第一章
五月の第一週の日曜日、空は真っ青に晴れ上がっていた。薄く伸びた雲が太陽に輝き、きらきらと美しい。僕は時々進行方向を確認しながら、空を見上げて自転車を漕いだ。本当なら外に出る予定はなかったのだけれど、この空が見えてラッキーだった。家では今も、弟と妹が大声で喧嘩しているに違いない。二人には申し訳ないけれど、受験生がいる家ではもう少し静かにしてほしい。だからいつもは二キロほど離れた地元の図書館で勉強するのだけれど、今日はあいにく月に一度の書庫整理日だった。勉強はできないし、イライラは溜まるしで思わず家を飛び出してしまったが、こんな空を見てしまってはそんな鬱憤はもうどこかに吹き飛んでしまった。
視線を地平におろせば、一面に青々とした緑が広がっている。三月に田植えが終わったときはほんの小さな稲の赤ちゃんだったのに、二か月で立派に成長してたくましい緑の体を太陽に輝かせている。時折風を受けて稲がそよぐ様は、まるで海に波が広がっていくようだ。
そして、そんな緑の海の地平線の先には、堂々と一つの山が聳えている。名前は知らないのだけれど、僕らの住む地域を包み込むようにそばだっていて、僕はひそかに自分の村のお母さん的な山だと思っていた。冬に降った雪を三月くらいまで山頂に留めて、四月ごろには豊富な雪解け水を麓にもたらしてくれる。その水でこうして稲が育ってゆく。昨日までは当たり前すぎて気にも留めていなかったけれど、こうして輝く太陽の下で改めて見てみれば、すべてが新鮮で、とても有難く思えた。思いっきり空気を吸い込むと、緑の香りや水の清涼な空気が鼻孔を満たして、頭の芯まですっきりと晴れわたってくる。
ふと、視界の端に映るものがあって僕は自転車を止めた。見ると、田んぼの真ん中に、ひょろりとした木が三本くらい立っている。なんであんなところに木が生えてるんだろうと目を凝らすと、その木に隠れるように、小さな建物が立っているのが分かった。あんなところに建物なんてあったっけ、と思いつつ、僕はすでに自転車のペダルを踏みこんでいた。日常の小さな発見、今まで身近に生活しながら知らなかったことに気づくと、それからの毎日にちょっとだけ彩りが足される。ちょっとした冒険心にワクワクしつつ、僕はその建物に続く田んぼと田んぼの間の脇道に自転車を乗り入れた。
脇道は農作業用のトラクターとかしか入らないために舗装されておらず、深くえぐれた轍には水たまりができていた。母さんの通勤用のシティサイクルにはこの道は荷が重すぎたようで、僕はブレるハンドルと格闘することをやめて潔く自転車を降りた。ちりちりちりとチェーンが回る音を聞きながら、少しずつ建物に近づいていく。農作業用の掘立小屋だと思っていたのだけれど、よく見ると鳥居が立っている。何の神社だろうと思いながら、ついに鳥居の正面にたどり着き、僕は自転車のスタンドを立てた。
鳥居には、社名を表す額のようなものはかかっていなかった。かつては赤く塗られていたようだけれど、今はほとんど剥がれてしまって白く乾いた素地があらわになっている。僕は一応頭を下げて、鳥居をくぐった。
これは別に僕に限ったことではないかもしれないけれど、僕は町を歩いたりしていて神社を見つけたら、とりあえず鳥居をくぐってお参りをするように心がけている。その土地を守ってくださっているであろう神様に挨拶をするのは必要なことに思えたし、なにより鳥居をくぐったときに感じられる神妙な気分が好きだった。
だからその時も同じように頭を下げて鳥居をくぐったのだけど、その時の感覚はいつもと違った。いつもは空気が澄むような、心が引き締まるような気持ちがするのだけれど、今日はそうじゃなかった。なんだろう。きりっとした、背筋が伸びる感じではない、もっとふわふわした居心地の良さ。暖かさや、優しさに近いような、どこか懐かしい感じ。自然と肩の力が抜けるようで、僕はとても穏やかな気持ちに包まれた。
ただ、ここの神様には大変申し訳ないけれど、この神社の様子はその感覚とは真逆で、とても貧相でかつ荒んでいた。狛犬はいないし、石畳もない。むき出しの地面には草がぼうぼうで、建物の左側に二本、右側に一本、ひょろひょろして枝のねじくれた何の木なのかよくわからない木が生えている。どうやらこの三本で鎮守の森ということらしい。社殿の天井からぶら下がっている鈴緒は赤と白のヒモが縒り合された粗末なもので、長年の雨ざらしによって色あせてしまっている。根本についた鈴もどこから持ってきたのかわからない形の不揃いなものが三つもついていた。
しかし、どんなに外見が粗末なものでも、神様への礼を失してはならない。僕は鳥居から社殿へと続く道のわきを歩いて社殿へと近づいた。道の真ん中は神様が通る場所だからだ。社殿にたどり着き、上を見上げる。この建物自体もかなり古いもののようで、屋根を支える梁のいたるところに後から鉄材で補強した跡があった。まあその鉄材もほとんど錆びついてしまっているのだけれど。
お賽銭を入れる賽銭箱がないので、格子戸の隙間から中を覗いてみると、あった。こういう小さな神社では、盗難防止のために社殿の中に賽銭箱を置いている場合が多い。僕は財布を取り出し、小銭を確認した。あいにく五円玉がなかったので、十円玉を格子の隙間から投げ入れる。十円玉はこつんこつんと音を立てながら、賽銭箱の木枠の中に吸い込まれていった。
鈴緒をつかみ、控えめに、けれどしっかりと鈴を振る。割としっかり左右に振ったはずなのに思ったように音が出ず、ちろんちろんと、なんとも安っぽい音が境内に響いた。そして、まずはしっかりと二礼。そして二拍手。そしてもう一礼。以前調べたことがあるのだけれど、二礼二拍手一礼の起源は諸説あって定かではないらしい。けれど、多くの神社で参拝の際はこの作法をするように勧められているから、僕は毎回この作法に則って礼をするようにしている。
そして多くの人がしないけれど、僕がいつも心がけているのが、自分の住所を言うこと。多くの人は心の中でお願い事を唱えるけれど、神様も全能ではないので、お願い事だけではその願いをどこに届ければいいのかわからないのだと、前に聞いたことがあったからだ。そして、その願い事はできれば声に出した方がいい。神様も全能ではないので、心の中で唱えられてもよく聞こえないことがあるそうだ。だから僕も、周りに誰もいないこともあって、いつもより多少大きな声でお願い事を唱えた。
「こんにちは。私、○○県○○村、一‐三‐一三に住む、菅名明と申します。この度、この社殿をお見掛けし、ご参拝させていただきました。近くに住むものでありながら、本日までご参拝いたしませんでしたこと、誠に申し訳ございません。さて、私事で恐縮ですが、私は来年の一月、二月に大学受験を控えております。日々合格に向け精進して参りますので、お力添えのほど、どうかよろしくお願いいたします」
唱え終わったところで、礼を解いて頭を上げる。僕は最後の一礼で頭を下げたままにしておいて、お辞儀をしながらお願いを唱えるようにしている。あくまで自己流だけれど。そうして、改めて社殿を見た。確かに貧相だけれども、その貧相さを醸し出しているぼろさはつまり歴史があるということにもなる。こんな、田んぼのど真ん中で、しかもたどり着くまでの道も悪路という環境で、この神様は今までどんな歴史を見守ってきたのだろう。あまり訪れる人もなさそうに見える。けれどそれはつまり、僕だけの神様になってくれるということかもしれない。去年の年末に東京に行ったとき、湯島天神でも受験合格のお願い事をしてきたけれど、ものすごい人の中で、はたして僕の声は神様にちゃんと届いたのだろうか。もちろん湯島天神を疑うわけではないけれど、この、今まで僕の日常の近くに隠れていた、貧相だけれど素敵な神様は、実はものすごい年季の入った、とんでもない神様かもしれない。たとえそうでなくとも、こんな辺鄙な場所で、じっとこの地を守り続けた神様の姿勢は、僕の受験の強い支えになってくれるに違いない。僕は別に神頼みはしない。願いを聞いてもらうことと、願いをかなえてもらうことは別だし、神様は支えになってはくれても、すべてを変えるほどの力を僕にくれるものではないと、僕は思っている。けれど、それでいい。そばに寄り添って、僕の受験を見守ってくれる、そんな神様を僕は必要としていた。
