第三章
問題集の当該のページまで終わったあたしゃは、ほう、と息をついて筆をおきました。凝り固まった肩をほぐそうと立ち上がると、格子戸の向こうは日が傾いて一面が金色です。
春、新緑をたたえてすくっと背を伸ばし、降り注ぐ陽光を一心に浴びていた稲穂は、夏になって実りを重くするにしたがって頭を垂れ、今では深緑もすっかり黄金色に身を変えて刈り入れ時を待っています。
そんな時の移ろいを体現する稲穂を見ながら、あたしゃは過ぎ去った日に思いを馳せました。祈願に訪れた彼に感銘を受け、疫病神や鍵坊に散々迷惑をかけながらも天満宮試験に向けた勉強を開始したのが五月ですから、あれからもう五か月、半年近くたったわけです。
鍵坊の特製わくわくお勉強プランにもだいぶ慣れた今だからこそ当時を懐かしく回想できますが、最初の一か月くらいは本当に地獄の日々でした。今まで愛すべき引きこもりライフで好きな時に好きなだけ惰眠を貪れたのが、急に一日五時間睡眠のサイクルにぶち込まれただけでもかなりきつかったのですが、しかもそれを週七、一日の休みもなしで今日までやってこれたのには本当にあたしゃ自分で自分を褒めたいと思います。まあ正直何度も辞めたいと思いましたし、ストレスからじんましんや血尿も出たんですが。まあそんなことぐらいで鬼教官鍵坊の指導の手が止まるはずもなく、泣いて仮眠を懇願するあたしゃににっこりとエナジードリンクにインスタントコーヒーの粉を混ぜた特製カフェインドリンクを渡すだけだったのは今でもたまに夢に見ます。
しかし、習慣、慣れを武器にしろといった鍵坊の言葉に嘘はありませんでした。今まで甘えに甘え、なまりになまったあたしゃの身体は急激なストイック生活に確かに悲鳴を上げましたが、それも一か月もすると次第にそのサイクルに慣れ、今では目覚ましをかけなくても自然と五時に目が覚めます。しかも頭はすっきりと冴えわたっていて、鍵坊の言う通りにそのすっきりとした頭で暗記科目である歴史の課題をこなすことであたしゃの歴史の知識はめきめきと向上しました。しかも鍵坊はとにかく効率を重視し、あたしゃの苦手と得意を毎回細かく分析して一週間に一度、苦手問題だけを抽出した特製問題集を作ってくれるので、あたしゃは回り道をすることなく最短経路で着実に試験合格に向け地歩を固めている実感があります。
そして何よりうれしいのが、夜寝る前に必ず行う瞑想や、その他鍵坊が考えてくれた様々な方法によってあたしゃは確実に神気を回復し、それによって、毎日お参りに来てくれる彼にも、本当に些細なことですが、「日常のちょっとしたいいこと」、受験の励みになるようなことが顕れるようになったことです。鍵坊曰く、そういった「日常のちょっとしたいいこと」は、あたしゃから彼に向けて放射される念波が、彼の周りに存在するコダマを活性化させることで起こるそうです。てっきりあたしゃは、神気の回復による効果は彼のやる気が少し向上する程度だと思っていたのですが、鍵坊は初めから、あたしゃのご利益が活性化したコダマを介して彼の眼に顕在化することを知っていて、それを狙っていたようなのです。
まあそれを知らなかったあたしゃは、時々様子を覗きに行くたびに弟妹の世話や親の手伝いをしっかりこなしながら勉強を進めている彼に、何とか目に見える形でその頑張りを応援できないか考えたことがありました。それで、鍵坊が一番最初にあたしゃに教えてくれた、受験において大切な姿勢を教えてくれるあの言葉を、こっそりと、けれど彼なら気づいてくれる場所に置いたことがありました。その試みは成功したのですが、あとでそれを知った鍵坊にめちゃくちゃ怒られました。あくまで神と人は別の次元の存在者だから、目に見えない神気という形で干渉することは許されても、形に残る干渉の仕方は絶対に良くないと言われたのです。正直そんなに厳しくなくても……と思ったのですが、それ以降はまた、日々高まる神気で彼を鼓舞しつつ、あたしゃもさらに勉強を進めていく日が続きました。
そして、月日は巡りついに今月は一〇月となったわけです。一〇月、人界においては海外から流入した文化であるハロウィンとかいう収穫祭で盛り上がる時期ですが、あたしゃたち神にとっては年に一度のビックイベントが開催される月です。そう、一〇月は別名神無月。つまり、全国の神様が出雲に向かい、来年についての会議を行う月なのです。ですから出雲では一〇月のことを逆に神在月と言ったりします。
出雲会議は一〇月一五日に開会の儀が行われ、それから半月をかけて実に様々な催しが行われます。もちろんメインイベントは各地の一宮の神が集まって来年の方針について大まかなことを決める大会議ですが、それに付随してそれぞれの分霊たちが総本社の分霊元の神と一堂に会する社ごとの会議や、普段は出会わない神たちとの交流なども積極的に行われています。まあつまるところは、一年間ばらばらな勤務地で働いていた同僚たちと久しぶりに会って親睦を深める機会として、多くの神たちが待ち望んでいるイベントであるわけです。
とはいえ、実はあたしゃにとってはそれほど待ち望むイベントではありません。なぜならあたしゃには友達と言える友達がほとんどいないからです。そりゃ高校時代や大学時代の同級生はいるにはいるんですが、流石に人界勤務も四百年を超えると、かつての同期たちは道祖神からほかの神社に異動したり、高天原に栄転したり、あとは神気の向上に伴う社格アップによってえらい神様になったりしているのです。つまり、同期のみんなはキャリアアップを順調にしているわけなのですが、あたしゃは片田舎のサムい道祖神勤務に満足しちゃって鼻をほじりながら引きこもりを続けていたせいで、もはやそこから完全に置いてけぼりを食ったわけです。まあ別にそんな現状に不満があるわけじゃないのですが、一応参加が義務付けられている道祖神会議で、そんなキラキラした同期に会ったり、若い新米道祖神にゴミを見るような目で見られたりするのは流石に堪えるわけです。ですからあたしゃは道祖神会議の時には出来るだけ目立たないように縮こまって、道祖神会議が終わってほかの神が同僚や友達に会うため会期を目いっぱい楽しむのを尻目に見つつ、毎年そそくさとこの社殿に帰ってくるというのを繰り返していました。
ですから今年も出雲の滞在は短いだろうと、荷造りは最小限に留めました。ただでさえ今年は天満宮試験もありますから、出雲会議で時間を使っている暇はありません。会期中も何か受験勉強はできないかと持っていく参考書を考えていると、格子戸が開きました。何やら上機嫌な鼻歌を歌いながら、鍵坊が入ってきます。
「おっさーん、明日から出雲会議だなー。今日はいいものを持ってきたぞぅ」
前に話したかもしれませんが、鍵坊の社格は鍵取明神、つまり、ほかの神が出雲に出払っている間、彼らの神社の鍵を預かり、留守を守る神です。ですから鍵坊は出雲会議には出席しないので、前日だというのにこんなにのほほんとしているわけです。しかし、いいものとはいったい何でしょうか。
ところで話は変わりますが、実はあたしゃは、高位の神の持つ神牛が引く牛車はもちろんのこと、神馬などの移動手段を全く持っていません。ですから出雲までは自力で飛んでいくしかほかに手段がなく、そろそろ出発しないと明日の会期ぎりぎりになるわけで、正直少し焦っていました。そんなときに別に会議にも出ない鍵坊がマイペースな感じでふらりと現れたわけで、出来れば話は会議が終わった後にしてほしいと思いました。
しかしそれを聞くと、鍵坊はあたしの苛立ちを煽るようにちっちっちとゆっくり指を振りました。
「どんな時も優雅に、ゆったりと構えないとだぜ。そうやって焦ってると、せっかくのチャンスを逃しまったりするからな。――例えば、こんなチャンスを」
鍵坊は懐からピッと何かを取り出すと、あたしゃめがけてしゅっと投げました。キザな鍵坊の行動に従順なように、それは文机にふぁさっと軟着陸してあたしゃのもとに届きます。怪訝に眉を顰めつつそれを取ってみると封筒のようです。裏返して送り主を確認したあたしゃは、そこに書かれている名前に驚愕しました。そこには端正な字で「天満宮 祭神 天満大自在天神」と書かれているではありませんか。
あたしゃが驚きと期待の交じった顔で鍵坊の顔を見ると、彼は非常にご満悦な様子で腕を組みあたしゃを見下ろしていました。
「ふっ、どうだ。驚きで声も出まい。それはだな、なんと、俺様が輝かしい人脈を駆使してゲットした、天満大自在天神の講演会の招待状だ。毎年、出雲大会の会期に合わせて天満宮の啓発のために天満天神自身が主催しているセミナーがあってな。かなり影響力のあるセミナーで、天満宮への社格アップを目指す神はもちろんのこと、各地の天満宮の分霊、果ては高天原の有力神すら参加を切望するすげーやつだ。だからその招待券とあっては、誰もが喉から手が出るほどに欲しがる一品でな、まあおっさんが逆立ちして地球百周しても手に入らない超すげーお宝ってこった」
いつものように彼は傲岸不遜で自慢げに語っていますが、あたしゃはその裏に隠れた鍵坊の配慮に胸を打たれていました。というのも、鍵坊には話したことはありませんが、実は毎年出雲会議では天降ののち消息を絶った天才児のことが話題になっていたからです。鍵取明神であるがゆえ出雲会議にも出ない今の立場だからこそ鍵坊は今の匿名性を確保できているのであり、それは裏を返せばそこまでして匿名性を維持したいということでもあります。つまりこれは、そんな鍵坊が、あたしゃのために居場所がばれる危険を冒してでもこの招待券を取ってきてくれたということなのです。
ですから、この好意はもうどうお礼を言ったらいいのかわからないくらい嬉しいのですが、しかしながら素直には喜べないあたしゃがいました。
実は、天満大自在天神が開催しているセミナーの存在はあたしゃも知っていました。伊達に約半年にわたって鍵坊から教えを受けてきたわけではありません。最初はめんどくさがって鍵坊に言われる通りのことだけをこなしていましたが、次第に自分でもいろいろ勉強法や最近の時事なども気になって、その過程でセミナーの存在に行きついたのです。
けれどこれがもう、本当に名のある神しか入れないんじゃないかというくらいハイレベルなセミナーなのです。まあ最近人界の高学歴化がより加速しているせいで、神たちも改めて学問の重要性を感じているというのもあるのでしょう。特に一昨年、商売繁盛の利益で有名な東京は神田明神の少名毘古那さんが参加してからというもの話題が沸騰して、噂によるとものすごい高額でこの招待券が裏取引されるくらいになっているというのです。
そんなセミナーにあたしゃみたいな干からびた、それも道祖神なんかがひょこひょこ入って行ったらどうなるかなんて火を見るよりも明らかです。受験要綱を取りに行ったときの、彌彦神社でのあの受付の女の子の対応が思い出されます。ですからあたしゃは、確かに参加出来たらどれだけ為になるだろうかと思いつつ、触らぬ神に祟りなし、とそれ以上調べるのをやめていたのです。
ぽつりぽつりと不安を語るあたしゃの言葉を、鍵坊はじっと聴いていました。しかし、あたしゃが語り終わると、彼はいきなり大声で笑いだしました。あたしゃ何が起こったのかわからなくて、ただ大口を開けて笑う鍵坊を呆然と見るしかありません。
「高天原に燦然と輝く神々に、あたしゃ気後れしちゃいますってか。へっ、俺の情報収集能力を舐めてもらっちゃ困るぜ」
鍵坊が何を言っているのかわかりません。私は怪訝な顔を止めませんでした。
すると鍵坊は、いたずらがばれてしまった子供のように頬をぽりぽり掻きながら言葉をつづけました。
「いやな、今年の夏によ、あの青年と女の子がここの草刈りに来てくれたことがあったろ。あの時、ちょうどおっさんに差し入れしようと思って、俺も居たんだよ。そこに。それで……、盗み聞きしようとしたわけじゃねえんだがな。つい耳に入っちまったんだよ。あのへんな風体の民俗学者の話がさ」
ようやく、鍵坊が何の話をしているのかわかりました。顔から血の気が引いていくのがわかります。けれど、鍵坊はそれに気づかずむしろ話の調子を上げていきました。
「おっさんも水臭いじゃねえか。あの太宰府天満宮から寄進を受けたことがあるのを、なんで隠してたんだよ。彼らはおっさんと当時の道祖神が重なるのか疑問だったみたいだが、俺はピーンと来たね。確か明治時代、だったか?俺もその頃はまだ高天原にも降臨してねえから知る由もねえが、おっさん、実は当時はやり手だったんだろ。急に天満宮試験って言いだしたのも、実はそんな裏があったんじゃないかといろいろ結びついてな。……まあけどわかるよ」
あたしゃは手をわたわたさせながら、どこで話に割って入ろうかとおろおろするのですが、一人悦に浸る鍵坊はうんうんと頷いています。
「確かに、かつてはやり手だったとありゃあ、今の落ちぶれた状態が恥ずかしくて言い出せなくもなるわなあ。まあそこには戦争とか、おっさん個人じゃどうしようもない問題もあるんだろうが、まあそれを言い訳にしても始まらねえしな。意外におっさんは漢じゃねえかと、俺は感心したんだよ。だからまあ、おっさんとしては過去のそういうものには触れられたくねえかなとも思ったんだがな。せっかくそういうパイプがあるなら無駄にするのはもったいねえじゃねえか。だからおっさんには悪いが、こっそりと裏で手をまわしてこうやって招待状を手に入れさせてもらったってわけよ」
鍵坊は満面の笑みであたしゃの肩を叩きます。
「なあに、遠慮するこたねえ!俺が感動して一人でやったことだからよ。いやー、けど、おっさん、そんなつながりを持ってたとはなあ。これはセミナーに来る奴らも仰天すんじゃねえか。田舎のヘボ道祖神が、あの太宰府天満宮から寄進を受けただとぉ!ってな。わんちゃん試験しなくても、太宰府のコネであっさり社格が上がっちまったりしてな」
あっはっは、と鍵坊は陽気に笑います。あたしゃもう顔を晒したくなくて、両手で顔を覆いました。
「なんだよおっさん、恥ずかしがることねえじゃねえか。むしろ誇れよ」
ち、ちが、ちが……。もうこの状況が嫌すぎるのと顔を覆っているのとで、あたしゃの声はぼそぼそと聴きづらいものにしかなりません。
「ん?ち?「ち」ってなんだ?」
あたしゃはめいっぱい息を吸い込みました。
ち・が・う・ん・で・す!
