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第二章

「うおおおおぉぉ!タムケの、おっさんが、勉強してる、だとぉ!」

 鍵坊(かぎぼう)は社殿の中に入ってくるなりそう叫び、おまけに手にしていたゲーム機のコントローラーをあたしゃに向かって投げつけました。コントローラーはあたしゃの側頭部に直撃して吹っ飛び、向こうにあった花瓶にあたってそれを粉々に粉砕しました。けれど錯乱する鍵坊はそんなことに構わず、がばとあたしゃの肩を掴みます。

「どうしたおっさん!?辛いことでもあったのか!?頭がおかしくなっちまったのか!?悩みがあるなら聞くぞ!?とりあえずそんな慣れねぇことはやめろ。雪が降ったらどうすんだよ。天変地異が起こったらどうすんだよ!」

 この、来て早々あたしゃに暴虐の限りを尽くし、おまけに失礼な発言を連発しているのが、この前少しだけ話に出した、鍵坊ってやつです。

 まあ、鍵坊ってのはあたしゃが付けたあだ名で、本名は(かぎ)(とり)明神(みょうじん) (かぎ)(すけ)、その名の通り、鍵取明神の御霊(みたま)()けです。こいつの鍵取神社はあたしゃの社殿から一番近いところにある神社でしてね。こうして時々、彼が持ってきてくれるゲームとかで一緒に遊んだりする仲なんですよ。まあだから、引きこもりフレンズみたいなもんですね。まああたしゃ、引きこもりに関しては鍵坊から師匠と呼ばれるほどに熟達してたんでね。鍵坊もその道のプロとしてあたしゃを尊敬してたんでしょう。そんな、いつもなら昼過ぎまでひっくり返って寝てたり、(けい)狛犬(こまいぬ)中継聞いたり、鼻ほじったりしているお師匠様が急に文机の前にかしこまって勉強しているとなれば、鍵坊の慌てぶりもわかるというものです。ですからあたしゃは、コントローラーによる顔面殴打および花瓶の破壊は不問に付すとして、とりあえず鍵坊を落ち着かせて昨日までにあたしゃの身に起こったこと、およびあたしゃの決意を話しました。

 座布団の上にかしこまって真剣に話を聞いていた鍵坊は、あたしゃが話し終えるとまっすぐにあたしゃの眼を見ました。そしていきなり――あたしゃの頭をぶったたきました。

「やるじゃねえか!タムケのおっさんよ!俺はおっさんのこと、ごくつぶしダメダメ引きこもりニート道祖神だとばかり思ってたが、性根までは腐ってねえ、ちゃんとした神やってんじゃねえか!めでてぇなあ、オイ!赤飯でも炊くかぁ?」

 喜びながら、ばしばし頭を叩きまくります。なんで熊といい鍵坊といい、こいつらは感激すると人のことを叩きまくるのでしょうか。しかも熊はまだ肩とか背中でしたが、こいつは頭です。普通に考えて死にます。ただでさえ立派なものが詰まってないあたしゃの頭の中で、大量の脳細胞が今急速に死に絶えていくのがわかりました。あたしゃは「きやああぁぁ!」と変な叫び声を上げながら、必死に鍵坊の腕をつかんでそれ以上の攻撃を阻止しました。これ以上打撃を食らったら、確実にもう勉強どころじゃありません。あたしゃの奇声を聞いて、鍵坊もようやく頭を叩くのをやめました。

「おっと、すまねえおっさん。俺は興奮するとつい目の前のものをぶったたきたくなっちまうんだよ。――それで、その青年を助けるために、具体的におっさんは何をしようってんだい」

 あたしゃは、何度も言いましたが、道祖神でしかありません。道祖神ができることといえば、彼の受験会場までの交通安全祈願ぐらいです。それももちろん立派なご利益でしょうが、あたしゃもっと直接的に彼を支えてあげたい。そこであたしゃは鍵坊に自慢げに、昨日通信販売の速達で送ってもらった、天満宮(てんまんぐう)資格試験のための参考書を見せてやりました。

 そうです。あたしゃが考えたのは、思い切って自分の社格をアップさせて、天満宮としての属性、つまり学問成就のご利益を授けられる神になることでした。確かに、道祖神が天満宮としての社格を得るなんて、聞いたこともありません。多分前例はないでしょう。けれど、昨日生まれ変わったあたしゃなら、出来ないことはきっとないはずです。鍵坊もそういってあたしゃを激励してくれるはず、そう思って鍵坊の顔を見ました。しかし、予想に反して彼は、とても難しい顔をしてこっちを見ていました。

「おいおい、おっさん……。やる気があるのは結構だが、流石にいきなり飛躍しすぎじゃねえのかい。天満宮資格って、簡単に言うけどよ……」

 あたしゃむっとしました。さっきまで人の頭を散々ぶん殴って喜んでおきながら、自分の予想外の返答が返ってくるとすぐこうやって人を見下すんです。あたしゃは怒気を隠さず、本気なんだ、馬鹿にするなと言ってやりました。

「じゃあ聞くがよ。天満宮資格試験はいつ行われるのか知ってんのか。そのための手続きは何が必要で、いつまでにやればいいのか、おっさんはちゃんと知ってるのかよ」

 あたしゃ口ごもりました。悔しいですが、知りませんでした。けどそんなこと、調べればすぐわかることじゃないですか。そう返答すると、鍵坊はやれやれという感じで首を振りました。そのしぐさにあたしゃカチンと来ました。お高くとまりたがったり、こっちを見下したりしたいんだったら、勝手にしろ、目障(めざわ)りだから出ていけと、もう怒鳴ってやるつもりでした。けれど、それを言う前に鍵坊が手で制しました。そして、こんなことを言うんです。

「おっさん。おっさんは、競狛犬好きだよな。競狛犬で一山当てたいって思ったとき、まず何をするよ」

 正直、急に何言いだすんだって思いましたよ。こいつ、あたしゃに怒鳴られるのが怖くて、全然関係ないことをほざきだしたんじゃないかってね。けれど、鍵坊の眼を見ると真剣なんです。はぐらかそうとか、適当言おうとか、そういう感じじゃないんですね。それで一応、そりゃあ、一山当てるとなれば、どの狛犬に賭ければいいか、狛犬のこと調べますって答えました。

「そうだよな。じゃあそうやって、狛犬の情報調べた後は、次どうするよ」

 ますます何を言ってるのかわかりません。狛犬を決めたら、あとはそこに賭けるだけじゃないですか。まあしいて言うなら、どれくらい賭けるのか、こっちの(ふところ)事情と相談するくらいかって答えました。そう答えると、真剣だった鍵坊がにやりと笑うんです。

「そうだよ、おっさん、分かってるじゃねえか。一山当てるためには、まず狛犬のことを調べて、次に自分の状況を調べなきゃなんねえ。じゃあなんで、競狛犬でできて、受験準備でそれをやらねえんだよ」

 あたしゃ、あっ、と声を漏らしました。競狛犬のことを調べることと、受験日や必要な手続きを調べることがまさか同じ話だと思わなかったんです。鍵坊は続けて、さっきまであたしゃが開いていた参考書をばさっと文机の上において、その表紙をとんとん、と指で示しました。

「それに見てみろ、この参考書。こいつは、すでにある程度の基礎知識を積んだ神向けの上級参考書じゃねえか。おっさんが少名毘古那(すくなびこな)の分霊とかで、商売繁盛の利益(りやく)に関してはある程度知ってますってんなら、これで問題ねえさ。学問成就と商売繁盛はある程度関連があるからな。だが、おっさんは道祖神だろうが。交通安全や境界の守護を本業とする神が、最初からこんな参考書わかるわけねぇだろ」

 あまりに図星だったので、何も言い返せませんでした。実は鍵坊が襲撃してくる前、威勢よく参考書を開いたはいいのですが、一ページ目から何を言ってるのかさっぱりだったのです。けれど、彼の受験まであと一年もないのです。上級参考書だろうが、気合で何とかものにして天満宮試験を突破してやろうと思っていました。それを聞くと、また鍵坊はやれやれと首を振りました。

「いいかおっさん。昔、中国にある有名な戦略家がいたんだ。孫子っつってな。そいつの有名な言葉、知ってっか?」

 あたしゃ、まったく知りませんでした。

「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず、だ。どういう意味か分かるか?敵の情報をきっちり調べて、自分の情報もきっちり調べれば、百回の戦いだって楽勝ってこった。いいかおっさん。受験は戦略なんだ。戦いだ。戦いにおいて、気合で何とかしようとするのは蛮勇でも勇猛でもねえ、それはただの無謀っていうんだ。下策中の下策だ」

 そういうと鍵坊は、あたしゃの肩をぐっと掴みました。

「だからよおっさん。戦いは頭使って勝たなきゃなんねえんだ。それこそ孫子みたいにな。だが安心しろおっさん。おっさんは運がいい」

 どこの何の運がいいのか、あたしゃさっぱりわかりません。けれど、鍵坊はその場にすくっと立ってあたしゃを見下ろすと、自信満々な顔を親指でぐっと示しました。

「なんたってこの俺、高天原(たかまがはら)大学主席の鍵介さまがここにご降臨なさっているんだからな。俺がおっさんに戦略を教えてやるよ」


 まさに、雷に打たれるとはこのことでした。あたしゃ今まですっかり忘れていたのです。この、あたしゃの目の前で無駄にかっこつけて、ちょっと中二病入ってるんじゃないかと思われる引きこもりニートの、その隠された正体にです。鍵坊は数年前、「自分のことしか考えられない欠陥馬鹿」、「重大な社会的損失を招く社会不適合者」としてかなり有名になった神だったんです。この渾名だけ聞くとどんだけ鍵坊が嫌われてたんだと思いますが、そうではないのです。高天原社会にこの上ないほど必要な存在だったからこそ、その反動で鍵坊はこんなひどい渾名をつけられてしまったのです。

 鍵坊の経歴は、輝きに満ち溢れています。彼が高天原に降臨したときは、文字通り高天原中がまばゆい光に包まれたと、当時その場に居合わせた神はみな口をそろえて言っています。彼が降臨したのは確か今から五〇年くらい前ですが、浅い経歴にもかかわらず彼は数々の偉業を成し遂げていきました。

 まず、初等神学校の時に、これからの神はどうあるべきかという児童討論会でほかの児童参加神を論破して号泣させ、おまけにフォローに入った当時の担任教(きょう)(しん)すら合理的ではないと一蹴。彼を児童用の座席に座らせ、自分が教壇に立って教神相手にみっちりと三時間にもおよぶ指導をしたと言われています。この教神はこの時のことがよほどトラウマだったようで、一か月後に職を辞しています。そんなことにはお構いなく、鍵坊は数々の悪行、もとい活躍を残しながら初等神学校を卒業すると、中等神学校に入った途端、なんと企業します。彼が起こした会社は初等神学校の児童神向けに新たな教育プログラムを提案する会社で、彼曰く企業の動機は、自分の経験した初等神学校六年間に「無駄が多すぎた」からだということです。

 しかし、せっかく起こしたその企業も、経営が軌道に乗るとあっさり事業者を他に託してしまいます。より広く世界が見たいということで、中等神学校から高等神学校にかけてあまたの他国神世界に留学。その時の経験をまとめた本『日本神の品格』は百万部を超える大ベストセラーとなりました。鍵坊は高校を飛び級で卒業し、高天原最難関といわれる、高天原大学第一神学部に主席入学、そこにおいても数々の論文を執筆し、学術界が震えるといわれるほどの影響を残しました。

誰もが、鍵坊の今後進む道に期待していました。経済界においても、政界においても、また学術界においても、彼が来れば百年の飛躍は間違いないと言われていたんです。そんな彼が大学卒業後の進路として選んだのが――鍵取明神の分け御霊になることでした。誰もが耳を疑ったと、当時を知る神はみな口をそろえて言います。

