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うちの子転生!  作者: 千国丸
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064.波に揺られて④

――ウルズ内 特等客室――


レモティーは衰弱気味のカタリナを自室に通し、調理スキルで作成したトマト入りサンドイッチを提供した。それをものの数分で食べ終えた彼女は、背筋を伸ばしてレモティーへ深く頭を下げる。


「助かりましたわ。貴方様と出会えた事もきっとアイリス様の思し召し……感謝を捧げなければなりません。この船に礼拝堂はありますの?」


「いや、そういうのは無いと思うけど……」


「それはいけませんわ!? この過酷な世界で生きていくわたくし達にとって、女神様への信仰は必要不可欠なものですもの! もしレモティー様の許可をいただけるのなら、僭越ながらわたくしがこの部屋にアイリス様の祭壇を作って差し上げますわ。陽が射す窓さえあれば聖域を模する事はできますし、毎日の礼拝方法もお教えしますので、ご心配は不要でしてよ!」


カタリナは鼻息を荒くしてテーブルに身を乗り出す。数日間、浄水室の水だけで過ごしてきたとは思えないほど、彼女はすっかり元気になっていた。NeCOの調理スキルで生み出される料理には微量の回復効果が伴っているため、その恩恵も受けたのだろう。しかし活力を取り戻した分、彼女の声は耳障りなほどに大きくなっており、レモティーは両耳を軽く押さえた。


「いや祭壇は必要ないかな……ところで、そろそろ君が密航していた理由を聞かせて貰おうか。何を目的にしてどうやってここにきたのか、正直に話してもらうよ」


「勿論ですわ。ただ、その前に1つ確認したいことが……そちらにおられる方々は、レモティー様とどういったご関係ですの?」


カタリナがベッドの方へと視線を向ける。そこにはメルやココノア、そしてリセがいた。ユキも部屋の端で遊んでおり、港町のバザーで購入したぬいぐるみ相手にままごとをしている。


「みんな大切な友人だよ。ボクは彼女達と一緒に西大陸を目指してるんだ。そういえばカタリナさんもオキデンスに行こうとしてたんだよね?」


「ええ、その通りです。わたくしはアイリス聖教の教えを多くの方々に知ってもらうべく、これまで東大陸中を巡っておりましたわ。それが一息ついたので、次は西大陸へ渡ろうとしていましたの」


「なるほど、布教して回ってるってことか。でもわざわざこの船に忍び込む必要はないよね? どうして軍船を選んだのかな。アイリス聖教は他国の軍事には不干渉らしいし、リスクを冒してまで密航した理由を教えて欲しいんだけども」


レモティーはさらに踏み込んで問い詰めた。単に西大陸を目指しているだけならば害はないが、カタリナがアイリス聖教から派遣された諜報員であれば話は別だ。特にトルンデインでメルは聖教所属の司祭に目をつけられている。彼らは異端者と認定した者を徹底的に排斥する過激な側面を持つため、今更になってメルを狙いに来てもおかしくはなかった。穏やかな口調とは対称的な険しい顔つきで睨むレモティーに、カタリナは目を逸しつつ答える。


「……貧民と同じ船に乗りたくなかっただけですわ。アイリス聖教の聖職者でもある私が、下々の民と同じ部屋で寝食を共にするなんて考えられませんもの! それに、そのような場所では落ち着いて女神様へ祈りを捧げることもできませんし……」


「えぇ……それは随分と自分勝手な理由だなぁ……」


もっと理由らしい理由があるのだと思っていたレモティーだったが、単なる我儘であることが判明しレモティーは呆れ果てた。先程まで鋭い輝きを放っていた赤い眼鏡もズレ落ちてしまう。


「はぁ……この世界の聖職者はロクな奴がいないわね。今まで見てきた連中、全部こんな感じだったんだけど」


トルンデインで因縁を付けてきた司祭の顔を思い出し、悪態をつくココノア。実際に彼女がこれまで出会った事があるアイリス聖教の信徒は全員と言っていいほど人格が破綻していた。それにアイリス聖教が癒やしの術式を自分達だけで独占し、高額な治療費を払えない者には一切の施しを与えない事も聞き及んでいたので、印象がすこぶる悪いのだ。NeCOで辻ヒールを日課としていたメルとは正反対である。


「ん……ちょっと引っかかるかな。本当の理由は別にあるんじゃない?」


ふとリセが呟いた。カタリナの言い分に疑義を示す彼女の口振りに対し、ココノアが疑問に満ちた表情で説明を求める。


「えっ、どういうこと? その理由って何なのよ」


「断片的な情報しかないから具体的な内容までは分からないけど、矛盾点なら説明できるよ」


そう言うなりベッドから腰を上げたリセは、窓の近くまで歩きながら続きの説明を行った。


「話を聞く限り、アイリス聖教っていうのは太陽の光が射す祭壇で信仰対象に祈るのが日課なんだろうね。普通の客船なら問題ないだろうけど、身を隠す必要のある密航を選んだのなら、それも不可能になる。だから、ただの我儘だけでそんな選択をするのか気になっただけ」