穴があったら入りたいとはこのことですが、この勘違い馬鹿神は肩をぶるぶる震わせているあたしゃに全然気がつかないので、もうあたしゃは声の限り怒鳴りました。それだけじゃもう感情の整理がつかず、あたしゃは鍵坊の頭をやたらめっぽうに叩きました。
いきなり訳の分からない襲撃を受けた鍵坊も悲鳴をあげて逃げすさります。あたしゃはそれを追いかけ、少しの間意味不明な攻防が続きました。
二人とも荒い息をつき、体力の限界を迎えたところで不毛な戦いは幕を閉じました。とりあえず乱れた着物を整え、あたしゃは文机の前に正座します。己の失態がいまだわからないながらも、鍵坊が落ち着かせるためにお茶を入れてくれたので、あたしゃはそれを飲んでほう、と息をつきました。
もう一度言いましょう。違うんです。確かに鍵坊の言う通り、そして夏に訪れたあのどうしようもない神社マニアが言うように、あたしゃは太宰府から寄進を受けました。けれど、それは燦然と輝く誇らしい経歴ではなく、永遠に葬り去るべき黒歴史なのです。
簡単に言ってしまえば、あたしゃは牛に轢かれたのです。
それを聞いた鍵坊はぽかんと呆けたような顔をしました。そりゃそうでしょうよ。あたしゃだって誰かの口から同じことを聞かされたらきっと同じ顔をします。
かつて、明治一八年、白山神社の境内が新たに作り直されるという話はこのあたりの村民にとっても大きな話題でした。彼らが心動かされたのは、白山神社の境内に新たに生まれると言われた「公園」です。というのも、ご一新で明治時代になったといっても、こういう地方の農村にはあまり変化はなく、江戸時代と何ら変わらない生活をしていました。そんな人たちですから、西洋から輸入されてきた近代都市計画による「公園」という概念は、外国の、あるいは「明治」時代を象徴する何かすごいものに違いないと思ったわけです。
それでまあ、彼らもその「公園」というものを見に行きたいわけなんですが、かつては今ほど旅行という概念も普及しておらず、彼らが遠出するのは年に一度、稲刈りが終わった後に疲れを癒すために温泉に行く時ぐらいなものだったのです。ですから、「公園」は確かに見たいが、別に特別な日でもないから遠出するわけにもいかない、と農民は頭を悩ませていました。
そんなとき、村一番の知恵者とされていた若者が閃いちゃったのです。どうやら白山神社の「公園」造営に当たっては、境内にある摂末社が本宮に合祀されるらしい。その中には、天満宮が含まれている。天満宮と言えば、お牛様で有名な藤原道長様でねっか。じゃあおらたちも、農作業で日々鍛えてる自慢の牛さ届けて、「公園」造るお手伝いしたらどうだろっか、と。
当時はまだ農業の機械化なんてされているはずもなく、したがってトラクターなんてあるはずもないので、耕耘などには牛が使われていました。まあですから確かに村には農業で鍛え抜かれた屈強な牛たちがいっぱいいました。けれど、天満宮が藤原道真を祭る神社で、藤原道長と言えば牛だから、牛を手伝いに届けようって、どうなんでしょうか。短絡的すぎやしないでしょうか。けれど、当時の村人たちは「それだっ!」ってもう大賛成で、大いに盛り上がりました。
まあ、あとはご想像の通りです。そもそも同じ牛と言っても、例えば物を牽くために育てられた牛と、農業のために育てられた牛では気性とかいろいろ違うんです。ただでさえ白山神社までの道のりは遠いのに、村から一歩も出たことのない、農作業しか知らない牛を、農作業のための牛の御し方しか知らない村人が歩かせられるはずがないのです。居心地のいい土地から離れるのを嫌がって抵抗する牛を、何とか村の境界まで引きずってきた村人たちは、いい加減業を煮やして手に持っていた鞭で牛の尻を叩きました。
いやまあ、ここに関してはあたしゃも悪いんです。村の境界とか道路とかの安寧を守るのが道祖神としてのあたしゃの役割ですから、こういった牛と人間のどう考えても一触即発の事態こそ、神気を使って何とか抑えるべきだったのです。まあもう当時のあたしゃは引きニートとしてかなり磨きがかかってましたから、これからどんな厄災が降りかかるとも知らずにいつも通り鼻をほじってたんですけれど。
信頼する飼い主からの突然の攻撃に、牛たちはいっせいに猛り狂い暴れ始めました。あたしゃはちょうどその時鼻の奥の大きな鼻くそに指が届くか届かないかの難関に集中してまして、牛の激しい鳴き声や村人の悲鳴もあまり聞こえてませんでした。喧騒がだんだん大きくなり、どどどど、と変な地鳴りが近づいてきたあたりで鼻くそを掘り出したあたしゃはようやく音のする方に目を向けたのですが、その時にはもう牛のたくましい脚が目の前で振り上げられていました。
そのあとのことはよく覚えていません。後で聞いた話によると、あたしゃの道祖神塚はたくましい牛の蹴りによって一〇メートルは吹き飛んだということです。あたしゃの道祖神塚を破壊した後も牛の凶行は続き、隣村を巻き込むほどの事件となりました。そして、当時発行され始めたばかりの地方新聞にこのことが載って、同情した太宰府天満宮が修繕費として寄進をしてくれたということなのです。
村に修繕費が届けられた日、白山神社の合祀の様子を見に来ていた天満大自在天神その人もあたしゃの道祖神塚を訪れました。彼は煌びやかな装飾をまとった牛車から、多くのお付の人に囲まれながら下りてきました。質素ながら最上級のものと思われる狩衣を着て、立烏帽子をかぶった姿は全くの自然体なのに、溢れ出る神気によって気品に満ち満ちていました。彼はぼろぼろになった道祖神塚、めちゃめちゃになった周りの田畑、そして最後にあたしゃ自身を痛ましそうに眺めました。
「可哀そうに。どうか、ご自愛なさってください」
そう言ってあたしゃに深々と礼をし、彼は去っていきました。かくいうあたしゃは、牛に跳ね飛ばされたときにむち打ちになって首が包帯でぐるぐる巻きになっていたので、礼を返すことも出来ずただ茫然とその様子を眺めていたのですが。
――これがことの顛末です。
話を聞き終えた鍵坊は、口をあんぐりあけ絶句しています。無理もありません、無垢な村人たちがやったこととはいえ、もはやこれはマッチポンプです。自分たちで勝手に牛だ菅原だと盛り上がって、牛が暴れて、挙句の果てに太宰府から修繕費をもらうなど、恥以外の何物でもありません。
鍵坊はしばらく、「どうすっかなぁ」とか呟いて頭を掻いていましたが、何を思い立ったか、文机の上の招待券を手に取り、それをしげしげと眺めると――手品のように取り出したオイルライターでその表面を炙りだしました。
あたしゃもう目ん玉が飛び出るくらいに目を剝き、発情したキイロモモンガみたいな声を出して鍵坊に飛びかかりました。両手が塞がって防御姿勢が取れない鍵坊の頭に容赦なくチョップを食らわせ、ひるんだ隙に招待状とライターを取り上げました。
「うえげほっ、いや、ごめん……。おっさんの覚悟というか、どれだけセミナーに行きたい気持ちがあるのか知りたくて……」
こいつは馬鹿です。卵の殻を割ろうとして力加減がわからず、中身までぐしゃりと潰してしまうゴリラじゃあるまいし、あたしゃの本心がわからないからって、とりあえず招待券を燃やす馬鹿がどこにいますか。まあ目の前にいるんですけど。
……けれど確かに、鍵坊の言うことにも一理はあります。馬鹿ですけど。本当にセミナーに行く気がないのなら、とっさにあたしゃは今みたいな頓狂な叫び声を上げたでしょうか。あたしゃは取り返した招待券をまじまじと見つめました。
「行ってこいよ」
殴られた頭をさすさす、鍵坊はあたしゃの眼を見ます。
「過去に起っちまったことは、もういいじゃねえか。どうせ取り返しはつかないんだし、案外もう自在天神のやつもすっかり忘れちまってるかもしれねえしよ。つまらない過去のことをぐずぐず考えるよりも、すぱっと切り替えて前に進んだ方がおっさんのためにもなるぜ。まあそりゃあ多少は辛いかもしれないけどよ。おっさんにはつまらねえ過去を引きずってる暇なんてねえだろ。どうしてもなりたい、行きたい未来があるんだから」
あたしゃはため息をついて、覚悟を決めました。鍵坊の言葉は、本当に腹立つくらい正論です。
しかし、鍵坊との無駄な取っ組み合い、アホな茶番のせいで、あたしゃの足で行くには完全に遅刻する時間になっていました。あたしゃは鍵坊の胸倉をつかみました。彼はきっと快く、あたしゃに神馬を貸してくれるでしょう。
会期の時間ギリギリになって、ようやくあたしゃは出雲大社の境内にたどり着くことができました。
本来ならもっと余裕をもって到着できたでしょうが、こんな遅刻ギリギリになったのも、今あたしゃが手綱を引いているこのアホ神馬のせいです。こいつは飼い主の鍵坊に似てとんでもなくひねくれた性格をしていて、全然こっちの言うことを聞かずに変なところで道草を食ったり、滅茶苦茶な回り道をしたりしてくれやがりました。そのくせ同じく出雲に向かう神が増えだした今あたりになって、まったく従順な馬気取りですました顔をしているんですからたまりません。帰りはどこか何もない原っぱのど真ん中にでも繋いでやろうかと睨みをきかせると、この駄馬はこちらを馬鹿にした目つきでブルル、と鼻を鳴らしました。
しかし、さすが年に一度の神在月とあって、もうあたりは完全にイモ洗い状態で、全国各地から集まった神たちでごった返しています。
あまりの神混みで牛車が動かず、道を開けてくださいと叫ぶ声や、久しぶりの再会に黄色い歓声を上げる女神の声――あのケバくキラキラしてるのはおそらく市寸島比売命の分霊でしょう――様々な音で周囲は沸き立っています。
四方から集まってくる神たちで神波はどんどんとざわめきと賑やかさを増しつつ、その流れは境内の中心、出雲大社の社殿へと吸い込まれて行きます。あたしゃも流れに完全に身を任せるというか、もはや溺れているような状態でどんどんと流されていき、いつの間にか社殿の中に入っていました。
出雲大社は、さすが出雲国一宮というだけあって、あたしゃの地域を担当する天香山命さんの彌彦神社にも劣らない立派な社殿なのですが、だからといって日本全国から集まった八百万の神を収容できるほどの容積があるようには決して見えません。まあ実際そんな容積はないはずなのですが、これが不思議なもので、社殿の入り口をくぐり、正面の大階段を上がると、そこは八百万すべてを余裕で収容できるほどに座席がぐるりと円状に取り囲む、超巨大な会議場になっているのです。
議場はすり鉢のような構造になっていて、全周を取り囲むあまたの座席は全国の小神社から集まった分霊神のためのものです。すり鉢の底には巨大な円卓が据えられていて、これは全国の一宮からやってきた有力な神たちが座る席になっています。すでに円卓は多くの席が埋まっていて、霊験あらたか、神気で輝く名のある神たちが会議の始まる時刻まで旧交を温めているのが見えます。大柄な体格に立派な袴を着て、金の扇を仰ぎ仰ぎ豪快に笑っているのが、この社殿の主にして会議の主催、議長でもある大国主さんです。
会議が間もなく始まることを伝えるブザーが会場中に響き渡り、まだ席についていない神の流れが慌ただしくなりました。分霊神のための席は特に指定されているわけではないので、慌ただしい周りに合わせてあたしゃも手ごろな席に着きました。
これから始まる会議が、一般には神議りとか言われている一番大きな会議で、社格や施す利益の隔てなくすべての神が一堂に会して来年の基本方針を話し合うものです。と言っても、議論を主導で回すのは中央の円卓に座る一宮の神たちで、彼らが来年の人界に対してどのように関わっていくかの提案をし、それに他の円卓の神が意見をして方針をまとめていきます。そして最終的な評決を図るために我々小神社の神も含めた、八百万の神の賛否の投票が求められ、それによって方針が決まっていくという形になっています。
