だから鍵坊が怒っているのは、それを許したくないから。彼よりもあたしゃを優先しているからです。けどそれをあたしゃは許せません。いままでのあたしゃは全部今日このため、彼のために進んできたんです。それを当日になっていまさら捨てられるわけがないでしょうが!
あたしゃは鍵坊の肩を掴んで渾身の力を使って押し、さっきの仕返しとばかり後ろの柱に叩きつけました。そして鍵坊に負けない眼力で彼を睨み据えてやります。
まず第一に、あたしゃは受験の神である以前に道祖神なんです。受験の神なんてまだなってたった一日のひよっこもいいところですが、あたしゃは道祖神をこの地で四百年以上もやってきたんです。毎日ここにお参りに来て、どうか自分の受験を支えてくださいと祈り続けた一人の青年が、今そこに至る道を塞がれてるなら、旅路の安全を司る神として放っておくわけにはいかないでしょうが!
あたしゃのこの思いは変わりません。鍵坊が何と言おうが、あたしゃは腕を食いちぎってでも彼のところに行きます。それに、あたしゃを馬鹿にしないでください。仮にも、鍵取明神鍵介という、高天原広しと言えどもこれ以上ない頭の切れる神に半年にわたって教えを乞うたんです。だから、鍵坊が正論であたしゃを叩いて封じ込めようとするその裏に隠れているものに、あたしゃが気づいていないとでも思ったんですか。ですから、鍵坊、恐れていることがあるなら言ってください。たとえ聞いてもあたしゃは鍵坊の、その思いを優先することはできませんが、それでも聞くのと聞かないのでは全然違うでしょうが。
鍵坊がこちらを睨み据えていることに変わりはありませんでしたが、そこには先ほどまでの暴力的な光はもうありませんでした。代わりに宿っているのは、何とかあたしゃを説得できないかと迷う光。やがてその瞬きも消え、あたしゃを認める諦観の光がにじみました。その光の弱さとは対照に、彼はあたしゃの肩をさらに強く掴みました。
「ああ、そうだ。俺は恐れてるよ。言ってやるよ。おっさん、前にも一度言ったことがあるがな、神と人とは決して直接交わっちゃいけねえんだ。神気という、目に見えない形での干渉は許されても、人間に見える形、形に残る干渉は決して許されない。あくまで俺たちは、人間とは別次元の上位存在。格が違うから、人間に知覚なんてされちゃいけないんだ。……おっさんが何をしようとしてるかはわかる。だがやめとけ。もし彼が、おっさんを神と認めなかったら、おっさんはただの現象になる。神にも戻れなければコダマにもなれず、――その場で消えちまうんだぞ」
鍵坊はがっくりと頭を落とし、もうあたしゃにすがるようでした。あたしゃは彼を抱き寄せると、その頭を撫でました。あたしゃだって出来ることなら、鍵坊を悲しませたくありません。けれどどうしても、退くことのできないことはあるものなのです。
それに別にあたしゃが消えると決まったわけでもありませんし、あたしゃだって消える気はさらさらありません。大丈夫です。だってあたしゃの――。
そこであたしゃは、どどどど、と、こちらに近づいてくる地響きを感じました。なんでしょう。先ほどから突風で社殿が揺れることはありましたが、この地面から突き上げてくるような振動は。ふと格子戸の方に目をやると、舞い吹雪いておぼろげな外の風景の向こうからいきなり、くわっ、と巨影が膨らみました。次の瞬間には格子戸が弾け飛び、暴風が社殿の中で暴れまわりました。思わず目を閉じて、そして、雪嵐とともに入ってきた何かを見定めようとして――。
「~~~~~~~~~!!!!!!」
抱えていた鍵坊は声にならない悲鳴をあげあたしゃにしがみついてきましたが、大丈夫です。なぜならあたしゃはこの時あまりの恐怖に一瞬気を失っていたからです。
吹きすさぶ暴風を従えて入ってきたのは、もう天井を突き破るんじゃないかと思うくらいの背丈がある、世にもおぞましい化け物でした。巨木くらいの太さのある腕を六本も生やし、身体全体も荒々しい木の幹のようにあちこち膨らみ、ひび割れ、苔むしています。耐えがたいのはその臭気で、硫黄のようなにおいのする黄色い霧を口から吐き、その口も耳まで裂け、蛇のように長い舌がべろんべろんと踊っています。おまけに爛々と光る目を六つも持っていて、それが一斉に鍵坊をぎろり、と睨みました。
あ、これは終わった。鍵坊食われる。意識を取り戻したあたしゃは放心した頭の片隅でそう思い、頭からばりばりと鍵坊が食われる光景を覚悟しました。