鍵取明神というのは、毎年一〇月、来年のことを討論する出雲会議に参加するために日本中の神が出払ってしまうときに、その留守を守り鍵を預かる神です。こう言うと非常にかっこよく聞こえますが、つまるところが自宅警備員です。ニートです。確かにここ最近、給料もらいながら公式でニートができるということで、鍵取明神の分け御霊は人気が上がっていた業種ではあります。けれど、今まで数々の業績を残し、将来を期待される鍵坊が就くような仕事でないと誰もが思っていました。

彼を止める声、彼を非難する声、様々な声が上がりました。彼に対する様々な渾名が生まれたのもこの時です。鍵坊はそれに耳を傾けもろもろの意見を聞くと、高らかに宣言しました。

「いいか、私の活躍を期待するすべての神よ。確かに私は有能かもしれない。君たちの未来を変えるかもしれない。だが、私は少し輝きすぎた。輝きすぎてしまったのだ。日本は八百万(やおよろず)の神の国だ。一神の国ではない。ゆえに、一人だけが輝くのは誤りである。皆が皆、輝きあって、全体で一つであらねばならない。残念だが、私の光は君たちには少し強すぎる。君たちの輝きを、私は消してしまう。だから諸君、私は少し、自らの輝きを消さねばならない。だが諸君、悲しまないでほしい。君たちは一人一人、ほかにない輝きを持っている。どうかその輝きを、これからもっと強くしていってほしい。心配するな、日はまた昇る。君たちが信じていれば必ず。では諸君!いずれまた会おう!」

 彼は勇壮にそう宣言すると、静かに人界に向かって天降(あまくだ)っていったそうです。当時を知る神たちは皆、そうだよなぁ、俺たちだって神だもんなぁ、輝けるように頑張ろうなぁ、と、宣言を思い出して涙を流します。確かにいい話です。皆が輝けばいいと思います。けれど、天降ってきてからというもの、日々あたしゃとゲームに興じ、あたしゃの教えた競狛犬にどハマりし、一日中ひっくり返っている鍵坊を見ると、こいつはただニート生活がしたかっただけじゃないか、そう思ってしまうこともあるのです。

 けれど確かに、今のあたしゃにとって鍵坊はこれ以上ない助っ人に違いありません。まさに神が今ここに舞い降りたという感じです。あたしゃは正座して鍵坊の前にかしこまると、頼みます鍵介大明神様、あたしゃに受験を勝ち抜く戦略をお与えくださいと深々と頭を下げました。胸を張って仁王立ちしていた鍵坊は、あたしゃの前に膝をついて、肩をぽんと叩きました。

「やめろよおっさん、俺とあんたの仲じゃねえか。チーム引きこもり、鮮やかに天満宮試験、突破してやろうぜ」

 こうして強力な助っ人を得て、あたしゃの天満宮試験に向けた取り組みは本格的にスタートしたのです。



 鍵坊が最初にあたしゃに言い渡したのは、あたしゃたちの地域を統括する一之宮(いちのみや)に行って天満宮試験の受験要綱をもらってくることでした。一之宮というのは、その地域の中で一番社格の高い神社のことです。あたしゃたちの地域を担当しているのは、天香山命(あめのかぐやまのみこと)さん。あたしゃみたいな分霊ではなくて、正真正銘の総本社(そうほんしゃ)様です。結構距離があるので、途中休み休み、ひーひー言いながら飛んでいくと、次第に天香山命さんの神体山(しんたいさん)弥彦山(やひこやま)が見えてきました。すごいですよね、あたしゃみたいな零細分霊神なんてぼろっちい社殿しか持ってないのに、天香山命さんレベルになると山全体がご神体として崇められるようになるんです。

 降り立った天香山命さんを祭る神社、彌彦(やひこ)神社の社殿も、もうあたしゃのと比べ物にならないくらい立派なもので、神向けの各種行政窓口に用のある神で非常に賑わっていました。さすがに地域全体から集まってくるとあって、多くの分霊神が居ました。誉田別命(ほんだわけのみこと)の分霊である八幡神(はちまんしん)や、(あま)(てらす)大御神(おおみかみ)の分霊である神明神(しんめいしん)、狐を連れているのは宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)の分霊である稲荷(いなり)(しん)で、なでようと思って狐に手を伸ばしたら思いっきり噛まれました。

 さて、あたしゃが目指すのは高天原と人界の連絡窓口となっている天降課(あまくだりか)です。受付で案内された窓口に行き、整理番号を取ってしばらくするとあたしゃの番号が呼ばれました。担当してくれたのは、ショートカットで眼鏡をかけた若い女性の神でした。ここで働いているのですから、おそらく彼女も天香山命さんの分霊でしょう。彼女は、窓口に来たあたしゃの顔を見るとにっこりと笑いました。

「いらっしゃいませ!本日はどのようなご用件ですか?」

 とても人当たりのいい印象に、あたしゃ胸を撫で下ろしました。正直あたしゃ役所にあんまり来たことがなくって、どんな対応されるか不安だったのです。けれど、この女性の方なら丁寧な対応をしてくれるに違いありません。あたしゃ胸を張って、少し誇らしく天満宮資格試験の受験要綱が欲しいと言いました。自分で言った言葉の響きがかっこよくて、あたしゃ少し目をつぶってその余韻に浸りました。今にこの女性は感動して、どうしてあたしゃが天満宮資格の取得を志したのか、身を乗り出して聞いてくるに違いありません。

 けれど、彼女の返答は聞こえませんでした。さすがに間が空きすぎたので、おかしいなと思って女性を見るとなんと、さっきのにこやかな笑顔のまま固まっています。あたしゃの言っていることが聞こえなかったか、まさか、あたしゃの宣言が偉大過ぎてこの女性の処理能力を超えてしまったんじゃないか。そう不安になって、急いで彼女の肩を揺さぶりました。

「――はっ!すみません!ちょっと私の耳がおかしくなったのか、あなた様がとんでもないことを言ったように聞こえてびっくりしてしまいました。多分聞き違いですね。えっと、それでご用件はどういったものでしたっけ」

 やはりあたしゃの心配は当たっていました。あたしゃの言うことがすごすぎて、この女性には少し刺激が強すぎたようです。あたしゃは彼女にこれ以上の負担をかけるのを心苦しく感じましたが、けれどこの歴史的瞬間に立ち会えるというのは彼女にとっても幸運のはずです。あたしゃは肩を掴むと、慈愛のまなざしで彼女を見ました。そして優しく、あなたが驚かれるのも無理はない。けれど、あたしゃには何としてもやらねばならない大儀があるのだ。だから止めてくれるな。大丈夫、あたしゃきっとやり遂げる。あなたのこともきっと、今日助けてくれた優しい女性として、これからけっして忘れることはないだろう、と語りかけてあげました。彼女は俯いています。きっと、感動して涙をこらえきれないのでしょう。真摯なあたしゃは、懐からハナガミを出して、さあ、これでお拭きなさい、と差し出しました。

 しかし、驚くべきことが起こりました。差し出された真摯なハナガミが、女性の鋭い一閃で叩き落とされたのです。驚いて彼女の顔を見ると、あたしゃのことをまるでゴミムシを見るような目で見ているじゃありませんか。

「はぁー、毎年居るんですよねー。テレビかなんかで感化されちゃって、俺は変わるんだぜ、みたいなイタいお顔でいらっしゃるあなたみたいな引きニート神が。失礼ですけど、今までの職歴聞かせてもらってもいいですか?」

 あたしゃ、彼女のあまりの変わりように頭がついていっていませんでした。正直に、道祖神を四百年ほどやっていたと答えました。

「アハハ、笑っちゃうくらい典型的引きニート神じゃないですか。なんで引きニートってみんな同じこと考えるんでしょうねー。多分頭のバグりようが同じなんですね。悪いことは言わないですから、止めた方がいいですよ。皆さん、長くて一か月くらいは粘るんですけど、結局諦めちゃいますから。時間の無駄ですよ。おとなしくご自身のお(やしろ)に戻って、ゲームするなりマンガ読むなりしたほうがあなたのためですって」

 このころにはもう、あたしゃさっき彼女に叩き落とされたハナガミで顔中ぬぐってずびずび泣いてました。あまりに酷すぎます。いくらあたしゃが典型的なごくつぶし引きニートだからって、あたしゃだって神様です。酷いこと言われたら泣いちゃいます。悔しくって、何か言い返そうとするのですが、しゃくりあげちゃってまともな言葉になりません。

「ちょ、ちょっと!いきなりそんな泣かないでくださいよ!あなただっていい大人でしょうが。ああもう、分かりましたよ!とりあえず要綱は差し上げますから、家に帰ってしっかり考えてください。ほら、立って!次の方が待たれてますから!」

 あたしゃ押し付けられた要綱を胸に抱えて、うぐうぐ泣きながら役所を出ました。なんか変なスイッチが入っちゃって、全然泣き止まないんです。結局帰り道はずっと泣きっぱなしで、すんすん鼻を啜りながら社殿の格子戸をあけました。

「お帰りー、って、なんで泣いてんだタムケのおっさん!泣かされたのか!虐められたのか!そーかそーか、可哀そうになあ。ほら、大丈夫だから、鼻かんで。よーしよし、いい子いい子。おっさんは悪くないぞ。悔しかったんだもんな。いいんだよ、悔しかったら泣けばいいんだ。泣く子と食べる子はよく育つって昔からよく言うじゃねえか」

 そう言って鍵坊は優しく背中を撫でてくれました。あたしゃもう訳がわかんなくなって、鍵坊のお膝の上でわんわん泣きました。

 ――さて、見苦しいところを少々お見せしてしまいました。しばらくしてようやく落ち着くと、あたしゃ受付の女性になんて言われたのかを報告しました。腕を組んで静かに聞いていた鍵坊は、あたしゃの話を聞き終わると、膝をパシッと叩いて言いました。

「うん、その女の神の言っていることは正しい」

 せっかく泣き止んだあたしゃは、しっかりと仕事をしている受付の女性だけじゃなくて、このふざけた同類引きニートにまで侮辱されたと思って、また目を潤ませました。それを見て鍵坊は慌てて手を振りました。

「ちげーよ、おっさん!いや、違くはないんだけど。そうじゃなくて、俺が正しいって言うのは、やる気のある引きニートでも一か月で諦めまうって話だ。おっさん、三日坊主ってなんで起こるか知ってるか」

 知るわけありません。やる気がなくなるからに決まってるじゃないですか。あたしゃ少し()ねてたんで無視して鼻をかみました。

「拗ねんなよ……。まあ、普通はやる気が起こんなくなるからって考えるよな。そこまでは皆行きつく。けれど、じゃあそもそもやる気って何なんだよってことは皆なぜか考えねえんだ。おっさん、やる気って何だと思う?」

 相変わらず何言ってるのか訳わかりません。やる気はやる気です。何かをやってやろうとする気力です。

「ううん、まあ、そうなんだが……。いいかおっさん、やる気ってのは、一種の興奮状態だ。ある出来事に脳が反応して、ドーパミンがどぱどぱ出て、その結果起こる一種の薬物状態みたいなもんだ。俺たちはやる気が出てるとき、ある種ラリっちまってんだよ。おっさんだって、競狛犬でいっちょ当ててやろうってときとか、経験あるだろ」

 確かに、競狛犬に夢中になっているときに、脳から快楽物質が出て頭がギュルギュル回っている様子は容易に想像できました。

「だが、それは危険な状態でもある。極度の緊張、極度の集中がずっと続くと、正常な精神はすぐにパンクしちまう。それを防ぐために、脳はドーパミンの分泌をある程度抑制するんだ。だから、三日坊主ってのは、脳が設けたリミッターが正常に働いている証拠でもあるんだよ。これ以上興奮しっぱなしじゃ、精神が保たないっつってな」