鳥居を再びくぐって自転車のスタンドを上げながら、僕はよし、と心に決めた。今日から毎日、ここを訪れよう。お百度参りだ。毎日ここに来れば、神様も僕を覚えてくれるかもしれない。毎日気持ちを切り替える、いい習慣にもなりそうだし。
こうして僕のお百度参りが、ここにめでたくスタートしたのだった。
* * *
正直、初めて彼が来たときはそれほど心に留めていませんでした。時々いるんですよ。神社マニアっていうんですか?わざわざ辺鄙なところの名もない神社訪ねて、お参りする人がね。まあそういう人は割と中年男性が多いんですけどね。
あの日はそうだな、確か、彼が来たときは足の爪切ってましたね。あたしゃ巻き爪なんで、親指の爪を切るのが難しいんですよ。けど、爪の形をちゃんと残したまま切りたいこだわりってあるじゃないですか。程よく伸びた爪をきれいに切り取って、おー、いい形、ってなるやつ。ちょうど右足の親指に取り掛かってた時、鈴が鳴ったんですよ。正直イラッとしましたね。なんでこんな辺鄙な神社に、このタイミングで来るんだよって思ってね。けど、一応仕事なんで、切りかけの爪そのままにして、祈願台帳取りに行きました。こういうところに来る神社マニアって、割としっかり作法知ってるんで、ちゃんとお願い事言うんですよね。ですから、祈願台帳は必須なんです。まあそうは言っても、年に多くて五件来るか来ないかくらいなんですけどね。
墨をすりつつ格子の隙間から覗いてみるとね、若い子だったんです。まあ、女の子ならもっとよかったんですけど、男の子でした。一七、八くらいのね。おー、若いなー、珍しいなーって思ってたら、しっかりと二礼二拍手一礼するんですよね。最近の日本ってちゃんと神社での礼儀作法の教育がなってるんですね。あたしゃ驚いちまいましたよ。え?わりと珍しい?へー、そうなんですね、じゃあ彼その時からわりとすごい子だったんですね。
で、まあ、お願い事を声に出して言うんで、しっかりと祈願台帳に書いておきました。びっくりしたことに、ちゃんと住所言うんですよね。最近、お願い事の住所言わないことにつけ込んで、あて先不在にしてちゃんと祈願に応えてあげない神も多いじゃないですか。この子ならそういった悪神も逃げられないなー、とか思いながらまあ書いたんですけど。どうやら受験生みたいで、合格祈願だったんですけど、まあその時点であたしゃ、あー、ごめんねーって感じですよね。何せあたしゃ道祖神なんでね。交通安全とか、家内安全とか、ぎりぎり縁結びまでなら力になれないこともないんですけど、合格祈願となるとねー。専門外なんで、祈願台帳に大きく最後に「不可」って書きました。今思うと縁起悪かったですね。けどまあ、彼の鞄に湯島天神のお守りがついてて、ちょっとではありましたがちゃんと神気を発してたんで、専門は専門に任せるよーって感じでしたねぇ。祈願台帳もしっかり書いたんで、すぐにまた親指の爪に取り掛かって、すぐにその子のことは忘れちゃいました。
けど、それで終わりじゃなかったんです。驚いたのは次の日ですよ。朝の六時くらいに、鈴が鳴ったんです。あたしゃたまげましたよ。そんな時間に鈴が鳴るのなんて、あたしゃがこの社殿に移ってから初めてのことだったんですから。前の日は夜遅くまで鍵坊とゲームやってたんでもう眠くてね。え?鍵坊ですか?後で紹介しますからちょっと待ってください。
まあそれで、眠い目をこすりながら布団から出つつ、だんだんとムカムカ腹が立ってきました。なんだって神であるあたしゃが、こんな朝早く起きなきゃいけないんだってね。こりゃ、天罰の一つでも当ててやらにゃならぬと思って、勇み足で格子から外を覗きました。そしたら再びぶったまげましたよ。誰かと思えば、昨日来たあの男の子じゃないですか。学校の制服着てたんで、ああ、これから学校行くんだなぁと思ってたら、また昨日と同じように二礼二拍手一礼をやりだしたんで、慌てて祈願台帳を探しました。
「おはようございます。朝早くに申し訳ありません。私、昨日もお邪魔いたしました、○○県○○村、一‐三‐一三の菅名明です。本日から受験日まで、毎日通わせていただきたく、今日はご参拝させていただきました。まことに勝手で、自分で決めたルールではありますが、お力添えを賜りたいとこちらで申しておきながらこちらから誠意を見せないのはよくないと思い、こうして決めた次第です。今日からよろしくお願いします。では、行ってきます」
彼はそう言って笑みを浮かべると、颯爽と学校に向かって歩いていきました。一方こっちは手に持ってた筆を落として、もう、がっくりと膝をつきました。だって、毎日ですよ、毎日!今日から毎日?この時間?冗談じゃないと思いました。毎朝こんな時間に叩き起こされてたら、いくらあたしゃが神とはいえ体壊しちまいますよ。これは早く、あたしゃが学問関連では全く御利益のない神であるということをわからせる必要があると思いました。それに、祈願台帳だって、一番小さい二〇行書けるやつしか持ってないんですよ。毎日彼の祈願を聞いてたら、いったい何冊必要なんだ、この県の一宮に行って早く申請しなきゃと慌てているうちに、はたと気づいてすべての動きをやめました。
思い出したのは、去年の一〇月、年に一度の出雲会議に出たときに話に上がっていた、最近の若者は熱しやすく冷めやすいという話です。あの時はいずれ日本を背負う若者がそんなんじゃだめだと大国主さんがつば飛ばして激論を広げてたんですが、今のあたしゃにとってはまさに救いのような情報でした。どうせ彼も、あたしゃからにじみ出ていた神気にあてられて、ちょっと信心深くなってるだけだ。どうせ三日もすれば来なくなるだろうと、急にすーっと気が楽になりましてね。さっきまで慌ててた自分に笑っちゃいましたよ。仕方ないから三日くらい我慢しようと思って、いそいそとまだ温かい布団に戻って寝ちまいました。
けれど、その時の自分がいかに彼を見くびっていたかを、あたしゃ身をもって学ぶことになりました。次の日は、来る半分、来ない半分で覚悟してたんですが、まあやっぱり来ましたね。来るとわかってても、やっぱり朝早いのはきついですね。彼の威勢のいい拍手を聞きながら、あたしゃのそのそと布団から出て、しぶしぶ墨を擦りましたよ。え?無視は考えなかったのかですって?馬鹿言っちゃいけませんよ。あたしゃ腐っても神ですよ。願いを聴いてもらうために来た人間を無碍にするほど堕ちちゃいませんや。――なんて、かっこよく言いたかったんですけど、実際のところ、あたしゃの分霊元である、タムケノカミさんが怖かったんです……。塞の神とも呼ばれてますけどね。
ほら、一昨年の、九月ごろでしたっけ。山奥の土地を管理してた日吉神社の分霊神が更迭される事件あったじゃないですか。山の管理をさぼってたせいで、神気で抑えられたはずの山崩れを起こしちゃったやつ。幸い人的被害はなかったんですけど、分霊元の大山さんがもうカンカンだったらしくて。更迭された分霊神はどうなっちゃったんですかね。更迭されて、神格を剥奪されたらあたしゃらはもうただのコダマになっちまいますからね。森羅万象に宿って八百万を支えてるんで、まあ立派なんですけど、流石にあのブラック環境に身を置きたくはないですよ。だからまあ、道祖神の方でも締め付けというか、引き締めが強くなっていましてね。ヘタな不正はできなくなってたんです。
それでまあ、彼の話に戻りますと、次の日も来る。その次も来る。最初の日から一週間経っても彼はしっかりと来たので、さすがにあたしゃは焦りました。もしかしたら、彼は最近話題になっている熱しやすく冷めやすい若者ではないのかもしれない。もっと信心深くて、まじめで、とてもあたしゃの手に負えるような子じゃないのかもしれないとわかり始めたんです。
さてどうするかというかということですよ。最初に思ったのは、やはりあたしゃが道祖神で、学問のご利益なんてこれっぽっちもないってわからせることです。けれど、あたしゃ戦争のころに場所を移されたせいで、道祖神のうち境界を管理する機能が少しおかしくなってですね、道祖神としての神気をうまく出せなくなっちゃってたんですよ。だから、神気をピピっと、例えばこの神社の土地を管理している人間に放って、道祖神であることを示す額とか、そういったものをこしらえさせるのは不可能に近かったですね。それに、毎日の祈願を聞いているうちに、彼は別にあたしゃが学問にご利益あると思って毎日通っているわけでもないということもわかってきました。彼は自分に寄り添ってくれる何かを必要としているみたいだったんです。