リセの指摘を受け、カタリナの眉がぴくりと動いた。これまで彼女は毎日祭壇で祈るのが当たり前と言わんばかりの論調であった。だが、そこまで敬虔な信者が日々の習慣を犠牲にしてまで密航を選択する事は考えにくい。さらにアイリス聖教の祭壇は陽光を必要とする。窓のある客室や操舵室等ならともかく、人目につかない場所に潜んでいる限り礼拝の条件が揃うことはないのだ。その事実に気がついたレモティーは考えを改める。


「なるほど……確かにそれはそうだね。カタリナさん、密航した本当の理由を教えて欲しいんだ。ボク達はデクシア帝国の特派大使としてそれを知る権利がある」


「そ、それは……」


胸元のバッジを指で示しながらレモティーがカタリナへ詰め寄る。しばらく沈黙を守っていた彼女であったが、リセやレモティーから放たれる無言のプレッシャーに根負けして事情を吐露し始めた。


「……分かりましたわ。正直にお話します。西大陸に向かう客船で、()()を見られるわけにはいきませんでしたの」


おもむろに被っていた黒いベールを取り去るカタリナ。明るいオレンジ色に染まった彼女の頭髪からは、ネズミとよく似た丸い獣耳が2つ顔を出していた。


「カタリナさんは獣人族だったのか……被り物で気づかなかったよ」


「かなり薄くなってはいますが、この体には獣人族の血が流れていますわ。修道服の内側には尾も隠しています。普段は人間族として振る舞っていますけれど、不特定多数の者達と同じ船室で生活していればすぐにバレてしまうでしょう。わたくしはそれをどうしても避けたかったのです……!」


「それはオキデンスで行われている亜人差別が関係してるのかな?」


「ええ、その通りですわ。もし同乗者に密告されるようなことがあれば、船を降りた途端わたくしは奴隷房行きになりますもの……」


悔しそうに睫毛を伏せるカタリナ。彼女が懸念する内容は実際にありえる話であった。西大陸随一の大国、オキデンスでは今もなお亜人への差別が行われているからだ。人間族至上主義を掲げる彼の国では、純粋な人間族以外――つまりエルフ族や獣人族やその混血種族には人権が与えられない。特派大使の身分がなければメルやココノアですら奴隷として扱われるだろう。もっとも、魔王すら倒した少女達にそれを強いれば国ごと滅びかねないのだが。


「確か……亜人がオキデンス領内にある人間族の居住区を通る時は、奴隷であることを示す証を持っていないと問答無用で奴隷房へ押し込まれるらしいね。全く酷い話だよ」


レモティーは船に乗る前、西大陸に関する情報を港町の船乗り達から聞き取りしていた。そこで多く耳にしたのが、亜人への厳しい差別事例の数々である。ユキが捕まっていた奴隷船で彼女達が目の当たりにした事が、オキデンスでは当たり前のように行われているのだ。

何故そのような種族差別が(まか)り通っているのか――多くの歴史書では、その理由が大昔の西大陸において勃発した亜人と人間族の紛争にあると書かれている。血を血で洗う苛烈な争いに勝利した人間族は大陸の大半を支配するに至ったが、国家としての体力は著しく失われていた。そこで亜人達を奴隷階級に置き、労働力や人身売買用の資源として扱ったのである。人道に反した施策ではあったがそれは多くの富を生みだし、オキデンスを商業大国へと押し上げる要因となった。


「でもさ、いくらなんでも聖職者を奴隷になんてしないんじゃないの? それこそ紛争に発展する可能性もあるし」


唐突にココノアが疑問を口にした。それに対してカタリナは首を左右に振りながら即答する。


「教会の本部があるアイリス聖教国は西大陸出身の司祭が大半を占めていますから、わたくしのような者が1人や2人捕まった所で教会が気にする事はありませんわ。歯痒いですがこれが現実……だからこそ、この船に忍び込む道を選ばざる得なかったのです」


「本当にどうなってんのよ、アイリス聖教は……大体、アンタもそれでいいわけ? とっととそんな宗教団体から抜けて、普通に暮せばいいのに」


「よくはありませんわ……! でも癒やしの術でこの身をある方に救っていただいた時から、私はその方とアイリス様のために生きる事を誓いました。ですから、アイリス様の教えを広く伝えるという務めは、わたくしにとって生きる意味そのものでしてよ!」


カタリナは修道服の首元を開き、銀色に光るネックレスを取り出した。その先端に取り付けられている女神を象った銀細工を愛おしそうに両手で握ると、彼女は真剣な表情でレモティーへ告げる。


「今話した事は全て真実……アイリス様に誓いますわ」


「うん、ボクはその話を信じるよ。でも密航した罰はきちんと受けてもらうからね。そうだな……港へ到着するまでの間、船内の掃除や雑用をしてもらおう。ちょうど女性船員用の個室が空いてるって聞いたし、その部屋を使えるようにボクからも船長に頼んでおくからさ」


