060.魔王に仇なす者④
――白き心象世界――
見渡すかぎりに白色が広がる風景――暗黒の亜空間を遥かに凌ぐ無限遠の領域に囚われたアスタロトは、呆然とした様子で佇んでいた。彼女は身体を乗っ取るための憑依術をメルに向かって発動したが、何らかの理由により完全な失敗に終わっている。そして行き先を見失った精神体は元の身体に戻ることもできず、メルの心の中へと吸い込まれたのだ。
「あの小娘……まさか余の憑依術に対策を施していたとでもいうのか……!?」
忌々しそうに吐き捨て、アスタロトは少し前の記憶を遡る。メルを仲間から隔離し、支配の魔法を展開したところまでは順調であった。だがメルに乗り移ろうとした時に異変が生じてしまう。彼女の魂を覆っていた強固な護りによって、術式が強制的に解除されたのだ。それが何によるものだったのかは魔王ですら想像が及ばない。
「あの守護、一体何だというのだ。余の力が押し負けるなどと……」
灰燼の招き手と恐れられるほどにヒトを喰らってきた彼女は、地上で最も大きな魔力を保有する1人でもある。その力を以てすればこの世界に支配できない相手は存在しないだろう。だが事実として幼い少女相手に精神干渉を拒絶されている。故にその表情には戸惑いが色濃く映っていた。
「力も使えぬ、か……」
いくら魔力を込めても何一つ生じない自らの手を見つめながら、アスタロトは怪訝そうに眉を顰める。精神だけの状態なので、肉体に宿していた能力が使えない事自体はおかしくなかった。しかし魂に含有されているはずの魔力すら扱えないのは不自然だ。唯一考えられる要因があるとすれば、メルを守護していた何かによって能力を封じられた可能性くらいである。
「余を愚弄しよって……!」
アスタロトは拳を握りしめると出口を求めて歩き始めた。足元も白一色なのでどこに道があるのかも分からないが、平らな床らしき物が存在しているため落下する恐れはない。そのため歩き進む事は出来たが、どこまで行っても景色に変化は生じなかった。時間の感覚すら無くなりそうな無窮の牢獄を彷徨ううちに、その脳裏に焦りが募っていく。
「自力での脱出は不可能か。ならばあの小娘を見つける他ないな……」
思考を切り替えてメルを探そうとした直後、アスタロトの視界に獣人の少女が映った。探し人が即座に見つかるというあまりに都合の良すぎる展開――これは罠かもしれぬと身構える彼女であったが、眼前の幼子は敵意を見せるどころか、無防備に背を見せて白い床をぺちぺちと叩いている。その様子に警戒する気も失せ、アスタロトは呆れながら声を掛けた。
「小娘よ、一体そこで何をしているのだ」
「さっき何か甘いものが食べたいって思ったら、ここからチョコレートが飛び出したのでもう1回試してみようと……って、アスタロトさんじゃないですか。どうしてこんなところに居るんですか?」
「それを余に問うのか、お前は……?」
険しい表情で苛立ちを示す魔王。不思議そうに首を傾ける少女を睨みながら、彼女はここに閉じ込められたのが単なる偶然であったことを悟った。狙って引き込まれるよりは幾分もマシだが、この状況ではいつまで経っても現実世界に戻ることはできないだろう。正しい認識を持たせない限りこの牢獄から脱出できないと思い至ったアスタロトは、不本意ながら状況を説明してやることにした。
「フン……知らぬのなら教えてやろう。ここはお前の心が生み出した領域だ。ヒトは稀に精神世界を内に秘めた者がいるが、お前もそうだったのだろう」
「心の世界……確かにそう言われみれば、私の知ってる場所ともそっくりです!」
思い当たる節があったのか、メルは手をポンと叩く。
「NeCOには心象世界ってところがキャラクター毎に存在してたんですよ。まあ、あっちのはクリアしたメインストーリーやイベントの想い出を振り返るための場所だったんですけど……って、アスタロトさんには分からないですよね?」
「……知らぬ言葉だ。そもそも余は異界の事になど興味を持っておらぬ」
魔王と言えど異世界の全てを知っているわけではなかった。過去に戦った異界の勇者から記憶を奪ったことはあるものの、それも数回程度でしかない。アスタロトにはメルの話す内容が全く理解できなかったが、それが重要な場面ではなかったので速やかに会話を切り上げた。代わりに自分が知る精神世界の知識を相手に分け与えることで、状況の打開を図る。