 けどそれでは、三日坊主を乗り越えることはできません。あたしゃも、あの女性が言ったように一か月ほどで諦めてしまうことになります。

「いや、そんなことは全然ねえ。三日坊主の仕組みさえわかっちまえば、それを乗り越えることは容易だ。まず一つ、脳がドーパミンの分泌を止めないよう、さらなる刺激を脳に与え続けることだ。まあだからおっさんの場合は、なんで天満宮試験に受かりたいのかっていう理由付けが、一定周期で更新されりゃいい。これは問題ねえ。あの青年が毎日参拝に来て、おっさんの初心を思い出させてくれるからな。そして二つ目、精神の言うことを身体が聞いてそれまで続けてた習慣を止めちまうなら、関係を逆転させちまえばいいんだ。つまり、身体の方を完全ルーティンにぶち込んで、精神の弱音くらいじゃ止まらねえ習慣作りをしちまえばいいってことよ」

 あたしゃ、口を開けて呆然とすることしかできませんでした。なんで鍵坊は、まだこんなに若い神なのに、こんなことを平気で思いついてしまうのでしょうか。さすが、高天原中を震撼させた逸材中の逸材です。

 けれど、あたしゃ一つ疑問でした。彼は、三日坊主が精神を守るための安全弁だと言いました。だとすると、三日坊主を乗り越えるために刺激を与え続けること、身体を習慣に慣れさせて精神に言うことを聞かせることでは、どうやって精神の安全が確保されるのでしょうか。そう訊くと、鍵坊はにやりと残忍な笑いを漏らしました。

「いいことに気づいたじゃねぇか。タムケのおっさんよぉ。精神の安全の確保?――馬鹿が!んなもんねぇに決まってるだろ!精神のためにぬるま湯安全プランで受験準備進めてたら、間に合うわけねえじゃねえか!いいかおっさん、小ぎれいな言葉や、ご立派な理想だけじゃ夢は叶わねえんだよ。血い吐いて、くたばりそうになった実際の経験だけが、あんたに夢を掴ませるんだ」

 あたしゃの肩を掴んで、顔を覗き込んでくる鍵坊の眼は真剣でした。

「大丈夫だよ、おっさん。精神は鍛えりゃあ強くなる。それまで耐えられなかったことが、いつの間にか平気で出来ちまうようになる。それが慣れ、習慣のすげぇところだ。習慣を利用しろ。――まあ、その習慣をつけるまでが大変なんだがな。だが安心しろって、おっさんの精神を強靭に鍛え上げて、足の指先から頭のてっぺんまで受験人間にするための、俺特製わくわくお勉強プランはもうできてるんだからよ。覚悟しろよぉ。おっさんのおはようからおやすみまで、クソの時間の一分一秒まできっちり定めて、ウルトラ受験勉強習慣人間にしてやる。いっひひひひひ」

 鍵坊の爪がぐぐぅっと肩に食い込んで、もう逃がしてくれそうにありません。あたしゃ、神に祈りました。ああ神様、どうかあたしゃをお救いください。すると脳内に、白い豊かな髭を生やし、長いローブを羽織った、ザ・神みたいなのが出てきてあたしゃに言うのです。そなた自身が、神だぞよ、と。


*      *      *


「うっひゃー、気持ちのいい空ですねぇ」

 空は、まるで底が抜けたかのように深い青をたたえていた。けれど、空に彩りを添えるのは、何も空の青さだけではない。僕らの村を抱えるように(そび)える山は初夏の深緑をまばゆい日光に輝かせ、ここからでも緑が匂うようだ。そして、その稜線からまるで生え出たように屹立(きつりつ)し、むくむくと広がる入道雲の、その白さ。雲の表面は陽光によって念入りに磨かれて輝いて、反射した白い光が大地にこれでもかというほど降り注いでいる。

 (あざ)()は頓狂な喜声を上げ、麦藁帽子が落ちないように手で押さえながら頭に血が上るんじゃないかと思うくらい仰向いて空を眺めていた。僕も彼女につられて、(まばゆ)い陽光を手でかざしながら蒼穹を眺める。地平の先まで、本当に真っ青だ。正直、これからやる作業のことを考えるとこの好天は熱中症を心配させるものでもあったが、それでも僕はこれくらい気持ちのいい晴れ方の方が好きだ。それに少し頼りないけれど、ひょろひょろした品種不明の木三本がささやかな木陰を提供してくれてもいる。社殿にも日陰はあるし、適度に陰に入って休憩すれば問題ないだろう。

 八月一日の夏真っ盛り、高校生最後の夏休みの初日を、僕は鮮花と神社の境内で過ごしていた。驚くべきことに、境内の草刈りをしましょうと提案してきたのは鮮花だった。確かに、六月の鬱陶しい雨で養分を蓄えたのか、七月の頭に梅雨明けが宣言されると境内に生えていた雑草は今とばかりに急に背丈を伸ばし始めた。七月が終わる頃には優に膝丈くらいに成長し、境内に続く参道も、獣道もかくやという様相を呈した。けれど、正直なところ、僕はあまり気にしていなかった。今こうやってヒャッハーしてる雑草だって、秋になったら必ずしおらしくなってしまう。(おご)れるものも久しからず、ただ春の夜の夢のごとしというのがこの世の摂理だ。だからまあ、多少鬱陶しいけれどまあ我慢すればいつか消えてくれるくらいに考えていた。

 そんな僕に対して、そんな合理的な話じゃなくて、日ごろお世話になってる神様へのお礼とか、そういうことをなんで考えられないんですかぁ、と、鮮花はひどく残念そうに言った。恐ろしいほど不思議くんなのに、変なところで無駄に合理的なんですよねぇ、とも。まあ彼女の意見にも一理あったので、こうして本日めでたく草刈り大会開催の運びとなったわけだ。それに、高校最後の夏は受験の天王山とも呼ばれている。その初日にこうして境内の草刈りをすることで身辺を整え、気持ちを新たにして受験勉強に臨むことにつながるかもしれなかった。

 しかし、それにしてもものすごい量の雑草だ。改めて見ると本当にすごい。なんで家の庭で育てるパンジーとかは丹精込めてもそんなに成長しないのに、雑草は誰の世話にもなってないのにここまでたくましいのだろう。この屈強な雑草軍団に対して、わが軍の現有戦力は軍手と二本の小さな草刈りガマだけだ。これは長く辛い、壮絶な戦いが予想されるだろう。

「ほら、いつまでぼーっと草見てるんですか。さっさと始めますよー」

 そんな僕の覚悟なんて意にも介さないで、鮮花二等兵は草刈りガマを構えて軍勢の正面に突撃していった。女の子にばかり戦わせては、男としての名が廃る。僕もカマを構えると、軍団正面の一軍に向かって攻撃を始めた。

「うひゃー、分かってはいましたけど草臭いですねー。いや、別にギャグじゃないですよ」

「うん、まあわかってるけど……。そこは草臭いじゃなくて青臭いって言えばいいんじゃないのかな」

「先輩、細かい男は嫌われるんですよ」

「えぇー、親切心で言ったのに……」

 放射状に広がる雑草を束ねて、根本にカマの刃先を当てる。集まった雑草は強度を増して一撃では刈り取れないので、カマの柄をしっかり握ってぐっぐっと何度か前後に力を込める。すると次第に刃先が入っていって、あたりに濃厚な草の匂いが立ちのぼった。

「うっ、くそっ……。なかなか刃先が入らないですね。……先輩が何気にうまいのも腹立つ」

 鮮花は力を入れるバランスを考えず、ぐいぐいと柄を引っ張っている。あれでは刃先がうまく草の表面に入らず、むしろ刃先で草を潰すような形になってしまう。それに勢い余って、草を刈り取ったときに屈んだ膝に刃先が当たってしまう危険性もあった。

「駄目だよ鮮花、そんな無理やり力を籠めちゃ。そんなんじゃ間違って自分の足切っちゃうぞ」

 渾身の力で柄を握りしめる鮮花の手に自らの手を添えて、力の入れ方を教えてやる。コツは、刃先を草の表面に当てて引く瞬間だけ力を一瞬籠めること。固い表皮に一度刃を入れてしまえば、後はそんなに力を籠めなくても刃はやすやすと入っていく。そう説明しながら実際にカマを前後に動かすと、草の束の中ほどまでみるみる刃が入っていった。

「ほら、こんな感じだとうまくいくだろ」

 鮮花の顔を見ようとして、予想より鮮花の顔が近いのに驚いた。しまったと思ったときにはもう遅かったが、とりあえず手を放して飛びすさる。見ると、鮮花は耳まで真っ赤になっていた。

「あの……。いや、教えてくれたのはすごいありがたいんですけど。……ほら!あたしも汗かいてたりするので……」

「いや、あの、えっと、ほんとごめん。暑苦しかったよね、夏だし……。いや、ほんとごめん。他意はなかったんだ、ほんと……」

「いや!他意があったら困りますから!……いやまて、先輩ぐらいの朴念仁だとむしろそれくらいあった方がいいのでは……?」

「いや!ないから!あっても困るから!」

 僕の慌てように鮮花が吹き出し、僕もつられて笑ってしまう。

「さーさ、馬鹿やってないでどんどんやりますよ先輩」

「了解です、草刈り隊長」

「いや、誰が隊長ですか」

 それからは二人とも集中して、黙々と草を刈り進めていった。太陽が中天に輝くくらいには刈り取った草の山が四つほど出来、鳥居から社殿までを占拠していた雑草はあらかた一掃された。僕らは凝り固まった腰をうーんと伸ばすと、社殿の日陰へと入る。僕はリュックからレジャーシートを取り出してちょうど陰の部分に収まるように長方形に折り畳み、簡易的な休憩所をそこに作った。

「おっ、レジャーシートを持ってくるとは、やるじゃないですか先輩」

「まあね。座る場所がないのはわかってたからさ」

 続けて水筒も取り出し、麦茶をなみなみと注いで鮮花に渡す。鮮花は礼を言って受け取ると、ぐぐーっと一息で飲み干してしまった。

「くぁー!暑い夏はこれに限りますねー!」

「いや、その反応はビール飲んだおっさんなんだよなぁ」

「ほんっと先輩は一言多いんですよ」

 鮮花からコップを受け取ると、僕もなみなみと注いでぐっと飲み干す。さわやかな麦の香りが立って、冷たい感覚が喉から胃に流れていくのが分かった。

「はい先輩、これで手を拭いてください」

 鮮花が、使い捨てのウェットティッシュを渡してくれる。見ると、草の汁や泥にまみれて両手はひどく汚れていた。ありがたく受け取り、念入りに両手の汚れをふき取る。

「手が汚れてると、せっかくの弁当もおいしくないですからねー」

 そういって鮮花は、自分のバックから弁当容器を取り出した。蓋がとられてあらわになった中身を見て、僕は驚愕する。

「うわっ!なにそのカラフルなおにぎりは!」

 中には、見るも鮮やかなおにぎりが詰まっていた。黄緑、黄色、紫にピンク。どれもまん丸く握られ、ラップを使ってふんわりと包まれている。おにぎりといえば三角形のものに海苔を巻いて、アルミホイルで包むという我が家の流派に慣れ親しんだ僕にとって、そのおにぎりはおにぎりの概念を覆す革命的なものだった。

「ふっふっふ、私の女子力が炸裂したおしゃれおにぎりですよ。ちなみにこれが卵と枝豆で、ピンク色は桜でんぶ。これはしらすわかめで紫は定番のゆかりですね。そして、この一見白米にちょびっと茶色い何かがついた地味子(じみこ)ちゃんは、その中に驚くべき可能性を秘めた逸品です」

「おお、なんかもう食べるのがもったいないくらいなんだけど」

「まあ、見て楽しい、食べておいしいが私の料理のコンセプトなんで。では先輩にはこの地味子ちゃんをどうぞ」

 受け取ったおにぎりを手のひらに乗せて、まずはじっくり吟味する。この、白米にまぶされているのはおそらくおかかだろう。ラップを慎重に剝いて、可能性を秘めたおかかなんとかおにぎりを一口ほおばった。とたん、口の中に燻製の香ばしい香りが広がった。