「わ、わたくしに雑務をさせるつもりですのっ!? 仮にもアイリス聖教の聖職者ですのよ、そんな事できるはずが――」


初めは口をへの字に曲げて抗議の表情を浮かべていたカタリナであったが、目的地へ渡航するためには言い渡された提案を受け入れることが最良であることに気付いた。すぐさま笑顔を取り繕って誤魔化す。


「い、いえ! 何でもございませんわ! 尊大なお心遣いに感謝致します、うふふふ……」


「分かって貰えたようで嬉しいよ。でもこれ以上はフォローできないから、くれぐれも船内で騒動を起こさないで欲しいな。ユキちゃんには楽しい船旅を満喫して欲しいからね」


凄みの効いた声で釘を刺され、カタリナは焦ったように何度も首を縦に振った。彼女自身、まだ雑用係として扱われることに対する抵抗感は拭えていないようだが、レモティーは穏便に事を済ませられそうだと安堵する。純真無垢なユキに密航者が処刑される光景を見せたくは無かったのだ。


「それじゃあ操舵室へ行こうか。そこに船長がいるはずだからさ」


「ええ、わかりましたわ!」


ベールでネズミ耳を隠したカタリナを引き連れ、レモティーは船の上層にある操舵室へと向かった。




――約1時間後――




船長に顛末を説明したレモティーはカタリナの身を彼らに預け、仲間達が待つ自室に戻った。カタリナの目的や事情を包み隠さず開示したのもあり、船員達も彼女を密航者ではなく雑用係として扱うと約束してくれている。もっとも、デクシア帝国とアイリス聖教国の関係を考慮すればこれが一番無難な落とし所だろう。ただ、カタリナがお礼に女神アイリスを祀る祭壇を船内に作らせて欲しいなどと言い出したので話が拗れ、レモティーが思っていたよりも時間がかかってしまった。


「ふぅ……ただいま、一応話は付いたよ」


「随分と遅かったじゃない。何かあったの?」


「いや、カタリナさんが礼拝用の祭壇を作りたいとか言い始めたから、それでちょっとね……」


疲れきったレモティーの顔を見てココノア達は全てを察する。港町ポルトスでカタリナが船乗りと揉めていた様子を目撃していたのもあり、彼女のヒステリックな声が操舵室に響き渡っている光景は簡単に想像できた。


「あ、レモティーちゃん。船長さんに到着がいつ頃になるか聞いてくれました?」


「うん、もちろんさ。今朝から頼まれてたからね!」


レモティーは室内を見渡してから自分のベッドへと腰掛けた。テーブルではメルとユキ、ココノアの3人がリセ手製のクッキーを仲良く頬張っているため、座る場所がベッドしか残されていなかったのだ。一方、菓子を作った本人は壁に背をつけた姿勢で少女達の様子を眺めて微笑んでいる。そんなマイペースな友人達に向けてレモティーは操舵室で聞いてきた話を伝達した。


「オキデンス領内の港には明後日の昼頃に到着する見込みらしいよ。ただ、海流の向きが普段と違うせいで、西大陸と東大陸の間にある海溝まで船が流されてしまってるらしいんだ」


「……そのパターン、NeCOでも見た憶えがあるわね。嫌な予感がしてきたけど、何か問題ありそうなの?」


「いや、海溝自体に問題はないんだけど……そこは昔からいくつもの船が沈没している海域らしくて、"海魔の餌場"なんて呼ばれてるんだってさ。魔物が出るかもしれないから慎重に進む必要があるって言ってたよ」


レモティーが話を終えた後、メルが口元に指を当てながら顔を上げた。頬にクッキーの食べ残しを付けたまま、彼女は素朴な疑問を投げかける。


「いくら海といっても、こんなに立派で大きなお船を襲うような魔物さんがいるんでしょうか?」


「そういうフラグ立てそうな事を言ってると、巨大なタコだのマグロだのが出てくるわよ。NeCOでも似たような状況でモンスターに襲われるイベントがあったでしょ?」


「あ、そういえばそういうのもありました! ココノアちゃんは記憶力がいいですね!」


「まったく、忘れっぽいんだから……大体、うちがNeCOのストーリーイベントを全部やることになったのはメルのせいみたいなものなんだけど?」


そう言ってメルの口元についていた菓子の欠片を指で拭い取るココノア。彼女はオンラインゲームにストーリー性を求めるようなプレイヤーではなかったので、物語自体にはあまり興味が無かった。しかし一緒にストーリーを楽しみたいと言い始めたメルによって半強制的に世界中を連れ回され、結果的に全てのクエストを踏破している。


「えへへ、ココノアちゃんと一緒に考察しながらストーリーを追っていくのは凄く楽しかったのです! それに戦闘クエストでも毎回お手伝いして貰えたおかげで、物語の結末を見届けることができて助かりました♪」


「改まって言われると照れるじゃない……うちもメルが一緒だったから、それなりには楽しめたわよ。1人だと絶対やらなかっただろうし」


そう呟いて頬を赤く染めたココノアに、メルは嬉しそうに肩を寄せた。一方レモティーは仲睦まじい少女達に熱い視線を送りながら、満足そうにウンウンと頷いている。


「やっぱり尊いものだね、幼女がキャッキャウフフしてる光景は! 見てるだけでボクも興奮……じゃなくて、心が洗われるようだよ。それにふわりと漂ってくる、この小さい子特有の甘い香り……堪らないね! リセもそう思うだろう!?」