ですから、基本的にはあたしゃを含めた末端の神たちには発言権はありません。なのでとりあえず中央の円卓で行われていく会議を聞くことになります。ですがね、これがまあ、どこの世の中でもそうというか、こういった縦割り社会のトップが開く会合というのは、なんとも要領を得ない会議なんですよ。
今回も開会の辞があった後は、それぞれ円卓の神たちが各々考える意見表明の時間となったのですが、まあ、大国主が何よりも縁結び、人界の人口をもっと増やして国力の底上げをしなくちゃいかんという強い主張で議論が始まるのはいつものことです。それに対して、そのためには男をもっと強く育てにゃならん!と、諏訪大社の建御名方神と宇佐神宮の誉田別命、つまり八幡大神が声をそろえてうおお、とおめきます。三嶋大社からやってきた事代主――まあ最近だと恵比寿の名前の方が有名ですが――彼は漁業を司っていたのが発展して商いに利益がある神なので、人口もいいですが、そのためには増えた人口を賄うための経済基盤が必要ですよねぇ、とさりげなく自分の意見を言ったりして、もう議論はカオスの様相を示すのですが、まあこんなのはいつものことです。
そもそも、一宮を任されている神たちはそのほとんどが国津神、つまり太古の昔から人界に根を下ろし人々の生活に寄り添ってきた神だからこそ信仰も篤いのですが、年季が入りすぎちゃって思考が凝り固まっちゃってるところもあるのです。それに、時代の移り変わりとともに信仰の集まる先も変わるもので、一宮でなくとも多くの信仰を集める神社も多くあります。それこそ自在天神の天満宮とか、鎌倉の鶴岡八幡とか、日光の東照宮とかカリスマ的な神様はいっぱいいるのですが、現状彼らは円卓に近いところに席はあり、意見を述べることも可能ではあるのですが、会議を主導できる立場にはないのです。
あたしゃは円卓のすぐうしろを囲む席の一つに座っている自在天神さんを見つけました。束帯を涼やかに着こなし、紛糾する議論を方杖をつきながらやれやれと見ていますが、クールなその顔はどこか不満そうです。彼がこの会議の後に独自のセミナーを開こうと考えたのもわかるというものです。
結局会議は一宮の神々たちが思い思いの意見を言って満足するまでたっぷりと四時間をかけ、方針がまとめられる頃にはあたしゃはもうくたくたでした。まあ結局まとめられた意見も、それぞれ自分の専門の利益に基本的には神気を集中し、最善を尽くすというあたりさわりのないものだったわけなのですが。
これで全体会議は解散となり、それから各々の神ごとに集まる個別集会の流れとなります。会場中の神たちが各々の集会場所に移動しようと慌ただしく動き始めて、あたしゃはまたその流れに飲み込まれ、溺れるように社殿を後にしました。
そのあとに行われる個別集会は、出雲大社の境内にある摂社末社が会場として使われます。道祖神集会の会場は境内の左奥にあるこじんまりした門神社でしたが、ここもさっきの全体会と同様、外見は小さいのに中に入ると空間が膨張し、全国から集まった二千人からなる道祖神が全員入れるようになっていました。
しかし道祖神の個別会も、全体会に劣らないくらいの混沌の渦中にあり、あたしゃはその雰囲気に飲まれないように己を守るのに必死でした。
最近は村落の在り方の変化や交通技術の発達によって道祖神の在り方も変わってきたことは前にも述べたと思います。村の境界を守るという性質から、交通安全や、なぜか縁結び、子孫繁栄へとご利益の質が変化したわけなのですが、それによって増えたのが、男性神と女性神の一対のペア神というあり方なのです。まあ、道祖神になりたがる神が減っている対策として生み出された苦肉の策なのでしょうが、公式で職場恋愛ができるとあって割とこれが人気を博しました。ですがまあ、それによって就任した新しい道祖神たちが、当然と言えばそうなのですが、もう恋愛スイーツ脳の陽キャ集団なわけですよ。もう会議中も平然とイチャついて話は聞かないわ勝手に喋るわで、比較的古参でマッチョだったころの道祖神の在り方を古きよきものだと考えるゴリラどもがそいつらにキレちゃったりして、もう散々でした。しまいには、我らが分霊元である塞の神本人がブチ切れたんですが、まあ彼も問題があるというか。かなり古い神にもかかわらず神気を保っているせいで外見は四〇後半の男性神なんですが、角刈りにあごひげを生やし、グラサンをかけた姿はもうヤクザにしか見えません。それになぜか格好は紺色のジャージの上下に、交通安全の腕章、神経注入棒という名の竹刀を持った、八〇年代学園モノもかくやという姿なのです。彼曰く、これが今道祖神に求められている現代の姿を体現したものと言うことでして、絶対に何か間違っているとしか思えませんが、そんなことを言える神は誰もいません。
まあそんな保健体育の教師か暇で交通指導しているヤーさんにしか見えない塞の神が、額に血管を浮かばせて怒鳴り、会場がびりびりと震え、ゴリラも陽キャも何の罪もないあたしゃもしゅんとなって、それからは静かに塞の神の話を聞いて個別会も終わりました。
なんか、どっと気疲れした体を引きずって、あたしゃは個別会の会場から外に出ました。
社殿を出ると涼やかな夜風が火照った頬を冷やし、日が沈みかけた空は地平線が鮮やかな橘色、そこから天頂に向かって濃さを増していくブドウ色にきれいに染まっていました。いつの間にか社殿の屋根から屋根に綱が渡されており、そこにつるされた提灯のあたたかな明かりで境内は照らされています。個別会を終えた神たちがそこここに集まり、賑やかに談笑したり騒いで浮かれたりしています。出雲大社に仕える下級のコダマたちが出店を開いたりして、雰囲気はさながら人間たちが開く縁日のようです。ようやく形式的な会議が終わって、神々が楽しみにする、本当の出雲会議が始まったといえるでしょう。
そんな楽しい雰囲気であたしゃは疲れた心を癒しつつ、むん、と気を入れました。違う意味で、あたしゃも出雲会議の本当の目的に向かう時が来たからです。
招待状に書かれた会場は、道祖神の個別会で使った社殿とはちょうどま反対の社殿のようでした。地図を頼りに進んでいくと、途中から、明らかに周りにいる神たちの雰囲気が変わったことに気がつきました。みなしっかりと糊のきいた束帯や狩衣、袴を着て、扇で口元を隠して笑いながら談笑に興じたりと、明らかに格式の高い神々たちばかりです。
対してあたしゃは、出雲会議のために正装を整えたとはいえ、洗いざらして模様が掠れてきた狩衣に、もみくちゃになって必要以上に揉まれた揉み烏帽子を被っているわけで、特に貧相な髭とかが相まってひょこひょこ歩くキタナイ貧乏神にしか見えてないに違いありません。さっきから周囲の神たちに嘲笑の眼で見られているのがひしひしと感じられて、あたしゃは脇の下に嫌なにおいのする汗をかいているのを感じました。
より多くの神が周囲にたむろしている社殿が目の前に現れ、会場がここだとわかりました。あたりには完全に夜のとばりが下り、社殿の内部から漏れる煌々(こうこう)とした明かりで明暗が際立っています。社殿を取り巻く人影は逆光となっているので姿がよく見えず影法師のようですが、表情の見えないそれらがこちらを見ているのはわかりました。おそらく間違って迷い込んでしまった哀れな貧乏神だと思われているのでしょう。
あたしゃは震える体を何とか鎮めようと、一つ大きく息をしました。ここに鍵坊が居ないのが本当に悔やまれます。こういう格式高い神しかいないところこそ、鍵坊のあの颯爽とした雰囲気の力を借りたいものです。
意を決して社殿の内部に続く階段を上ろうとすると、予想通りと言うべきか、その脇で話をしていた人影がさっと動いてあたしゃの行く手を阻みました。水色に金の刺繍が入った上等な狩衣に、くどくない程度に香を焚いたものを着た若い男性神です。光に照り映える黒々とした烏帽子を被り、控えめに口ひげを生やした顔はまさに貴族と言った顔立ちですが、どこかこちらを嘲弄するような、憐れむような目でこちらを見下ろしています。
「失礼、いずこにまします神とは存じませんが、場所をお間違えではございませんか。ここはこれから天満大自在天神様がご講演なされる会場です。道に迷われたのでしたら、よろしければわかるところまで私がご案内いたしましょう」
そうやって肩を掴もうとするのを、あたしゃは振り払いました。あたしゃもその講演を聴きに来たんだと言って、精いっぱい男の顔を睨めつけてやります。
男は狐につままれたような顔をした後、あたしゃの肩口の向こうに視線を送りながらにやりと笑いました。いつの間にか、数人の神が集まってあたしゃを囲んでいます。そのうちの一人、緑の狩衣を着た、角ばった顔の男が会話に加わります。
「残念ですが、この講演には招待状が必要なのですよ。あなたが聴きたいと言ったところで、そう簡単に聴ける講演ではない。それに――」
男は値踏みをするような目線で、あたしゃのつま先からてっぺんまでを舐めるように見ました。
「失礼ですが、その格好もこの場には相応しくないようだ。差し支えなければ、何をなされている神か伺っても?」
ねちねちと、いやらしい感じであたしゃをいじめてくる態度に、逆にあたしゃはさっきまでの気後れを忘れました。むしろ怒りとともに公然と立ち向かってやろうとする気が湧いてきて、あたしゃは平然と、自分が道祖神であることを告げました。
それを聞いた男は口をへの字に曲げ、一瞬時が止まったようでした。そして次にぐにゃにと顔がゆがみ――男はさっきまでの慎みを忘れて天を仰いで爆笑しました。横にいる青い狩衣の男も腹を抱えて笑い、あたしゃの後ろからも、大勢の神たちが笑う声が聞こえます。
「しっ、失礼っ、いやっ、ははっ。こっ、これは傑作だ。道祖神?道祖神が、格式高い天満宮の講演を聞きたい?だって?あっはははは!」
「やめてやれ。ははっ、あまり、笑うと、失礼だぞ、うはは。道祖神だって、天満宮に憧れることはあるだろうてなぁ?まあ、ここにきて、ははっ、身の程を知れただけでも賢いお方ではないか」
「それはそうだ!ははは!道祖神は脳筋やら最近は恋愛脳が多くて、とんと世俗に疎いと聞くからなぁ!よかったではないか、あなた、これで土産話ができましたな。周りの世間知らずのご同業にも、身の程をわきまえる大切さを教えることができますぞ」
みなゲラゲラと下卑た笑いを楽しみ、とてもさっきまでの雅やかな神たちと同一とは思えません。しかしまあ、あたしゃ鍵坊から権力に溺れた神がどれたけ汚いかをあらかじめ聞かされていたので、そこまで驚きはしませんでした。神は特定の分野に際してはそれこそ奇跡のような利益を与え人々を支える尊い存在ですが、良くも悪くも内実はこのようにとても人間臭いのです。
まあそもそも、人が神に頼む願いとは少なからず独善的でエゴにまみれたものです。成功したい、モテたい、お金が欲しい、地位が欲しい、名誉が欲しい。そういった欲に駆られ、妬み、恨み、羨望を原動力にする人々の願いも神は聞き届けるわけで、ですから神が超越的であるわけがないのです。むしろ神も人間臭いからこそ、そういった願いに真摯に向き合うことができると言えます。
ですから、エリート神たちのこういった反応は別に正常と言えば正常なんですが、流石にずっと絡まれるのは鬱陶しいので、あたしゃは懐からこいつらを黙らせるとっておきをとりだしました。
皆の者、控えおろう。この招待状が目に入らぬか。
招待状の効果は抜群で、水を打ったようにあたりは静まり返りました。みな信じられないという面持ちで、あたしゃが掲げる招待状を食い入るように見つめています。あたしゃはその様子に大変満足しました。笑いがこみ上げてきましたが、こいつらと同族にはなりたくないのでわざとすました顔を作るのが大変です。