けどまあ、そんなの別にあたしゃじゃなくてもいいわけです。むしろ田舎の道祖神なんてダメダメじゃないですか。それよりもっと、親とか、学校の先生とか、直接会える人の方がいいに決まってます。なので、あたしゃ来る日も来る日も腕組んで考えました。大好きな競狛犬のラジオ中継もやめにして考えました。まあ聞くだけ聞いてたんですけど。やめられないですよね。競狛犬。まあ最近犬券は買ってないんですけど。
そんなときですよ!あたしゃの古い友人である疫病神が遊びに来たのは。――え?あなたが呼んだんじゃないかって?いやいや、そんなことするわけないじゃないですか。やめてくださいよ、神聞きの悪い。けれど一応ですけど、疫病神本人にそのこと聞くのはやめてくださいね。
* * *
その日、違和感を覚えだしたのはクラスメイトと昼食を食べている時だった。購買で買った紙パックの牛乳を飲んだ時に、ぴりぴりと喉がひりつく感覚があった。腐っているのかと賞味期限を一応確認したけれど、しっかり期限内のものだ。それに、同じものを買った級友は何の違和感もなさそうにストローをすすっている。首をかしげながら、その時は深く考えず空になった紙パックをつぶした。
その違和感の原因が牛乳ではなく自分の方にあったと気づくまでに、それほど時間はかからなかった。昼休み終わりの五限、現代文の授業の時にはつばを飲み込むと喉が激しく痛むほどになり、次の数学の時には体中の節々が痛くなって全身を重い倦怠感が覆っていた。なんとか授業に集中しようとしても意識の糸はまとまらず、はらはらと零れ落ちていってしまう。先生が何を言っているのかよくわからなくて、板書されていることをノートに写すのがこんなに大変だとは思ってもみなかった。
授業が終わって先生が教室から去ると、生徒たちはだるそうに席から立ちあがり始めた。部活動が盛んなこの高校では、部活の時間をより多く確保するために終わりのホームルームというものが存在しない。特に僕たち高三生にとっては高校時代最後の大会が控えているとあって、みな早々(はやばや)と支度を進めていく。
「うおっ、菅名大丈夫か?すげー顔色悪いぜ」
前の席の佐藤はこちらを振り向くなりそう言った。
「ああ、うん、ちょっと、風邪みたい……」
発せられた声は、自分でも驚くぐらいがらがらにかすれていた。喉に走る激痛に、思わず口をつぐむ。
「どうしたー、佐藤」
「菅名が風邪みたいなんだよ。すげー顔色悪い」
「えー、ちょっとやめてよ。大会近いんだから、うつさないでよね」
「やっぱ優等生さまは夜遅くまで勉強してるから、体壊すのかねぇ」
それぞれが勝手なことを口にするが、頭がぼんやりしてうまく理解できなかった。早く家に帰って薬を飲んで安静にして寝て明日に持ち越さないようにしないと。そんなことがまとまりもなくぐるぐると頭の中を回っている。
「小山せんぱーい。今日基礎トレは中外どっちですか――って先輩大丈夫ですか!」
うつむいた視界の端に、こちらに駆け寄ってくる小柄な姿が映る。
「おっそうだ鮮花、お前こいつと家近いんだろ。送ってってやれよ」
「えっ……、まあ、いいですけど……」
「いや……、大丈夫だよ。……ひとりで帰れるから」
顔を上げると、思った通り鮮花の心配そうな顔と、にやにや笑うテニス部部長小山の顔が目の前にあった。鮮花は僕の顔を覗き込むと、おもむろにその小さな手を額に当てた。鮮花の手は冷たくて、ほてった額にとても心地がいい。
「熱っ!めちゃめちゃ熱あるじゃないですか。全然大丈夫じゃないですよ!」
大丈夫だからと答えたかったが、正直ぼんやりして返答するのも億劫だった。
「だからお前が送ってやれって。仕事はほかの人に任せるから」
確実に親切心だけではない声色を含ませた小山の顔を、鮮花はちらりと見た。
「わかりました。鞄持ってくるんでちょっと待っててください」
振り返って勢いよく教室を出ていき、鮮花はすぐに自分のスクールバックを担いで戻ってきた。僕のスクールバックも肩にかけ、空いた左手で僕の右手をつかむ。
「ほら、先輩立って。私につかまっていいですから」
教室中の好奇の眼を物ともせず、鮮花は僕を立たせて教室の外に引っ張っていった。学校の外に出て冷たい外気を浴びると、ほてった頭も少し冷静になってくる。懸命に僕を支えようとする鮮花に僕の方からも体のバランスを合わせて楽にしてやりながら、僕はぽつりと呟いた。
「ごめんな、鮮花」
「何言ってんですか。病人は遠慮しないで周りを頼ればいいんですよ」
鮮花は僕と同じ地区に住む一つ下の女の子で、幼馴染といっていい存在だった。小中高とずっと一緒で、中学の頃は僕の入っていたテニス部でマネージャーを務めていた。僕は家庭の事情があって途中で部活を辞めてしまったのだけれど、その時は家の手伝いによく来てくれた。僕は高校では部活には入らなかったが、鮮花は高校に入ってからもテニス部のマネージャーを続け、それに今でも時々僕の家の手伝いをしてくれる。彼女は僕を支えてくれるけれど、僕は彼女に支えられてばかりだ。
黄昏が近づく田んぼ道を歩く。僕は何度ももう大丈夫だから部活に戻れと言ったのだけれど、結局鮮花は僕の家までついてきてくれた。
家の引き戸を開けると、奥の方からどたどたと足音が近づいてくる。
「兄ちゃん、おかえりー!」
「おわー!鮮花姉ちゃんもいるー!」
小二の弟の訓と、小一の妹の南がキンキンわめきながら飛び出してきた。
「おおー、おチビさんたち、元気してたかい?」
「「元気だよー!」」
鮮花と弟妹たちは、もうすっかり顔なじみだ。というか近年の鮮花は、なつき度の点において兄の座を脅かしつつある。
「鮮花姉ちゃん、今日は家に上がってくのー?」
明らかに上がってほしそうな、甘えた声を弟が出した。無理もない。大会が近いこともあって、鮮花はここ一か月くらい弟妹たちと会っていない。けれど、その声をきいて僕ははっとなった。すでに鮮花にはここまで多くの迷惑をかけている。これに加えて、子供の相手なんて面倒なことをやらせるわけにはいかない。
「残念だけれど、鮮花姉ちゃんは部活を抜けて今来てくれてるんだ。だから、すぐに戻らなくちゃいけないんだよ」
僕の異常なかすれ声に、弟は目をまんまるくして驚いていたが、それよりも鮮花が残れないことの方がショックだったらしい。すぐにその顔はしょぼしょぼと萎んでしまった。
「いや、今更戻ってももうろくに仕事できないですから。それに、先輩のお母さん今日何時に帰ってくるんですか」
「九時くらい、かな……」
「じゃあ、この子たちの夕ご飯、誰が作るんですか」
「それは、僕が……」
「先輩。寝言は寝てから言ってくださいね。そんな体で作れるわけないでしょう。材料はあるんですよね。私が作りますから、先輩は寝ててください。お邪魔しまーす」
有無を言わせず、鮮花は靴を脱いですたすたと家の中に入って行ってしまった。もちろん取り巻きも歓声を上げながら彼女についていく。病人は一人、玄関に残された。
「先輩、今日はこの中華春雨でいいんですか?人参と豚肉、使っちゃいますねー」
「僕も手伝うー!」
「あたしもー!」
「おうおうそうかい、じゃあ二人には人参の皮むきをお願いしようかなー」
ガラス戸を隔てて、隣の台所の喧騒が聞こえてくる。どうせこの声ではろくな返事はできないから、僕はもう鮮花にすべてを任せることにした。このお礼は、後日しっかりとしなければならない。
変な味のする粉薬を飲んでしまうと、ぼんやりとした意識は、次第にとろんとした眠気に変わっていった。うつらうつらしていると、いつの間にか布団の横に鮮花が座っていた。知らないうちに僕の部屋は暗くなっていて、鮮花の横顔が背後のガラス戸から漏れる明かりで照らされている。
「先輩、私そろそろ帰りますね。お粥作ったんで、後で食べてください」
さっきまで喧騒を聞いていたはずなのに、鮮花はもう帰ると言っている。時間感覚が狂っているようで、頭の整理ができなかった。