「こっ、このおにぎりは……」

「ふふふ、おいしいでしょう。それは、おかかご飯の中にスモーククリームチーズを加えた、特製スモークおにぎりですよ」

 おにぎりに洋風の具材!これも、我が家の流派にはない発想だった。食べなれない味ではあったけれど、スモークチーズとおかかご飯の相性は抜群でとてもおいしい。

「お気に召したようで何よりです。さあ、ところで先輩はどんなおかずを持ってきてくれたんですか。早く出してください」

 そういって鮮花は両方の手のひらを添えると、そこに弁当箱を載せろとでもいうようにずいずいと僕に迫ってきた。

 正直、こんなに気合に入ったおにぎりを見せられた後では、僕は持ってきたおかずを出すのが忍びなかった。草刈りだけじゃ味気ないですし、どうせなら二人でそれぞれお弁当用意しましょうよ。私メイン担当するんで、先輩おかず作ってくださいね――、という鮮花の提案に、まさかこんな罠があったなんて……。なんてことを考えながら、僕はしぶしぶ持ってきた弁当箱のふたを開けた。

 中身はなんてことはない。卵焼きにウィンナー、ひじき煮、実は昨日の夕食の残りのほうれんそうのお浸し。唯一戦えそうなのは、この鶏もも肉の照り焼きぐらいだろうか。恐る恐る鮮花の顔を確認すると、鮮花はじっと弁当の中身を凝視していた。と、その顔が奇妙に歪み、次の瞬間――鮮花は大爆笑していた。

「あっはははは!先輩、タコさんウィンナーとか!ちゃんとしすぎですって!なんで律義に目と口ついてるんですか!私でもそこまでしませんよ!ひー、おかしー!」

 予想外の、けど確かによく考えたらめちゃくちゃ恥ずかしい指摘に僕は顔が火照っていくのがわかる。多分もの凄く赤くなっている。僕は耐えきれなくて、弁当のふたを掴んだ。もうこんな弁当、隠してやるっ!しかし、僕がふたを掴んだとみるや、鮮花は驚異的なスピードでどこからか箸を取り出し、気がついた時にはタコが一匹誘拐されていた。手中に収めた獲物をいろいろな角度から吟味すると、鮮花は無慈悲にタコをぱくりとやってしまう。

「うん、なんだかんだ言って、やっぱ弁当にはタコさんウィンナーですね。普通においしいですし」

 啞然とする僕を無視して、鮮花は一人でパクパク食べ進めていく。しかし、四切れある照り焼きの三切れ目に箸が伸びたところで、僕は正気を取り戻した。

「ちょっと待て!照り焼きは一人二切れだっ!」

「ちっ、ばれたか……。今の腑抜けた先輩ならいけると思ったのに」

 二人でしばらく声を出して笑った。僕は弁当容器をシートの上において、ふう、と息を吐く。鮮花と二人だと、どうしてただの草刈りだったり弁当でここまで笑いあえるのだろう。鮮花は僕の見た限りクラスでもムードメーカーで、友達も多い。もちろん、幼馴染のような関係とはいえ、どうして友達じゃなくて僕と時間を使ってくれるのか、なんて野暮なことは訊いたりしない。ただ、こうして受験期の合間合間に、不安も悩みもとりあえず置いておいて心の底から笑える時間が、僕には何よりも有難かった。まあ当のご本人は、そんな僕の感慨なんてもちろん知らないで隣でずずりと麦茶を飲んでいるのだけれど。

「こんなこと訊いていいかわからないんですけど、先輩、受験勉強はどんな感じですか」

「ん、んん?そうだなぁ」

 さっきの笑い話の延長かと思ったが、鮮花の顔は割と真剣だった。僕もそれを受けて、現状を少し考える。

「やっぱり、これで大丈夫かなっていう思いはずっとあるよ。うちはそもそも進学校じゃなくて、むしろ部活に力を入れてるからさ。高卒で働いちゃう生徒も多いし、なんか先生も僕にどれくらい真剣に向き合ってくれてるのか不安になることもあるんだよね……」

 最近は特に、自分と同じ大学を受験しようとしている生徒のことをすぐに考えてしまう。東京の進学校で毎日高度な授業を受けて、おまけに放課後には予備校とかに行ってさらに勉強している生徒の姿。そんなことを考えても仕方がなくて、考えるだけ無駄だと、頭ではわかってはいる。けれど、自分が今やっている勉強が本当に正しいのか、それを思ってペンが止まってしまうこともあった。

「なるほど……確かにうちの高校の環境は、先輩にとっていいものではないですよね……。なにか対策があればいいんですけど……」

「一応、市販の受験参考書とか、何かいいものがないかどうか見てはいるんだけどね。いっぱい種類あるし、それぞれ言ってることも違うから、結局何が正しいのか余計にわからなくなっちゃったりもすることの方が多かったりするんだ」

 気がつくと鮮花の顔は俯いて、空になった水筒のコップをただじっと見つめていた。

「なんかすみません……。そんな先輩の大変さも知らずに訊いちゃったりして。……今日のこれだって、先輩の貴重な勉強時間取っちゃってるんですよね。私、軽い気持ちで考えてました。ごめんなさい……」

「え?いや!なんでそうなるの!今日のこれは全然問題ないから!逆にこうやってたまに息抜きしないと効率も落ちちゃうし、むしろすごくありがたいから!」

 そもそも、この現状だって僕が招いたものであって、誰が悪いと言えば僕が悪いのだ。母さんは高校進学に際して、進学校である隣の市の私立高校を勧めてくれた。僕が将来的に東京に行きたいことを知っていて、その意を汲んでくれたのだ。けれど、僕はそれを断って地元の公立高校に進学した。毎日の交通費だって馬鹿にならないし、学費によって母さんに更なる負担をかけさせたくはなかった。母さんはそんなこと気にするなと言ったけれど、だからつまりこれは僕の我儘なのだ。交通費もかからないし、学費も普通、その代わり進学実績とかはほとんどなくて、手厚い支援は望めないけれど、そこは僕の頑張りで何とでもなる部分だ。僕は自力で何とかして、都市部の進学校のやつらの鼻を明かしてやるんだと宣言したのだから、こんなことぐらいで弱気になっては誰にも顔向けできない。

 そう言うと鮮花は、それならよかったですと言って笑ってくれたが、その笑顔は少し寂しい感じに僕には見えた。鮮花の目線はふたたび空のコップに落ち、しばし気まずい沈黙が流れる。

 鮮花にかける言葉を探して一人心の中で焦っていると、ふと僕は草を踏んでこちらに近づいてくる足音を聞いた。鳥居の向こう、あの悪路の方から聞こえてくる音の方に顔を向けるより先に、無遠慮な声が飛んできた。

「あっはは、まさかとは思ったが、マジでそうじゃん。お前ら、こんな辺鄙な神社でデートとか流石にダサすぎるだろ」

 嘲笑うような声に二人で身を固くする。その声から、誰なのかということはわかっていた。心もち睨みを聞かせながら声のした方を振り返ると、思った通り、鳥居の柱に寄りかかってこちらを笑っているのは小山だった。その傍らには、確か小山の恋人の二年生の女の子がいて、同じく控えめではあるがこちらを笑っている。

 はぁ。僕は心の底からため息をついた。さっきまでの気まずい空気を壊す助け舟は確かに欲しかったけれど、だからってそれが小山じゃ、正直居ない方が全然ましだ。

もともと、進学よりも部活が活発な学校で、僕の存在は浮きがちだった。僕は別に部活を一生懸命やる生徒を特になんとも思っちゃいない。けれど、小山を筆頭に、部活に力を入れる人間の中には僕が進学を真剣に考え勉強するのをなぜか快く思わないやつがいて、そいつらが時々絡んでくるのは本当に迷惑だった。僕は慌てた様子をみせる鮮花に大丈夫だからと手で制して、その場に立ち上がった。小山は相変わらずこちらを見てへらへら笑っている。

「菅名、お前大学受かって東京行きたいんだろ?こんなくそ田舎臭いことやってて、大丈夫なのかよ」

「大丈夫って何がさ。夏休みを神社で過ごしたら東京に行けないとか意味わかんなくない?それよか、僕はわざわざ歩きにくい道を通って、しかも彼女さん歩かせてまでここまでそんなことを言いに来た小山の方が意味不明なんだけど」

「あ?」

 小山の顔から笑いが消え、鋭くこちらを睨み据えた。まさか僕が挑発してくるとは思ってなかったのだろう。お互いに押し黙り、しばし睨みあう。正直、スクールカースト上位の小山に喧嘩を売ると後でさらにめんどくさい目に遭いそうな気もする。けれど、たまにはこうやって小山の嫌味に言い返したくなるほどには、僕にも受験の鬱憤が溜まっていた。結局、最初に目を逸らしたのは小山だった。

「まあどうせ無理だよ、菅名。うちの学校から東京の大学なんて受かるわけねえじゃねえか。教員だってみんなやる気ねえんだからよ」

 小山はそう吐き捨てると踵を返し、彼女を伴って去っていった。彼らが完全に視界から消えたところで、僕は小さく息をついた。いつの間にか傍らには鮮花が立っている。

「まったく、小山先輩のウザさ相当きてますね……。しかし、大会今月なのに今日休みにするなんて何考えてるんだろうと思ってたんですが、まさかデートのためだったなんて。……まあ私もこの休みを有難く享受している側なので何も言えないんですけど」

「え?あえて訊かなかったけど、今日の部活休みって小山の独断なの?それって大丈夫なんだ」

「まあ一応……。あの人部創設以来の逸材だって言われてて、顧問からもかなり期待されてるんです。今年も難なく全国決めましたし、三年連続は創立以来初なんです。それに、学年が上がるごとに磨きがかかってて、今回は上位入賞も狙えるんじゃないかって。それに、性格はあんなですけど、ちゃんと組織としての部をわかって指導しているので、部全体の実力も格段に伸びてるんですよね。だから顧問も大目に見てるんです」

「そっか、中学の時は全然そんな感じじゃなかったのに、小山もなんだかんだで凄いやつだったんだな」

「あれで私たちに対する態度がマトモなら完璧なんですけどね。まあでも、悔しいですけどちゃんと尊敬できる人ではあります」

 小山の突然の襲撃によって鮮花はむしろさっきまでの調子を取り戻したようだが、平然を装いながら、実は僕の胸中にはさっきの小山の言葉が(おり)のように残っていた。――まあどうせ無理だよ。もちろん、小山にとってはただ僕をけなしたいだけの軽い言葉だったはずだ。けれど、それは実は僕が一番自分で思っていて、気にしないように、気にしないように、蓋をしている言葉だった。気にしても始まらない、いいからやるしかないと思えば思うほど、心に浮かぶ言葉だった。

 けれど、今は気にしない。気にしたくない。今は鮮花と二人でおいしい弁当を食べて、残った草を刈ることだけを考えたい。そうやって頭を切り替えようと、僕はいまだ照り返しの激しい空を見上げた。


 食事を終えて、僕たちは草刈りを再開した。境内の前面は大方終わったから、残りは神社の両側面と後ろ側の小さい地域に残された残党兵を討伐すれば、この戦いは終わりを迎える。午前中に刈った量の半分より少し多いくらいだから、作業はわりかしすぐに終わるかと思われた。

 しかし、僕たちは午後になって威力を増した日差しを甘く見ていた。日中の気温が最高に到達するのは基本的に午後二時前後、まさに午後の活動再開を直撃した最高気温によって、作業は遅々として進まなくなった。

 ぎらぎらと(まばゆ)い太陽によって、空は青よりもむしろ白の色合いが強くなっていた。雑草も日光に温められて、刈るために葉を掴むと人肌のように温かい。幸い、この神社は周りを田んぼに囲まれていて、そこでは涼やかな清水が稲を育てるために流々と流れていたから、それによって外気温はある程度冷まされていると思う。これが都心のコンクリートジャングルだったら、跳ね返ってきた熱気にやられて今頃二人とも倒れてしまっていただろう。