「それよりも、だ……余が無知なお前に知恵を授けてやろう。この空間では望んだ事が形になることがあるのだ。余はお前を探そうとしたが、それ故にこうして近くまで引き寄せられたのだろう。この精神の持ち主であるお前が現実への覚醒を望めば、元の肉体へ戻ることもできるのだぞ」
「えっ! 望めば何でも出来るんですか!? それは楽しそうですね! 試しにお菓子を作ってみましょう!」
「おい……話を聞け小娘! 現実に戻ることを意識しろと言っているのだ!!」
アスタロトの呼び掛けを無視し、メルは好奇心のままに周囲に食べ物を生み出し始めた。異界産と思しき彩り豊かな菓子が少女の周囲に出現していく。しかもそれらは美しい陶器の皿に載せられており、まるで貴族の茶会を思わせるほどに豪華だ。メルはその中から1つの皿を手に取ると、躊躇なく齧りついた。
「……うーん、見た目はバッチリなんですけど、お味はなんだかイマイチです。ひょっとしたら心のどこかでカロリーを気にしちゃったせいかもしれません。これならココノアちゃんが作るパンケーキやレモティーちゃんのお手製リンゴパイの方が数倍美味しいですね」
「そんなものを創り出してどうする!? 現実に戻らねば、お前はその仲間とも永劫に会えないのだぞ!」
「むぅ、それは困ります。せっかくリセちゃんとも再会できたのに、お喋り出来ないなんて寂しいですから」
残念そうに呟くとメルは何かを念じるような素振りで瞼を閉じる。すると周囲の菓子は霞のように消えていき、その手に握られていた中空の揚げ菓子も背景に溶け込むように消失したのであった。
「跡形もなく消しただと!?」
驚いたアスタロトは思わず目を見開く。かつて黄金を求めた者達が編み出した錬金魔法――その術式も望んだ物質を生み出すという意味ではメルがやった行為と同じ成り立ち方をしているが、"作るのは容易いが消すことは不可能"というのが一般的な定説だ。実際に存在する物を"消す"ことを具現化するというのは、極めて難しいからである。それ故に少女の鮮やかな手並みは際立った。
「この短時間で創造術式の特性を掴んだ……いや、元々知っていたのか……?」
精神世界における力の扱い方をすんなりと体得した少女に魔王は危機感を覚える。この短時間で心の世界に順応しているのは明らかに異常だ。想いを具現化する事に対してよほどの素質を持っているか、元々錬金魔法に関する深い造詣があったと見るのが普通だろう。ただ、どちらにしてもそれは精神世界から脱するというアスタロトの目的には都合が良かった。上手くメルを誘導する事さえできれば、この領域から脱する事は容易い。
「では、今度こそ肉体の目覚めを思い浮かべるのだ。そうすればお前と余はこの白き牢獄から解放され――」
「あ、そうだ! せっかく心象世界にいるんですからNeCOのアレも出してみましょう!」
アスタロトの言葉を遮るように言葉を弾ませ、メルは白い床から木製の書架を生み出した。骨董品のように使い古されたそれは3段の棚を備えており、その内に隙間なく本を蓄えている。ただそれ自体は変哲のない本棚に過ぎなかった。少女のした事が精神世界を脱するための方法とは全く異なっていたため、魔王は声を荒らげる。
「小娘、誂っておるのか! 余をこの領域から解き放てと言っているのだ!」
「まぁまぁ、そう言わずもう少しゆっくりしていって下さい。これは記憶を振り返るためのオブジェでして、NeCOをやってる人には馴染み深い書架なんですけど……アスタロトさんはやっぱり知らないんですね?」
白い空間から浮き出るような桃色の頭を傾けながら、メルは赤い瞳をアスタロトへ向ける。何度も繰り返される、異界の知識を問う質問――少女が何を意図しているのか分からず、魔王は怒りを昂ぶらせた。
「何度も言わせるでない! 異界の事など知らぬと言っておるだろう!」
「そうですか。ではこれで最後にしておきますね。この記憶の書架を使って、私が元居た世界の光景をここに構築しますから、一緒に体験してください。それが終わればここから出してあげますから」
「……ま、待て! 異界をここに構築するだと? お前は一体何をしようとしているのだ!?」
「単なる確認ですよ。戦いが始まると聞き出せないでしょうから」