「ああ、悪い鮮花。僕、寝てたのか。……今、何時?」
「いや、病人が寝るのは当たり前ですから。今八時半ですよ。二人と一緒に、私もご飯いただいちゃいました。先輩の分ですね。あ、あと電話も借りました。遅くなるって家に連絡したくて。本当なら先輩のお母さんにも一言ご挨拶したかったんですけど、さすがに帰ってきて早々私のお相手していただくのは申し訳ないので、ここいらで失礼しますね」
「ああ、本当に助かった。このお礼は、いつか必ずするから」
「いや、貸し借りの感覚やめてくださいよ。病人にそういうこと言われると私がなんか悪いことしているみたいじゃないですか」
「いや、そういうわけじゃないけど……」
「はいはい、わかりましたから病人はおとなしく寝てくださいね。また明日、先輩が元気になってたら学校で会いましょう」
「うん」
鮮花は立ち上がり、部屋から出ていった。やかましい二人の声が、鮮花を追って玄関へと遠のいていく。
またぼんやりとした眠気が襲ってきて、母親の声で目が覚めた。いつの間にか帰ってきたようで、ガラス戸を通して少しだけ影が見える。誰かに電話をかけているようで、しきりにありがとうございます、とか、たすかりました、とか言っている。どうやら鮮花の家にかけているようだ。そこで再び、僕の意識は暗転した。
よく風邪をひくと悪夢を見るというけれど、僕もその例にもれず、その夜は悪夢を見た。真っ暗な中で、何かが僕を見下ろしている。暗闇の中で、白いものがぼんやりとふわふわ浮いているのがわかる。目を凝らすと、それは白髪だった。ぼさぼさの白髪、それに長いあごひげ。それらに縁どられた中央には、貧相としか言いようのない顔がくっついていた。乾いてしわしわになった肌。落ちくぼんでぎょろぎょろした目。けれど、僕がそれを怖いと思わなかったのは、その貧相な顔が僕を見て泣いていたからだ。理由はわからない。けれど、その顔はぼろぼろと泣いていた。なんか、僕が申し訳なくなるくらい泣いていて、おまけに鼻水まで垂らしていた。何とかして話しかけたかったのだけれど、夢の中の僕はついに言葉を発することができなかった。
目を開けると、部屋は薄闇に包まれていた。夜は明けたけれど、まだ日は出ていない。そんな時間だろう。口の中が完全に乾ききっていて、舌で口蓋を触ってもうまく唾が出てこない。何とか一度飲み込もうとして、激痛におもわず顔をしかめた。薬を飲んで寝たというのに、これっぽっちもよくなっていない。そう考えるうちに、頬がぽっぽと熱くなってきた。どうやら熱もまたぶり返してきたみたいだ。
起きていても苦しいだけなのでもう一度眠りに落ちようと思ったが、寝よう寝ようと思うほどに目は冴えてしまった。体を動かすと痛むので、まんじりともせず天井を見上げた。僕の部屋は和室だが、それはもともとこの部屋が客間だったからだ。普段は気にも留めない格子状に板を張られた天井を見上げているうちに、ふと、あの神社の格子窓を思い出した。お百度を誓ったのだから、今日ももちろん参拝に行かねばならない。気持ちは逸るが、一方で神社までのあの田んぼの一本道を想像するとげんなりしてしまう。家から神社まで、自転車で五分ほど。歩いても一五分程度だから普段なら気にも留めないが、今日のこの体調を考えるとかなりの難業になるのは間違いなかった。
うつうつと考えているうちに、隣の部屋で人が起きだす気配がしだした。隣は母さんの部屋だ。昨日も遅かったろうに、母さんは皆の朝食を作るために朝も早い。隣の部屋とつながっている襖があいて、母さんが顔を覗かせた。
「明、起きてるの」
「うん、さっき目が覚めちゃって」
「ひどい声じゃないの。お水いる?」
「うん、欲しいかも……」
母さんは薄いカーディガンをパジャマの上に羽織ると部屋から出ていき、すぐにコップに水を入れて戻ってきた。僕は身を起して差し出されたコップを受け取る。飲み込むたび激痛が走るので、水を飲むのも一苦労だった。口の裏に張り付いて乾いていた唾液が水でもどってしまい、口の中が余計にねばねばする。
「この様子だと、今日は学校休んだ方がいいだろうね。母さん仕事休むから、病院行くよ」
僕は慌てて手を振った。
「いや、大丈夫だから。俺もう高校も三年だし。親に病院連れて行ってもらわなくても自分で何とかするから」
「そうはいっても……」
「大丈夫だから……!」
来年から東京でやっていこうとしている人間が、風邪ごときで親を頼るわけにはいかない。僕は切迫したように取り乱した。冷静に考えれば親を頼ってでも病院に行って早く治した方が迷惑も少ないはずなのだが、熱でぼんやりして頭が回らなくて、僕は異常に切実だった。
「まあそんなに言うなら……。あんまり無理しちゃだめよ」
母さんは心配そうに眉を寄せると、コップを持って出ていった。蛇口から水が流れる音や、ガスコンロをつけるちっちっちっちっという音が聞こえだす。ぼんやりしながらそうした生活雑音を聞いていると、母さんの足音が遠のいていった。家の端の方で何か話声が聞こえ、足音が三人分になって戻ってくる。
「えー、兄ちゃん学校休むのー。じゃあ俺もー!」
「お兄ちゃん、大丈夫?」
訓の駄々をこねる声が響くのと、心配そうな顔をした南がガラス戸を開けて顔を覗かせたのは同時だった。その肩口から、訓もひょっこり顔を覗かせる。
「うん、大丈夫だよ……」
「「いや、全然大丈夫じゃないじゃん」」
「お兄ちゃんはそっとしておいてあげて」
弟妹たちは僕のがらがら声にさすがにやばいと思ったのか、そろそろとガラス戸を閉めてしまった。そうして、朝の情報番組の音や朝食の皿が触れ合うカチャカチャという音を聞いているうちに、母さんが再びガラス戸を開けた。手に持ったお盆からは真っ白な湯気が立ち上っている。
「卵がゆ作ったから。いい時食べなね」
「ありがとう……」
「じゃあ、あたしたちそろそろ行くから。何かあったら電話して」
「兄ちゃん、行ってくるよー!」
「行ってきまーす!」
「はい、いってらっしゃい」
今朝最後の喧騒が遠のき、玄関ががちゃりと閉まる音を最後に家中から音が消えた。僕も布団の中でまんじりともせず、家の中を包む無音の一部になろうとした。
「先輩、起きてるんですか」
家の中の静寂を破ったのは、そんな一声だった。無音の一部と化していた僕は再び実体を取り戻し、思わずわっと声を上げてしまう。
「うわっ、先輩、寝ぼけてるんですか。てかもしかして、目開けたまま寝てました?」
視線を布団の横にやると、なぜか鮮花が座っていた。
「え、なんで鮮花が居るんだ」
「失礼ですね、せっかく様子を見に来てあげたっていうのに。久しぶりにポストのカギ、使っちゃいました」
僕の家の郵便ポストはダイヤルロック式で、その中に裏口のカギが入っている。かぎっ子の訓と南のための処置なのだけれど、家のことを手伝ってくれる鮮花にもロックの番号は教えていた。
「ああ、そうか……。ってか、学校はどうしたんだ」
「終わりましたよ。もう三時半ですもん。今日は水曜の短縮ですからね」
「もう三時半なのか……」
大会に向けて、高校ではいま水曜は五限まで、それも四五分の短縮授業となっている。部活に精を出す生徒はそれでいいだろうが、受験を控えている身としてはたまったものではない処置だった。
「じゃあ今日も、部活休んでくれたのか……」
「ええ、まあ。なんか小山先輩がごちゃごちゃうるさかったので、お言葉に甘えてきました。最近なんかウザさ倍増してて、正直嫌なんですよね……」
「まあ大会近くて気が張ってるんだろ。……けど、絡まれるなら僕のとこには来なかったほうがよかったんじゃないか……」
鮮花は答えなかった。気まずい沈黙が流れる。どう考えてもこちらが悪いのでかける言葉を探したが、先にきっかけを作ったのは鮮花だった。
「先輩、ご飯食べてないんですか」
そう言って、僕の枕元に置いてあったお椀をとる。朝には盛んに湯気を立てていたお粥が、完全に冷め切ってしまっていた。
「ああ、うん、ずっと寝てたから……」
「栄養とらないで寝てても意味ないじゃないですか。先輩、勉強はできますけど、さては馬鹿ですか」
「うっ、返す言葉もありません……」
「ちょっと待っててください、いま温めなおしますから」