怪物が腕を振り上げ、ああ、鍵坊の四肢が引きちぎられる――、しかし、実際に怪物がやったのは、六本の人差し指でビシィ、と鍵坊を指さすことでした。
「見損なったぞ!鍵介くん!君もあの信心深い青年を心の底から信用していると思っていたがな!彼がタムケ座衛門を神と認めない?ばぁかを言うな!認めるに決まってるだろう!むしろ自己紹介も必要ないくらいだ!タムケ座衛門は胸を張って、彼の危機に馳せ参じればそれでよい!」
おい、お前、熊かよ。ふざけるのもいい加減にしろですよ。どこの馬鹿がいきなり化け物フェイスで人様もとい神様の社殿の玄関ぶっ壊して飛び込んでくるっていうんですか。
熊はそこでようやく自分が変身したままだということに気づいたのか、あっ、と言って六本の手で口を覆い、次の瞬間には人型に戻りました。ごつい熊顔で別に可愛くもないのにえへへ、と恥ずかしそうに笑い、頭を掻きながらあたしゃたちに謝りました。鍵坊は無言で熊の膨らんだわき腹に蹴りを入れました。
まあともかく、インフルエンザ大流行中で自分が変身したままだということにも気がつかないくらい忙しく、たまたま近くの地域の病気を平癒祈願した帰りに立ち寄ったというこの疫病神の登場はふざけたものでしたが、その意見はまっとうなものでした。そう、彼があたしゃのことを神と認めないわけがないのです。なんかこう言うとすごいあたしゃが傲慢なやつみたいなんですが、そういうことを言いたいのではなく、彼はあたしゃをわかってくれる、もう十分に知っていてくれていると、そう思うというか、分かるのです。直感以外の何ものでもないですが、神の直感ならそう捨てたものではないと思います。
あたしゃがそう言って笑っても、鍵坊は不貞腐れて返事をしませんでした。しかし、熊がうおい、先生なんだから生徒の晴れ舞台はちゃんと見送らんか、と肘でどつくと、観念したようにはぁーと大きく一つため息をつき、そして顔にはいつものあの勝ち気でニヒルな表情が戻っていました。
「さっさと彼を試験会場まで送り届けて、すぐ戻って来い。さっきも言ったが、おっさんは受験の神でもあるんだからな。彼の試験中はここでうんうん一心に神気を発さないと、今まで何のために血反吐吐くような努力したかわかったもんじゃねえぞ」
「まったくその通りだな!それはそうと、道中不安ないか?何だったら、俺がついて行ってやろうか?俺は一年中病気平癒のために飛び回ってるから、移動速度には実は結構自身があるんだぞ」
「いや、今のお前が行ったら確実に試験会場中でインフルが大流行するわ。やめろ」
二人の馬鹿みたいな掛け合いに笑って手を振って、あたしゃは勢いよく吹雪の中に飛び込みました。待っていてください、菅名くん。あたしゃが絶対、会場まで送り届けますから。
* * *
腕時計の長針が一二をまたぎ越して、僕はもう諦めた。現在時刻八時。試験開始まであと一時間しかない。三〇分以上電車はここから動かず、そして何より、目的地までの半分の道程に、一時間半以上かかったのだ。
せめて、駅で停車したままでいてくれたら。そうすればタクシーでもバスでも、ほかの移動手段を探せたのに。さっき駅で停車していたとき、もっと早く気がついて、電車を降りていればよかったのに。いやいやそもそも、あんな威勢のいいことを言わないで、母さんの言う通りに家にいればよかったのに。そうすれば、こうして電車の中で時間を無駄にせず、家でちゃんと勉強ができたのに。せめてもう少し、参考書を鞄に入れとけば、今の時間ももう少し有効に使えるのに。
そういった、今考えてもどうしようもないことが僕を責め苛む。頭を抱えて、余計なことを考えないようにと、ぎゅっと目を閉じた。もうどうしようもないんだ。もう全部諦めて、何も考えず楽にすればいい。
そうやって、自分の内なる殻の中に閉じこもろうとしていると、にわかに車内が騒がしくなった。やっと電車が動き出すのだろうか。けどどうせ無意味だ。またすぐに止まるし、結局間に合わない。
けれど、どうもそうではないようだ。車内放送はならないし、ざわざわと、乗客同士が何か小声で話し合っている。うるさい、どうでもいい。いいから静かにしてくれ。
その時、いきなり僕のボックス席に面している車窓が強く叩かれた。電車の中からじゃない。外からだ。驚いて顔を上げるのと、電車の外から声が弾けるのは同時だった。
「おい菅名ぁ!俯いてんじゃねえ!気づけ馬鹿!」
「ちょっと、先輩!窓叩かないで!割れちゃうかもしれないでしょ!」