メルの纒う雰囲気が変わり始める。無垢な幼女としか思えない風貌はそのままだが、血のように赤く染まった瞳には魔王を見定めるが如く鋭い覇気が宿っていた。底知れない気迫を感じ取ったアスタロトは反射的に怯む。
「余が気圧されている……!? こんな矮小な存在にか……?」
魅了の呪いを解除出来る上、傷を自在に癒やす魔法も扱えるという厄介さを備え持つ一方で、他の者に比べて頼りなく見える少女――そんなメルの肉体は魔王にとって最も都合が良さそうな器として映っていた。しかしそれが単なるまやかしであった事を後々彼女は思い知る。
「それでは私が知る日本国の光景をここに再現します。繁忙期な会社員の日常は少々ハードかもしれませんけど、びっくりしないでくださいね?」
少女の宣言と共に書架から1冊の本が飛び出した。宙に浮いたままの赤い本は誰が手に取っているわけでもないのに、パラパラと勝手に頁が捲れ始める。そして次第に周囲の空間が歪み、白い部屋の中に異界の記憶が再現されていった。
「……な、なんだこれはッ!?」
帝都以上に文明が進んだ都市の様相がアスタロトの眼前に広がる。そこではとても人の手で作られたとは思えない高層の建築物が犇めき合い、大勢の人間が道を行き交っていた。遠くでは鉄で出来た箱がいくつも連なって高速で駆けており、空には金属の翼を持つ巨鳥も飛翔している。だがそれらからは一切魔力が漂っていなかった。
「余の知る異界と何もかもが違うではないか……!? 今までの勇者は少なくとも、魔力かそれに類する力が存在する世界から喚ばれていたはずだ。だが……ここに生きる者達からは、何も感じぬ」
「魔法なんて便利なものはなかったですからね。その代わり科学技術は発達していました。こちらの世界には魔道具がありますけど、あれの動力が魔力じゃなくなったものとして考えてもらえればいいと思います」
「魔力なき世界をここまでの発展させたというのか……まるで信じられん……」
魔法が使えない世界でどうして鉄の箱が自走できているのか、翼が固定されているのに金属の塊はどうやって空を飛んでいるのか――理解し難い景色の数々にアスタロトの思考は追いつかない。ただそんな未知の世界であっても、魔王にとって見覚えのある光景は存在していた。都市の一角に目を凝らした彼女は、そこを走っていた鉄製の箱に自世界との共通点を見出す。
「……クク、やはりどの世界でもヒト共は愚かだ。鉄の箱に大量のヒトが押し込められているが、あれらは皆奴隷だろう。あの暗い表情を見れば分かるぞ。いくら発達した世界であっても、ヒトの脆弱な心までは隠せんな?」
アスタロトが言う通り、馬の数倍速い速度で走る四角い鉄箱には大勢の人間が乗せられていた。窓際に座っている者以外は立たされたままであり、一様に疲れたような顔をしている。そのせいか内部には重苦しい雰囲気が漂っているようにも見えた。しかし彼女の推察はメルによってあっさりと否定される。
「あれは単なる朝の通勤ラッシュですよ。まあある意味では奴隷みたいなものかもしれませんけど……満員電車での通勤って結構疲れるので、どうしてもああいうお顔になっちゃうんですよね。折角ですしアスタロトさんも体験してみましょうか」
そう言って少女が指をパチンと鳴らした直後、アスタロトは問答無用で鉄の箱へと転移させられてしまった。内部は彼女が思っていたよりも広かったが、隙間がないほどに立ち並んだ人間達のせいで四方八方から圧迫されている。本来なら魔王の身体は高い物理ダメージ耐性を備えているので、それらは無効化されて然るべきだ。しかし今は肉体強度が人間と同レベルまで引き下げられているため、この時点で酷い不快感が伴っていた。
「ぐぅぅぅ!? なんだこの狭さと息苦しさは! 家畜小屋のほうが遥かにマシではないか!」
「まだこの駅なら空いてるほうですよ。ここからもっと混んでいきますから……って、そろそろ出発みたいです。バランスを崩さないように気をつけてくださいね」
アスタロトから少し離れたところではメルが涼しい顔で立っていた。子供の背格好では周囲の人間達に押し潰されてもおかしくはないのだが、少女は慣れた様子で僅かな隙間に収まっている。どうすればそんなに楽そうにして居られるのかと魔王が思案している内に、箱がゆっくりと動き出した。