「ん……そういう趣味はないから一緒にしないで欲しい。あとこの匂いはクッキーのだよ……」


リセは愛想を尽かしたようなジト目をレモティーに向けつつ、彼女の行く末を心から心配するのであった。




――翌々日 ウルズ甲板――




西大陸を目前にして、それまで順調であったウルズの航海は危機を迎える。船尾にあるプロペラ状の魔導推進器が故障に見舞われたせいで、全く動けなくなってしまったのだ。不自然すぎるほどに静まり返った海の上でウルズは停止し、船員達による緊急修理が行われていた。その傍ら、カタリナは甲板をモップで磨き続ける。


「いくら総出で対応する必要があるからといって、ここを1人で掃除しろなんて酷すぎますわ! もう昼前ですのに、半分すら終わらないなんて……」


修道服の上からでも肌を焼くような強い日差しにうんざりしながら、ブツブツと独り言を呟くカタリナ。ウルズの甲板は広く、彼女が言うように1人だけで掃除できるような範囲ではなかった。しかし船内に居ると女神アイリスの祭壇を勝手に作ってしまうため、半ば厄介払いの形で外に放り出されているのだった。


「それにしても……不気味なほどに静かですわね?」


手摺から身を乗り出し、カタリナは濃い蒼色に染まった海面を覗き込む。船の周辺はすっかり凪いでおり、ヒラヒラとした彼女の衣服ですら風にそよぐことはない。例え帆船であってもこの海域では立ち往生していたことだろう。


「なんだか不穏な気配もしますし……早く修理が終わればいいのですけど」


カタリナが朝から感じていた全身の毛が逆立つような不快感――それは時間を追うごとに強くなっていた。眉根を寄せたままの本人はまだ気づいていないが、鼠の獣人族特有の危機感知能力が発露していたのである。そしてその原因でもある巨大な影は、既に船の真下へ迫っていた。


――バシャァァァ!――


何の予兆もなく幾本もの水柱が天高く立ち上った。同時に濁った灰色の巨大触手が船体へと巻き付く。その衝撃で船は大きく揺れ、カタリナは甲板へ倒れ込んだ。


「きゃあっ!? な、何が起こってるんですの!?」


混乱しつつもカタリナは近くの手摺に捕まり、なんとか体勢を戻す。状況を把握しようと周囲を見渡した彼女の視界に、5~6本の触手が砲台や換気塔をグシャリと握り潰していく光景が映った。金属装甲を纏った軍船ですら玩具の如く破壊されてしまう事態に遭遇し、それまで血色の良かった彼女の顔が一気に青褪める。


「このままでは船が沈んでしまいますわ……!」


ドスンと下から突き上げるような強い揺れが船体に響いた直後、残存していた砲塔が向きを変え始めた。そして海面から生えた触手に狙いを定め、魔法弾による射撃を行う。


――ダンッ! ダンッ! ダンッ!――


激しい衝撃が大気を揺らした。魔力により圧縮構築された光の砲弾は全て命中していたが、触手には掠り傷すら付いていない。ぬるりとした特殊な粘液が魔弾の威力を著しく減衰させていたのだ。


――グォォォォ!――


海中から聞こえてくる悍ましい唸り声と共に、触手群が蹂躙を開始する。無数に飛び出た吸盤でがっしりと掴まれた砲台は土台ごと持ち上げられ、次々に海へと引きずり込まれていった。このままでは船ごと解体されるのも時間の問題である。恐怖に耐えきれずカタリナが悲鳴をあげそうになった矢先、勇ましい声が甲板を駆けた。


「魔法は効果が薄いぞ! 実弾で迎撃しろ!」


10名近い軍人の一団が銃を構えて船内から出てきた。機関室で修理に当っていた船員達が装備を整え、正体不明の魔物と応戦すべく外に出てきたのである。急所を守るための薄い金属板を革服へ組み合わせた彼らの装備は少し頼りなく見えるが、不安定な船上でも重量が枷にならないようにと工夫が施されていた。素早く横一列に陣取った集団は洗練された動きで銃を水平に構え、触手へ狙いを定める。


――バンッ、バンッ、バンッ、バンッ!――


破裂音と共に小規模な爆発が触手を焼いた。異形の肉塊は魔力を伴う攻撃には耐性を持っていたが熱には滅法弱く、痛みに悶えるが如く蠢く。


「効いてるぞ! このまま撃ち続けろ!」


「この化け物がッ!! とっととくたばりやがれ!」


「よしっ! 気持ち悪いのを1本潰してやった!」


軍人達の猛攻により触手の1本が船から剥がれた。古代遺跡で発見された兵器を参考に造られた長銃は、使い手の魔力で加速した特殊合金の弾を発射する機構が内蔵されている。銃弾自体に魔法効果はないものの、圧力が加わると発火・燃焼する特殊なギミックを搭載しており海の魔物に対しては効果覿面だ。弾に限りはあるが、威力だけならワイバーンが吐く火球にも匹敵するだろう。