お椀を持って、鮮花は台所に消えた。ガスコンロのつく音や雪平鍋の立てるクワンという音が奏でられて、しばらくすると鮮花は湯気の立つお粥を手にして戻ってきた。
「はいどうぞ。お米がかなり水吸っちゃってたんで、水足したりして調整したんですけど、味薄くないですか」
鮮花はお粥に梅干しを加えてくれていた。粉薬を飲んだりしたせいでべとべとで不快だった口の中に、梅干しのさわやかな酸味が広がる。一口飲みこむと、途端に空腹感がせりあがってきた。空っぽだった胃が、今初めてそのことに気がついたようだ。
「うん、めちゃくちゃおいしい。特にこの梅干しが」
「それはよかったです。私もお粥に梅干し入れるの好きなんですよね」
わりと大きめのお椀に入っていたお粥は、すぐに空になってしまった。鮮花はお代わりを作ろうかと言ってくれたが、丁重に断った。程よい満足感が腹を満たしている。鮮花はお粥の皿を下げると、ほうじ茶を入れてくれた。正直お粥で少し体が熱いので冷たい飲みものの方がよかったのだが、鮮花に熱いものを飲んで汗をかいた方がいいと言われては素直に聞くしかない。
二人とも黙って、ずずりとお茶をすする。ふと、鮮花がポツリと呟いた。
「……先輩はやっぱり、東京に行かれるんですか」
「……うん、東京の大学に入って、東京のいろんなものを見てみたいと思ってる。完全に我儘なんだけど、ここじゃない場所に住んでみたいんだ。……まあ、家がこんなだし、高卒で働くことも考えたんだけど、母さんは遠慮するなって背中を押してくれてさ。長い目で見たら、その方がうちも助かるってね」
「先輩のお母さん、さすがですね」
「女手一つで、ほんと頭が上がらないよ。けど、鮮花だって手伝ってくれるじゃないか。ほんと助かってるよ」
「私はいいんですよ。好きでやってるんですから。弟さんと妹さんもかわいいですしね」
「もう少しやんちゃを抑えてくれると、受験生としては助かるんだけどね」
二人で笑いあう。鮮花が初めて家を手伝いに来てくれたのは中二の時だった。父さんが死んで家が大変なことになって、その時に来てくれたのが鮮花の母さんと鮮花だった。僕たちの母さんは、小学校の時からの親友だったらしい。彼らのおかげで家は何とか持ち直して、けどそれからも、鮮花はこうして時々家に来てくれている。
ふと、何の脈絡もないのに、鮮花にもあの神社を見せてあげたいという気持ちがぽっかりと浮かび上がった。けれど、鮮花にこんなに世話になっておいて、その上あんな辺鄙な神社を見せることに何の意味があるというのだろう。そもそも僕は病人だから、連れていくどころかその手伝いをさせてしまうことになる。そんなことを考えているうちに、言葉は勝手に口から転がり出ていた。
「――鮮花、実は一緒に行きたいところがあるんだ」
「えっ、急にどうしたんですか」
「うん……近くにある神社なんだけど、実は受験に向けてお百度参りすることに決めてて……でも今日まだ行ってなくて。……あ、けど鮮花に介助してもらおうとかそういうことじゃなくて、なんか鮮花に見せたいっていうか」
「なんだ……デートのお誘いかと思ったら神社ですか。ドキドキを返してくださいよ……」
明らかに落胆した鮮花の様子に、僕は慌てた。しかし、鮮花は急に噴きだした。
「あはっ、お百度参りって、先輩、江戸時代じゃないんですから。あはは、先輩って不思議ちゃんですよね」
「いや、男だからちゃんはないだろ」
「いや、突っ込むのそこじゃないですから」
鮮花は腹を抱えてひとしきり笑うと、涙をぬぐいながら立ち上がった。
「まあ仕方ないから行ってあげますよ。先輩は病人なんですから、あったかい恰好しなきゃだめですよ」
スウェットの上からマウンテンパーカーを羽織って、鮮花とともに家を出る。時刻は四時を少し過ぎたところで、青空は地平線の先から徐々に茜色に染まり始めていた。田んぼの上に一定の間隔で立っている、まるで巨人のような送電塔の黒々とした影を見ながら、二人並んで歩みを進める。二〇分ほど歩くと、田んぼの真ん中にぽつんと目的地が現れた。
「ほら、あれだよ」
「うへー、あんなところに神社なんてあったんですね」
問題の悪路に差し掛かる。僕は鮮花がローファーを履いていることを完全に失念していて、何度も謝りながら歩きやすい場所に彼女を導いた。
「うわっ、まあ予想してましたけれど、予想通り、いや、それ以上のぼろさですね」
鮮花は鳥居を見上げながら、しみじみと呟いた。
「でしょ。なんか風格があるよね」
「いや、風格っていえるほど立派なものじゃないと思うんですけど……。そもそも何の神様なんですか」
「それが、わかんないんだよね」
「ええー、じゃあ絶対貧乏神ですよ。受験のご利益どころか、厄もらっちゃいますよこれは」
「いや、神様の前で失礼だから」
ぶつくさ言いながら、けれど鮮花はしっかりとお賽銭を入れた。僕もお賽銭を入れ、鈴を鳴らし、二人で礼と拍手を行う。今日は鮮花が居るので、お祈りは少し小さめの声にした。
「こんにちは。菅名明です。本日は来るのが遅くなってしまい、大変申し訳ありませんでした。今日は、後輩の鮮花を連れてきました。僕のことをいつも助けてくれる、大切な後輩です。彼女に恩返しができるよう、これからも受験勉強に励んでいきますので、どうかお力添えのほど、よろしくお願いいたします」
僕が顔を上げると、鮮花が不思議そうに僕の方を見ていた。
「先輩、一人で何ぶつぶつ言ってるんですか」
「いや、神様に今日どうして来たかとか報告してるんだよ。口に出さないと神様に伝わらないからね」
「お願いを、口で言う。……いや流石というか、不思議くん度マックスですね」
「いや、割と知られてないけど、声出すのが正式だったりするんだよ」
「いや、ですから突っ込むのそこじゃないですから」
くるりと振り返って鳥居の方に戻りながら、しかしその途中で鮮花は立ち止った。
「けど、先輩がそんなにしっかりとお祈りを毎日してるなら、この風邪を治してくれるご利益ぐらいあってもいいですよね……」
ぽつりと呟いた言葉は、独り言なのか、返答を期待したものなのかわからない。とりあえず応えようと思って口を開くと、ふと、そよ風が喉を通り抜けたような感覚があった。不思議に思って唾を飲み込むと、さっきより痛みが小さいような、気がする。
「なんか、治ってきたかもしれない」
「え、さすがにそれは嘘でしょ先輩。感化されすぎですって」
「いや、けどほら、さっきよりつば飲み込んでも痛くない」
「はいはーい、馬鹿な事言ってないで家帰りますよー」
しきりにつばを飲み込んだり喉を触ったりしている僕を置いて、鮮花は鳥居をくぐってしまった。僕も後に続こうとして、ふと、視線を感じた。振り返ると、神社の格子戸に白くてふわふわしたものがあるように見えて、けれど目を凝らすと何もなかった。
「先輩、何してるんですか」
「いや、何でもない」
多分見間違えだと思う。けれど、僕は今朝見た夢を思い出していた。僕を見下ろして、ぼろぼろと涙を流していたしわくちゃの顔。あれは何だったのだろう。そんなことを考えながら、僕らは家路についた。
* * *
いや、もう、あたしゃ感動しちゃって、涙が止まらなかったですよ。あたしゃの周りにはこんな立派な人間がいるんだなぁ、って感無量でしたね。いや、こうして話している今も鼻水ずびずびなんですけど。だって泣けるじゃないですか、ねえ。え?話が飛びすぎですか。そうですか。えっと、どこまで話したんでしたっけ。
ああ、そう、あたしの古い友人の疫病神が遊びに来たっていうところからですね。そう、あたしゃのところに疫病神が遊びに来たんですよ。彼との関係は長くてね。最初の出会いは、それこそあたしゃがまだ人界の勤務初めて五〇年経つか経たないかくらいな時だったと思います。うちの村の近くで流行り病が起こって、それで来たんですよね。
いまだに勘違いされてる神の方も多いんですけど、疫病神って別に病気を広げる神じゃないんですよ。そりゃあ、少しは病気も運びますけどね。そうじゃなくて、彼らの一番重要な仕事は、やられ役になることなんですよね。そこで流行している病気に疫病神が自らの神体を使って形を与えて、自らが退治されることでその流行を鎮める。そういうことをやる、すごい有難い神様なんですよ、疫病神って。