――ガタンゴトン、ガタンゴトン――
メルが満員電車と呼称したそれは一定のリズムを刻みながら、雑然とした街中を駆けていく。側面に設けられた大きなガラス窓の向こうには物珍しい光景が広がっていたが、人混みのせいでアスタロトからは碌に見えなかった。
「不躾な男よ、余の前を阻むでない。視界が塞がるではないか!」
邪魔だとばかりに正面に立つ中年男性を睨みつける魔王。だが彼女の訴えを無視して、男は天井に貼られた絵を眺めるだけである。他の者達も彼同様に自分の世界に没頭しており、魔道具と似た機器を延々と覗いていたり、はたまた目を瞑ったまま微動だにしなかったりと、思い思いに過ごしていた。周囲から浮いて見える青い肌と角を持つ女性が裸のような衣装で乗り込んでいるにもかかわらず、彼らは関心すら示さない。
「何だ小奴らは……余の知っているヒトとは全く違うぞ……!?」
これだけ密に接しているというのに、互いに干渉しようとしない人間達にアスタロトは不気味な印象を受けた。群れることでしか外敵から身を守れない弱き生物――それが彼女がヒト種に対して下していた評価だったのだが、メルの世界に生きる人間達はそれとは少し異なる。彼らは群れているように見えながらも、自身と他者の間に視えない壁を作って無干渉を貫いているのだ。しかも悉く感情が希薄であり、これでは機械人形と変わらないではないかと魔王は訝しむ。
「分からぬ、この世界の創造神は何を思ってこのようなヒト共を――」
アスタロトが言い終わる前に周囲が一際大きく揺れた。彼女は咄嗟に天井から降ろされた輪へ手を伸ばしたが、後少しのところで間に合わない。そのため慣性によって体勢が崩れ、意図せず隣の男性に寄りかかる形となった。アスタロトに押された男の方は踏み止まったが、その表情は明らかに迷惑そうだ。彼は魔王の方を一瞥すると、わざとらしく舌打ちしてから視線を手元の機器へと戻した。そんな態度の出し方に怒りを覚えた彼女が男の首元を掴もうとした瞬間、メルが忠告を発する。
「そこまでにしておいてください。あと、今止まったこの駅は結構人が乗ってくるので、周りには気をつけてくださいね。かなり圧縮されちゃいますから」
「さらにヒトが入るだと……!? この箱にこれ以上の余裕はないのだぞ!」
アスタロトの顔が青ざめた。既に箱の内部はこれ以上入らないほどにヒトが詰め込まれている。それでも外にはこれから乗り込もうとする者達が大勢見えていた。取手のない扉が独りでに開いた瞬間、列になった人間達が無表情のまま雪崩込んでくる。
「お、押すでない! これ以上は無理と言っているだろう!?」
混雑率250%を超えた満員電車の中で魔王は悲鳴をあげることしかできなかった。その豊満な体付きのせいで圧迫感が先程の比でなくなっている上、周囲から容赦なく押し込まれた事で身体が若干浮いている。油断すると今にも足が攣りそうな状態だ。片や子供1人分の空間を確保しているメルは相変わらず余裕のある表情で佇んでいた。
「あと半時間くらいはこんな感じです。慣れればそんなに辛くは無いんですけども」
「ま、待て……もう十分だ! 余はお前の世界を十分に理解した! 早くこの幻を解除しろ!」
「まだまだ始まったばかりじゃないですか。これから職場に出社して、山積みのお仕事を消化しないといけないんですよ? ついでに終電で帰るコースも再現できますので、お楽しみに♪」
そう言ってニッコリと笑うメルに、アスタロトは久しく忘れていた絶望という名の感情を想起したのであった。
――約18時間後――
仮想的に造られた異界の都市――深夜を迎えても尚明るい摩天楼の頂上で、ぐったりとした魔王の頬を冷たい風が撫でる。ほぼ丸1日に渡ってメルの記憶を追体験した彼女の顔はやつれており、精神を削ぎ落とされたかのような表情を見せていた。肉体に対するダメージには強くとも、高濃度のストレスに対しては無力だったのだ。激務の疲れが出ているのか、力なく鉄柵にもたれ掛かるその背には哀愁が漂う。
「……これでお前の望みは果たせたのだろう。契りは守ってもらうからな」
「ええ、ありがとうございます。おかげで異世界の事がある程度分かりました」