「え……小山……?鮮花……?」
間違いない。列車の外でこちらに怒鳴りながら窓をぶっ叩いているのは小山で、それを必死に止めようとしているのは鮮花だった。何が何だかわからないが、僕はとりあえず窓を開けて二人の声がよく通るようにした。
「よかった!先輩、見つけました!もうだめかと思ったけど、根気勝ちです!」
「えっと……、二人はどうして。というかどうしてヘルメット被ってんの?」
「小山先輩に無理言って、乗せてきてもらったんです。ほら、先輩趣味でバイク乗ってるから。オフロードタイプのバイクで助かりました。かわいい系のスクーターとかだったら間違いなくここまでこれなかったですね。先輩の無駄にかっこつけようとするところが功を奏しました」
「オイてめえ、どさくさで悪口言ってんじゃねえぞ。お前が後ろで早くしろってギャーギャーわめくもんだから、何度も事故りかけただろうが!」
「今は時間ないんですから無駄口叩かない!ほら、先輩、これ持って。てか電車下りて!」
鮮花は自分が被っていたヘルメットを窓の隙間から押し込もうとしたが狭くて果たせず、かわりに列車の乗降口の方を指さした。僕はとりあえず荷物をもって立ち上がり、指示通りに乗降口の方に向かう。そこに車内放送が鳴り響いた。
「ただいま、列車の外に近づいている人がいるという報告が入りました。乗車中のお客様は、危険ですから決して列車の外に出ないでください。列車の外の人物に関しましては、ただいま車掌の方で確認いたしますので、お客様は座ったままでお待ちください」
乗降口の外では小山と鮮花が開けろ開けろとわめいていたが、僕はその車内放送にすくんでしまった。車内にいる乗客の視線が、僕に集まっているのがわかる。どうしていいかわからなくなって、その場に固まっていると、視界の端で一人のスーツを着た男性が立ち上がって、こちらに近づいてくるのが見えた。肩を掴まれる。ああ、捕まる。けれど、その男性は僕を脇にどけると、ドアの上部についている非常用のドア開閉レバーを勢いよく引いた。ガコン、と扉のロックが外れる音がする。
僕は意味が分からず男性の顔を見ると、彼はこちらを見てにっこりと笑った。
「君、受験生なんだろ?車掌のことは気にしなくていいから、ほら、早く行きなさい」
「……え、でも」
その時、鮮花と小山がロックの外れた扉を外から開けた。
「先輩はやくっ!」
「おせぇ!」
小山はさすがの身体能力で弾みをつけ、腰ほどの高さにあった乗車スペースに飛び乗ってきた。そのまま僕の腕を掴み、列車の外へと押しやろうとする。
「あっ、あのっ!ありがとうございましたっ!」
「いやいや、私はただ勝手にレバー引いただけだから。一回やってみたかったんだよね。それよか、お友達にお礼を言いなさい。――いい友を持ったね」
「はいっ!」
手を振る男性に頭を下げる暇もなく、僕は列車の外に引きずり出された。すかさず鮮花が僕にヘルメットを被せる。
「ほら!先輩行って!」
鮮花が背中を押しやる先、今僕たちがいる線路はすこし勾配になっているのだが、その坂の下にオフロードバイクが止まっていた。
「えっ、鮮花は?」
「バイクに三人乗れるわけないじゃないですか!ヘルメットだって二つしかないんですし!」
「こらっ!君たち何をしているんだ!」
今さっき僕たちが開けた扉めがけて、車内の車掌が走り寄ろうとしていた。鮮花がすかさず扉を閉め、濡れた床で滑って制動のきかなくなった哀れな車掌は思いっきり額をガラスに打ちつける。
「ごめん!鮮花、ありがとう!なんか僕もう助けてもらってばっかりで――」
「気にしないでください!あたしは好きでやってるんですから!」
車掌が出てこれないように扉を抑えつつ、晴れやかな笑顔を向けてくれる鮮花に手を振って、僕は小山とともにバイクのもとに走った。小山は慣れた手つきで颯爽とまたがり、僕も慣れないながらなんとかその後ろに乗った。
「つかまってろよ!」
シュトトトトン、と軽快なエンジン音を立ててバイクは始動した。線路横の住宅地の路地に入るが、弱まったとはいえ吹雪でまだ視界が悪いのと道が除雪されていないのとで運転はかなりしにくそうだ。それでも小山は慣れたハンドルさばきで巧みに路地を抜けていく。
「けど、本当にどうしてここまでしてくれるんだよ!」