まあそれで、そんな疫病神の四百年来の友達が遊びに来たわけですよ。かつては疱瘡の流行を抑えるのが彼らの主な仕事だったんですけど、近現代になって疱瘡が駆逐されると、主に鎮める対象が流行り風邪に移りましてね、つまりインフルエンザですね。だいたい一一月から次の年の三月くらいまではすごく忙しくしてるんですけど、五月はあんまり仕事もないのでうちに酒飲みに来たんですよ。そしたらあいつ来て早々ぶったまげましてね。どうしたのかって聞いたら、ただでさえ落ちくぼんでいるあたしゃの眼がさらに落ちくぼんで、おまけにクマもひどいっていうんですよ。あたしゃ、こりゃしめたと思いましたね。まあこいつが来るってわかった時から、どっか適当なところで最近来るあの子の話を出して、何とか同情を買って助けてもらおうとは思ってたんですよ。それが、向こうからその話題に乗っかってくれたわけですからね。
あたしゃ、さっそく声のトーンを落とすと、彼が来ることで最近どれほど朝が大変で、神が一日しっかりとした神事を行う上で不可欠な睡眠が削られているかを滔々(とうとう)と語りましたよ。時々袖を涙で濡らしたりなんてしながらね。我ながら迫真の演技でね、こりゃいけたなと思いましたよ。
けれど、涙声で語り終えて、袖の隙間からあいつの顔を覗き込んでみると、満面の笑みじゃないですか。それどころか、よかったなぁ、とか言いながらあたしゃの背中をばしばし叩くんですよ。訳が分からなくてぽかんとしてると、そいつは腕を組んでうんうん頷きながらこんなことを言うんです。
「よかったじゃあないか、タムケ座衛門よ。俺は常々、お前が道祖神塚を動かされてから、ろくに仕事もできてないんじゃないかと心配していたんだ。いやー、よかった。これからは、お前も毎日きちんと仕事ができるじゃないか。確かに朝早いのは辛いかもしれないが、慣れればなんということもない。むしろ早起きに慣れると、一日が充実して感じられるものだぞう。なんたって、神は働いてこそなんぼだからなぁ。いやー、それにしても、この信仰心が廃れていく時代に、まだそんな信心深い若者がいたなんてなぁ。俺ぁ感動しちまったよ」
こんなことを言いながら、厳めしい顔をぶっとい腕でわしわし拭ってるんですよ。これは涙じゃねえ、汗だとか、こっちが聞いてもないのにほざきやがってですね。冗談じゃないですよ。なんでこの熊みたいな神は一人で悦に浸ってるんだと思いましたよ。そして、あたしゃふと思い出しました。
こいつは、生粋の仕事好きだったんですよ。今でいうワーカホリックってやつですね。さっき言った通り、疫病神は一一月から三月が仕事のピークで、一日の仕事量が半端じゃないんですよ。それこそ日本全国飛び回って、あっちでやられてはこっちでやられて、ということをずっと繰り返すんです。もう正気じゃないですよね。それをこいつは嬉々としてやるんです。だんだん、いかに美しく、いかに病が後に残らないように退治されるか、みたいなことまで研究しだしてですね。もう変態ですよね。その話を聞いたときは、まああたしゃには関係なかったんで、多分鼻でもほじりながら適当に聞いていたんですが、その時のあいつの熱弁が耳に蘇ってくるようでした。
あたしゃ頭抱えました。味方に引き入れるはずが、実は最大の敵だったんです。こいつを引き入れるのはもう無理だってわかったんで、もうあたしゃ仏頂面で酒飲むしかなかったです。あいつが一人上機嫌で、しきりによかったなあ、よかったなあ、と言いながら酒飲んでるのに無性に腹が立ちました。もうこの社殿からたたき出してやろうかと思いましたよ。
けれど、それからしばらくして、こいつが熊みたいな巨体を転がしてがーがー寝てるのを見て、あたしゃ思いついちゃったんですよ。こいつ自体は、このイカれた性格のせいであたしゃにとっちゃまさに疫病神そのものでしかない。けれど、こいつの神としての性質自体は使えるってね。あたしゃ、自分が考えた天才的な発想に一人うひうひ笑いながら、爆睡している熊を転がしてうつぶせにして、脂ぎっているうなじをいやいやながら爪で擦りました。そして、思った通り採れたんです。あたしゃを救う魔法の粉、そう、疫病神のフケです。
えっ、ちょっと、なんでゴミを見るような目でこっちを見るんですか。やめてくださいよ。こっちだって必死だったんですよ。これからの安眠がかかってるんですから、手段は選んでいられなかったんです。まあ、なんでフケなんか採るんだってわからない人もいるかもしれないので、一応説明しておくとですね。さっき、疫病神も少しは病気を運ぶって言ったじゃないですか。それが、疫病神の身体から出るフケ、まあフケだけじゃなくて、老廃物全般によるものなんです。
疫病神は、流行している病気を自身の神体に投影して鎮める関係で、どうしても体の中に病気を取り込んでしまうんですよね。大抵はやられ役として退治されたときに消えてしまうんですが、少量が神体の中に残って、老廃物として体外に排出されるんですよ。まあ神気を発している神にとってはただの汚いヨゴレですし、ほとんど無毒化されているので人間にとってもそんなに害はないんですが。
だから、あたしゃが考えたのは、このフケをあの子にちょっとつけてやって、まあ微熱にでもかかってもらおうかってことだったんです。ご利益があるはずのお百度参りで微熱にかかったとあっちゃ、あの子もあたしゃがご利益のある神じゃなくてそれこそ疫病神なんじゃないかって考えると思ったんです。
ですから、あたしゃ魔法の粉を大事にハナガミに包んで、夜が明けてあの子が来るのを神妙に待ちました。明日からの安眠のための、一世一代の大勝負ですからね。もう正座して、きちんと膝に手を添えて、まんじりともせず待ちましたよ。まあすぐに足がしびれちゃったんで胡坐かいたんですけど。そしてまあ、ようやく空が白み始めました。いよいよだなと思ってると、恐ろしいことが起こったんです。
なんと、がーがー寝てたはずの熊がむっくり起きちゃったんですよ。夜明けとともに起きるとか、本当に野生の熊かと思いました。こっちの驚愕もよそに、そいつはあたしゃが起きていることに気づくとにっこりと笑うじゃないですか。
「おお!タムケ座衛門、俺より早く起きるとはやるではないか!さては昨日の俺の言葉に感化されて、一念発起してやる気になったのだな。いやー、立派だ!タムケ座衛門、俺はかねてから、お前はやればできる神だと思っていたぞ」
一人で納得して、またあたしゃの背中をばしばし叩くんです。もうこっちは内心大慌てですよ。こいつが起きちまったら、こっそりあの子にフケをつけることができないじゃないですか。まずい、これはまずいと思いました。けれど、こんなに朝早く起きたってことは、こいつはすぐ帰るのかもしれないとも思いました。あたしゃ一縷の希望をもって、うちに手水場がないせいで裏の田んぼの用水路で顔を洗ってきた熊の顔を見ました。
「ようし、俺もすっきり気分爽快、完全に目も覚めた!これでしっかりとその立派な信心を持った青年の顔を拝むことができる!」
もう完全アウトでした。こいつはあの子に会う気満々です。どうしよう、ああでもない、こうでもないと、うんうん考えているうちに、だんだん誰かの足音、地面に生える草を踏む音が聞こえてきました。ついに、あの子が来ちゃったんです。
「おお!ちゃんと鳥居の前で頭を下げて、それに参道の横をしっかりと歩いている!なんと出来た子じゃあないか!」
こいつは社殿の格子戸をわっしと掴んで、食い入るようにその子を見つめました。まさに、檻の中の熊でしたよ。あの子はこいつに食われちまうんじゃないかと思いました。こいつの感動を無視して、あたしゃ一人で決意しました。今日ここで、なんとか決行するしかない。明日も早く起こされるなんて、もうあたしゃには限界でした。祈願台帳を取りに行きながら、あたしゃこっそり、本当なら必要のない墨つぼを文机の端に置きました。
鈴が鳴って、いつものようにあの子の祈願が始まりました。あたしゃは祈願台帳を書きながら横目で熊をうかがうと、こいつは腕を組みながら、目をつぶってじっくりと内容を聴いていました。いまなら、とも思いましたが、焦ってはいけません。計画通りに進める方が確実です。そして、彼の祈願が終わりました。熊が腕組を解いて、目を開けたその時です。
ああしまったぁ!墨つぼがぁ!