 それでも、中天からもろに降り注ぐ日光は強烈だった。麦わら帽子をかぶってはいても、全身がじりじり焼かれているのがわかる。顔から汗が噴き出て、首からかけたタオルで何度拭いてももうきりがない。それに、僕は華奢な鮮花が心配だった。実際には僕なんかよりも部活をやっている鮮花の方が炎天下への耐性はついているのかもしれないけれど、こういう時はそういうよくわからない強がりが命取りになる。

「暑すぎる!鮮花、流石にちょっとおさまるまで撤収しよう」

「そうですね。私もさすがに心配になってたところでした」

 軟弱ですねー、とか何とか言っていじられるかと思っていたが、鮮花は素直だった。おそらく鮮花も同じことを考えていたのだろう。

 二人して、さっき腰を上げたばかりのレジャーシートに腰を下ろす。正直湿度が高いせいで日陰に入ってもむわっとした熱気はあったが、直射日光が当たらないだけでだいぶ楽になった。二人で麦茶を飲んで、荒くなった動悸をまずは鎮める。二人とも時間的にも作業量的にもそこまで激しい運動をしたわけではないのに、顔が上気して息が荒い。

「いや、流石に、日差し強烈ですね……。何とかなるかなーと思ってたんですが、見くびってました。私の見立てが甘かったです……」

「まあ天気予報でも、今日気温はそんなに上がらないって言ってたから、これは完全に予想外だよ……。まあ僕はこれくらいの方が夏っぽくて好きだけどね……」

「うう、先輩は本当に訳の分からないところで謎にポジティブですよね……」

 二人で(ほう)けたように日差しの中で真っ白に輝く雑草たちを眺めた。

「なんで雑草って、あんなに日光浴びてんのに元気なんだろうね」

「そりゃ先輩、光合成してるからに決まってるじゃないですか……。生物基礎どころか中学校、下手すりゃ小学生でも知ってますよ……」

「いや、そうだけどさ、いくら必要なものでも、多すぎると毒になるじゃん……。人間だって、いくら好きな食べ物でも食べ続けると気持ち悪くなるじゃん……」

「いや、私はケーキバイキングとか行ったら、制限時間ギリギリまで食べ続けられる派人間なのでその意見はちょっとわからないですね……」

「そっかあ、鮮花は、フードファイターなんだね……」

「先輩、熱でボケてるからって、ふざけたことを言ってもいいってことにはならないんですよ」

「うんー、ごめんー、悪気はないんだよ……」

「いや、悪気がないって、それもっとダメ……」

 熱気に頭がぼんやりして、うまく思考がまとまらない。ぼけーとどこを見るでもなしに見ていると、鮮花が急に立ち上がった。くるりと社殿の方を向き、側面の板壁を手で少し押したりしている。

「どうしたの?」

「いや、ちょっと、この中入れないかなー、なんて」

「さすがに無理でしょ。荒れてる神社だけど、別に放置されてるわけではないっぽいし」

 僕も立ち上がって、二人で神社の正面に回る。正面の格子戸は大型の南京錠でしっかりと施錠されていた。かなり錆びついてはいるが作り自体は割と立派なもので、少しいじったぐらいではびくともしないだろう。というか、鍵をいじった時点で立派な犯罪になってしまう。

「うーん、確かにこの鍵は破れそうにないですね。ほかに入口みたいなのないんですかね」

「側面の上の方に、明かり取りみたいな格子戸はついてるけどね。上下開放式だし、そもそも狭いから人間は入れないかな。てか、そんなことしたら犯罪だし」

「ではやはり、この格子戸から突破するしかないですね……。この格子の隙間から針金とか入れて何とかなりませんかね」

「いやだから、なんで急にそんなミッションインポシブる願望湧いてきちゃったのさ。フツーに犯罪だから」

 とか言いつつ、僕も社殿の中はあんまり覗いたことがなかったので、鮮花にならって格子の隙間から中を窺おうとする。傍から見たら、まるで壁にへばりつくイモリみたいだろうと思う。

「こら、あんたらぁ、なーにしてるんですかぁ」

 急に背中からかけられた声に、二人して背筋を凍らせる。中を見るのに夢中になって、人が近づく気配に全く気がつかなかった。恐る恐る、ぎこちない動作で後ろを振り向く。鳥居のところに立っていたのは、少しおなかの出た中年の男性だった。大福みたいな顔に固そうなごま塩ひげを生やして、分厚い鼈甲ぶちの眼鏡をかけた目は飛び出しそうにぎょろりとしていた。このくそ暑いのに分厚いチェック柄のズボンをはいて、上は白のTシャツにポケットのいっぱいついたオリーブカラーのチョッキを羽織っている。背中にはパンパンに膨らんだリュックを背負っていて、そして馬鹿みたいにつばの大きい麦わら帽子を被っているものだから、なんかおしゃれをしようとして失敗した裸の大将みたいだなと僕は失礼ながら思ってしまった。

 突然の怪人物の襲来、それに、どう考えても挙動不審だった僕らの行動を見られたとあって、僕は対応に困った。正直、なんて答えていいものだろうか。そんな不甲斐ない僕をよそに、先に機転を利かせたのは鮮花だった。

「えっと、その、私たちここの草刈りをしていたんですけど。ちょっと持ってきた道具で不便だったので、何か使えるものはないかなと、失礼ながら中を覗かせていただいてたんです。ちょっと傍から見ると怪しかったかもしれないですけど、ですから、悪さしようとか、そういうわけでは決してないんです」

 怪人物は、ただでさえ飛び出している目をいっぱいに見開いた。

「あー、そうだったんですかぁ、じゃあこの草はあなたたちで?そりゃあ、こちらこそ失礼しましたねぇ。つい大きい声出してしまってぇ」

「いえ、こちらこそすみません。神社の神様に対して、失礼でした……」

 それに対して彼は、いやいや、と否定するように胸の前で手を振った。そして、急にかしこまると鳥居の前でいきなり腰から上を直角にまげてぶうんと深々と礼をした。少しあっけにとられたが、彼がこの神社に参拝しようとしているのだと知って神社の前を空けた。

 彼は神妙な顔で鳥居から社殿までしっかりとわきを通ると、まずは手を合わせ、それからゆっくりと目を閉じた。

(はら)(たま)い、浄め給え。(かむ)ながら守り給い、(さきわ)え給え」

 朗々と、びっくりするくらい大きな声でそれは三度唱えられた。神拝詞(となえことば)だ。たまに神社の前のところにこれが書かれた立て札が立っていることがあったけれど、しっかりと、しかもこんなに大きな声で唱えている人は初めて見た。

 彼は唱え終わると、ぶうんぶうんと大きく最敬礼を二度行い、これまた大きく、ぱしぃんぱしぃん、と拍手を二度行った。彼は祈願も大きな声で言うのかと思ったが、予想に反して彼は合わせた手を額に当てて黙々と祈願を念じた。そして最後に、またぶうんと最敬礼を行う。

 あまりじっと見てはいけないと思ってはいたが、何か引き込まれるものがあって結局最後まで注視してしまっていた。そんな、固唾を飲んでいた僕たちの方を見ると、彼はそのインパクトの強い顔を大きく破顔させた。

「いやぁ、僕のお参りの仕方、独特でびっくりしたでしょう。けれど、神社の草刈りをするような子たちなら、僕のお参りの仕方も、割と普通って思うのかなぁ」

 同意を求めるようにえへへと笑う彼に、僕たちは控えめな笑いを返すことしかできなかった。


 その怪人物は、名を多聞(たもん)五郎(ごろう)と言った。僕はその格好からどこかの大学で民俗学でも研究している人かと思ったのだが、本業は会社員ということだ。しかし、ただの会社員ではない。なんと住んでいるのは宮崎県で、趣味の神社巡りが高じて民俗学の研究に足を突っ込み、有給を使ってはこうしてフィールドワークまがいのことをやっているらしい。そして今回は遠路はるばるこの北陸の地を訪れ、各地を散策しているということだ。

「今回は彌彦神社見てみたくてねぇ。僕は神社の中でも、神体山を持つ神社に特に興味があるんですよ。だから、電車の中から弥彦山が見えたときは感動したなぁ。田んぼで視界が開けてるから、割と遠くからでもお山が見えるんですねぇ。山の上の奥の院もね、車かケーブルカーじゃないと行けないっていうんだから、秘境って感じがしてよかったなぁ。さすが、越後国の一宮ですねぇ」

「先輩、いちのみやって何ですか」

「その地域の中で、一番社格の高いとされてる神社のことだよ。まあ僕も、社格についてはほとんど知らないんだけど……」

「なんかいろいろな意味ですごい人につかまっちゃいましたね……」

 僕たちのひそひそ話には全く気がつかない様子で、多聞さんは一人延々と話し続けている。彼の口から溢れてくる神社についての詳細で広範な雑学に鮮花は目をぱちくりさせていたけれど、正直、僕も話の理解度に関しては鮮花とほとんど変わらないと思う。こんなことを言ったら多聞さんに神社をわかってないとか、姿勢がなってないとか言われてしまうかもしれないけれど、僕は神社にお参りするときの身の引き締まる感じが好きなのであって、別に神社に対して民俗学的興味があるわけじゃない。まあほかの人よりはいろんな神社に行っている方だと思うし、参拝のときはその神社の成り立ちとかが書いてある境内の説明書きを読むようにはしているから知識がないわけでもないけど、そんな程度じゃ多聞さんと腰を入れて話すことはできないだろう。まあつまり、僕はにわかなのだ。多聞さんを見ていると、参拝に対しての僕のこだわりも中途半端に思えてきて、ひいてはこの神社に対する僕の特別な思い入れすら彼に及ばないんじゃないかという、なんだかよくわからない劣等感がじわじわ湧いてきた。なんで僕はこんな怪人物相手に躍起になっているのだろうか。

「それで、そんなに神社にお詳しい多聞さんは、どうしてこの神社を尋ねられたんですか?特に理由はなくて、散策してたら見つけちゃったとか?」

 多聞さんの無意識神社マウントに口数が少なくなっていた僕に変わって、鮮花が会話のかじ取りをしてくれた。僕は気のないふりをして聞いていたが、確かにそれは僕も聞きたいことではある。

 それを聞いた多聞さんは、待ってましたとばかりに膝をパシッと打った。

「それがですね。ちゃんと理由はあるんですよ。まあ話は、私が春に行った福岡県にまで遡るんですけどね」

「え。福岡?九州の?そんな遠いところとここに関係あるんですか」

 鮮花が食い気味に興味を示すと、多聞さんはそうそうと、眉間にしわを寄せて目をつぶりながら激しく頷いた。なんで鮮花と多聞さんは微妙に波長が合ってるんだよ、と、僕はいよいよ面白くない。

「それが、あるんですよ。僕が太宰府天満宮の宝物庫展に行ったときなんですけどね」

「え、太宰府天満宮?」

 急に出てきた学問の神様、そのビックネームに、今度は僕が驚きの声を上げてしまった。まさか、僕が今まで参拝してきたこの神社は実は天満宮の分社だったとでもいうのだろうか。そういった僕の期待はよそに、多聞さんは話の腰が折られたと思ったのか、少しぶすっとして僕を見た。だから何で鮮花の合いの手は喜んで、僕のはダメなんだよ。

「太宰府天満宮の宝物庫展ね。まあ神社ゆかりのものなんかを年に何回か開陳してるんですけどね。春に見に行ったんですよ。そこに、まあ、古文書みたいなものも展示してあるわけでしょう。神社の歴史を記したやつ。その中の、明治時代の文献を読んだんですけど」

 鮮花が待ってくださいとばかりに多聞さんの語りを手で制した。

「明治時代の文献って、それ普通すらすら読めるもんなんですか……」

「いやまぁ、展示は文書が開いてあるだけで、訳なんてついてないんですけどね。基本カタカナと漢字だから読めなくはないですよ。じっくり腰据えて、二〇分くらいあれば」

「いや普通、何の説明もない古文書を二〇分もかけて読もうとしないですから……」

 いやあ、誰でもできますよ、と言って多聞さんは気持ちの悪い笑い方をした。

「それでね、白山(はくさん)神社ってあるでしょう。あれもこの県を代表する神社で、歴史の長い興味深い神社でね。そもそも白山神社っていうのも、全国にいろいろあって、この白山神社は加賀の白山信仰の系譜に連なるものなんだけれども――」