「あ?俺じゃねえ!鮮花が行くって言ってきかなかったんだ!お前んちに電話かけたら母ちゃんが出てお前は朝早くに電車乗って行っちまったっていうし、携帯で運行情報調べたらのぼりの電車がほとんど止まってるから行かないとって、起き抜けの電話でいきなり言われて、何が何やらわからんうちにあいつが来て、俺はバイクを走らせただけだ!向こうからこっち、線路伝いに走ってきて、止まってる電車見つけるたびにお前がいないか窓覗いて声張り上げて、ほんと恥かいたぜ!」
「そんな!どうしてそこまで」
「わかんねえよ!なんだ……勢いだよ!最初はあいつに言われていやいやだったけど、気づいたら俺も声張り上げてただけだ!俺の勝手だよ!あんまそういうこと言わせんな!俺が馬鹿みたいだろ!」
エンジンと吹雪の音に負けないように二人でわめいているうちに路地を抜け、バイクは大通りに出た。路地と違ってこちらは消雪用の水が出ているから道路状況は悪くない。青い大きな道路標識の看板は、目的の都市まであと二〇キロであることを伝えていた。
「ギリギリだな。バイバスを走るぞ」
市内を走るこの国道は目的地への最短経路ではあったが、信号が多いこと、そして朝も遅い時間になりつつあることで車での通勤者が増えだし、若干の渋滞を起こしていた。確かに、多少大回りとはなっても、信号のないバイパス道路の方がいいかもしれない。
だが実際には、渋滞を回避しようとする人間心理はみんな同じことを考えるもののようだった。国道を折れてすぐは交通量も少なく順調に距離を稼いだが、バイパスのインターチェンジに近づくにつれて交通量は再び増していった。二車線を縫うように走って前の遅い車を抜き、何とか前に進んでいった小山の運転も、インターチェンジを目の前にして止まらざるを得なかった。バイパスの高架に接続する道路は停車した車で埋め尽くされ、完全な渋滞を引き起こしていたからだ。
「くそっ、渋滞を緩和するためのバイパスがこれじゃ意味ねえじゃねえか!」
僕も焦燥を感じて、携帯を取り出し経路案内を呼び出した。さっきの国道、このバイパスともにかなりの渋滞を示す赤の色で塗られ、到着予想時間は試験開始時間を大幅に過ぎている。バイクなら細いわき道を走って渋滞を回避することも出来るかもしれないが、除雪のされていない細い道を視界不良の中走ることになるから、到着時間にあまり差はないだろう。
気持ちはありがたかったけど、もう諦めよう、そう声をかけようとしたところを小山はバイクを急発進させた。慌てて小山の背中にしがみつく。
「どうするのさ!もういいよ!」
「諦めんじゃねえ!俺がツーリングでよく使う堤防上の道があるんだ!河川敷の畑に向かうトラクター用の農道だから舗装もされてなくて、だから多分除雪もされてねえんだろうが、むしろそれならほかの車はいねえ!オフロード舐めんなよ!」
別に舐めたことは一度もないのだが、渋滞に変なスイッチの入った小山は巧みに反対車線へ乗り入れるともと来た道を引き返した。途中で別の道に入り、さらに折れ、少し走ると川の堤防が現れた。それに沿って少し走り、上へと続く坂をのぼりあがる。
「うおっ!」
とたん、横殴りの強風が叩きつけてきた。遮るものが何もないからここの風はすさまじい。けれどそのせいで道路上の積雪はそれほどでもなかった。
「オフロード、舐めんなあ!」
バイクにとって横殴りの風は何より致命的なはずなのだが、小山はドラテクゆえなのかただの根性なのか巧みに風を受け流し、雪を跳ね飛ばしながらバイクを爆走させた。僕はもう必死で小山にしがみつくことしかできない。小山は笑ってさえいた。彼はもう当初の目的を忘れていて、遮るものの何もない雪道をバイクで疾走することをただ楽しんじゃってるのかもしれなかった。
「菅名ぁ!もうすぐだぞ!」
「えぇ!なんて言った!」
「もうすぐだって言ったんだよ!今市境を超えた!あと一五分くらいで着くぞ!」
正直吹雪で周りは全然見えなくて、なんで市境を超えたのがわかるのか不思議なくらいだったが、しがみつきながらなんとか腕時計を見ると八時半だった。小山の言うことが正しいならギリギリだが間に合うかもしれない。
僕は少し気がはやって、小山の肩口から顔を覗かせてゆく手を見た。雪が吹雪くばかりでやっぱり視界は効かないが、その先に目的の街が見えるような気がした。
その時だ。最初は音だった。吹雪く音に交じって何か違うような音が聞こえた気がして、そして目を凝らしていた先に光が見えた。それはみるみるうちに強さを増し、そしていきなり影が膨らんだ。大型トラックだった。多分僕らと同じく道行きを急いでこの道を見つけ、これ幸いと猛スピードで突っ込んできたのだ。