「ふぅ……これならどうにかなりそうですわね……」


軍人達が応戦する様子を物陰から伺っていたカタリナは、安堵したように溜息をついた。しかし彼らが優勢であったのはそこまでだ。ウルズの側方に一際大きな水柱が出現し、そこから放たれた大波が船体を激しく揺れ動かす。


――バシャァァァン!!――


水飛沫を撒き散らしながら海から出てきたのは、軍船の全長に匹敵するほどの巨大軟体生物であった。足で抱き寄せるように船体へ取り付いたそれは9つの眼球を有しており、一目で魔物の類であることが分かる。フォルム自体は水生生物として広く認知されているイカの近縁種に近しいものの、あまりにも大きすぎて頭部以外は未だ海に潜ったままだ。常人であればひと目見ただけで意識を失ってもおかしくはない。


「こいつ……まさか暴食の海魔(クラーケン)じゃねぇだろうな!?」


「クソッタレがッ! 歴史の図鑑に描かれていた怪物そっくりじゃねぇか……!」


「俺も読んだことがあるぜ、それ。確かクラーケンって言えば太古から生き続けてるっていう、神獣の一柱だよな……?」


怯えた様子で後退る軍人達。不気味な眼で船を見下ろすソレと遭遇するのは初めてであったが、彼らは文献や口承などを通じてクラーケンの事を見知っていた。世界が出来た頃から存在すると言われる巨大な獣は、人々の間で神獣と呼ばれている。魔力を貪欲に貪る魔族ですら神獣には手を出さないことから、魔族と同等かそれ以上の存在であると見做す識者もいるが、神獣の詳細については明らかにされていない。ただ1つ、神獣に関する世界共通の認識があるとすれば、それはいくら徒党を組んだところでヒト種が倒せるような相手ではない、ということだけだ。


「あの化け物、いくつもの船や島を飲み込んだって聞いたぜ俺……そんなの相手に、どう戦えばいいんだよ……」


戦意を失った1人の男がうわ言のように呟く。彼は幼少から祖父母に聞かされていた言い伝えを思い出していた。その舞台は約1000年前まで時を遡る。西大陸と東大陸の間にはいくつもの小島が存在しており、橋を架けることで大陸間を歩いて渡ることができた。しかしある時期を境にして、島々が一夜にして消えるという事件が起きる。この時、陸ごと人々を飲み込んだとされる厄災の主がクラーケンだ。

底なしの食欲を誇る恐るべき化け物により全ての小島は喰らい尽くされ、西と東の大陸は深い海で隔てられた――それが暴食の海魔を語った伝承の一節である。普段なら子供に海の怖さを知らしめるための寓話だと笑い飛ばせるだろうが、実物を前にすれば別だ。大半の軍人達の脚は恐怖に竦んでしまう。


「怯むな、撃ち続けろ! 祖国を救ってくれた英雄の一団がこの船には乗っているのだぞ! 彼女達が駆けつけるまで、なんとしてでも持ち堪えるんだ!」


果敢にも小隊の長と思しき男性が隊列の先頭に駆け出た。彼は大声で味方を鼓舞しながら、自らも長銃を構えてクラーケンに攻撃を続ける。


「ああ……そうだったな! それに、俺だって魔王軍を退けたデクシア帝国軍の1人なんだ! こんなイカ野郎にビビってられるかよ!」


「もちろんだ! 俺達の底力、見せてやろうぜ!」


逃げ腰になっていた者達の顔つきが変わり始めた。それぞれが銃を持ち、中断していた銃撃を再開する。先頭に立って戦い続ける隊長の姿と英雄の存在が、折れそうになっていた心の支えとなったのだ。怒涛の攻勢で触手を1本、また1本と引き剥がしていく。


「残り2本まで減らしたぞ! このまま押し切って――」


巻き付いた触手が少なくなったことで船体の傾きが戻りかけたその時であった。クラーケンの周囲から新たな足が飛び出した。しかもそれは1本や2本ではない。触手は瞬く間に増えていき、ウルズから見える範囲だけでも20本を優に超えていた。


「嘘だろ……何なんだよ、あの数!?」


「足が多すぎる! もうこっちは弾が殆ど無いってのに!」


軍人達は愕然とした表情で触手の群れを見上げる。彼らが視認していたクラーケンの足は、総数の半分にも満たなかったのだ。しかもそれぞれが馬車を軽く握りつぶせるほどの大きさを持っている。生物の範疇から逸脱したその身は、もはやヒトが太刀打ちできるものではなかった。


――バシィィィン!!――


数本の触手が鞭のようにしなり、甲板を連続で打ち付ける。その狙いから逃れることができず、軍人達は床や壁に叩きつけられてしまった。圧倒的な質量と速度による打撃は人体を破壊するには十分なほどの威力を誇る。乱打が終わる頃には誰一人として立っている者はいなくなっていた。