 多聞さんの話はまるで(てん)(てつ)()の壊れたレールのようなもので、無軌道に話が展開してしまってさっぱり要領を得ない。福岡の太宰府天満宮の話をしていたのに、なぜ急に白山神社の話になるのだろう。ちなみに多聞さんがここで言っている白山神社というのはおそらく、僕らの住んでいる県の県庁所在地にある神社のことだと思う。多聞さんが言う通り白山神社と名の付く神社は全国に多くあって、この神社もそのうちの一つに数えられる。彌彦神社と共にこの県を代表する大きな神社で、僕らも夏祭りとか初詣の際に訪れるなじみの神社だ。

 まあだから白山神社は知っているのだが、それが太宰府天満宮とどうつながるのかはサッパリだ。僕らの疑問をよそに多聞さんはずっと白山信仰について語り続けていたが、さすがに辛抱ならなくなったのか、鮮花は再び彼の語りを手で制して待ったをかけた。

「――すみません、白山神社は私も知ってますよ。大晦日とか、よくお参り行きますし。けれど、出来れば、白山信仰?じゃなくて、それと古文書の関係を知りたいなぁって……」

 舵取り役の鮮花も大変だ。彼女は黙っている僕を非難するように見たが、僕は話に集中するふりをしてその視線を無視した。

「ああ、そうそう、その白山神社ね。太宰府の文書は、明治六年の白山神社の勧進にかかわる文書だったんですよ。勧進ってのは、神社とかを造るために寄付を募ることでね。白山神社は明治六年に境内を整備するにあたって周りにあった(せつ)末社(まつしゃ)合祀(ごうし)したんですけど、その際工事に必要なお金を募ったみたいでね。それに対して、福岡の太宰府天満宮から寄進があったみたいなんですよね」

「えっと……摂末社っていうのは……?」

「あ、摂末社ってのは、境内にある、本社とは別の小さい神社のことですね。白山神社は明治六年に、それらの小さい神社をまとめて、全部本宮(ほんぐう)にまとめたんですよ。いろいろな神様を一緒に、一つの神社で祭ることを合祀って言ってね。まあつまり、白山神社の祭神(さいじん)の中に天満(てんまん)天神(てんじん)を新たに加えたってことね。多分それで、わざわざ太宰府天満宮からも勧進があったんじゃないかなって、僕は思ってるんですけど」

 白山神社の明治時代の合祀については、僕も少し知っていた。明治政府から近代的な都市造営の一環として白山神社境内への公園設置が検討され、それに際して境内の数か所に点在していた摂末社がまとめられることになったのだ。確か天満天神のほかにも稲荷大神や住吉大神など数多くが合祀されていたはずだ。

 僕はこのことを白山神社に初詣で訪れたときに、境内の歴史を記した立て看板を読んで記憶していたのだけれど、流石に勧進のことまでは知らなかった。地元の神社なのに宮崎県の神社マニアに知識で負けたことが悔しくて、僕は少し意地悪な質問をした。

「けど、白山神社と太宰府天満宮だったら、この神社は全く関係ないじゃないですか」

「いやいや、それがそうでもないんですよ」

 多聞さんはぎょろっと目を大きく開けて僕の方を見て、ぐぅっと人差し指を近づけてきた。いやいや、近い近い。気迫が怖い。

「その勧進の詳細にね、なぜかこのあたりの、しかも道祖神に対してもね、太宰府はその時勧進をおこなったことが書いてあったんですよ!」

「「え?道祖神……?」」

 鮮花と声がかぶって、二人してここの社殿を見上げる。道祖神と言えば、道の横とか分岐路とかにおいてある、石の塚みたいなやつじゃなかったっけ。

 少し興奮気味だった多聞さんも、僕たちの反応が(かんば)しくないのに気がついたのか少しトーンダウンした。

「まあ、お二人が思ってることはわかります。道祖神っていうのは、もともと村の境界に立って、疫病とか外来の脅威から村を守る神でね。それが発展して道中の加護とかも担って、道端に石の塚のようにしてお祭りされていることが多いんです。道祖神のほかにも(さい)(かみ)とか、タムケノカミとかいろいろ別名があって、まあ、民間信仰から発生した神様なので、そんなに体系化されてる神様でもないんですけど……」

 多聞さんは頭の後ろをぼりぼり掻きながら、僕らと同じように社殿を見上げる。

「僕も社殿持ちの道祖神っていうのは今まで見たことがないんですよねぇ……」

「そもそも、この神社が本当にその道祖神なんですか?」

「いや、それもよくわからないんですよ。寄進された道祖神の地名がこの辺りだったんで、僕も行けばわかるかなって思って今日来たんですけど、道祖神っぽいのがなくてね。それで歩いてたらここ見つけて、とりあえず近づいたら皆さんとお会いしたって、そんな感じでして」

「なんだ。じゃあこの神社とその道祖神は全く何の関係もないのかもしれないってことじゃないですか」

「はぁ、まあ、あれだけ話しておきながら、実はそうなんですよ。ほんとは何の関係もないかもしれないです……」

 さっきの威勢はどこへやら、多聞さんは急に気落ちしてまるで空気の抜けた風船のようにしょぼしょぼと小さくなってしまった。言い方!とでもいうように、鮮花からさりげなく肘鉄が飛んできた。確かに僕も失望した態度が露骨だったかもしれないと、慌てて取り繕う。

「いや!けどまあ、確かにこの神社、鳥居にもこの社殿にも何の額もかかってなくて、何の神社かわからないから、その道祖神っていう可能性も捨てきれないじゃないですか!そういうことを夢を持って調べるのが、民俗学のロマンなんじゃないですか?」

 うなだれていた多聞さんは、僕のその言葉に弾かれたように顔を上げた。食い入るように僕を見るその目力に押されて僕は身を引こうとしたが、その隙を与えず多聞さんはがっ、と僕の両腕を掴むと、激しく上下に揺さぶった。

「そうですね、いや、本当にそうだ!あなたの言う通りですよ!それこそが民俗学。僕の選んだ道でした。――ありがとう!それをあなたのような、進んで神社の境内を清めようする殊勝な若者に教えてもらえるなんてねぇ。僕は幸運ですよ!」

「いや、こちら、こそ、多聞さんにお話を聞けて、嬉しかった、です。僕なんか、まだまだ、足元にも及ばないですけど、多聞さんの姿勢は、見習いたいと、おも、思います」

「た、多聞さん、感動するのはすごくわかるんですけど!先輩が脳震盪になっちゃいますから!」

「ああ!ごめんなさいねぇ!つい、感動で興奮しちゃって」

 多聞さんがぱっと手を放し、僕は糸の切れた操り人形のようにその場に脱力した。危なかった。鮮花のフォローがあと少しでも遅れていれば、本当に気を失っていたかもしれない。それに多聞さんは手汗がすごくて、僕の両手はびしょびしょになってしまっていた。

「ただの神社だと思ってたんですけど、その裏にはしっかりと歴史が連なってるんですね。私、多聞さんにお話を聞くまで、そんなことちっとも考えませんでした」

 再び社殿を見上げた鮮花が、ぽつりと漏らした。それを聞いた多聞さんも、顎をいじりながら再び社殿を見つめる。

「そうですねぇ。まあ、これは僕がいろんな神社を見て思ったことなんですけど、神様も割と、僕たち人間と近いところがあるんですよねぇ。さっきの白山神社の合祀の話じゃないですけど、割と神様も引っ越ししたりとかして、永久不変ではなくて、時の移り変わりの中で変化していくものなんですよ。どうも神様って超然としてて、僕たちを高みから見ている、みたいなイメージがあると思うんですけど、実はもっと僕たちの身近にいて、僕たちとともに成長したりとか、変化したりとか、そういう存在なんじゃないかってね、そう思うんですよ。……まあ、これは僕の勝手な妄想なんですけどね」

 そういうと、多聞さんは恥ずかしそうに笑った。その言葉に、僕ははっとさせられる。僕が毎日この神社にお参りに来る理由。目には見えないけれど、確かにそこにある何か。不安定だけれど、確かに安心できるもの。そういうものを求めていた僕の気持ちを、多聞さんの言葉は形にしてくれたと、僕は思った。

「さて、ごめんなさい、すっかり長居してしまいました。僕はそろそろ行きます。今日はお二人とお話しできて楽しかったですよ」

「いえ!こちらこそ貴重なお話をありがとうございました!すごく興味深かったです。これからも、研究続けていってください」

 多聞さんは恥ずかしそうに手を振って、境内を後にした。僕らも鳥居のところまでついていき、そこから次第に遠くなっていく彼の後姿を眺めた。

「不思議な人でしたね」

「うん。けど、いい話が聞けた」

 神様はもっと身近で、僕たちとともに成長する存在なんじゃないか。彼の言葉を反芻しつつ、改めて社殿を見上げる。この神社の主、ここで祭られている神様も身近な存在で、僕と同じ時間を過ごしているのだろうか。名前もわからない、何の神様かもわからないけれど、出来れば毎日お参りに来る僕を見て、何かを思ったり、応援してくれたりすると嬉しい。そう考えるのは、神様に対して傲慢だろうか。

ふと壁の側面、明り取りの窓のところに、何かが挟まっているのに気づく。さっきから何度も社殿を見上げているのに、なんで気がつかなかったんだろう。手を伸ばして白くはみ出たそれに触ってみると、習字の時に使うような和紙のようだ。ちょっと引っ張ってみると、びっくりするほど簡単にその紙は取れた。まさに習字用の和紙が、四つ折りになっている。なんでこんなところに和紙が、と思いながら、何気なく開いてみた。「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」、と、特に綺麗でもない字で書かれている。

「どうかしたんですか、先輩」

 背中からかけられた鮮花の声に、とっさに紙を畳んでポケットに入れてしまう。体が陰になって、おそらく入れた瞬間は鮮花には見えなかったろう。別に隠すものでもないと思うのだけれど、とっさに体が動いてしまった。「百戦危うからず」。超が付くほど有名で、受験においてもよく聞かれる言葉だけれど、なんでそんな言葉の書かれた紙がこんなところに挟まっているんだろう。

 とっさに僕は、さっき自分が考えていたことを思う。そして、あまりに馬鹿らしくて笑ってしまった。これが神様からのメッセージだとしたら、あまりにも出来過ぎている。僕が生きているのはれっきとした現実であって物語の中のお話じゃないんだから、そんなうまい話があるわけないじゃないか。そう思いながら、ポケットに忍ばせた紙を優しく握る。

すごく励まされている自分がいた。もしかしたら、と、僕は社殿を見上げる。けれど、思ったことを鮮花に話すと、また不思議くんだのなんだの言われるだろうから、とりあえず僕はこの言葉を、大事に心の中にしまっておくことにした。


*      *      *


 正直に言いましょう。あたしゃ、死ぬと思いました。というかむしろ、もう殺してくれって感じでしたね。え、何の話かって?とぼけちゃいけませんよ。もちろん、鍵坊によって行われた非人道ならぬ非神道的、冷酷無比、極悪非道の所業である特製わくわくお勉強プランに決まってるじゃありませんか。あたしゃ、これでも鍵坊に一目置いてたんですよ。あたしゃと志を同じくする、生まれながらの選ばれしプロニートだってね。それがあなた、あたしゃが本気で受験すると知るや否や、がらりと性格を変えてしまうじゃありませんか。あたしゃなんだか裏切られたような感じでね。そっかー、鍵坊も、本当はこんなに出来る子なんだなー。今まではあたしゃに合わせてただけで、いつでもこうやって、出来る神に戻れるんだー。いつかは、こんな苔生えたようなかわいそうなあたしゃを捨てて、高天原(たかまがはら)に戻っちゃうんだなー、って思いましたよ。え?恩知らず?い、いや、そんなことないですよ。今でも、鍵坊には感謝してますよ。それでもほら、それでも拭い難い思いっていうものはあるもんじゃないですか。