あたしゃは呆然とする前の二人をさっと押しのけ、階段を上ろうとしました。その時です。あたしゃの左手首をがっ、と乱暴に掴むものがいます。あまりの力の強さに驚いて顔を向けると、掴んでいたのは緑の狩衣を着た角ばった男でした。さっきまでの余裕はどこへやら、顔を真っ赤にしてぶるぶる震え、憤怒の眼であたしゃを睨んでいるじゃありませんか。
「きっ、貴様っ!貴様のような道祖神が招待状をもらえるはずがないだろうがっ!俺っ、正式な天満天神の分霊である俺ですら手に入らなかったんだぞ!薄汚い貧乏神め、どうせ誰かから盗んだんだろう!寄越せっ!貴様には過ぎたものだっ!」
これにはあたしゃも目を丸くしました。完全に予想外です。さっきまでさんざんあたしゃを愚弄してたんですから、てっきりこの神も招待状を持っているものだと思っていました。可哀そうに、この神は招待状が取れなかったものだから、せめて会場周辺の雰囲気だけでも味わおうとここにいたわけです。まるでコンサートのチケットが取れなくて、会場の外壁に耳くっつけて漏れ出る音だけでも聞こうとする健気なファンのようじゃありませんか。
なんて、この神に同情的な思いを寄せている場合じゃありません。この神はものすごい力であたしゃの枯れ木のような腕をひねり上げて招待状を奪おうとしています。もうあたしゃも、恥にも外聞にも構っている暇はありません。猿のような悲鳴を上げながら空いた右手で男の顔をめちゃくちゃに引っかき、男はぐおお、と熊のような声を上げますが、力は弱まりません。周りを取り巻く神たちは最初おろおろしていましたが、どうやら男に加勢することに決めたようです。いくつもの手が伸び、あたしゃの肩とか頭とか、とりあえず掴めるところを掴んできました。絶体絶命です。あたしゃは鼻水を垂らしながら首を振り回して抵抗しましたが、だんだん招待状を掴む左手が痺れてきて、限界が近いことがわかりました。
「何を、している?」
凛、とした声が響きました。あたしゃを含めた多くの者が怒声を張っていたにも関わらず、その涼やかな声は不思議な力をもってあたしゃたちの鼓膜を貫きました。みなの動きが止まり、声のした一点、境内の暗がりを見つめます。
社殿から溢れる灯りはあたりを明々(あかあか)と照らしますが、他方、光の届かない陰はその色をさらに黒々としたものにします。その漆黒からしずしずと、一人の男性神が顕れました。
身に着けた束帯は周囲の漆黒がそのまま形になったかと思うほど黒々としており、灯りを受けて濡れたように照り映えていることから、非常に上質な繊維で編まれていることがわかります。着物の各部を締める帯は黒となじみながら、けれどしっかりと存在を主張する紅で、その紐は烏帽子にも使われていて縁どったその人の顔を印象深いものにしています。神の間に席を設けられてからはや千年以上経つというのに、枯れることをしらない神気のために外見は二〇代後半にしか見えません。切れ長の目は鋭い知性を感じさせますが、今はその目が怪訝半分、不快半分に歪められています。
「聞こえなかったのか。何を、しているのだ」
突如現れた天満大自在天神その人に、取っ組み合っていた神々は慌ててその場で深く首を垂れました。あたしゃももみくちゃになった着物をばたばたと適当に直し、ほかの神をまねてお辞儀をします。
「――恐れながら。道祖神を名乗るこの神が不届きにも天神様のご講演の招待状を得たと虚言を弄しますので、仲裁を行っていたところです。天神様にはお見苦しいところをお見せしてしまい大変申し訳ありません。すぐにこの神を御目の届かないところに連れてきますゆえ――」
自在天神は手に持っていた杓をさっとかざし、男の発言を遮りました。
「道祖神?そちらにおわす神か。申し訳ない。はばかりなければ、顔を上げてくださらぬか」
自在天神の呼びかけにあたしゃは肩をびくつかせながらも、恐る恐る顔を上げて彼の顔を覗き込みました。あたしゃの顔を認めた自在天神は、意に反して顔をほころばせました。
「やはり、タムケ座衛門殿ではありませんか。明治のあの一件以来ですね。あれから時も経ちましたが、息災ですか」
にこやかに語り掛ける自在天神に、あたしゃ言葉もありません。なにより、まさか自在天神が明治のあの事件をまだ覚えていてくれたなんて。嬉しいやら恥ずかしいやらで、あたしゃ口の中をもぐもぐさせることしかできませんでした。
しかし、驚いたのはあたしゃだけではないようでした。青い狩衣を着た神も信じられないというまなざしであたしゃを見た後、顔を上げました。
「で、ですが、天神様。この神は、あろうことか天神様のご講演の招待状を盗んだのです。決して、天神様がご存じの神ではないかと――」
「盗んだ?その招待状のことかね」
奪い合いの過程でかなりしわくちゃになりつつも、何とかあたしゃの手に残った招待券を自在天神は杓で指します。
「どのような手違いでそんな誤解が生まれたか知らないが、それは私がタムケ座衛門殿のために用意した招待状にしか見えませんが。それともなんでしょうか?君たちはタムケ座衛門殿が盗んだ瞬間を見たとでもいうのですか?」
青い狩衣は、うぐ、と声を絞ると悔しそうに再び首を垂れました。しかしあたしゃは驚愕です。あたしゃのために用意した?じゃあ鍵坊は、自在天神その人に直接掛け合ったとでもいうのですか。全部知ってて、明治牛暴走事件の話とかライターの茶番とかをやったっていうんですか。
そんなあたしゃの動揺はよそに、自在天神はぱん、と手を叩きました。
「はい、では、よくわからないがこれは解散だ。まもなく会も始まりますからね。招待状を持つ方は会場に入ってお待ちください。入り口をこうやって塞いでいると後ろの方にも迷惑ですよ」
「でっ、ですが天神様!」
食い下がろうとする緑の狩衣に対し、杓を手でたたくぱしっという音が応えました。
「申し訳ない。あなたがどこの神か存ぜぬが……私はあまり怒りたくないんだ」
あたしゃは見ました。見て、背筋が凍りました。多分ほかの神たちも同じだったと思います。今の一瞬だけ、かつてかの平将門と競って高天原で暴れまわった、荒魂としての菅原道真が確かにそこにいました。
恐れおののいて、たむろしていた神たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去りました。触らぬ神に祟りなし。あたしゃもそのあとに続こうと思ったのですが、不幸にも自在天神に呼び止められました。恐る恐る顔色を窺うと、しかしさっきのようなほっこりとした笑顔に戻っています。
「すみませんねえ。災難だったでしょう」
にこやかな問いかけに、あたしゃは曖昧に笑ってぼりぼりと頭を掻くことしかできません。
「彼ら、ほとんどは私の分霊として天満宮の社格を持つ神でしてね。能力は高いのです。それに、あのプライドの高さも、私の教えではあるのです。プロフェッショナルな仕事には高いプライドは不可欠ですからね。彼らも自分の天満宮の社格と利益に、誇りを持っているからこそ、あのような態度をとってしまうのですよ。まあ、今のように、必要以上の誇りは驕りとなり、毒ともなるのですが……。その点では、鍵介君は惜しい。彼には飛びぬけた能力がありますが、それに誇りを見いだせていない。誇りよりも、驕りの毒を先に知ってしまった……。けれど、それは我々先達の神にも責任があるのです。高天原を、彼が自分の真価を発揮できるに足ると思えるふさわしい場所にすることができなかった」
そういうと、自在天神はあたしゃの顔を覗き込んでにっこりと笑いました。
「けれど、鍵介君も変わってきているのです。きっと、周りによき神がいるのでしょうね」
自在天神が含むところをわからないあたしゃではないつもりですが、それは買い被りが過ぎるというものです。あたしゃはただ、目の前のことに対してもがいているだけ。その目の前のことだって、鍵坊や、この自在天神や、そういった周りが与えてくれるからこそあたしゃはもがくことができているのです。ですから、そこから鍵坊が何かを感じ、何か変化があったとするなら、それはやっぱり鍵坊の素質によるものでしょう。
あえて何も語らないあたしゃのことを、自在天神が少しの間見つめました。彼が視線を上げた先を見ると、涼やかな空気をたたえた、黒々とした夜空が広がっています。
「――心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん」
一迅の夜風のように、さわさわと心地よい肌触りを伴って、自在天神の声があたしゃのもとに届きました。
問うように彼の顔を見つめると、自在天神は恥ずかしそうにはにかみます。
「まだ私が人の身であったころ、いつかの晩に詠んだ歌です。この夜空を見て思い出しました。――これから講演でもいろいろなことを話しますが、私としては、百の言葉よりも、この歌こそを今のあなたに贈りたい。どうか驕らず、初心を忘れず。あなたはこれらからも成長を重ねるでしょうが、それは時に道を誤らせるものだ。――いついかなる時も、自分の進むべき道を忘れないでいること。それがおそらく、夢をかなえるための、最上にして唯一の方法だと、私は思っています」
自在天神はさらりと身をひるがえすと、静かに社殿の中へ消えていきました。一人残されたあたしゃは、少しの間夜風の余韻に浸ります。
心だに 誠の道に かないなば 祈らずとても 神や守らん。
あたしゃはこの夜風を、あの彼にも吹かせてあげたい、そう思いました。
* * *
夏が終わって、夕方の影も長く伸びるようになって、次第に昼よりも夜の時間の方が長くなっていった。金色に輝いていた稲穂はすでに刈り取られて、稲田も今は荒涼とした素地を晒している。あとひと月もすれば雪が降りだして、この寂しい情景は美しい白銀の雪景色へと姿を変えるだろう。時の移り変わりを示す稲田を見ながら、いよいよ受験期も大詰めを迎えつつあることを実感した。
と言っても、今の僕の気持ちはこの荒涼とした田んぼとは似ても似つかない。夏休みの最初の方には多くの不安を感じていて、もちろん今も通奏低音のように響く漠然とした不安はあるけれど、それよりも着実に力をつけてきたという実感から来る自信が胸中の大半を占めていた。
そう思えるほど、夏休みよりこのかた受験勉強はうまくいっていた。一つには、夏休みの最初、何の気もなしにあの神社で拾った、あの言葉のおかげというのがあるかもしれない。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」。本当に何べんも聞かされてきた、もう手あかのつききってしまった言葉だけれど、実際に改めて反芻するとそこから学べることは数多くあった。
まずは、志望校の合格に向けて過去問の傾向と対策を丹念にやり直してみた。問題集も過去二〇年分くらいは手に入る限り集めて、どんな問題が出て、それによって要求されている能力はどのようなもので、それを培うためにはどういった勉強法がいいのか、時間を惜しまず丁寧にまとめて、一冊の大学ノートに書き記していった。もちろん一人でやることには限界があるから、ことあるごとに先生に見てもらって方向性の修正を随時加えていき、視野狭窄に陥らないように注意した。
そして、己のこと。自分は何が得意で何が苦手で、今の自分が得点を伸ばすにはどこを集中的に勉強すればいいのかを常に考えた。自分が得意とする勉強は楽しくて、ついつい多くの時間をそこに割きたくなってしまうものだけれど、そういった得意な科目にはもうあまり伸びしろが残されていないことも多い。むしろ夏休みなど多くの時間が使える時こそ、今まで苦手のままで放ってきてしまったところをじっくりと掘り返し、しっかりと結果が実るような土壌に変えてやることが望ましい。もちろん鋤の刃は簡単には通ってくれなくて、耕作してるこちらも骨が折れるのだけれど、だからこそうまく芽吹いて花を咲かせたときはより実りが多いものと信じて根気よく頑張った。