「貴方達、大丈夫ですの!?」


思わずカタリナは近くで倒れていた青年に駆け寄る。船の設備に身体を打ち付けたのだろう。彼の脇腹は裂けて赤く染まっており、左足もあらぬ方向を向いていた。即座に重症であると判断したカタリナは修道服の袖を捲り、両手に魔力を這わせる。


「今、癒しの術を使って差し上げますわ! 気をしっかりなさい……治癒術式ヒーリングッ!」


カタリナは眼前の軍人に向けて癒しの術を唱えた。淡い光がその体を包み込み、身体の治癒を促す。しかし魔法の効き目は薄く、出血を止めることすらままならなかった。他にも甲板の至るところで苦しみに呻く声が響いており、深い絶望だけが渦巻いていく。


「あまねく生命を見守っておられるアイリス様……慈愛に溢れるその御手を以って、奇跡をこの者達にお授けください……!」


それでもカタリナは一心不乱に祈りを捧げた。ここに居ては危険だと獣人としての勘が叫んでいたが、それでも逃げ出すことはしない。禁を破って教会外で術を行使した事を含め、他者を救う事に一途な理由は彼女の生い立ちにあった。


(あの日、わたくしをヒトとして扱ってくれたお師匠様のためにも……傷ついた人々を見捨てるわけにはいきませんわ……!)


カタリナの脳裏に幼い頃の記憶が蘇る。生活苦を理由に親に売られた彼女は、西大陸にあった富豪の館で召使いとして幼少期を過ごした。そこで彼女に与えられたのは、衣服代わりの見窄らしいボロ布と腐ったゴミのような食事だけである。獣人だという理由で家人の子供にまで虐められ、過酷な労働を強いられた日々は十年以上経った今でも忘れられはしない。

そんな仕打ちに耐えかねたカタリナは、見張り役の目を盗んで館を飛び出した。そして辿り着いた先のスラムで生きていくことを決意する。憲兵の目が届かず様々な犯罪の温床になっているばかりか、衛生環境も劣悪な場所だったが、初めて手にした自由は彼女にとって何よりも代えがたい歓びであった。しかし少女が普通に生きていけるほど、スラムでの暮らしは甘くはない。食べ物を得るため盗みや詐欺にまで手を出し、カタリナは荒れた生活を送っていた。そんなある日、恩師とも言える聖職者と出会った事が、彼女の人生に大きな転機を与えたのだ。


(お師匠様……アイリス様と共に、天から見守っててくださいな!)


今は亡き優しげな女性の面影を思い浮かべながら、カタリナはさらに魔力を両腕に集中させた。アイリス聖教に伝わる癒しの術は消耗が激しく、魔力に乏しい獣人族では使いこなせない。そのため全力を出し切る勢いで術式を維持しなければならなかった。過負荷の反動は神経が灼けるような鋭い痛みを与えたが、その甲斐もあって青年の出血が止まり始める。


「血が止まった……でも、まだ危険な状況ですわ。もっと治癒を早めないと!」


歯を食いしばり、残り僅かとなった魔力を絞り出そうとするカタリナ。しかし腐った魚のような異臭を放つ粘液がべチャリと落ちてきたことで、集中力を乱されてしまう。いつの間にか頭上を巨大な影が覆っていたのだ。焦りの表情と共に彼女が見上げた先には、今にも押し潰さんとするグロテスクな触手が浮かんでいた。


「ここまでですの……!?」


死を予感したカタリナの脳裏に、過ぎし日の光景が走馬灯のように駆け巡る。スラムで生活をし始めて数年が経った頃、闇商人への窃盗に失敗した彼女は路地裏に連れ込まれて酷い暴行を受けていた。そんな彼女を救ったのが、当時アイリス聖教に所属していた人間族の女性である。アルマと名乗った女性は私財を差し出してカタリナを解放させた上に、癒しの術で負傷していた彼女を癒した。

それだけでも十分すぎるほどのお人好しであったが、驚くことにその人物は自分の弟子にならないかとカタリナへ提案したのだ。他人を信じられなくなっていた彼女は逃げるように路地裏から走り去ったが、旧き言葉で"心の拠り所"を意味するその名を体現するかのごとく、アルマは何度もスラムを訪れては根気よく説得を続けた。初めて自分を大切に想ってくれる人に出会ったカタリナはアルマの人柄に惹かれていき、アイリス聖教の信徒として生きていくことを決めたのである。

その後、アルマの指導を受けた彼女は一人前の聖職者になることができた。スラム時代の言葉遣いをやめるように言われて話し方に気を使いすぎた結果、少し変な口調が定着してしまったものの、振る舞いだけみれば過去のカタリナからは想像も出来ないほどに見違えている。そして今は数年前に他界した恩師アルマの遺志を引き継ぎ、傷ついた者は決して見捨てないという信念と女神アイリスの教えを広めるという目標を胸に抱き、世界各地で布教活動に励んでいた。


「お師匠様の教え、ここで曲げてなるものですか……!」


恐怖に震える身体を自ら律し、治療を続行するカタリナ。しかし振り上げられた触手は無情にも彼女の死を宣告していた。それが叩きつけられれば最後、彼女の脳天は真っ赤な華を咲かせて粉々に砕け散るだろう。