「このくそ馬鹿トラ――!」
小山が対処できたのは奇跡といってよかった。ギリギリでハンドルを思いきり切って、何とかトラックを躱す。けれどそのせいでバイクは制動を失って、勢いのついたまま堤防から放り出された。浮遊感。感覚がスローモーになって、けれどその中でなぜか小山は体を思いきりねじって、僕の方を向いて胸を強く突き飛ばした。
その意味が分かったときには僕は堤防の上にひっくり返っていた。慌てて体を起こし下を見ると、バイクは雪の山に突っ込んで埋もれ、小山も腰から下が完全に埋まっていた。
「小山!大丈夫か!」
「大丈夫だ!雪が積もってて助かった!雪がなかったら死んでたぜこりゃ!」
「今行くから!」
「馬鹿来んな!何のためにてめえを突き飛ばしたと思ってんだ!走れ!」
「走れって!無理だろ!」
「無理でも走れ!一本道なんだからよ!諦めんじゃねえよ!てめえが諦めたら俺とバイクがここに埋まった意味がねえだろが!」
腰が埋まりながら腕を振り回し、小山は行け、行けとわめき続けた。突風が僕に膝をつけさせるためにたたきつける。けれど僕は踏ん張った。覚悟を決め、小山に背を向けて走り出す。
猛り狂った猛吹雪が向かい風となって僕にぶち当たり、前進を執拗に阻んでくる。くそっ、何のうらみがあって僕をここまで困らせるんだよ。僕が何をしたっていうんだ。何が悪いっていうんだ。毎日謙虚に生きてきただろ。みんな、みんながここまで僕を送ってくれたっていうのに、なんでそれを踏みにじろうとするんだ。――絶対、絶対に許さないからな!
無遠慮で無神経で理不尽な風に僕はなんだか腹が立って、僕はいつの間にか走りながらわめいていた。さっさと吹きやめとか失せろとか消えろとかとんでもないことをあたり構わずわめき散らし両腕を振り回しながら、怒りをエネルギーに変えて僕は走り続けた。
くそっ、忌々しい風め。気が晴れるまで僕に吹きつけるがいいさ。そんなんじゃ僕は止まらないからな。むしろ吹けば吹くほど僕はぶつかって行ってやる。絶対止まってやるもんか。今更後悔したって遅いぞ。自業自得だ。どうだ、吹き止みたくなってももう吹き止めないだろう!
その時、自分の声が嫌に聞こえることに気がついた。うそだろ、マジかよ。
さっきまで僕に親の仇のように叩きつけてきた吹雪はみるみる勢いを失い、狂ったように舞い踊っていた雪片は急に大人しくなってほろほろと地上に落ちていた。その降雪もだんだんと細くなって、視界を覆っていた雪の壁は急速に溶けていった。
はは、なんだよ、笑っちゃうじゃん。吹雪にも感情があって、さすがに僕の暴言に耐えかねたとでもいうのだろうか。それともあんまりに僕が理不尽を嘆くものだから、神様が不憫に思ってくれたのだろうか。
さっきまでの猛吹雪なんて、もう最初からなかったかのようにあたりは静かになって、それどころか厚く垂れこめていた灰色の雲さえ薄くなっていくようで、まさかと思っていると本当に青空が覗いてしまった。
僕はもう可笑しくなってしまって、急速にクリアに遠くまで見渡せるようになっていく景色を望んだ。そして膝を折った。どんな猛吹雪でも、どんな風でも、僕は膝を折らなかった。けれど、さすがにもう力が入らない。目的地の都市は見えていた。県最大の都市のビル群が。だがそれは、まだまだ遠かった。とてもとても、人の足でたどり着ける距離じゃない。
風が一陣、吹いた。
* * *
威勢よく飛び出したはいいんですが、もう滅茶苦茶でした。飛べば何とかなるかと思ってたんですが、ちょっと浮いた瞬間にまるで洗濯機の中に放り込まれたかのように縦横無尽、やたらめっぽうにぐるんぐるん振り回されまして、とても飛べるような状態じゃありません。仕方なく走ったんですが、もう周りじゅう田んぼのせいで東西南北すらわからず、田んぼに落ちるわ用水路にはまるわ急に出てきた電柱に頭ぶつけるわで散々です。けれど電柱を見つけたおかげで何とか道を辿ることができ、やっとのことで彼の住んでいる地区のところにつきました。
彼はこの近くの駅から電車に乗ったはずです、早くあたしゃも電車に乗って後を追わねば。走り出そうとして、あやしゃははたと動きを止めます。待て、彼はそれより前の電車に乗ってるんですから、そのあとの電車に乗っても永遠に追いつけないはずです。完全にいたちごっこです。