 話を戻しましょう。とりあえず、鍵坊はあたしゃが役所で泣かされた日、持ってきた受験要綱を受け取ると、その日のうちに受験のためのプランニングを立ててしまったようでした。明日になったら、戻れなくなる。だから、今日のうちに余生を楽しんでおくんだな。そう言い残して自分の社殿に帰っていくときの鍵坊の不気味な笑みは、今でもたまに夢に見ます。

 さすがのあたしゃも、鍵坊の笑顔に末恐ろしいものを感じて、その日は早く寝ました。だいたい夜一二時くらいですね。いつもは四時くらいに寝るのが当たり前だったんですから、あたしゃとしてはかなりの気の入れようでした。

 最悪なことに、その夜は恐ろしい夢を見ました。耳まで口が裂けた鍵坊が、あたしゃの社殿を出ていくときのあの笑いを浮かべながら、出刃包丁を振り回して追いかけてくるんです。「おっさーん、おーい、おっさーん」って言いながら、どこまでもどこまでも追ってくるんです。あたしゃ夢の中で懸命に逃げるんですけど、まるで膝まで水に浸かっているかのように、うまく足が動かないんです。しまいに夢の中であたしゃ泣きだしました。「勘弁してくれぇ、鍵坊ぅ。あたしゃが悪かったよぅ。ごめんよぅ。もう逃がしてくれよぅ」って、目をひん剥いた鍵坊に向かって必死に訴えるんです。

「逃がさねぇよ」

 突然、声が目の前から降ってきました。そのあまりのリアルさに、あたしゃびっくりして目を覚ましました。全身汗びっしょり、夢の恐怖に息を荒くしながら、かっと見開いた目には涙が浮かんでいました。涙を拭いながら、けれどあたしゃの胸中には急速に安堵が広がりました。よかったぁ、夢だった……。枕もとの時計を見ると、まだ朝の五時です。ふう、まだ起きるには全然早い。次はもっといい夢を見ようと、あたしゃ柔らかい枕にぽふっと頭を載せました。

「おい、二度寝しようとすんじゃねえ」

 あたしゃ、耳を疑いました。幻聴でしょうか。あまりに夢が恐ろしすぎて、恐怖の声が頭にこびりついたようです。せっかく悪夢から逃れたのに、夢の外でまで苦しめられちゃたまりません。あたしゃ声から逃れるように、布団を頭から被って丸くなりました。

「あっ、こら!だから二度寝すんじゃねえ!」

 ものすごい力で、あたしゃを庇ってくれる布団が引き剥がされようとしていました。荒魂(あらみたま)です。悪霊です。この社殿に祟り神が取り付きました。布団というこの最後の防衛線が突破されたら、あたしゃにこの先残されているのは死、ただそれだけだと直感でわかりました。あたしゃもう決死の覚悟で布団を死守しました。

「はあ、しゃあねえな。昨日少し脅しすぎたか」

 布団を引っ張る力が消えました。どうやらあたしゃは、侵略者の襲来から安寧を守ることができたようです。あたしゃは急に自信が湧いて、堂々と寝床を整え頭を枕に据えなおしました。すると、なぜかあたしゃの持っているゲーム機が起動する音がします。

「まあ、おっさんが起きないならそれでもいい。それなら俺は暇つぶしにおっさんのゲームのセーブデータ消しまくるだけだからな」

 あたしゃはそれまで庇ってくれていた布団を容赦なく蹴り飛ばすと、鍵坊のもとに滑り込むように土下座しました。彼が今生殺与奪を握っているセーブデータは、どれもこれも、あたしゃの血と涙の結晶、途方もない苦労のもと育て上げたかわいい子供たちです。子供が人質に取られたとあっては、親はもはや無条件降伏するしかないじゃないですか。

「たく、余計な手間かけさせるんじゃねえよ。ちったぁそのだらけることに対する飽くなき欲望を受験に使いやがれ」

 鍵坊の小言を聞きながら、けれどあたしゃもふてくされてました。なんだって、こんなに朝早くに起きなきゃいけないんでしょうか。

「は?そりゃもちろん、これから勉強始めるからに決まってるじゃねえか。おら、さっさと支度しろ。まずはこれからどういう風に進めていくか教えてやるからよ。あ、ちなみに今日からずっと朝は五時起きな。学んだ知識は朝の方が頭に残るから」

 あたしゃは、身を翻すとさっき投げ飛ばした布団の方へすっ飛びました。これから毎朝五時起き?冗談じゃありません。五時はどう考えても人も神もまだ寝ている時間です。そんな無茶苦茶な法が許されるわけがありません。あたしゃこの布団を使って断固抗議する権利があると思いました。

 しかしあと少しで布団に手が届くというところで、あたしゃはっと思うことがありました。いったい彼は、何時に起きているのでしょうか。平日は毎日、ほぼほぼ六時きっかりにはここを訪れて参拝をしていきます。しっかり学校に行く支度をして、しかも彼は、時々兄妹のために朝食も作っていました。そうしたことに時間を使うとなると、かなりの時間が必要です。もしかしたら彼も、今頃もう起きているのかもしれない、そう思いました。

 そう思って、ちらりと鍵坊の方を向くと、彼も真剣にこちらを見つめています。そんな目で見つめられたら、そして、あたしゃを頼って毎朝参拝に来てくれる彼も早くから起きているなら、神であるあたしゃが甘えていられるわけないじゃないですか。あたしゃだって頑張らないとじゃないですか。本っ当に名残惜しいですが、あたしゃは布団を放棄しました。鍵坊が満足そうに笑っているのが癪に障りましたが、仕方がありません。あたしゃは改めて覚悟を決めました。

鍵坊との朝の攻防によって乱れた布団を片付けて部屋を整えて、あたしゃは文机の前に粛々と正座します。鍵坊はその様子を見ると上品に目を閉じ、そして、いきなり訳の分からないことを言いました。

東風(こち)吹かば(にお)いおこせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」

 は?こいつは朝の五時から神を叩き起こしておいて、いきなり何をほざいてるんだ。流石(さすが)にあたしゃを馬鹿にしすぎじゃないかと思いました。それに梅って。もう全然梅の時期じゃないですし。そもそも梅の木ここにはないですから。あたしゃ憎悪のこもった眼で鍵坊を睨みつけてやりましたが、薄目を開けた鍵坊は涼やかに笑っています。

「おっさん、この歌、知ってるか」

 いや知らないですよ。逆に何で知ってると思ったんですか。ていうかそもそも、今お前が勝手に思いついて(ぎん)じた歌じゃないのかよって思って、あたしゃ返事をしませんでした。そんなあたしゃの反応を見て、鍵坊はやれやれという風に首を振りました。あたしゃは鍵坊のこの反応が嫌いです。

「まじかよおっさん……。これは有名な歌なんだぜ。あ、もしかして、俺が今即興で考えた歌だとか考えちゃったか?そんなわけねえだろ、馬鹿か。俺はそんな粋がってるイタい神じゃねえよ。これはな、菅原道真公が詠んだ歌だ。流石に菅原道真は知ってるだろ」

 すがわらの、みちざね?どっかで聞いたことはあるかもしれませんが、正直どこで聞いたか思い出せません。ただ、知ってないとまずそうな雰囲気です。とりあえずあたしゃ曖昧に笑っておきました。けれどその顔を見て、鍵坊の顔はみるみる険しくなっていきます。

「まじかよ……まさか、菅原道真も知らねえのに、天満宮の社格を得ようとか抜かしてんのか、このボケ神は……さすがに予想外だったぜ」

 鍵坊は大きくため息をついて、やれやれと首を振りました。何度も言いますが、あたしゃは鍵坊のこの態度が大嫌いです。

「じゃあ、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)は。流石にこの名前知らなかったら洒落にならねえぞ」

 馬鹿にしちゃいけません。天満大自在天神と言えば、あたしゃがこれから受けようとしている天満宮の主神、学問の神様その神に決まってるじゃないですか。その名前も知らないで天満宮試験受けようとか、流石に寝言は寝て言えって感じですよ。

「いや、だから、その天満大自在天神が、菅原道真なんだよ……」

 急に知っている名前が出てきて、今までの失望を挽回しようと意気揚々としたあたしゃに反して、鍵坊はなぜか頭を抱えています。しかし、天満大自在天神が菅原道真とはどういうことでしょうか。二つ名?源氏名ですか?まあ確かに、道祖神であるあたしゃも塞の神やらタムケノカミやら、果ては仁王(におう)さんとか呼ばれたりしますから、別に驚きはしないんですけど。

 そういうことを言うたびに鍵坊はどんどん顔を(うつむ)かせていき、しまいに、あー!と大声を上げながら頭をわしゃわしゃと搔きむしりました。

「もういい!めんどくさい!馬鹿なおっさんに期待した俺が馬鹿だった!もう時間が惜しいから一から教えてやる」

 流石にいくら何でも、あたしゃのことを何度もバカバカ言い過ぎじゃないでしょうか。一応言っておきますけど、あたしゃの方が年上なんですけど。神として年上を敬わないのはどうなんだと指摘すると、鍵坊は目を剥いてあたしゃのことをぐっ、と指さします。

「そういうのは!今!いらねぇんだよ!だいたいどこの神に、菅原道真も知らねえで天満宮試験受けようとしてるやつがいるってんだよ!いいからおとなしく聞け!いいか、天満大自在天神は、俺らみたいな高天原出身の神とは出自が異なる。菅原道真、つまり人が神格化、神に祭り上げられた存在だ。言ってることわかるか」

 あたしゃ、えっ、と目を丸くしました。じゃあ、天満大自在天神はもともとは人間だったていうことでしょうか。

「だからそう言ってるじゃねえか……。天満大自在天神が人間だったころの名前が、菅原道真だ。平安時代前期、えっと、天孫(てんそん)紀元(きげん)で言うと一七九三九七〇年くらいの人物でな。当時の朝廷、つまり人間の最高機関でかなり重く用いられた、めちゃめちゃ頭の切れる人だったんだよ」

 天孫紀元一七九三九七〇年と言うと、あたしゃが高天原に降臨するより七百年くらい前の話です。その当時の高天原や人界の様子はもちろんあたしゃにはわかりませんが、人間を神の世界に迎え入れるとは、高天原はかなり寛容で、かつ菅原道真は本当に出来る人だったということでしょう。

「いや、そうじゃねえんだ。確かに、菅原道真は今では学問の神として信仰を集めていて、ご利益(りやく)も高天原の中で最高クラスだが、彼が高天原に迎え入れられたのは、学問が神レベルに秀でてたからじゃねえ。……ブチ切れたからだ」

 ……ブチ切れた?鍵坊は真剣な顔でなに馬鹿な事を言っているのでしょうか。

「おい、今俺のこと馬鹿だと思っただろ。けどな、事実なんだよ。菅原道真が神に迎え入れられたのは、学問がめちゃくちゃできたからじゃねえ。神の世界に迎え入れて何とかなだめないと人界が大変なことになると高天原中が思うくらいにキレて暴れまわったからだ。つまり、菅原道真は荒魂だったんだ」

 荒魂、また別に(あら)御霊(ごりょう)とか祟り神とかいうのは、高天原においてかつて瞬間湯沸かし器とか言われていた神たちのことです。建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)さんとかが有名で、彼らはとにかくキレやすく、仕事もめちゃくちゃできるんですが、気難しくて機嫌が悪いとすぐひどく暴れまわって、人からも神からも恐れられる存在です。まあそのせいで建速須佐之男命さんとかはここ五百年くらい高天原でも割と浮きがちで寂しい思いをしているとも聞いているのですが。毎年一〇月に出雲に行ったときにちらっと見たりもする天満大自在天神さんは、さすが学問の神というくらいめちゃくちゃクールでかっこいい神様でした。とてもかつて荒魂だったとは思えません。