眠らぬ都市を見下ろすメルを横目に深い溜息を付くアスタロト。彼女は少女が再現した異界での日常に耐えられなくなり、自らが持つ世界の知識と引き換えに精神世界からの開放をメルに約束させていた。創造主である女神との確執、魔族の成り立ち、帝国を支配していた目的――どれも魔王にとってはどうでもいい情報だったが、何故かメルはそれを知りたがっていたのである。
「……1つだけ聞かせろ。何故余から情報を引き出そうなどと思い至ったのだ? お前に利する内容など何もなかっただろう」
「実は私達、何も知らないままこの世界にやってきたんです。生活している中で文化や風習はそれなりに分かってきましたけど、歴史だけが全然わからなくて困っていました。でもアスタロトさんは最初に出会った時、古い過去の話をしてくれましたよね。だからこの人ならその辺りについて詳しく聞けそうだと思ったんです」
「なんと下らぬ……好奇心からの望みであったとはな。だが敵対する者の言葉など、そもそも信用できぬのではないか?」
「確かにアスタロトさんが玉座で喋っていた内容は半分くらい嘘でしたけど、ここで話して貰った事は全て真実のはずです。NeCOの心象世界では想った事を素直に口にしてしまうっていう設定があったので、それをイメージしてここにも定着させていました。NeCOのプレイヤーなら気付いたかもしれませんが、アスタロトさんはそんな事思いもしなかったでしょう?」
「真実しか話すことができない……だと? まさかお前ッ!?」
メルの返事を聞き、この茶番が最初から仕組まれていた事に勘付くアスタロト。これまでの会話において彼女が自らの言葉を欺くことが出来なくなっていたのは事実だ。そもそも、それを指摘されるまで言葉を偽るという意識すら消えていた。少女が言う通り、まさしくこの領域には言葉を縛る制約が付与されていたのである。
「余は踊らされていたというのか、この小娘に……!」
もし嘘を封じられていることが事前に分かっていれば、虚偽に当たらない部分だけで受け答えを済ますこともできたし、いっそ口を閉ざす等いくらでも遣り様はあった。メルが複数回に渡って"NeCO"という異界の知識を問い質していたのは、その制約を知っているか否かを確認するためだったのだ。精神世界の性質を一瞬で掴んだだけでなく、それを利用して知略まで巡らせていた少女にアスタロトは畏怖の眼差しを向ける。
「馬鹿な……余が与えた情報だけでそこまで考えが及んでいたというのか! だ、だが偽りの言葉を使えぬのはお前も同じはずだ。交わした契に従い、この世界から解放してもらうぞ小娘!」
「ええ、それは約束どおりに果たしますよ。決着は現実の世界でつけましょう。私のお友達と一緒に!」
そう告げるとメルは再び書架を呼び出した。固い灰色の床から生えるように出てきたそれに、少女は抜き出されていた赤い1冊を差し込んだ。すると再び周囲の風景が歪み始め、役目を終えた幻想の世界は氷が砕けるようにパラパラと音を立てて崩れ始める。その破片が放つ眩い光で視界が真っ白になった直後、アスタロトの意識は途絶えたのだった。
――皇城 黒竜の間――
魔王によって形成されていた暗黒の空間が弾け飛び、その中から2人分の人影が現れる。1人はアスタロト本人だ。白き深淵からの帰還を果たした彼女は手足を動かし、自身の身体に何の異常も生じていないことを確認した。
「ようやく現実世界に戻ってきたのか、余は……」
「お互い、無事に戻れたようですね」
彼女の眼前にはメルもいる。首元の鈴を鳴らしながら戦闘準備を始めるその姿を見て、アスタロトは全身に魔力を滾らせた。この少女は精神世界での宣言通り、ここで決着を付けるつもりなのだ。魅了や肉体の支配では配下へ引き入れる事が出来ないと判明した今、純粋な暴力で捻じ伏せるしかない――そう魔王が思い至った矢先、メルの周囲に仲間達が駆け寄った。
「メル、大丈夫!? 黒い球体に飲み込まれた後、声も聞こえなくなったから心配したじゃない!」
「ふぅ、無事そうで安心したよ。ちなみに魔王が影から襲ってきた後、ココノアはずっとメルに声を掛け続けてたんだ。まだ30分も経ってないと思うけど、かなり声を張り上げてたからちょっと喉が枯れ気味なんだよね。回復魔法で治してあげてほしいな」
「ん……2人共待って。あたしみたいに操られてるかもしれない。油断大敵だよ」
三者三様の会話を繰り広げる友人達に、メルは八重歯を見せてニッコリと笑う。そして薄い胸をポンと叩き、自身が健在であることを伝えた。