実は最初から、飛んでいけばいいやと漠然と思ってほかの手段は考えていなかったので、あたしゃは頭を抱えました。うわぁ、どうしましょう。飛ぶことはできず、電車もダメです。どうやって彼のもとまでたどり着きましょうか。
そうやって道の真ん中でうずくまっていると、いきなり一台の車が猛スピードで突っ込んできてあたしゃを轢いていきました。まああたしゃは神なんで実際には轢かれたわけではなくあたしゃを通り抜けていったわけなんですが、何せいきなりのことであたしゃは心臓が口からまろび出そうなほどびっくりして、そして閃きました。
そうです!車です!自分で運転することはできませんが、彼の方向に向かう車にしがみついていけばいいのです。あたしゃは急いで今自分を轢いていった車を追いかけました。運よくその車は信号で止まり、あたしゃは追いつくとちょっと失敬して中を覗かせてもらい、カーナビなる機械を探しました。鍵坊が前に、人間はカーナビっていう自分の行き先を案内させる機械を持ってるんだぜ、と話してくれたことがあったからです。
残念ながらこの車は完全逆方向に目的地が設定されていたので、あたしゃはこの十字路に陣取って次の獲物が掛かるのを待ちます。次に来たタクシーは空車なので論外。次は徹夜明けなのかひどく疲れた顔でこの地区に帰ってきたサラリーマン。田舎なのとこの天候で交通量は驚くほどありませんでした。
ようやくその次が、目的地ではありませんがその途中まで行く車でした。小さな軽自動車で、乗っているのは大人しそうな若い男性でした。あたしゃはこの男運転トロそうだな、と思いつつ、少し失礼して車の上にしがみつきます。本当なら助手席にでもご厄介になりたいのですが、あんまり近づきすぎると勘のいい人だとあたしゃの気配に気づくのでここで我慢です。ただ運転がトロそうなので天井でも問題ないでしょう。
しかし信号が青に変わると、車は狂ったように急発進しました。この車と運転手からは想像もつかない速度です。雪で視界もきかないのにアホなのかと思いつつ、あたしゃは突風が顔に当たってそれどころじゃありません。風で口が膨れてあばばばば、と変な声をあげながら、何とか車にしがみつきました。
ようやくその車から解放されて、あたしゃはフラフラしながら次の車を探しました。軽トラにしがみつき、大型バスにしがみつき、時にはパトカーにしがみつき、何とか距離を稼ぎます。けれど、思ったように進みません。渋滞を起こして道が詰まっていることもありましたし、車が全然違うところに進んでいることもありました。
次の車にしがみつきつつ、信号待ちの時に車内の時計を確認して、あたしゃは焦燥を隠せませんでした。いつの間にかもう八時を回っています。彼がいる場所は漠然とわかるのですが、まだかなりの距離があり、かつ彼の気配もさっきからずっと動いていません。おそらく電車の遅延などで足止めを食っているのでしょう。
あたしゃはその車を降りると、厚く雲が垂れ込め雪の吹きすさぶ空を睨みました。もうなりふり構ってられません。たとえ暴風で体が滅茶苦茶になろうと、もう覚悟を決めて空を飛ぶことにします。
ちょっと浮くだけで横からの風に体を持っていかれそうになりますが、気力を絞って受け流し、何とか風に乗ろうとします。横、縦、上、下、あらゆる角度から吹く風を体中で感じ、次にどこから風が吹くのかを予想するのです。電柱にぶつかり、ビルに叩きつけられましたが、気にしてられません。根性です。
だんだんとコツを掴めるようになり風に体を持っていかれなくなりましたが、だめです。こんなんじゃあ浮いているのが精いっぱいで、とても遠くまで飛んでいけません。どんどんと失われていく時間に焦りが募り、だめだとわかっていても冷静さがなくなっていきます。
その時です。一陣の風が下から吹き上げました。上昇気流!あたしゃはもう夢中でその風を捕まえました。すごい勢いの突風でしたが、構ってられません。必死に目をつぶってしがみ続けると、いきなり音が抜けました。そしてものすごい日差し。いつの間にか分厚い雲はあたしゃの足元に敷き詰められていて、あたりは一面の青空でした。雲を抜けたのです。
これなら、何にも邪魔されず飛ぶことができます!さっきまでの遅々とした進みが嘘のように、あたしゃは全力で青空の中を飛んで、彼との距離をみるみる縮めました。そうして、彼がいるであろうおおよその上空まで来たのですが、再び雲の下に出ることはためらわれました。