あたしゃは用意しておいた墨つぼの中身を熊のごっつい足にぶっかけました。うおう、とか言いながら、熊が屈みます。あたしゃは右手に隠し持っていたハナガミの包みを取り出しながら立ち上がりました。格子戸の向こうに、祈願を終えて背を向けるあの子が見えます。その子のうなじめがけて、届けぇ!と願をかけながらフケを吹きかけました。あたしゃの必死の願いを受けたフケは、朝の静謐な空気の中を舞い、そのうちのいくつかが彼の首元に吸い込まれて行きました。成功です!あたしゃガッツポーズしたいくらいでしたが、熊にこのことをばれては元も子もありません。すぐに熊のそばに屈み、さっきまでフケを包んでいたハナガミで墨まみれの足をぬぐいました。
「ははは、どうしたあ、タムケ座衛門。彼のあまりの立派さにあてられて手元が狂ったか」
こいつは、あたしゃの策略のことなんて微塵も疑っちゃいませんでした。のんきなもんです。あたしゃ適当に相槌を打ちながら、こいつの足にぐじょぐじょと墨を擦り付けました。
もうそれからは、気分が高まっちゃって仕方なかったです。今まで灰色に見えていた世界に再び色がついたようでね、世界はこんなに彩りに溢れていたのかって、感動しましたね。あまりに気分がいいので、熊に朝飯をふるまっちゃうくらいでした。
朝食も終えて、熊は帰り支度を始めました。いやー、タムケ座衛門のところに来てよかった。いいものが見られたと、上機嫌で支度を進めていた熊はしかし、羽織を着ると少しだけ神妙な顔をしました。
「しかし、俺はあんなに彼に近づいて大丈夫だったろうか。――いやな、実は去年俺が鎮めた流行り風邪はここ五〇年稀に見る厄介な奴でな、俺も退散に苦労したんだ。だから、多分俺が今持っている病気の残りカスもかなり力を残しているんじゃないかと思ってな」
そうやって、心配そうな顔をこちらに向けるんです。こいつのそんな顔はあたしゃもあまり見たことがなくてね。これは冗談じゃなさそうでした。不安になったあたしゃが口を開こうとすると、けれどこいつはまた、にかっと笑ったんです。
「まあけど、俺もだから毎日念入りに体洗ってるしな。わざと俺の身体から採って、相手の身体に直接吹きかけでもしない限り、病気にはかからんわなぁ。すまんなタムケ座衛門よ。余計な心配だったわい」
そういってあっはっはと笑うんです。あたしゃが内心冷や汗びっしょりなのは言うまでもないですよね。そうしてそいつは、上機嫌に笑いながら帰っていきました。
一人残されたあたしゃは、悶々と考えました。熊の最後の一言が、ずっと頭の中に響いてるんです。フケを採ったときからずっと、あいつは気がついていたんじゃないかって思いました。けれど、そうだったらその時止めに入るはずです。気がつかないふりをする意味がありません。なのであたしゃは、最後の言葉は偶然だったと思うことにしました。せっかく薔薇色神ライフを取り戻したのに、変な偶然で気に病むことはありません。あたしゃは寝っ転がって、大好きな競狛犬新聞を開きました。
けれど、普段は楽しいはずの競狛犬新聞が全然楽しくないんです。内容も全然頭に入ってきませんでした。中継が始まる時間になったのでラジオもつけたんですが、こっちも全然、なにを実況の神がこんなに熱く語っているのか訳が分かりませんでした。
新聞を畳んで、ラジオも切って、あたしゃ腕組んで考えました。なんでこんなに楽しくないんだろうって。そりゃ、あいつにフケのことがばれているかもしれないからだって思ったんですが、実はそうじゃないことに気がつきました。そうじゃなくて、あたしゃあの子が心配だったんです。微熱にかかる程度に考えていたんですが、熊の話だと、あのフケでどんな風邪にかかるものか、分かったものじゃありません。今頃、学校でぶっ倒れてるんじゃないか。そう考えると居てもたっても居られなくなって、いつの間にか社殿から飛び出してました。
けれど、お恥ずかしいことに、彼の名前と住所以外何も知らなかったんです。え、それだけあれば十分じゃないかって?いや……それがですね、あたしゃここ五〇年くらい、自分のいるこの地区の情報を収集するのをサボっちゃってましてね、住所言われてもよくわかんなかったんですよ。だからもう片っ端から、とりあえず学校っぽい建物をしらみ潰しに探しました。最初に入った建物は小学校で、次が村役場でした。もうほんとに、人間ってなんで似たような建物いっぱい立てるんですかね。もう全然違いがわかんなくて。それに、およそ四百年間の引きこもり生活が災いして、ちょっと飛ぶとすぐ息が上がっちゃうんですよ。もうひーひー言いながらあちこち回って、けど見つけたんですよ。高校を!彼と同じ制服を着ていたので、間違いないと思いました。もうあたしゃ意気揚々と三階から中に入って、目を皿のようにして探したんですけど、いっくら探してもいないんですよ。そもそもなぜかわからないんですけど、教室にもうほとんど生徒がいないんですよね。みんな外とかでっかい建物の中とかで運動してて。あの子もなんともないかのようにそこに居るんじゃないかと思ってとりあえず一つ一つ見たんですけど、どこにもいませんでした。一応二回確認して、もうとっくに彼は帰っちゃったんだと思ってむなしく学校を去りました。
もう徒労感ハンパなくてですね。ものすごい久々に社殿から出て滅茶苦茶頑張って探したのに、結局彼は見つからなくてすべてが無駄。もう日も暮れそうでなんかやりきれなくなっちゃって、田んぼを跨ぐように立っている大きな送電塔の上に座ってしょんぼりしちゃいました。はぁー、って大きなため息をついて、何気なく下を見ると、一直線の田んぼ道に人影が二つ見えたんです。一人が抱えるようにもう一人にくっついて、二人の影は夕焼けの中に溶け合ってました。もしや、と思ってすーっと近寄ると、間違いない。彼です。小柄な女の子に支えられて、彼は少しずつこちらに近づいてきました。その顔を見て、あたしゃぶったまげました。人間こんなに青くなれんのかってくらい真っ青なんです。もう白いとか血の気がないとかいうレベルじゃなかったです。慌てて助けようとしたんですが、どうしようもありません。あたしゃおどおどと二人の周りを飛ぶことしかできなくて、彼を支えている女の子の方がよっぽど頼りがいがありそうでした。
二人についていくと山の麓の集落にたどり着き、その中のある平屋建ての建物が彼の家のようでした。彼を出迎えに、小さな男の子と女の子が飛び出してきます。どうやら彼の親はまだ家にいないようでした。あたしゃ、小さな子供だけで留守番をしていた彼の家庭事情が明るいものではないと薄々感じましたよ。思えば、いくら信心深いからって、ただそれだけの理由で毎日お参りに来るもんでしょうか。彼がしきりにお願いする大学受験にも何か関係があるんじゃないかと思って、あたしゃ申し訳ないですが少しこの家の様子を見させてもらうことにしました。
彼を送ってきた女の子と二人の小さな子たちは台所に向かうと、三人で夕食を作り始めました。三人はとても仲が良かったので、みんな兄妹なのかなと思ったんですけど、彼らの話を聞いていると、そうじゃないようです。女の子には血のつながりはないようで、時々こうして家の手伝いに来てるみたいでした。最近、若者ってそういうことするの普通なんですかね?ですよね、やっぱり普通じゃないですよね。あたしゃもその時そう考えて、この子たちは特殊な家庭環境にいるんだと、気が気じゃありませんでした。
一方、病人の彼は台所の隣の部屋で寝ていました。横になったら熱が出たみたいで、汗をかいてうんうん言ってました。あたしゃ何とかしてやりたかったんですが、道祖神なんでなにも出来ないんですよね。病気平癒は全くの専門外なんです。あたしゃがおたおたしていると、隣の台所ではご飯ができたみたいで、三人が食べながら何やら話をしています。あたしゃは寝込む彼の顔色を見ながら、こっそりとその話に聞き耳を立てました。
――二人とも今日は学童にはいかなかったの?
――うん、南が家に帰って二人で遊びたいっていうから。
――だって、最近一樹くん意地悪なんだもん。学童全然面白くないの。
――そっかー、意地悪な男ってやだよねー。あたしも最近ウザいのに絡まれてるんだよ。
――えっ、何、鮮花姉ちゃん、元カレ?