「ただいまなのです、みなさん。私は操られたりはしてませんから心配はご無用です! その証拠に、NeCOのメインストーリーの結末でもお話しましょうか?」
その言葉を聞いてリセは安心したように微笑んだ。精神世界における時の流れは現実と大きく異なっているため、アスタロトが過ごした異界での1日もここでは僅かな時間に換算される。そんなしばしの別れでさえ惜しみ、互いに再会を歓ぶ少女達の光景は魔王にとって眩しいものだった。
「仲間、か……」
誰にも聞こえないほどの小さな声で呟くアスタロト。彼女の力を恐れ、言われるがままに従う同胞は多かったが、それらとの関係はあくまで主人と下僕の関係に過ぎない。メル達が交わす親愛の情もそこには存在していなかったのだ。人間同士の関係が恐ろしく希薄なあの世界で、どうやって少女達がここまでの絆を育むことができたのか、魔王には不思議でならなかった。故に勝利したあかつきにはそれを聞き出してやろうと心に決める。
「……異界の勇者達よ、もう小細工はせぬ。正面からぶつかり合おうぞ! 余の力、その身に刻むが良い!」
アスタロトの全身から黒いオーラが放たれた。それによって元々破壊されていた室内に強い衝撃が走り、音を立てて崩れ始める。いくつかの柱は音を立てて傾いたがその場にいた者達は気にも留めなかった。それぞれが戦いの構えを取り、引き締まった顔つきで魔王と対峙する。
「ココノアちゃん、レモティーちゃん、リセちゃん……準備はいいですか?」
「もちろん、いつでもいいわよ」
「こっちも大丈夫さ。ボク達のコンビネーションをみせてやろう!」
「ん、いつでもいける」
3人の返事を聞き届けたメルは、アスタロトに向かって「行きます!」と力強く叫んだ。同時にリセが正面に飛び出す。神速の名を冠する刹那の斬撃が魔王の眼前へと迫った。
「無駄だ! 余には物理干渉を無効化する魔法があるのだぞ!」
輝く剣閃を受け止めるべく、アスタロトは魔力を帯びた左手を突き出す。掌には力学的エネルギーを相殺する術式を圧縮展開しているため、いかに鋭い剣であっても触れた瞬間に鈍らと化すはずだった。しかしリセは寸前で剣を引っ込め、身体を回転させて攻撃の向きを変える。そして魔法が付与されていない肘の方を狙って斬り上げた。
――ザシュ!――
紫色の鮮血と共にアスタロトの腕が宙を舞う。フェイントを掛けられたことに気付いた彼女はリセに連続して攻撃を叩き込まれる事を警戒し、床を蹴って後ろに飛び退いた。だがそこには既に無数の魔法弾が迫っていたのだ。動きを完全に読まれたと、魔王は唇を噛む。
「ぐぅぅッ!?」
輝く弾丸が魔王の身体へと撃ち込まれた。ココノアが放った魔法はどれも拳大ほどの大きさではあったが、一撃一撃の魔力密度が異常なほどに高く、魔法防御を高めた皮膚を無視して貫通してくる。避けきれなかった魔弾が血肉を穿ち、アスタロトに激痛を与えた。
「やるではないか……だが、この程度で余を倒せるなどと思うな!」
怒りが篭った台詞と共に、彼女は残った右腕で近くに転がっていた瓦礫を掴んだ。砕けた柱の一部であるそれは相当な重量を持っていたが、剛力を誇る魔王にとっては手頃な投擲武器と化す。1メートル近い石片を掴んだ腕を豪快に振り抜き、当たれば即死間違い無しの質量弾をココノアへと放った。詠唱による硬直を狙いすました一撃は転移魔法を発動させる間も与えない。
「ココノアちゃんは私が守ります!」
攻撃を素早く察知したメルが瓦礫の正面へと飛び出した。友人が回避できないのを把握した上でフォローに回ったのである。質量差にも臆することなく突き出された拳は石塊を穿ち、木端微塵に砕いた。だがアスタロトの攻撃はまだ終わらない。今度は魔力圧縮を施した黒い球体を作り出し、メルに向けて撃ち出した。
「捻れ蔦の護り繭!」
レモティーの声が響くと同時に深緑の繭がメルを覆う。あらゆるダメージを肩代わりするという蔦の効果により黒球の衝撃が打ち消された。守られていたメルは依然として健在である。
「幼女ばっかり狙うなんて感心しないなぁ! 万緑の暴風!」
術者が持つ金色の髪を巻き上げるようにして、鋭利な刃を持つ樹葉が放たれた。猛々しい緑の嵐はアスタロトを取り囲むと、その全身をあらゆる角度から切り刻む。紫の体液で床を染めながら彼女は怒りの咆哮を吐き出した。