彼がいる位置は漠然としかわからず、なおかつ雲の下は吹雪のせいでほとんど視界がきかないのです。しかもまずいことに、彼の気配は先ほどまでとは位置を変えています。おそらく、何らかの手段で電車を降りたのでしょう。電車に乗っていたならば線路を辿って彼にたどり着くことが出来たのですが、今それは叶いません。時間的にもチャンスは一度。とても、突風にあおられながら彼を地道に探している余裕はありません。
あたしゃは眩しい日差しを注ぎかける太陽を見上げました。ああ、高天原にまします、我らが主神の天照大御神よ、会ったことはありませんが、どうかあたしゃに力をください。こんなへぼくて、なんにもなしえなかった道祖神でも、人の願いを叶えることが出来るのだと。どうか一度でいいのです。チャンスをください。お願いします。あたしゃは何としても、彼の、彼の神様でありたいのです。
あたしゃは一心に一心に、声の限り叫んで念じました。
そしてどうやら、願いは聞き届けられたようでした。
* * *
風が一陣、吹いた。
なんてことのない風だ。たぶん、小さな雑草の葉先ですら揺らすことができなんじゃないかというほどの弱い風。さっきまでの突風に比べたら、それを風と表現することもおこがましいくらいの。
けれど、その風はなぜか、うずくまった僕に顔を上げさせた。なぜかはわからない。ただどうしてか、心を惹かれる何かがあった。
そして気づく。いつの間にか僕の目の前には、一人の人が立っていた。いや、人だろうか。よくわからない。だって、さっきまで絶対にいなかったし、近づいてくる音だってしなかった。でも僕は、その人――強風にあおられたのか、髪はぼさぼさ、揉み烏帽子だろうか、古典の教科書でしか見たことのない被り物はずり下がり、同じく教科書でしか見たことのない平安時代の人が着るような服もあちこち擦り切れてぼろぼろ、それを着ている本人も服に負けないくらいあちこちに擦り傷や青あざを作っている人を、――なぜか知っているような気がした。
僕が放心したように見ていたからだろうか、老人は両手をおろおろとさせながら僕に話しかけてきた。
「えっ、あっ、あの、だっ、大丈夫ですか……?」
えっ?どう考えてもあなたの方が心配なんですけど。こちらを痛々しい表情で見つめるその老人に、僕は失礼ながら笑ってしまった。
「えっ、ちょ、どうして笑うんですか。あたしゃの顔になんかついてますか?」
「あっ、ごめんなさい、違うんです。ただ、あなたの方がよっぽど大丈夫かなと思ってしまって」
「ああいや、あたしゃ別にこれくらいなんともないんです。ただ上から見たら菅名くんが座り込んでたんで、お腹でも痛くなったんじゃないかって心配しちゃって――」
そこで老人は急に言葉を詰まらせると、口を開けたまま固まった。ただでさえ白いしわくちゃの顔から、青く血の気が引いていく。
「ちょっ、やっぱりどっか怪我してるんじゃないですか!顔真っ青ですよ」
老人はぶるぶると首を振って、それから僕の方をびっくりと、信じられないという様子で見た。
「――いや、そうじゃなくて、今あたしゃ、あなたの名前呼んじゃったんですよ。会ったこともないのに。あ、いや、あたしゃ別に不審者とかストーカーとかそういうんじゃないので別に怖がらないんでほしいんですが、いや、それでも、――あたしゃが怖くないんですか?」
「え?だって、あなた、僕が毎日お参りさせていただいてる神様ですよね」
あたしゃもう衝撃を受けました。なんかもう菅名くんの現実対応能力は異次元です。あたしゃはもうちょっと、怖がらなくてもよい、実はあたしゃは、君が毎日お参りに来てくれた神社の神だぞよ、くらいのことを想定していたんです。それなのにどうして彼はこんなにけろっとしてるんでしょう。
その時あたしゃは、動揺して振り回していた着物の袖が目に入りました。落ち着いて自分の身をあらためてみると、いつの間にかあちこち擦り切れてぼろぼろのびりびりです。――そっか、どうりで彼が心配してくれたはずです。あたしゃたどり着くのに必死で全然自分の見た目なんか気づいていなかったのですが、確かに目の前にぼろぼろの老人がいれば、威厳も何もあったもんじゃありません。あたしゃはその場にがっくりと膝をつきました。
「ええ!?何でいきなり膝を折るんですか?やっぱり体痛いんですか?あっ、もしかして僕の神様への礼儀がなってなさ過ぎて衝撃すぎたんですか?ごめんなさい。神様に会うのって初めてで、どうしたらいいのかわからなくて。とっ、とりあえず正座しますね」