「お師匠様、アイリス様! どうか生きようと足掻く弱き者達へ、救いの道をお示しくださいまし!」


天に向かってカタリナが強く祈った直後、触手は容赦なく甲板の一部を陥没させた。轟音と共に船が大きく揺れ、凪いでいた海面にも大きな波紋が生じる。硬い装甲を持つ軍船ですら破壊してしまう一撃をまともに受ければ即死は確実だ。その場に居た軍人の誰もが、彼女と治療されていた同僚の死を覚悟した。そして次は自分の番だと、恐怖に打ち拉がれたに違いない。しかしカタリナの願いは確かに通じていたのだ。チリン、という鈴の音が重苦しい空気を一瞬にして変える。


――グオォッ!?――


カタリナを潰したはずの触手を何者かによって持ち上げられ、クラーケンは驚いたように全ての眼球を見開いた。敵対者の存在を感知した獣はすぐさま他の足を動員し、締め付けることで確実に圧死させようとする。だが力比べでは相手の方が遥かに上手であった。数本の足がまとめて引き千切られ、空高くへと投げ飛ばされていく。


「わたくし……助かりましたの……?」


周囲が急に明るくなったのでカタリナは恐る恐る瞼を開けた。涙でぼやけた視界に映ったのは、信奉する女神と同じ色の髪を持った少女だ。猫耳と尻尾を携えた彼女は振り返り、カタリナへと微笑みかける。


「船底に空いた穴を塞いでたので遅くなってしまいましたけど、もう大丈夫ですよ! ここからは私に任せてください!」


「貴女……確か、レモティー様のお仲間ですわよね……?」


元気よく頷くと、少女は「メルって言います!」と答えた。直接話したことはなかったが、彼女の姿はカタリナの記憶に印象深く残っている。その髪色がアイリス聖教が信仰する女神と同じだったからだ。鮮やかな桃色の頭髪は世界的に見ても珍しい。


「まずは回復を優先しましょう! 女神の聖なる抱擁セイクリッド・エンブレイス!」


メルの詠唱完了と同時に、甲板を丸ごと覆う神々しい光のヴェールが出現した。天から心地よい暖かさを纏った輝きが降り注ぎ、倒れていた人々を瞬く間に癒していく。ある者は千切れそうになっていた両脚が繋がり、何事も無かったかのように立ち上がれるようになった。また別の者は腹部から飛び出していた内臓が元通りになったばかりでなく、過去に負わされた古傷すら綺麗に消えていた――そんな奇跡としか言い様のない光景をいくつも目の当たりにしたカタリナは、驚きのあまり自分の目を疑う。


「こんな事、有り得ないですわ……!? 高等治癒魔法(ハイ・ヒーリング) すらも超える癒しの魔法が存在するなんて……!」


アイリス聖教の高位司祭が3人以上揃うことでようやく可能になる高等治癒魔法(ハイ・ヒーリング)は、瀕死の重症者を救うことも可能とされる最上位級の術式だ。しかしその魔法を以ってしても怪我人を一瞬で回復させることは出来ない。一方、メルの回復魔法は即効性がある上、ウルズ全体を包むほどに広域展開されていた。誰一人として死なせることなく救ってみせた彼女を見て、カタリナは何かに気付いたような表情を浮かべる。


「……そういえば噂で聞きましたわね。ここ数ヶ月の間に、全く違う術式を操る異端の癒し手が現れたと」


東大陸を巡っていた際、カタリナはある異端者の噂を耳に入れた。聖教の教えと異なる癒しの術を振りかざし、協会に仇をなそうとする子供がいる――そんな話を聞いた時は憤りを感じた彼女であったが、今は正反対の感情で胸の奥が満たされていた。


「どこが異端者なものですか……! あれこそがわたくし達が目指すべき姿でしてよ!」


教会に伝わる治癒の術式以外は異端だと教え込まれた聖教の信徒であっても、メルの行動を目の当たりにすれば非難する言葉を失ってもおかしくはないだろう。厄災から人々を守り、傷ついた者を別け隔てなく癒やす――聖典で語られる創生の女神アイリスの姿をメル本人が体現しているからだ。


「みなさんはどこか安全なところで隠れててください。この大きなイカさんは私達がやっつけますので!」


神の奇跡を顕現させる超高等術式を行使したというのに、メルは疲れた顔すら見せない。それどころかクラーケンに向き合い、化け物を倒すと宣言した。救国の英雄にこの場を任せることを決めた軍人達は、カタリナと共に物陰へと身を潜ませる。


「ちょっと臭いはきついですけど、焼けば食べられそうな感じはしますね!」


自分よりも遥かに大きい化け物に対して、臆することなく拳を構えるメル。そんな勇ましい彼女に呼応するかのごとく、その仲間達が船内階段から甲板へと駆け出た。


「おまたせ、触手に開けられた穴は全部塞いできたからもう大丈夫だよ。ところで新鮮なイカを食べるなら刺し身がいいんじゃないかな。ボクはイカそうめんが好物なんだよね!」