ここまで自己を客観的に見て勉強を進めることができたのには、もちろん孫子の言葉によるところもあるけれど、それ以上に、やっぱり毎日欠かさずにあの神社にお参りに行ったおかげもあると思う。いや、ペースメーカーとしての役割とか、毎回詣でる時に最近の自分の近況を話すから、それが自分を客観視することにつながったとか、そういう実際的なこともあるにはある。けれどそういった現実的な側面以上に、もっと直感的な何か、自分の頑張りをずっと見ていてくれる存在を、ことあるごとに僕は実感していた。
本当に些細で、多分ほかの人に話したら絶対に笑われてしまうことだけれど、そういった存在がくれるサインが時々あって、それに気づくたびに何とも言えない力強さを僕は感じていた。例えば、模試の受験番号が自分の誕生日だったとか、たまたま少しの息抜きにと、何気なく手に取った小説が次の日解いた読解問題に載ってたとか、そういう本当に些細なこと。最近だと、模試の日がひどい土砂降りで会場に着くまでひどい憂鬱だったことがあった。でも模試が終わるころにはその雨はやんでいて、会場を出てふと空を見ると、完全な架け橋になった鮮やかな虹が掛かっていた。
そういった日々の、何気ない嬉しいこと。忙しい人なら気にも留めないで流れていってしまうような出来事に僕はとても元気づけられて、ついお参りとの関連を考えてしまう。まあ、ほかの人が聞いたらそれは全部偶然でお前のこじつけだと笑い飛ばすか、むしろ僕を電波系かと思って心配するかもしれない。けど、それをどう受け取って、どう解釈するかは僕の自由だ。そして、それが受験の活力になっていることは紛れもない事実だった。
そんな風にして、僕は受験期の日常を重ねていった。
暮れなずむ外の様子を廊下の窓越しに眺めながら歩き、たどり着いた教務室の扉を叩く。古くて立て付けが悪いせいでガタガタと不細工な音を立てる扉を開け、自分のクラス名と名前を言うと、多くの教員が立ち働く教務室の奥で手を挙げる人影があった。こちらを認めて微笑みかける相手に微笑みを返しながら、教務室の机の間の狭い通路を通ってその人物に近づいた。
「よう、菅名。ご苦労さん。今日も懲りずに添削問題を持ってきやがったのか」
「はい。まあ一応解答例は載ってるんですけど、やっぱり一度先生に見てもらいたくて」
「面倒くせえなぁ。お前ならもう一人でもできるだろ。……まあしゃあねえ。じゃあいつも通りあの机に移動だ」
先生は伸びをしながら立ち上がると、悪態をつきながらも僕を教務室の出口横へと誘う。そこには長机と数脚のパイプ椅子が置かれていて、わからない問題を訊きに来た生徒に教師が対応するためのスペースになっている。まあ最近は僕と先生の特等席みたいになっているのだけれど。
「ほれ、とりあえず見してみろ」
どっかりとパイプ椅子に腰を下ろした先生が差し出した手に、持っていた問題集を載せる。先生は僕が座るのも待たずにそれを机の上に広げると、さっきまでのおどけた態度とは一変して真剣な表情でそれに目を通し始める。
その様子を眺めつつ隣に腰を下ろし、お参りと関係があるかはわからないけれど、この先生もまた自分が享受した幸運の産物の一つだなと思った。
さっきから先生先生と言っているが、ほかの先生と区別をつけるならこの先生は小田先生と言う。下の名前も確か就任式の時に言っていたはずだけれど、忘れてしまったので小田先生とかもっぱら先生と呼んでいた。
もう肌寒い季節で制服はとっくに冬服に衣替えになったというのに、小田先生はスーツの上着も着ないワイシャツ姿で、しかも袖を肘までまくっていた。何かスポーツをやっているのか、むき出しになった二の腕は太くしっかりと鍛えられているのがわかる。真剣に問題集を見つめる横顔は整っていて、学校の女子生徒から人気があるというのも納得だった。まあその一因は、小田先生がほかの先生たちに比べて格段に若いということもあるのだろうけれど。
というのも、小田先生はこの夏休み明けの秋学期から臨時採用でやってきた非常勤講師だった。古典を教えていた清水先生という初老の先生が体調を崩して急遽休職することになって、その穴を埋めるためにやってきたのが小田先生だ。なんでも元々この高校の卒業生で、今はこの県にある国立大学の大学院で文学を研究している学生らしい。進学率のあまりよろしくないこの高校から地元とはいえ国立大学に進学したというのはかなりの快挙で、そのために教員の記憶にも残っていて声が掛けられたのだという。その点で言えば小田先生は、まさに僕が目指す理想を体現した存在と言えた。
にもかかわらず、実は小田先生のことを就任当初全く気に留めていなかった。清水先生が教えていたのは二年生だったから、それを引き継いだ小田先生とは何の接点も生まれなかったのだ。就任式で言ったはずの名前を憶えていないのもそういうこと。鮮花が、小田先生ってイケメンでかっこいいんですよー、とたまに帰りが一緒になったときとかに話すのを、ふうん、と話半分に聞くぐらいだった。
その関係が変わったのは、九月も下旬に入ったころだったと思う。僕は二次試験対策もそろそろ進めようと国語の記述問題を解いていて、流石にそれを自分だけで添削するのは心許ないので担任でもある国語の竹原先生に見てもらうようにした。最初こそちゃんと見てくれていたのだが、しかしすぐに竹原先生はこの時間を疎みはじめた。というのも、竹原先生は野球部の顧問をやっていて、放課後はすぐに部活を見に行きたがったからだ。だからある日、オレより歳も近いんだし、若くてやる気もあるから小田先生に見てもらったらどうだ、と言われてしまった。
正直、普通に嫌な思いが勝った。僕を疎んで小田先生に投げたのは見え見えだったし、それに小田先生は教員とは言えあくまで非常勤講師。指導歴もあまりない先生で大丈夫かと失礼ながら疑う思いの方が強かった。
まあ、今となってはそんな風に失礼な人物評をしていた自分は本当に人を見る目がなかったと思う。ともかく、不信感をたぶんあまり隠すことなく訪れた僕に対し、小田先生はおどけたように笑いながら出迎えた。おおー、君がうわさに聞く難関大を目指す生徒か。こんな臨時採用教師に、さてさてどのようなご用件かな。
この少し皮肉な、しかも挑発されているかのような物言いに、当時はその場で踵を返して帰ってやろうかと思った。多分誰でもそうだと思う。しかし、僕が口の端をゆがめて笑顔を偽造しながら渡した記述問題を見ると、先生は今も見せてくれているこの真剣な横顔を作って、これまでどの先生もしてくれたことがないほど丁寧に教えてくれたのだ。それに解答の添削だけではなくて、そこから読解の癖を見抜いて文章問題の読み方のコツも指摘してくれて、その数分間で小田先生の評価は一八〇度変えざるをえなかった。非常に現金な話ではあるのだけれど。
それに、小田先生が学部時代は教育学部に在籍していたと知って、より親密に先生から話を聞くようになった。僕の志望する学部もまた教育学部だったからだ。だから、なんだかんだと理由をつけて小田先生を勧めた、というか押し付けた竹原先生の行動は結果的によかったということになる。それに、ほかの先生に比べれば小田先生が大学受験を経験したのは比較的最近のことだったから、いろいろな相談事にも乗ってくれた。
だから僕としては、ようやく真に受験勉強に向き合ってくれる大人を得ることができたという思いだった。小田先生は非常勤だから毎日学校にいてくれるわけではないというのが残念なところだったけれど、それならば小田先生が学校に来る日までに訊きたいことを貯めておけばいい。そうして先生がいる日は下校時刻まで先生に解答の添削をしてもらいながら、勉強のアドバイスをもらったり、悩みを話したりするというのが、自然と最近の習慣になっていった。
だから、今日も添削をしてもらってから今月の頭に受けた模試の出来高とかを話していたのだけれど、話題は徐々に勉強のことを離れて最近の出来事に移っていった。毎日が勉強一色に染まっている中で、何気ない日常のことを――最近は先生の大学における授業やレポートの愚痴が多いのだが――話したり聞いたりするこの時間は数少ない楽しみの一つになっていた。
「そういえば実は僕、五月からずっと、毎日近所の神社にお参りに行ってるんですよ」
気がつくと無意識に、僕は神社のことを話していた。別に特段隠そうとか思っていたわけではなかったけれど、小田先生に神社のことを話すのは初めてだった。言ってから何を話しているのだろうと自分でも驚き、口をつぐんでしまう。
小田先生も不意を突く話の展開に驚いたのか、しばらく目を瞬かせてさせて僕の方をじっと見つめていた。しかしだんだんと僕の話した内容が頭の中に染み込んでいくかのように先生の表情は平静に戻っていき、最後には余裕のある笑みに変わった。
「――へえぇ。まあ今どき珍しいと言えば珍しいが、菅名っぽい趣味と言えばそうか。お百度参り、とか言うんだっけ。きっかけとかあるのか?」
先生は、菅名っぽい、のところで鼻を鳴らすようにふふん、と笑った。先生が調子を取り戻す一方で、元はといえば話すつもりがなかった話題だったせいか、なぜか僕は狼狽してしまう。別に隠すものではないし、後ろめたいことをやっているわけでもない。なのに素直に話すのに抵抗があるのは、神社に毎日お参りに行くなんて普通の高校生がやることじゃないし、だから自分は普通より変わっているという自覚があるからだろうか。そんなことは織り込み済みのはずで、だから鮮花の前だとなんともないのに、小田先生にはまだすべてを屈託なく話せるわけではないということが自分でも意外だった。
でも、と僕は考える。意識しないでお参りの話をしてしまったというのは、むしろ先生を本当に信頼する人間として意識しだした表れでもあるのかもしれない。そういう風に逆転の発想で考えようとすると、少しは気が楽になって調子が戻ってきた。
「えっと、きっかけと言うほどでもないんですけど、五月に偶然その神社を見つけたんですよ。田んぼのど真ん中にあるぼろい神社で、正直何の神様かもわからないんですけど、なんか自然と愛着が湧いちゃったというか。……正直よくわからないんですけどね」
「なんだ。俺はてっきり、天満宮とか受験の神様祀ってる神社に行ってるのかと思ったぞ。まあ、そういう何祀ってるのかわからん神社ってのはここら辺には多そうだけどな」
そういうと先生は、ふうむ、と顎に手を置いて少し考えるようにした。
「えっと、先生?そんなに何か思うことでもありますか?いや、確かに、今どきの高校生が神社でお参りかよ、って感じではありますけど……」
何かまずいことでもあるのだろうか。不安な気持ちを混ぜた僕の声色に、しかし先生は笑って違う違うという風に手を振った。
「いや、そうじゃないんだよ。まあ確かにお参りは変わってると思うけど、それよか俺は、菅名のその継続力がすごいと思ってな。何祀ってるかもわからん神社に、五月からずっとお参りしてるなんて、よく続くなあって。俺も筋トレを習慣化しようっていうよくわからないやる気が半年に一回くらいのペースで来るんだけどさ。いつも今度こそ毎日欠かさずやるぞって意気込むんだが、結局毎回一か月くらいで面倒くさくなって辞めちまうんだよなあ」
なるほど。そういう観点はなかったし、改めて考えたこともなかった。僕はどうしてずっとお参りを続けられているんだろう。まあ、最近はお参りのおかげだと(勝手に)思っているよい出来事がちょいちょいあったけれど、それはあくまで結果論だ。別に僕はそういった出来事を求めてお参りを続けていたわけじゃない。うーん、と考えていると、一つ行き当たるものがあった。