「貴様らぁぁぁ!!」
灼けるような痛みが、魔王としての本性を呼び覚ましていく。アスタロトが身体の損傷を伴う戦いに身を投じたのは女神との決戦以来だった。久しく闘争を忘れていた肉体が、強者と渡り合うために全盛期の姿を取り戻し始めたのだ。
「異界の勇者共よ! これが最強の魔族たる余の真なる力だ!」
頭部から突き出た角が肥大化し、口元からは長い牙が飛び出す――より獣に近い形態へと変化したその風貌は、魔獣と呼ぶのに相応しい荒々しさを具有していた。美しい女性の躰は見る影もなくなったが、代わりに失われた左腕は再生しており、以前よりも逞しくなっている。
「余を本気にさせた報い、その命で贖えッ!」
金色の瞳を光らせ、アスタロトは両手を掲げて複数の魔法を並列発動した。二重詠唱 を上回る、三重詠唱により、炎・電撃・氷の上位魔法が炸裂する。大きな魔法陣と共に出現した雷雲により頭上からは稲妻が降り注ぎ、周囲には凍てつく猛吹雪が吹き荒れる。そして正面には津波の如き火焔が這い寄るという回避不能の状況――メル達に絶体絶命の危機が訪れた。
「上からの攻撃はボクに任せてくれ!」
いち早く反応したレモティーが崩れかけた天井に向かって蔦を這わせる。それらは蜘蛛の巣状に枝分かれし、メル達を雷雲から守るが如く広範囲に展開した。張り巡らされた蔦は避雷針と同様の役割を果たすことで、雷撃を漏らすことなく全て受け止めたのだ。続けて、長剣を構えたリセが灼熱の炎波を迎え撃つ。
「いくよ――無限の剣閃」
リセの放った幾多の剣閃は銀色の嵐へと姿を変え、燃え盛る猛火を容赦なく切り刻んだ。衝撃波だけで城の大広間を半壊させたその火力は凄まじく、床ごと炎波を吹き飛ばしてしまう。放った魔法のうち2種類が無効化されたことで、アスタロトの正面はガラ空きになった。次に攻撃を仕掛けてくるのはリセか、それとも他の誰かなのか――周囲を警戒していた魔王の視界に、手を繋いだメルとココノアの姿が映り込む。
「メル、この辺でいい?」
「ええ、バッチリです! それでは覚悟してください、アスタロトさん!」
転移してきた少女は魔王に逡巡する間も与えず、その角に狙いを定めて強烈な回し蹴りを放った。2本のうち片方が鈍い音と共に砕け、鉱石を思わせる黒い破片が床に散らばる。
「ぐあッ……しまった!」
アスタロトは防御が遅れたことを後悔した。魔族にとって角は闇属性の魔力を操作するための重要な器官だ。時間をかけて再生すれば元に戻るが、しばらくは彼女が得意とする亜空間の魔法が使用不可能になる。それは安全にこの場から逃れる手段が無くなったことに等しかった。
「……小娘、余を逃さぬつもりか!」
「ええ、心の世界で色々と話を聞かせて貰いましたから! ついでに残った方も破壊します!」
心象世界で魔族の事について話した際、角があることで高難易度の闇魔法が行使できるという情報を漏らしていた事が仇となる。執拗に狙われる角を防御しようとするが、物理法則を超えて繰り出される猛攻の前には成す術がなかった。しかも手薄になった両サイドからはリセとココノアが同時に攻撃を仕掛けてくる。手数で押されたアスタロトは残りの角も破壊されただけでなく、満足に動けなくなるほどに消耗させられる結果となった。
「馬鹿な……!? この圧倒的な強さは一体何だというのだ!」
隙の無い連携で攻め立ててくるパーティに彼女は狼狽える。これまで戦ってきた異界の勇者も相応の力を誇っていたが、単身では驚異にもならなかった。だがメル達は力を合わせる事で戦闘力を何倍にも増幅させており、魔族の頂点に立つ魔王すら圧倒している。全力を出しても尚、少女達に打ち勝つ未来が見えなかったアスタロトは一時退却を選ばざるを得なかった。
「貴様ら……この屈辱は忘れんぞ!」
捨て台詞を吐くなり、魔王は背中から大きな黒翼を生やした。そしてその羽ばたきをもって、周囲に土煙を引き起こしたのだった。視界を奪われたことでメル達はその姿を見失う。
――ガシャァァァン!――
突如天井の一部が崩れた。アスタロトが城の屋根を突き破り、空へと逃れたのだ。ぽっかりと口を開けた天井を見上げると、ココノアとメルは顔を見合わせる。
「メル、転移魔法で屋根まで連れて行くから、"カーディナル"を使って翔んで!」