――今の小二は元カレという言葉をすでに習得しているのか……若者おそるべし……
――ふふっ、鮮花お姉ちゃんだって十分若者だよ。……けど、本当は南も、友達のお家とか行って遊びたいんだー。けど、お母さんも明兄ちゃんも大変そうだから、訓兄ちゃんと我儘は言わないようにって決めてるの。
――うーん、君たち、まだ小さいのにませてるなぁ。小さいうちはもっと伸び伸びしてていいと思うんだけど……。
――うん、明兄ちゃんもよくそういうんだ。ごめんな、本当なら年相応にもっと遊びたいよなって。けどだから、兄ちゃん東京の大学入ったらめちゃくちゃ勉強して、バイトもめちゃくちゃ頑張って母さん助けてやるから、それまでちょっとだけ頑張ってくれって言ってくれんだ。
――そっか……そうか、さすが先輩だな……はあー、こーんなにかわいくてしっかりしている先輩一家なのになー、神様はいったいどこでなにしてるんだろうねぇ。
――アハハ、鮮花お姉ちゃん、そのお祈りの仕方わざとらしすぎだよ。
彼らの言葉を聞きながら、あたしゃ正座して肩を震わすことしかできませんでした。もちろん泣いてたんです。もうぼろぼろ。だめだ、この子たちはこんなにしっかりしてるのに、あたしゃは神なんだ。しっかりしろって、膝殴っても全然涙止まらないんです。不甲斐なくて仕方なかったです。無力な自分が恨めしくて仕方なかったです。昨日までのほほんとしていた自分に腹が立って仕方がなかったです。こんなに自分を律して、相手のために自分を犠牲にして、それでも笑っていられる彼らが報われなければ、神なんて嘘だって思いました。
あたしゃは立ち上がると、彼の部屋の窓から静かに外に出ました。向かう先はただ一つです。あたしゃは、昨日までの自分を殺すことを決意しました。
あたしゃは、開口一番、思いっきりぶん殴ってくれと言いました。あたしゃはそれくらいのことをされて当たり前のことをした。だから頼む、ぶん殴ってあたしゃを変えてくれと。あたしゃはそいつの前にうずくまって、額を床に擦りつけました。
正直、立派な啖呵を切っておきながらあたしゃ惨めに震えてました。こいつが本気であたしゃのことをぶん殴ったら、あたしゃのちんけな神体なんて簡単にぶっ壊れてしまうかもしれない。そうしたら、彼らを救うどころじゃありません。けれど、ぶん殴られないとあたしゃは変われないと思いました。だから、ぶん殴られても全力で耐える、それしかありませんでした。
しかしいつまでたっても、鋭い鉄拳も、わき腹をえぐる蹴りも来ませんでした。それどころか、温かい掌が、あたしゃの震える肩を優しく掴んだんです。見上げると、そこには今まで見たこともないような優しい表情を浮かべる熊の顔がありました。
「タムケ座衛門よ。お前ならきっとそうやって、己を恥じて正直に謝りにきてくれるものと信じていたぞ。お前はそれを裏切らなかった。立派だ。だからもう謝罪はよい。土下座もやめてくれ」
けれど、あたしゃは嫌だと食い下がりました。ここで熊の優しさに甘えたら、いつかまた必ず、弱い自分が出てくるに違いありません。そいつは徐々にあたしゃの心を蝕んで、またあの不甲斐ないあたしゃに戻してしまうんです。ここで昨日までの自分と完全に決別することが絶対に必要だと、あたしゃ切実でした。しかし、熊の返答は意外なものでした。
「だってお前、もうぼこぼこに殴られているじゃないか」
思わず、えっ、と言いながら熊の顔を見返してしまいました。熊の顔が、くしゃりと笑います。
「鏡を見てみろタムケ座衛門よ。殴られてもいないものが、そんな涙でぐしゃぐしゃな顔をするものかよ。お前はすでに、あの彼と、それからお前の言うその女の子と弟妹にぼこぼこに殴られているのだ。だからお前は変われたのだ。だからお前はここに来たのだ。昨日までのふざけたお前ならまだしも、他人の苦しみをわかるようになったお前を殴る拳を、俺は持たんよ」
そういうと、熊は優しくあたしゃを立たせてくれました。
「さて、では俺のフケ退治と行くか」
二人してあたしゃの社殿に戻り、彼を待ちながら熊に病気平癒のための手ほどきを受けました。本来であれば、疫病神は二人一組となって一人が退治する役、もう一人がやられる役となります。けれど、今回は疫病神が熊しかいないので、あたしゃが退治役をすることになりました。熊から、ずっしりと重い剣を渡されます。これで熊を切れということなのです。
「まあ切るといっても、そのまねごとにすぎん。ようは疫病神がやられたという事実こそが大事なのだ。安心しろタムケ座衛門、その剣はもともと刃が入っていないから、お前が手を滑らしたとしても俺は傷一つ負わんよ」
病気平癒の準備は万端に整ったのですが、恐れていた事態が起こりました。いつも来る時間になっても彼が来ないのです。一日寝たくらいでは、神社に来れるほど体調が回復しなかったに違いありません。朝の九時くらいになって、あたしゃそわそわしだしました。様子を見るために彼の家に行くことを何度も提案したのですが、社殿の中央にでんと構えた熊はそれを許してくれません。彼は必ず来る。信じて待たずに神が務まるかというのです。
一応言っておきますと、疫病神本業の熊はまだしも、道祖神でしかないあたしゃが平癒を無事成功させるには、あたしゃの神気が一番高いこの社殿で儀式を行うしかありません。ですから、彼の家に家に行って儀式を行うという選択肢はありませんでした。正直あたしゃとしては、彼の病気が治ることもそうですが、それ以上に彼が今日の参拝を断念してしまうことの方が恐ろしかったです。せっかく彼がつないでくれた、あたしゃとのお百度参りの縁。それがあたしゃのせいで断ち切られてしまっては、あたしゃはもう彼に会わす顔もありません。
日も傾きだして、あたしゃいよいよもうだめだと思いました。こうなれば、熊を引っ張って行ってでも彼の家で儀式をして、彼がお参りできるくらいに回復するかどうかに賭けるしかない。そう思って熊を説得しようとしたときです。話し声がだんだん近づいてきたんです。間違いない。彼と、昨日の女の子です。熊が厳かに立ち上がりました。
「いいか、タムケ座衛門。疫病神は平癒の効果を高めるために、蔓延する病の気を取り込むと世にも恐ろしい化け物のような様相となる。より強そうなやつを倒した方が、そのぶん効果も大きいからだ。正直、日々やられる研究を積み重ねてきた俺は、お前が直視すると失禁するくらいにはものすごい形相の化け物となるだろう。だが恐れるな。それは昨日までのお前だ。自堕落な生活に戻ろうとする、お前の弱い部分が実体化したものだと思え。お前はそいつに真っ向から立ち向かって、その剣を振るわねばならん。だが大丈夫だ。お前なら、きっとできる」
鈴が鳴りました。二人が並んで、手を打ち鳴らします。熊はゆっくりと格子戸に近づき、彼に正対しました。そうして胸を張ると、ものすごい勢いで空気を吸い始めました。祈る彼から何か紫色のどう考えても体に良くない気体が立ちのぼり、ぐんぐん熊の口に吸い込まれていきます。ものの五秒くらいで、熊はすべての紫の煙を吸い込んでしまいました。と、熊の様子が変です。う、うぐ、と言いながら、体を小刻みに震わせています。苦しそうに体を前傾させたと思ったとたん、彼の背中がボコンと膨らみました。そしてそれを突き破るように、なんと、二本の巨大な腕がめりめりと生えたんです。
正直に言いましょう。あたしゃはこの時点ですでに失禁していました。だって、ただでさえ大きい熊の身体がさらに膨らんで、おまけに腕が二本追加で生えたんですよ。しかも、それだけじゃありませんでした。俯いていた熊が、ゆっくりとこちらを向きます。出ました化け物。ぎょろりとこちらを睨む凶暴な瞳はなぜか四つに増えています。涎にまみれた汚らしい牙を覗かせる口は耳元まで裂け、臭そうな息を蒸気のようにしゅーっと吐いています。錆色に変色した肌は岩のように固そうであちこちぼこぼこしていました。
さすがワーカホリック疫病神。もはや変態を飛び越え芸術の域に達しています。あまりに恐ろしい姿に意識が遠のきましたが、すんでのところで踏みとどまりました。あたしゃだって変わったんです。この変態鬼畜ワーカホリック疫病怪物は、昨日までのあたしゃです。自分のことばかり考え、他者を慮ることをせず、神とは何かを忘れていたあたしゃです。そんなやつには負けません。あたしゃ変わるんです。変わって、どんな小さいことでもいいから、彼の支えになってあげるんです。あたしゃは剣を振り上げると、怪物の脳天めがけてまっすぐに振り下ろしました。
「ぐわああああぁぁぁ!」
剣戟をもろに受けると、少し芝居がかりすぎている悲鳴を変態怪物は上げました。ぐらりと巨体が傾き、ゆっくりと倒れながら薄緑色のきれいな気体に姿が変わっていきます。その気体は少し社殿の中で渦を巻いて滞留すると、格子戸の隙間を抜けまっすぐ彼のもとへと向かっていきました。あたしゃが格子戸に飛びついて彼を見ると、その気体は彼の口の中に吸い込まれて行きます。
――あれ、なんか治ってきたかもしれない。
そんな彼の呟きが聞こえてきました。ああ、よかったと、あたしゃその場にへたり込みそうになりました。平癒は無事、成功したようです。格子戸にしがみついて、何とか腰を立たせていると、ふと、彼がこちらを向きました。まっすぐに、あたしゃと目が合います。けれど、見えているはずがありません。多分偶然でしょう。実際、彼はすぐに前を向きなおして、女の子と並んで境内を後にしました。
その後姿を見送っていると、肩にぽん、と手を置かれました。振り返ると、元の姿にもどった熊がそこにいました。
「よくやったな、タムケ座衛門。見事な退治っぷりだったぞ」
あたしゃ褒められて素直にうれしかったですが、熊に言ってやりました。あの怪物はやりすぎだって。けれど、ありがとう。熊がいなかったら、あたしゃここまで成し遂げられなかった。そう言うと、熊は腕を組んで頷きながら、嬉しいことを言ってくれたんです。
「まあだが、俺はきっかけをくれてやったにすぎん。いいか、タムケ座衛門。俺では彼らの支えになってやることはできん。だから、お前が支えになってやるんだ。これはほかでもない、お前にしかできないことなのだ。だから、気張れ、タムケ座衛門。大丈夫だ、昨日までのお前を倒したお前なら、きっと、成し遂げられる」
格子戸から外をのぞくと、日は陰り、徐々に夕闇が深くなってきていました。これから夜が来て、今日という日が終わって、新しい朝がやってきます。あたしゃにとってその朝はきっと、忘れられない始まりとなることでしょう。