「――もしかしたら、僕だけの神様が欲しいというのがあるのかもしれません。あそこは行きづらい場所にありますから、訪れる人もほとんどいないでしょうし。ですからそこに毎回お参りに行けば、神様が僕だけに寄り添ってくれるようになるというか……」
そこまで言って、いったい何を言っているんだと自分で驚いた。自分だけの神様が欲しい?そんな傲慢なことを考えていたのかと思うが、自然と出てきただけにそれを否定することはできなかった。というか、そんなことわかっていたんじゃないのか。夏だって、あの変な多聞さんをどうしても許容できない部分があったのは、僕の神社をあの人がなにか侵すところがあったと感じていたからだ。
じゃあなんで、こんなにも素直に語れないのだろう。小田先生に語ることに、どうしてこんなにも抵抗があるのだろう。そして僕は気づく。気づいて、自分がどれほど恩知らずで欲深い人間なのかと、見えてしまったその事実に目を背けたくなってしまう。
「どうした?」
言葉を詰まらせた僕に、先生は優しく微笑んでいた。さっきまではその余裕のある顔が少し気に入らなかったのに、今はすごく有難い。もうこれ以上話すのはやめようと思ったのだけれど、その笑顔に促されて、僕は言葉を選ぶように、自分で自分が話している内容を理解できる速度で、ぽつりぽつりと先を続けた。
「いや、えっとですね。……僕だけに寄り添ってくれるなんて、神様をそんな風に独占したいと思っていた自分、それにも驚きなんですけど。……むしろ、それはつまり、僕の周りにいて、僕を実際に支えてくれている人。例えば、親とか、それこそ小田先生とか、あと後輩とか。そういった人たちにすごく失礼と言うか、まるで僕はその人たちが僕に真には寄り添ってくれてないと考えていたんじゃないかって、今、思い至ったんです。そんなことはないと思いたいんですけど。けど胸を張ってそうだとは、なんか言い切れない感じで。こんなに恩知らずだったとは、我ながらどうしようもないやつだなって。――はは、なんかごめんなさい、変なこと言ってますね……」
けれど先生は真剣な顔で、じっと僕の語る言葉に耳を傾けてくれていた。普段は斜に構えた感じなのに、こういう顔も時々してくれる。僕が小田先生を信頼のおける人だと思える理由の一つだが、こうして先生が寄り添ってくれているのに、それをどこかで足りないと思っていたのだろうか。そうだとすれば、僕はとんでもない恩知らずと言うことになる。
先生は少し考えるようにしていたが、やがて僕の目を見た。
「いや、菅名、それはまともだよ。というか、そこまで気がついているやつはなかなかいないと思うから、誇っていいと思うぞ、俺は」
「まとも、ですか」
先生の表情には、いつもの余裕のある笑みが戻ってきていた。
「ああ、まともだ。お前はたぶん、自分の行動の裏にあった独占欲みたいなものが見えてそれに驚いてるんだろうが、そんなもんは人間誰しも持ってるもんさ。むしろ持ってなきゃまずい。己の欲望ってものがないと、この世じゃ生きていけないからな。まあ、そういうのはエゴともいうんだろうが、つまり人間は誰しもエゴを持ってる。この世はエゴとエゴのぶつかり合いと言ってもいいくらいだ。――まあ、それに気づけていないやつがゴマンと居るんだがな」
「エゴ……」
「そう、エゴだ。親や後輩や、あと俺に対して、真には寄り添ってくれてないんじゃないかっていうお前の思いは正しいよ。だって、そいつらはみんな人間だからな。俺はもちろん教師で、そりゃ生徒のことも考えるが、だが俺は教師である前に人間だし、それに本業は学生だ。だから、もちろん生徒のことを第一にずっと考え続けるわけにはいかない。こうやって、可能な限りはお前の力になってやれるが、それも俺の許容量、まあつまり俺の許すエゴの限りだ。お前に全振りはできない。申し訳ないがな。それは親でも同じさ。まあ親が子に割ける許容量はほかの人間よりは多いんだろうが、それだって百パーじゃないと思う。親だって自分の人生を生きてて、自分のやりたいこと、叶えたいことを持ってるわけだからな。それにお前、ほかに下に弟妹も居るんだろ。だから、お前がそういう風に考えること自体は全く問題ない」
確かに、先生の言う通りかもしれない。母さんは、僕たちのために昼夜を問わず働いていて、ほとんど家にいるということがない。僕はそれを申し訳ないと思っているし、何とか力になりたいとも思っている。それに、僕たちに不憫な生活を送らせていることを、母さんが申し訳なく感じているということも痛いほど伝わってきた。だから僕は出来うる限り母さんを支えて、母さんの障害になるようなこと、例えば僕の悩みを聞いてもらうというようなことは控えるようにしていた。ただでさえ忙しい母さんに、それ以上のことを要求するのはあまりにも酷だからだ。
けれど、頭ではそうわかっていても、母さんに話したいとか、もっと気にかけてもらいたいと思うこと自体は止められないのだろう。実際そういう思いに理性で蓋をしているところはあるのかもしれない。
先生は僕の顔をちらと覗くと、その先を続けた。
「だからな。ここからが重要な話なんだが、大事なのはエゴをなくすことじゃない。そうじゃなくて、この世はエゴとエゴのぶつかり合いだと、しっかり理解しておくことだ。それを理解しているかしていないかで、この世の生き方はだいぶ変わってくる。俺はな、この世には二種類の人間しかいないと思ってる。一方には、自分のやりたいこと、自分の欲望をしっかりと叶えるやつ。つまり、ちゃんと自分のエゴを貫き通せたやつ。もう一方は逆に、自分の夢を諦めちまったやつ。自分が思うような生き方ができないやつ。つまり、自分のエゴを貫けないやつだ」
先生は含めるように、人差し指を立てた。
「結局な、この世は弱肉強食だってのは、俺はある程度正しいと思うよ。生き残るためにはそのための居場所が必要だし、その居場所を得るためには、相手に自分のエゴをぶつけて、相手をそこから追い出さなきゃいけない。違うのは、その事実をわかってるかどうかだ。俺は、周りのためだと言って、自分のエゴを振り回す大人をいっぱい見てきた。そいつらは、平気な顔をして他人のエゴを叩き潰していたが、みんな社会成功者だったよ」
そこまで言って、先生はすこしその先を言いづらそうにした。口元に手をやって、語るかどうか悩んでいる。僕は特に促そうとはせず、先生の次の動作をじっと待った。ややあって、再び先生は僕の方を見た。
「これは俺の個人的な話なんだが、構わないか」
もちろん構わない。僕は先を促した。
「五年前だ。俺もかつて、菅名と同じ高三で、大学受験を控えてた。それでな、俺も、当時は東京の大学に行きたいと思ってたんだよ。私立大だけどな。まあけど、なんでなのかと訊かれると、特に強い理由があったわけじゃない。ただ、地元を出たい、東京に行きたいっていう、漠然とした思いがあるだけだった。それでな」
そこで先生は一つ息をついた。
「結局辞めちまったんだ。その私大を受けるのはな。地元の国立大がA判定だったし、家も別に金に余裕があるってわけじゃなかった。別に親は俺が東京の私大を受けるのを反対しなかったが、けど、内心では俺に地元に残ってほしいって思ってたのはわかってた。俺は一人っ子だったしな。だから結局、地元の大学に行った方が親孝行にもなるって、そう考えた。けどな、結局今は……後悔してるんだ。あの時遠慮しないで、東京に行っとけばよかったと、ずっと思ってる。結局俺は、親のエゴに折れて、自分のエゴを曲げちまったんだ。まあ、親と張り合えるような強い願い、エゴを持てなかった俺が悪いんだけどな」
そういって先生は少し寂しそうに笑った。
「だから、俺は菅名がすごいと思うよ。自分のしたいこと、自分のエゴがしっかりわかってる。それは、誰にでもできることじゃない。だから、菅名にはそれを大事にしてほしいと思う。他人のエゴよりも、自分のエゴを優先してほしい。俺は行けなかったが、お前にはぜひ東京に行ってほしいと思ってる。まあ結局、それも俺のエゴなんだがな」
そう言って先生は笑った。僕もつられて笑いながら、頭の中で、そのことについて考えてみる。この世はエゴとエゴのぶつかり合い。確かに、受験戦争とまで言うほどだから、そこで得た結果と言うのは他人を蹴落としたうえで成り立つものだろう。受験には定員があるものだから、それはある程度仕方ないものだと思う。けれど、今までそのことをあまり意識したことはなかった。周りの同級生に同じように受験に真剣に取り組んでいる人がいなかったからだろうか。みんな高卒とか、専門学校とかに進むから、目に見えるライバルという存在はついぞ意識したことがなかった。けれど、真の意味で受験を迎えるためには、先生の言う通りエゴとエゴのぶつかり合いだということを意識した方がいいのだろうか。
そんなことを考えていると、急に先生が頓狂な声を上げた。
「うわっ、夢中になってりゃもう七時じゃないか。下校時刻だ、下校時刻。すまんな菅名、ずっと引き止めちまった。気をつけて帰れよ」
「いえ!こちらこそ、ありがとうございました。参考になるというか、ためになる話でした。自分でももうちょっと考えてみたいと思います」
「まあ、そんなに思いつめられても困るんだがな。もう受験も大詰めだし、ここで軸足がぶれたら目も当てられん。まあ、気負わず、気楽にな」
手を振る先生に頭を下げて、僕は教務室を後にした。廊下の照明がついていないせいで、夕闇の薄暗さがあたりに満ちている。僕はその薄闇の中を、生徒玄関に向かって急いだ。
小田先生とあの日話してからというもの、僕はことあるごとにエゴということについて考えるようになった。というより、エゴという言葉によって、それまでは特に名前がついていなかったことがくっきりと見えるようになったという方が正しいかもしれない。
それは例えば、図書館でうるさく騒ぐ生徒。帰り道、狭い歩道を無理に突っ込んでくる自転車。深夜、けたたましい音をわざと立てて静寂を引き裂く車。何がそんなに楽しいのか、何をそんなに急いでいるのか、何をそんなに苛ついているのか。僕の周りではいろいろな人間が自分のエゴを振り回して、そのたびに僕の心は少しずつささくれ立っていたんだと、今まで気づいていなかったことに気づく。
竹原先生だって、なんでそんな迷惑そうな顔を何の抵抗もなく僕に向けられるのだろう。放課後に質問に来ることは悪いことなのか。そんな顔をしてまで、早く部活に行きたいのだろうか。あなたがそういう顔をすることで僕の胸に生まれる不快な気持ちを、あなたはちゃんとわかっているのだろうか。
そういう風にエゴを振り回す人間を見ているうちに、僕は小田先生の正しさを知った。確かにこんなに周りの人間が自分のエゴをぶつけてくるのに、僕は何を遠慮することがあるのだろう。エゴという言葉に気づいて、自分のささくれに気づいて、次第に僕は自分が遠慮することの馬鹿馬鹿しさに気がついた。
だから、あの日の出来事は避け得ないものだったのだと思う。多分時を戻しても、同じことになるのだとも。それに、あの出来事があったからこそ、今の自分がいるのだとすらいえるから、僕にとってそれは大切なことだったのだと思う。それでもいまだに、思い返すと辛い。けれどおそらく、本当に大切な出来事というのはそういうものなのだ。
その日は、小田先生と最後に話してからまだ一週間も経っていなかった。もともとこの地方は冬に近づくにつれて日照率が落ちて、晴れよりも曇りの印象が強くなっていくのだけれど、その日の雲は特に重く垂れこめて、まるで濡れそぼったネズミみたいな色をしていた。
そんな気分の沈むような窓の外の様子を見ながら、僕は担任がホームルームの終わりを告げるのを聞いた。周囲の生徒たちが一斉に立ち上がり、教室が一時の喧騒に包まれる。僕も机の横に下げた鞄を取り上げると、今日使った道具を詰めて帰り支度を始める。