慌ててその場に正座して、背筋を伸ばし、両手もしっかりと膝の付け根に添える。雪の上だがそんなこと構っていられない。むしろ、神様相手なのだから正座でも失礼にあたるんじゃないだろうか?もう体全体をべたーっと地面につける平伏をしたほうがいいか?とりあえず真剣な面持ちで僕は神様を見つめた。しばし肩を落としてうなだれていた神様はちらりと僕のその真剣な表情を見て、そして噴き出した。えぇ!どうして笑うんだ?僕はこんなに真剣なのに……。そこで僕は、雪の積もる堤防の上、かたやぼろぼろでうなだれる老人神様、かたや正座してそれを真剣に見つめる自分の姿を想像し、同じく噴き出した。
しばし静かな堤防の上に、二人の笑い声だけが響く。
「ああ、君との出会いは、多分こんなふうになるんじゃないかと思ってたんです。あたしゃたちには、感動的な出会いよりも、こうした笑いの方が似合いますね」
「そうですか?それならいいんですけど。なんか、真面目な信者じゃなくてごめんなさい」
「いいんですよ、信者は神様に似るって言いますし、たぶんあたしゃのせいです」
「えっ、そうなんですか」
「いや嘘です」
菅名くんがガクッとおどけて見せ、お互いに再び笑います。ああ、なんてすがすがしい笑い、気持ちのいい時間でしょう。こんな出会いになるのなら、もっと早くに彼と話していればよかったです。本当ならこのままずっと話していたいくらいですが、そうもいきません。あたしゃはあたしゃの役割を果たさなければならないのですから。
あたしゃは立ち上がると、彼に手を差し伸べました。
「さあ、行きましょうか。あなたの大舞台が待っています」
僕は一つ頷くと、その神様の手を取った。神様の言っている意味は分かっている。なんの意味もなく、突然神様が僕の前に顕れたりはしないだろう。まあ神様は人智を超越しているものだから、本当は何の意味もなく顕れたりもするのかもしれないけれど。けれどこの神様は、そうやって気まぐれに人を困らせて恐れられる神様と思うには、あまりにも優しく、暖かかった。
「一応目を閉じていてください。人間には見えちゃいけない部分とか、見ちゃいけない領域みたいなものがあるかもしれないので」
「わかりました」
僕は目を閉じる。本当にこれは現実だろうか。実はこれは全部夢で、僕は今堤防の上で気を失っているとか、それかさっきのトラックに轢かれて意識不明の重体とか、電車の中でいつの間にか眠ってしまってたとか、それか全部夢で、僕は家の布団の中でまだ寝ているのかもしれない。だって神様だぞ?僕もなんかその場のノリで信じてしまったけど、そんなことがこの現実で起こるのだろうか。受験に間に合わなくて、みんな、みんな手を尽くして僕を助けてくれたけど、それでもだめで、もう無理だってその最後で、神様が駆けつけてくれるなんて、そんなおとぎ話。――けれど、僕の手を握ってくれている、この掌のあたたかさだけは、誰が何と言おうと本物だった。
「もういいですよ、目を開けてください」
僕は恐る恐る、夢が覚めるのを恐れる子どものように、ゆっくりと目を開ける。そこは、さっきの堤防、あるいは病室、電車の中、自室の天井……。
「ああ君!間に合ったんだね!早くしなさい!あと一〇分しかないよ!」
けれどそこは、受験会場となる、国立大学の正門の前だった。腕章を巻いたスタッフが僕に駆け寄り、大学の構内へと連れて行こうとする。
僕ははっとなった。しっかりと手を握っていたのに、いつの間にか右手には何も握られていない。そんな。もうあの神様には会えないのだろうか。まだ全然話していない。これでさよならなんて、それはあんまりにも――。
けれど、いた。僕が慌てて周囲を見回すと、神様は少し離れた植え込みに生える木の陰からひょっこりと顔を出して、こちらに向かってガッツポーズをしていた。
「神様っ!僕っ!まだあなたの名前を聞いていません!僕を助けてくれた、その神様の名前も知らないままなんて、僕は嫌だ!どうかっ!どうか名前を教えてください!」
僕の声が届くと、神様はしばし目を潤ませるようにした。一度袖でわしわしっと顔を拭い、それから誇らしげな、晴れやかな笑顔を向ける。
「あたしゃは、タムケ座衛門、塞の神タムケ座衛門です!あなたという素敵な信者にめぐり逢い、あなたにずっと寄り添う、道祖神です!」
僕は腕を引っ張るスタッフを振りほどいた。
「えぇ!?道祖神!?いや別に受験の神様だと期待してたわけじゃないですけど、道祖神なんですか!?」
そして僕はスタッフに会場へと連行された。