「私も同じ事を思っていたところです! お願いしますね、ココノアちゃん!」
想いを1つにして、互いに手を固く握り締める2人。少女達はこの戦いに決着を付けるべく、灰色の空へと向かうのであった。
――皇城上空――
空高くまで舞い上がったアスタロトは、ヒト達の反転攻勢が強まる帝都の状況を見下ろしていた。人質を解放されてしまった上に殆どの魔物が討たれた今、魔王軍の敗北は必至である。
「……潮時ということか。今回だけは余の敗けを認めてやろう」
暗雲を背にした魔王は黒竜の間があった建屋へと視線を落とす。操ったリセをメル達にけしかければ労せず勝てるだろう――そんな甘い考えがそもそもの間違いであった。いくら強大な力をもつ剣士と言えど、同郷の勇者3人を相手にするのは無理ああったのだ。次回は1人ずつ確実に葬らなければと、復讐心に刻み込む。
――チリン、チリン――
ふとアスタロトの耳に鈴の音が響いた。顔を引き攣らせた彼女は聞き覚えのある音がした方向に焦点を合わせる。
「まさか追ってきたというのか……!?」
白翼を備えたメルが飛翔してくる姿を目撃し、魔王は言葉を失った。猫の獣人が飛ぶことができるとは微塵も思っていなかったのである。彼女は急いで帝都を離れようとしたが、その計画はすぐに頓挫した。いつのまにか七色に輝く障壁が城の上空に形成されており、行く手を阻んでいたからだ。
「この防壁、古代の兵器か!? 小賢しいヒト共がァァァ!」
壁を構成する魔力を分解吸収することで打ち破ろうとしたアスタロトであったが、属性が常時変化しているため容易には解除できなかった。今までこんなものは無かったではないかと壁を殴りつけ、激しく憤る。つい先程ファベル率いる技師部隊が防衛機構の修復を成し遂げていたことなど、彼女が知る由もなかった。
「これで終わりにします! 物魔反転――!」
神秘的な輝きを放つ翼を羽ばたかせ、メルは一直線にアスタロトへと迫る。握り締められたその右拳にはこれまで見たこともない異質すぎる力が渦を巻いていた。目の前で世界の理を書き換えられているような悍ましさすら感じ、魔王は恐怖で顔を歪ませる。
「ま、待て! もし余が滅することがあれば、世界各地にいる魔族達が勢力争いを始めるはずだ! そうなれば世界に混乱が広がる事になるのだぞ!?」
「その時は全部私達がやっつけるので大丈夫です! それじゃ私のとっておき、受けてもらいますよ――闇を滅する神の裁き!」
スキルの発動により、眩い光が空を照らした。カーディナル最高の威力倍率を持つ聖属性魔法は物魔反転の効果を受け、メルの拳へ凝縮されたのだ。大陸すら消し飛ばしかねない膨大なエネルギーを宿した究極の素殴りが、アスタロトの顔面を捉える。
――ドォォォォン!!――
子供の拳から生じたとは思えない壮絶な衝撃が空と大地を揺るがす。それによって頭上を覆っていた分厚い暗雲は一斉に吹き飛び、空の果てへと消え失せた。さらには帝都中で燃え盛っていた残火にも作用し、瞬く間にその全てを鎮めたのである。輝きを伴った波動はデクシア帝国領だけに留まらず世界中へと拡がり、そこに生きる命達に天変地異を予感させた。
(これが……死か……)
辛うじて残っていた意識で自らの滅びを実感するアスタロト。既に身体は崩壊しており、殆ど精神体だけで命を繋いでいる状態だ。こうなればもう死を待つしかない。今際の刻を迎え、魔王の魂には旧き記憶が呼び起こされようとしていた。
(そうか……お前は……あの女神と似ていたのだな……)
この世界から消え去った創生神――その存在と同じ髪色と翼をメルが携えていたことに彼女は気付く。肉体の年齢こそ違えど、メルの姿はかの女神と見紛う程に似ていたのだ。その事実から導き出される仮説――その真偽を問う前に、アスタロトという魔族の存在はこの世界から完全に消滅した。古代より人々を脅かしてきた巨悪は異界から来た少女によって討たれたのである。
「わぁっ、綺麗な夕日です! ココノアちゃんにも見せてあげないと!」
空をオレンジ色で染める美しい夕暮れにメルは目を輝かせた。雲1つない澄んだ空は魔王討滅を伝える導となり、終戦を迎えた帝都に鳴り止まぬ歓声を呼ぶ。こうして終幕の魔城作戦は成功を収め、その名が示す通り魔王が支配していた帝国の歴史に幕を閉じたのだった。