と言っても、これからすぐに帰るわけじゃない。図書館に寄って、下校時刻までそこで勉強していくつもりだった。時間を計って過去問を解いてみるか、それともそんなに時間がないから昨日解いた赤本の復習にとどめておくか、そんなことを考えながら荷物を詰めていたせいで、筆箱を取りこぼして落としてしまった。
おお縁起が悪いと、僕はすぐにしゃがみ込んで机の下に落ちた筆箱に手を伸ばす。
「おい、邪魔だ。どけよ」
かがんだ僕の背後から、険を含んだ無遠慮な声が降ってきた。いきなりの剣呑な様子に少し驚いたけれど、声の主はわかっている。だから僕はわざと少し時間をかけて立ち上がって、ゆっくりと声の方に振り返った。
予想通り、そこにはこちらを睨み据える小山の顔があった。
「聞こえなかったのか。どけって言ってんだよ」
こうやって小山が突っかかってくるのは、別に今日のこれが初めてじゃない。具体的にいつからというと、多分九月の中旬あたりから。そして、どうしてこうやって小山が突っかかってくるのかという理由も、別に小山は親切丁寧に話すわけでもないし、僕も別にわざわざ訊いたりしないのだけれど、だいたいの見当はついていた。だから僕はわざわざ小山の挑発に乗ったりしないで、めんどくさいなと思いながらいつも流すようにしていた。だって僕らはもう高校三年生で、いまさらそんな、ガキみたいな小馬鹿な喧嘩をする歳じゃない。それに僕は受験生で、そんな暇なんてありはしない。まあそんな態度が、小山を余計にイラつかせるのだろうというのもわかってはいたのだけれど。
でも、今日この小山の険のある声を聴いたとき、いつものように流してやろうとは思えなかった。多分、先生と話したエゴの話があったからだと思う。――この世はエゴとエゴのぶつかり合いだと、しっかり理解しておくことだ。
なら、小山も僕に自分のエゴをぶつけているわけだ。僕に遠慮せず、気を遣わず、自分の事情だけを押し付けてくる。だったら僕だって、何を遠慮することがあるだろう。今までは相手をせずに無視してやってたんだ。今更お前のどこに気を遣えっていうんだよ。
最近急に気がつきだしたささくれだった心にも背中を押されて、僕は自然と、自分の口が皮肉に笑うのを感じていた。
「なんだよ小山。それが人にものを頼む姿勢かよ」
おそらく、言い返されるとは思っていなかったのだろう。小山の表情筋がピクリと動き、そしてこちらを睨む険しさが一層強くなった。
「あ?」
「聞こえなかったか。お前のそういう絡みがうざいって言ってんだよ。気に入らないことがあるならはっきり言えよ」
「黙れよ。てめえには関係ねえだろ」
相手にさらに毒が伝わるように、僕はわざと噴きだして笑って見せた。
「俺に関係ないことで、お前俺に絡んできてんのか。お前意味わかんねえな。ガキかよ」
「んだと」
向こうが感情を露わにすればするほど、逆にこちらの思考は冷静に、冷たいものになっていく。僕はこの状況を楽しんでいた。残酷な感情がこれほど甘美なものだということに驚きながら、それをさらに楽しむための、決定的な言葉は何の抵抗もなく僕の口からこぼれていた。
「一回戦敗退、だっけ?お前はいいよなあ、そうやって納得できないことがあれば、俺に突っかかればいいんだからさ」
小山の腕がものすごい勢いで伸びてきて、強い力で僕の胸元を掴み上げた。思わずたたらを踏んでしまい、腰に当たった机が大きな音を立てる。遠巻きに様子を見ていた女子数人が悲鳴を上げた。
「お前、もう一遍言ってみろ」
憤怒に震える小山の顔を見下ろして、僕は鼻で笑ってやる。
「何遍だって言ってやるよ。試合で負けたからって、いつまでめそめそしてんだよ。ガキか、お前は」
そう、小山の鬱屈の原因に見当がついていたのはこのこと。全国大会において結果を有望視されていた小山は、そうした周囲の予想に反してなんと一回戦で敗北を喫してしまった。試合自体はかなりの僅差で小山も善戦したということだが、それはかえって惜しむ声やあからさまな落胆の声を大きくさせる要因となった。結果報告会において小山が自身の戦績を報告した後のざわめきを今でも覚えている。
小山が目に見えて荒みだし、夏までに見られたような余裕のあるからかいではなく毒のある絡み方をしだしたのはそれからだった。確かに、小山の気持ちもわからないでもない。部活が活発で生徒の大半が部に所属しているうちの高校にとって、生活のうち部活が占める割合はかなり大きい。特に優秀でない、普通の生徒ですらそうなのだ。そこに小山は、己の価値やプライドといった要素までもが付随していた。そんな彼にとっての、最後の集大成となる夏の大会、その結果があまりに悲惨だった。おそらく彼にとって、今まで自分を価値づけてきたものがすべて失われたように思えただろう。
僕はそれでも、小山の自業自得だと思っていた。夏休みの初日に神社で嫌味を言われて、あいつが大会直前に部を休みにしていたのを知っていたから。
だから本当は聞きたくなかった。たかだか田舎の公立高校ごときがと、三年連続出場の小山を目の敵にした他県の私立が優秀な生徒を推薦で集めて小山にぶつけてきたこと。チア部まで連れてきて、会場は完全アウェーだったこと。それでも小山は、試合終了まで決して下を向かなかったこと。そして、今回の敗北によって、それまで小山に推薦での入学を打診していたある大学が、その話をうやむやにしたこと。大会から帰ってきて、涙ながらに話す鮮花に対して、僕は何の声をかけることもできなかった。
だから、夢を失ってしまった小山にとって、受験勉強に打ち込む僕の姿が邪険に映るというのもわかる。わかるから、これまでは別に相手にしてこなかった。けれど、だからと言っていつまでも僕に絡んでいいということにはならない。僕にだって受験勉強という、これまでの集大成の戦いが控えているからだ。そのことに遠慮しないというならば、僕だってもう、遠慮はしない。
「いいか小山。お前がどんなにぐずぐず考えたって、終わったことはもうどうしようもないんだよ。あれだけ練習した、全力を尽くした、最後まで諦めなかった、なんて、過程のことをいつまで考えても仕方ないんだよ。もう結果は出たんだ。結果は覆らない。だからさ、結果を残せなかったからって、俺を巻き添えにしようとするな。俺は負け組にはならない」
僕は一層声を落とした。
「この世は残酷なんだ。分かるだろ。お前の事情なんて誰も汲んでくれない。過程がどうであったって、結果が出なきゃ、――お前のやったことはすべて無意味なんだよ」
小山は息を呑むようにした。表情が消え、一瞬前まで紅潮していた顔は潮が引くように白く塗りこめられた。その能面のような顔のまま、小山はすぅと息を吸い、左手を徐々に持ち上げていく。固く握りしめられた拳がこちらを向くのを、僕はどこか他人事のように、スローモーション映像のように見ていた。
殴りたければ殴ればいい。それで小山の気が晴れるのかは知らないが、それによって僕の前から消え去ってくれるのは確実だ。
ぐぅっと小山の顔が近づき、拳が飛んで来ようとしている。僕は目をつぶらなかった。怯えや恐怖は全くない。小山にくれてやる同情も憐憫も一ミリもない。僕は暴力が爆発する瞬間を見極めようとした。
「やめてっ!」
やにわ、教室に鋭い声が響き渡った。暴力が結実する瞬間にむけて張られていた緊張の糸がそれによって弾け飛び、周囲の感覚が戻ってくる。
声のした方、教室の入り口に顔を向けると、悲痛な顔をした鮮花が立っていた。右手を胸の前で固く握りしめ、顔は何かに耐えるように張りつめている。何か声をかけようとしたが、口が動くばかりで喉が震えなかった。
そうやって鮮花の方をぽかんと見ていると急に胸元で力が籠められ、次の瞬間には強い力で突き飛ばされていた。突然のことで転ばないようにするのが精いっぱいで、もろに背中を黒板に打ちつけてしまう。鋭い痛みが走ったが、それを顔に出さず僕は目の前を睨み据えた。荒く肩を上下させる小山はじっとその場に仁王立っている。
鮮花の登場は意外だったが、むしろ好都合だ。暴力に訴えようとしたことを、部活を共にした後輩に糾弾されればいい。いい気味だった。
鮮花は静かに、張りつめた表情のまま僕らに近づいてきた。僕と小山はお互いを睨み据えたまま、鮮花の次の行動を待った。しばし静かな時が流れ、けれど、僕にとって予想外のことが起こった。鮮花は小山のそばに立つと、張りつめた顔を鋭くして僕に相対したのだ。
「菅名先輩、さっきまでの言葉、私ずっと聞いてました。確かに小山先輩も悪いです。――でも私、自分の部が侮辱されたことは許せません」
「鮮花、何を……言ってるんだ」
「結果が出なきゃ、過程は無意味という言葉のことを私は言ってるんです。先輩は私たちがこの一年してきたことの何を知ってるっていうんですか。何を見てきたっていうんですか。何も見てない、知らないくせに、訳知り顔で私たちの何を語ってるんですか。……私がこの一年大切にしてきた時間、それをそんな言葉で否定されることを私は絶対許しません。――私と、小山先輩と、テニス部のみんなに、謝ってくださいよ!」
声が出なかった。違うんだ、と口走りそうになって、思わず口をつぐむ。だって、何も違わない。鮮花の言う通りだった。けど、違う、そういうことが言いたかったわけじゃない。鮮花や部を否定したかったんじゃなくて、俺はいつまでも過去を引きずる小山にわからせたかっただけなんだ。
頭の中で情けない言い訳がぐるぐる回って、けれどそれはまったく言葉にならない。さっきまで小山を睨んでいた眦が緩んで、目が泳いでいるのがわかる。鮮花の強いまなざしを、僕は正視することができなかった。
「おいお前ら!何やってんだ!」
怒号が響いて、怒気をはらんだ竹原先生が教室に乗り込んできた。その背後に、さっき悲鳴を上げていた女子の顔が覗いているから、多分彼女が呼んできたのだろう。
小山は先生の顔を見ると小さく舌打ちをして乱暴に自分の鞄を掴み、先生の静止も聞かずに教室を出ていった。先生はその後を追い、廊下中に響き渡る声で怒鳴ったが小山は応じなかったのだろう。小山を追わずに教室に戻ってきた。
「おい菅名。お前ちょっと教務室来い」
有無を言わさぬ口調で命じる竹原先生に、僕は無言で従う。しかし僕の意識はそちらにはない。鮮花の方を見る。彼女の瞳は強い力をもって僕を見返してきたが、次の瞬間には彼女は決然とした態度で僕に背を向け、教室の後ろから出ていった。僕はその背中を追うことができなかった。
教務室に呼び出した割には、竹原先生には僕の話を詳しく聞く気はないようだった。進路上の些細なことで口論になったという僕の言葉を先生はつまらなそうに聞き、もう高校生活も大詰めなんだから面倒は起こすなと毒にも薬にもならない小言を投げると、彼は急いで野球場に向かっていった。
大方、部活指導に向かおうとしていたところを女子生徒に連れてこられたのだろう。そんなに早く部活に行きたいならわざわざ教務室まで僕を連れてこなくてもよかったのに。結局、誰も何も得をしないいざこざだったわけだ。
僕は教務室を出ると携帯電話を取り出し、鮮花の連絡先を呼び出した。「さっきはごめん」そう入力して、けれど結局送信ボタンは押せなかった。電源ボタンを押し、暗くなった画面に自分の顔が映りこんでいる。酷い顔だ。
とても下校時刻まで図書館で勉強できる気分ではなかった。だからと言ってこのまままっすぐ家に帰るのも全く気が進まない。となると行く場所は一つしかなかった。
学校を出ると、あたりには完全に夜のとばりが下りていた。右手に見える野球場では投光器がまぶしい光を放って明るかったけれど、むしろそのまぶしさが周囲の闇を余計に暗くしている。僕は金属バットがボールを打つカキーンという高い音を聞きながら校門を後にした。