「えー! 生は止めてよ、生は。デカい寄生虫とかいそうじゃん。やるならイカ大根一択だっての、和食が恋しいし」


「ん、イカはバター炒めが一番。でもこれを全部食べきるなら、バターが足りなくなるかな」


そんな少女達の会話を聞いていたカタリナと軍人達は、口を開けたままポカンとした表情を浮かべる。恐るべき太古の獣を眼の前にして、まさかその調理方法を議論するような者がいるとは思わなかったのだ。そもそもこの世界ではイカも魔物の一種ではないかと考えられているため、食べるなどという発想にすら及ばない。


「英雄達は一体なぜあんな話をしているんだ……?」


「わ、わたくしに聞かれても困りますわ……」


困惑するカタリナ達。英雄と呼ばれし一団が、イカだろうとタコだろうと美味しくいただいてしまう慣習を持つ異界の島国からやってきた来訪者であることを、彼女らが知る由もなかった。


――グォォォ!!――


完全に舐められていることに怒りを覚えたのか、クラーケンは激しい雄叫びをあげて攻撃態勢を取る。海面から大量の足を振り上げ、船を引き裂かんとする勢いで左右から叩きつけた。


「左側はボクにまかせてくれ!」


「なら、右はあたしが掃討する」


即座にレモティーとリセが散開し、迫りくる触手を迎撃する。人間など軽く捻り潰せるそれらは単体でも驚異となるはずだが、レモティーはどこからともなく呼び出した無数の葉を操り、まとめて細切りにしてしまった。リセも飛翔する斬撃を繰り出してクラーケンの足を次々と輪切りにしていく。


――ウゴォォォ……!――


一瞬で触手の大半を失うことになったクラーケンは、唸るような声を響かせながら船から距離を取った。そして今度は周囲の海面が凹むほどに海水を一気に吸い上げたかと思うと、それをウルズに向けて噴射する。膨大な魔力によって練り上げられた極太の水流は螺旋状に渦巻いており、船体を真っ二つにしかねないほどの勢いだ。


「へぇ、宴会芸には向いてそうじゃない。でもそれ、うちには効かないから」


ココノアの右手によって軽やかに振られた杖から六角形の防御壁が音もなく現れる。透明な薄板の集まりにしか見えないそれは、飛んできた噴流を正面から受け止めてもヒビすら入らなかった。それどころか、逆方向へと水流を跳ね返し始める。

自分の攻撃が戻ってくるとは微塵も予想していなかったのだろう。反射された一撃を避けることができず、クラーケンは頭部の一部を穿たれた。


――グオオッ!?――


粘度の高い青い血で海面を汚しながら悶える暴食の海魔。絶対的な強者として大海に君臨していたはずの自分が一方的に追い詰められている――そんな悪夢のような現実を受け入れられず、クラーケンは酷く混乱していた。もしこの時、彼が身の危険を察知して素早く海へ潜っていれば逃げ遂せることができたかもしれない。だが数秒の迷いが致命的な隙を生じてしまった。


「メル! 後は任せたわよ!」


「はいっ、任されました!」


空から降ってきた2種類の声に反応し、異形の瞳が上空に焦点を合わせる。その9つの視界が捉えたのは、宙を舞う幼子達であった。


「それではこれでトドメです! あっ、ちなみにイカさんの命は無駄にしませんから安心してくださいね! 美味しく食べさせてもらいますので!」


スカートを翻しながら流星のごとく急降下するメルの姿に、神獣は数千年振りに恐怖という感情を抱く。彼はこの時点でようやく理解できたのだ。捕食されるのは自分の方だったと。


――ドゴォォッ!!――


自身の頭部が海面に叩きつけられた衝撃を最期に、クラーケンの意識はプツンと途切れた。円状に配置された目玉の中心――脳の中枢がある場所にメルのキックが炸裂していたのである。この一撃で神経組織が活動を停止したことにより、クラーケンの死骸には大きな変化が訪れた。体表が濁っていた灰色から透き通るような白へと変化していったのだ。その光景を見届けながら、メルは隣へ転移してきたココノアの手を取る。


「うわっ、なんで色が変わってるのコイツ?」


「うーん、どうしてでしょうか……? でもこっちのほうが美味しそうに見えないですか?」


そんな会話を交わしつつ転移魔法を連続使用して船へ戻ってくる少女達の様子を、カタリナは軍人達と共に甲板から眺めていた。


「まさか本当にあの化け物を倒してしまうなんて……あの方達は一体何者ですの!?」


「なんだ、そんなことも知らないでこの船に潜り込んでいたのかお前。あの少女達はな、俺らの祖国を滅亡から救ってくれた本物の英雄なんだぜ!」


「あの方々が……本物の英雄……」


海風に髪を靡かせながら軍人の言葉を反復するカタリナ。凪いでいた海はいつのまにか元の姿を取り戻しており、船上にも爽やかな風が吹き抜ける。それはクラーケン撃破と同時に立ち昇った水飛沫を空へ運んでいたのだろう。澄み渡った青空には鮮やかな七色の架け橋が輝いていた。

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