「まあな。俺も当時を実際に見たわけじゃないんだが、すごかったらしいぜ。まあ、そもそも当時の権力争いに敗れて左遷されて死んじゃったわけなんだが、もう死んだとたんそれまでの鬱憤が爆発したみたいでな。当時の都は雷でめちゃくちゃに壊すし、事態を重く見た神たちが高天原に呼び寄せた後も、引き取り手になった思金神(おもいかねのかみ)の家をしょっちゅう抜け出しては、盗んだ神馬で走り出したり、周りに住む神の家の窓を石投げて壊したり散々悪さをやったって話だぜ。中でも、後で平将門(たいらのまさかど)が同じように荒魂として高天原に上がってきたときは、二人で高天原中に番を張りあってな。あの時の抗争は、今でも伝説として語り継がれているらしい」

 あたしゃは、あのクールな天満大自在天神が特攻服を着て、神馬に乗って暴走している様子を想像しました。確かに、かつてやんちゃをした人に限って、社会に出てからはものすごく真面目に働くというのはよく聞く話です。ちょっと想像できませんが、天満大自在天神もそういうことなのでしょう。

 こっちが勝手に納得してうんうん頷く半面、鍵坊は頭を横に振っています。

「はあ、つか違ぇよ。なんで天満大自在天神がかつてやんちゃしてた話になっちまったんだ。そうじゃなくて天満宮試験の話をしたいんだよ。つまりな、俺が言いたかったのは、天満宮の祭神である天満大自在天神がかつて人間だったこともあって、天満宮試験では主に人界のことが出題されるってことだ。まあ、人界の学問に対しての利益を与える必要があるってのもあるんだけどな。だから、対策も高天原より人界に根差したものになるってことだ。高天原の歴史よりも人界の歴史の方が出題されるし、もちろん人間の(こよみ)に従った歴史認識が問われる。まあだから、高天原での勤務が長くて、高天原の歴史の中で生きているやつよりも、ずっと人界で勤務してきたおっさんの方に若干分があると思ったんだが、当てが外れたな……。まさか菅原道真も知らないとは思わなかった」

 鍵坊の顔は苦り切っています。その顔を見てあたしゃ不安になりました。鍵坊の予想をはるかに下回るくらいあたしゃはダメだったんでしょうか。高天原最高の人材と言っても過言ではない鍵坊に見放されては、あたしゃはもうなす術がありません。しかし、そんな不安そうなあたしゃの顔を見て、鍵坊はにやりと笑います。

「なあに、おっさんの不安そうな顔を見て、俺は安心したぜ。本当にやる気がなきゃ、そんな顔すらしねえからな。安心しろって。出題される試験範囲がわかってて、おっさんの得意と苦手がわかれば、対策の立てようは必ずある。まだやったことのない未知なものに対して、不安になるのはわかる。だが実際に問題にあたってみれば、どうやってこなせばいいのかわかってくるもんだ。ということで、これが当面の対策用の問題集だ」

 鍵坊は横に置いていた風呂敷を解き、その中身を文机に広げました。

「まずは、さっきも言った人界の歴史についての対策が必要だ。人界の歴史って言っても試験には二つの大枠がある。まずは人界の大まかな流れ。その時代に、どこで、誰が、何をしたか、大きな歴史的変遷をどれだけ知ってるかってことだな。そこに、天満宮が人界にどういった関わりを持ってきたかってことを訊く枠が加わる。まあこれに関しては、大まかな歴史の流れを押さえてから、天満宮の関わりを随時補填していく感じでやっていきゃいい」

 続いて鍵坊は鮮やかな水色の表紙の本を取り出しました。

「次に、これが算術の問題集な。天満天神は参拝に訪れた受験生の管理・把握は当然として、彼らがどんな理由で学問の利益を必要としているのか、まあつまり、高校だったり、大学だったり、理系だったり、文系だったりというのをしっかりと数値として管理しなきゃいけないから、計算の知識が問われるわけだ。まあ、俺が今まで見た限り、おっさんは日ごろの(けい)狛犬(こまいぬ)好きが高じてなのか暗算は割と得意そうだから、算術に関してはおっさんは得意分野かもしれん」

 さらに鍵坊は桃色の表紙の本を取り出します。

「そんでもって、これが文書の問題集。つまり、文書作成とか資料読解とかのスキルに関することだな。まあおっさんも最近は毎日祈願台帳書いてるわけだが、天満宮の祈願台帳は道祖神よりも複雑でな。まあ、道祖神が基本「そこにあること」によって加護をもたらす神性なのに比べて、天満宮は基本人間の祈願を汲んで加護を与える神性だからな。祈願台帳の構造が違うのも当たり前だ。ほとんどの神社は基本人間の祈願を汲む形の神性が多いから、これはむしろ道祖神の神性の在り方が特殊とも言えるかもしれん。だから、もしかしたらおっさんはこの文書は割と苦手な部類かもしれねえな。気合を入れてやらなきゃいけない分野だ」

 人界と天満宮の歴史に、算術に文書、やることの多さにすでにあたしゃは頭の中がぐるぐるしてきました。もうこれ以上の問題集を出さないで欲しいと願いながら鍵坊の次の行動を見守りましたが、残念ながら鍵坊はもう一冊、黄色い表紙の本を取り出しました。

「そして最後に、神にとって一番大事な能力、つまり「神気」のための本な。懐かしいだろ、おっさん。いくら道祖神が昔も今も人気のない日陰職だからって、神気を得るための練習だけはしっかりやったはずだ。はい、じゃあタムケ左衛門くん、当時を思い出すこともかねて、そもそも我々神はどうやって人の祈願に対し利益を与えるのか説明してみたまえ」

 あたしゃ、深いため息をつきました。そうでした、神気。ほかの能力はどうであれ、神気の能力の問われない試験などあるはずがありません。あたしゃ四百年弱人界で適当に過ごすうちに、いつの間にかそのことを忘れていました。

 神気というのは、まあめちゃくちゃ簡単に言うと神の根性(こんじょう)のことです。鍵坊の今の出題に答えますと、神が人の願いをかなえる構造とは言ってしまえばその感情を増幅することなのです。つまり、例えば何かを成し遂げたいと思う人間がいて、その人が神にその旨を祈願したならば、神は神気を使ってその人の思いをより強く、より長く持続できるように感情を増幅させることで利益を与えるのです。まあ具体的な方法を言ってしまうと、その人の願いが叶うように、叶えー、叶えーと神も一緒に念じるのです。身も蓋もないですが。そうすると、その神の神気の大きさに比例して念波(ねんぱ)が祈願者に届き、その人のやる気に火がついて、祈願達成のためにより頑張っていただくということなのです。ですから、神は人の願いを聴くことはあっても、決して願いそのものを叶えてあげることはできません。願いを叶えるための支えとなる力を神気を使って与えることはできますが、最終的に願いそのものを叶えるのは、ほかでもない、祈願したその人自身なのです。

 まあですから、神の神気の大きさというのは、その神がどれだけ根を詰めて念じることができるかということでもあります。つまるところ根性だとさっき言ったのはそのためです。

 道祖神は、さっき鍵坊が言ったように「そこにある」ことで利益を与える、つまり、具体的な祈願者が居なくてもずっと境界を守るための神気を発していなければなりませんから、ほかの神に比べて神気の高さを求められる神ということでもあります。鍵坊が当時を思い出せ、といったのは多分そのせいです。あたしゃの通っていた出雲天降(いずもあまくだり)大学道祖神学部路傍(ろぼう)科は、通称「ゴリラ動物園」と呼ばれていました。なぜかというと、学科の授業の半数以上が神気を高めるための体力づくりの授業で、通っていた学生は皆ゴリラみたいな体格に自然となっていったからです。あたしゃも、今となっては干物みたいにひょろひょろで見る影もありませんが、卒業した当時は自分で言うのもあれですが、かなり素敵なマッチョでした。まあですが、人界が近代化していくにつれて村の境界という概念自体希薄化し、道祖神の利益も境界の守護から交通安全とか果ては縁結びとかになっちゃったせいで、道祖神もかつてほどゴリラではなくなりました。あたしゃも二百年くらい道祖神としてやっていくうちにそんなに念じなくても神気をある程度出せるようになってしまい、しまいにはこんなひょろひょろでペラペラになってしまいました。

「そう、よく覚えていたじゃないか、タムケ座衛門くん。だから神気は神にとってなくてはならない能力なわけだ。だが、おっさんが今言ったようにおっさんは長く道祖神やりすぎたせいで神気の出し方を忘れちまってるし、たぶんそれには本来の位置からこの社殿に移されたせいもあるんだろうな。ほかの神なら合祀とかで位置が変わることはまあ普通なんだが、土地を守る性質を持つ道祖神だとかなり致命的だ。まあだから、多分おっさんには天満宮で要求される程度の神気は充分すでに培ってはいるはずだ。ただ、長年の引きこもりと、位置がずらされたことでそれが眠っちまってる。つまりそれを引き出せばいいわけだ」

 あたしゃその言葉にぞっとしました。まさか、若かりしあたしゃがやった、あの地獄の体力トレーニングをまたやらなければいけないのでしょうか。走馬灯のようにかつての記憶が蘇ってきます。精神注入棒という名の竹刀を持ったコワモテの教官。うさぎ跳び二千周。タイヤを引きずっての一〇キロマラソン。脱走者が続出した夏の強化合宿……。死にます。今のひょろペラのあたしゃがやったら間違いなく即死です。あたしゃは忌まわしい記憶を振り払うように頭を振りました。

「おーい、おっさん、帰ってこーい。だいじょぶかー」

 呆然とするあたしゃの前で鍵坊が手をぴらぴら振ります。

「どうせ、大学時代の地獄の神気づけトレーニングをまたやらされるんじゃねえかと思ったんだろ。いや、流石に俺もそこまで鬼じゃねえから。おっさんだってもういい歳なんだから、流石にそんなことはさせねえよ。そのためにこの本持ってきたんだろうが、よく見てみやがれ」

 鍵坊が指でとんとんと示す黄色い本の表紙を見てみると、それはほかの本と違って問題集ではありませんでした。『今日からあなたも実践!集中力を高めるための瞑想のすすめ』と書かれています。め、瞑想……?神気を高めるために瞑想って、それは宗派的にありなんでしょうか。

「いいかおっさん、神気を高めるために根性を鍛えるのは、もう古いんだよ。今は瞑想、集中力の時代だ。結局神気ってのはどれだけ一心に祈願成就に向けて念じられるかってことだからな。要は集中力を高めて、ゾーンっていう領域にはいりゃそれでいいんだよ。それに集中力が上がればほかの歴史と算術、文書の勉強効率も上がって一石二鳥、いいこと尽くしじゃねえか」

 そう言って鍵坊があたしゃの肩をばしばし叩いた時です。社殿の鈴が朗々と鳴らされました。格子戸の隙間から、彼の姿が見えます。

「いけねえ!彼が来るまでに少しは問題自体にも目を通しておこうと思ったんだが、六時になっちまったか」

 鍵坊がそういいながらあたしゃに祈願台帳を渡してくれます。彼はいつものように二礼二拍手一礼を丁寧に行い、今日一日何を頑張るのかの決意表明、ぜひあたしゃの力添えが欲しい旨を唱えました。あたしゃはそれを祈願台帳に転記しながら、きっと聞こえないけれど、心の中で答えます。あたしゃも今日から頑張るよと。きっと合格して、君に天満天神として力添えをしてあげると。一人では辛い受験も、きっと二人なら乗り越えられます。

「それにな、おっさん」

 境内を去っていく彼の背中を見送りながら、鍵坊が語ります。

「神気はほかの科目と違って、天満宮に固有のものじゃねえ。つまり何が言いたいかっていうと、神気を高めれば天満宮の社格を得る前から、おっさんの念はきっと彼に届くぜ。一緒に頑張ってるやつがいる。この、ぼろくてちゃちくてキタネエ神社の、よくわからねえ神様も、しっかりと願いを聴いてくれてるってことがわかれば、それはお互いにとって、何よりのご利益になるんじゃねえかな」

 本当に鍵坊は、あたしゃをその気にさせるのがうまい神様です。


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