神社に向かういつもの道のりは、夜闇のせいでいつもと様子が全く違う。田んぼの一本道に据え付けられた街灯はその間隔が遠く、心もとない明かりを各々がその下に投げかけて孤独だった。広い稲田にはほかに明かりがないものだからのっぺりとした闇は重く、遠近感がわからなくなる。街灯の光の届かない闇の中で目を凝らすと、稲田の向こうにそびえる山の黒々とした威容が浮かび上がった。
自分の足音以外聞こえない無音の中で歩みを進めて、神社に至る脇道にたどり着いた。ここから先には明かりがないので、携帯電話を取り出しフラッシュライトをつける。無機質な丸い明かりの中に荒れた道が浮かび上がった。
白く照らされる雑草を踏みしめながら、僕はさすがにちょっと怖いなと思う。街灯に照らされた一本道から外れて、あたりは完全な闇だ。神社がある方に目を凝らしても何も見えず、不安になりながら進んでいくと唐突に神社の鳥居が明かりの中に浮かび上がった。
神社に無事たどり着けたことに安堵を覚える間もなく、僕は恐怖に飛び上がった。鳥居の向こうから物音が聞こえ、明かりの端を黒い影が動いたのだ。
びっくりして、僕は慌てて影の方に明かりを向けようとする。けれどそれより先に、視界が真っ白に塗りつぶされた。向こうの人影が僕に光を当てたのだとわかり、たまらず腕で遮ろうとすると、光の背後で影法師のようになった人影が動く気配があった。
「もしかして、明……?」
聞きなれた声とともに、明かりが僕の胸元へと下げられる。眩しい光で視界が効かなくなった目を細めて、じっと向こうの人影を見つめると、次第に焦点が結ばれて見慣れた顔が浮かび上がった。
「母さん……」
光を発する携帯電話を片手に持ち、もう片手を胸元において少し不安そうにこちらを見ているのは、誰あろう、僕の母さんだった。僕の声を聞いて安心したのか、引きつっていた顔が少し緩む。
「ちょっと、驚かさないでよ……。不審者だったらどうしようって、母さん本当に心配したんだから……」
「それはこっちの台詞なんだけど……」
僕は重く安堵のため息をついた。心には余裕が戻ってきたけれど、予想外の事態に緊張していた体はそう簡単には調子が戻らず、まだぎくしゃくとおぼつかない。しばらく呼吸を整えていると、最初に口火を切ったのは母さんだった。
「でも、こんな時間なのにあなたと会うなんてね。本当に神様のお告げだったのかしら」
「お告げ?」
母さんは少し恥ずかしそうにした。
「そう、今日この神社のことを、急に思い出したのよ。仕事がいつもより早く終わって、帰ろうとしたときなんだけど。不思議よね。今まですっかりこの神社のことなんて忘れてたのに、突然ふっと頭の中に浮かんできたの。それで、せっかくだしお参りに行こうかな、って思ったんだけど、どんどん暗くなってくるでしょ。やっぱりやめようかな、けどせっかくだしな、ってぐずぐずしてるうちにこんな暗くなっちゃって。母さんダメね。けど、こうやって明に会えたんだし、やっぱりよかったのかしら」
そうやって笑う母さんを見ながら、けれど僕は意外だった。だって、実はもうここに通い続けて半年になるというのに、僕はそのことを母さんに話していなかったからだ。別に特に理由はなかった、と思う。ただ、話す機会がなかっただけ。なのに母さんは知っていた。これも神さまのお告げだというのだろうか。
「どうして母さんはこの神社を知ってるの?」
「鮮花ちゃんから聞いたのよ。あなたがひどい風邪をひいたとき時だから、五月かしら」
母さんはそこではたと口をつぐんだ。気まずそうに僕の顔を見つめてくる。
「もしかして、あなたこの場所秘密だった……?」
母さんが心配そうな声になったのは、多分僕の顔色が変わったからだろう。けれどそれは、母さんが訊くように神社の場所を母さんに知られていたからじゃない。
そうじゃなくて、鮮花の名前を聞いて今日の出来事が蘇ったからだ。張りつめた表情をした鮮花の顔が浮かんできて、なぜか、楽しそうに僕と神社のことを話す鮮花の顔、それを嬉しそうに聞く母さんの顔も浮かんできた。そして、この真っ暗な中ここまで歩き、暗闇の中神社に向かって一心に何かを祈る母さんのイメージ。
そう、母さんは馬鹿だ。急に神社のことを思い出したからって、普通こんな暗闇の中をわざわざ来るだろうか。お告げとか言って、僕に会えたことを喜んでいるけれど、これが本当に不審者だったらどうするつもりだったのだろう。大人で、分別もあって、家には帰りを待つ弟妹もいるのに、それを押してまでここに祈りに来ることなんて――。
「明、ちょっと座ろうか」
母さんの声は、びっくりするほど優しかった。言葉にならない言葉を持て余した僕は応えることができない。そんな僕を誘って、母さんは僕と二人、真っ暗な社殿にもたれかかって腰を下ろした。
「あなた、迷ってる?」
迷ってる?僕は迷ってるのだろうか?母さんは僕の顔を覗き込む。
「うーん、もうちょっと言うと、自分の選択、自分の選んだ行動で、誰かを傷つけてしまう、誰かに不利益を被らせてしまう、それを恐れてる感じかしら。今まで正しいと思っていた道が実は間違ってたんじゃないかって思ってしまって、前に進むのが怖くなっちゃった感じ。合ってない?」
「母さんにはそれがわかる?」
「だって、私あなたの母親よ?」
そう言って母さんは笑う。
「明はずっとそうよ。長男だからかしらね。いつも周りを気にして、けど気にしてる風には見せないで、ずっと折衷案を探してる感じ。自分がしたいことをはっきりと持ってるのに、それを露骨に出すのはよくないと思うのか、そのバランスに苦しんでる。自分の中にあるやりたいことと、我儘はよくないってそれを押さえつける理性がずっと喧嘩してる感じかしらね」
「母さんには敵わないな……」
僕は苦笑した。それを受けた母さんも少し寂しそうに笑う。
「けど、私にわかるのはあくまで大まかな部分だけ。細かな機微まではわからない。だから、明が苦しんでるんだろうなっていうのはわかるけど、何に苦しんでるのか、その具体的なものまではわからないの。だから、よかったら話してみて。話すと気も楽になるものよ」
僕は少し考えた。今日のこと。母さんのこと。鮮花のこと。小田先生の話。それぞれが他と密接に絡まりあっていて、一つを取り出して見やすいディテールを切り出すことはできない。それでも、一つ一つ言葉を積み上げていけば、何かの形を成すかもしれない。
「確かに、母さんの言う通り、僕は今迷ってるんだと思う。これまでは、受験生だし、目標に向かって、志望校に向かってただ進めばいいんだと、ある程度割り切ってた。けど最近、ある先生と話をして、エゴについてよく考えるんだ。先生は、この世はエゴとエゴのぶつかり合いだって言ってた」
「エゴ、ね」
「うん、エゴ。それで、成功するためには、自分の生きたいように生きるためには、相手のエゴを潰して、自分のエゴを貫き通すしかないって。確かにそれは、ある意味では正しいと思った。受験においては志望校の定員は決まってるから、行きたい人を全員合格にするわけにはいかないし、そうなると確かに競争、つまり行きたいっていうエゴが強い人の方が合格を勝ち取るわけだよね。それはまあわかるんだ、わかるんだけど」
母さんは静かに、僕がその先を話すのを待っている。
「例えば、じゃあ僕が東京の大学に行きたいっていうエゴを持っていて、先生はそれを貫けっていうんだけど、それが正しいことかどうか、僕にはよくわからないんだ。というか、またわからなくなった。一度は納得したはずなんだけど、自分のエゴを振り回すことで傷つく人がいることを、今日改めて知ったから」
鮮花の張りつめた顔が思い出される。転じてそれは、今横にいる母さんの顔と重なった。
「僕は東京の大学に行きたい。東京に住んで、いろんなものを見て、いろんな人に会いたいと思ってる。けどそれは僕のエゴで、それとぶつかってしまうことはいろいろある。……つまり、こんなことを言いたくはないのだけど、母さんに多くの迷惑をかけてしまう。地元に進学するよりお金もかかるし、訓と南だってまだ小さい。母さんは今でも大変なのに、もっと無理をさせてしまうことになるかもしれない。母さんにしてみれば思い上がりかもしれないけど、けど僕はそう思ってる。だから、母さんに無理させたくないっていうか」
そこで僕は首を振った。違う、言いたいのはそうじゃない。
「違う。そんなきれいな理由じゃないんだ。そうじゃなくて、僕は母さんに無理させているのを知って、それなのに、そんな母さんに甘んじようとする自分が――僕は嫌いなんだ」
震える声で、僕は最後の言葉を吐ききった。母さんはしばらく僕を見つめて何も言わない。僕はこの時初めて、あたりできれいな虫の音がなっていることに気がついた。すっぽりとあたりを覆う暗闇の中で、虫の音だけがその黒色に彩りを添えていた。
やがて、母さんは僕に肩を寄せると、何も言わずに腕を背中に回して僕を抱きしめた。衣服越しに母さんの温かな体温が伝わってくる。
「たぶんね、今母さんが、明の言ったことを否定しても、それは何の解決にもならないと思う。明はそれを望んでないし、だからこれは、あくまで明個人の問題なんだと思う」
僕は頷いた。
「だからね。私は言葉を尽くすんじゃなくて、代わりに一つの言葉を教えてあげる。母さんの好きな言葉。もしかしたら、神社好きの明ならもう知ってるかもしれないけど」
そう言って母さんは、あたりを覆う虫の音に寄せて、一首の歌を涼やかに詠じてくれた。
こころだに まことのみちに かないなば いのらずとても かみやまもらん
知ってる?という母さんの問いかけに、僕は首を振った。初めて聞いた歌だ。
「これはね、北野天満宮に掲げられている歌で、菅原道真が詠んだとされる歌なの。母さんが学生の頃、修学旅行で行ったときに知った歌なんだけど、それからことあるごとに思い出してるわ」
「心さえ、誠の道にかなっていれば、祈らずとも神は守ってくれる」
「そう。そういう意味。けどね、母さんはこの歌は字義通りよりも深い意味を持っていると思う」
どういう意味だろう。僕は首を傾げた。
「誠の道って、明どんな道だと思う?」
「どんな道って、なんだろ。……道徳にかなった行動とかかな」
「そうね、けど、結局道徳も、人によって異なる部分はあるものでしょう。さっきのエゴの話じゃないけど、誰かにとって正しいことが、ほかの人にとっては不利益になってしまうということは、避けられないわ。誰しもそれぞれの価値観を持っているし、それを平均化してしまうことはできないから。だからね、明」
そう言って母さんは僕の眼を見た。
「誠の道、というのは結局、自分の心に真摯に向き合うことだと思うの。自分の心が発している声があって、それを無視せずに、しっかりと向き合っていくこと。自分の心を裏切らず、自分に嘘をつかないこと。けどそれは、自分のエゴを振り回すこととは違うわ。だって、さっきの明は、自分のエゴを振り回すのは違うと感じる、自分の心の声を聴いたんでしょ」
母さんは、暗闇の向こうに目をやった。
「確かに、この世はエゴとエゴがぶつかることもあるかもしれないけど、何も全部かゼロかの話じゃないのよ。お互いのエゴを活かして、折り合いをつけることができるものなの。自分に真摯でいれるからこそ、その人はほかの人にも真摯に向き合うことができるの。相手を傷つける怖さを知っているからこそ、その人は相手に優しくできるの。そうやって、自分も、相手も、両方を大切にする態度。それが誠の道だと、私は思うわ」
そう言うと、母さんは僕の顔を見て微笑んだ。
「そして明は、もうそれができていると思うよ。だって、私の自慢の息子だもん」
僕は何か言葉を紡ごうとしたが、それは不要だと思いなおした。ここでは言葉で飾るのではなく、静かに心の言葉に耳を傾けよう。鮮花と、そして小山。二人に謝りたい。そう切望する思いが、胸に痛いほど聞こえてきた。