006.異世界研修②
セロの館は広大な敷地を擁しており、館の裏手には魔法の実験を行うための専用スペースが設けられていた。庭園内は整えられた芝が覆っているのに対し、この区画は平らに整地された場所に長方形の石板を敷き詰めただけの簡素な見た目である。くすんだ灰色に染まった石板群はどれもひび割れや欠けがみられ、これまで過酷な衝撃が幾度となく加えられたことが窺い知れる。さながら古戦場跡にも見えるそんな場所には似つかわしくないメイド服の美女と、獣人の少女が対峙していた。2人は10メートル程度の距離を開けて、互いに向き合っている。
「本日は久しぶりに模擬戦形式の特訓とさせていだきます。私に勝利することができれば、合格と致しますね」
「ええ、よろしくお願いします! リエーレさん!」
リエーレは黙したまま一礼した後、静かに息を吸い呼吸を整えた。そして両手で長尺の木剣を構える。訓練用とはいえ、彼女が得意とする長剣を模して作られたそれは、刃渡り部が1m程度あるため、身長160cm程度のリエーレが持つと数字以上に長く見える。
「しかし本当に素手でよろしいのですか? ご希望の武具をご用意致しますが……」
「いえ、これで大丈夫です! 試させてもらった武器はどれも向いてなかったみたいなので!」
何も手にしていない両手を元気よく突き出したメルに、リエーレは「ならいいのですが」と不安げな表情を向けた。これまで剣や槍、弓などの武器を用いた武術を教えたものの、手先が破滅的なほどに不器用だった彼女は素手による格闘術でしか戦うことができなかったのである。自分に師としての才がなかったのだろうと、心の奥でリエーレは自分を責めていた。しかし、それは資質の問題ではなく、NeCOにおける"メル"の器用さが低かったことに起因している事を彼女は知らない。
「では……参ります!」
それまで纏っていた温和な雰囲気が瞬時に切り替わり、神秘的な金色の瞳に気迫が灯った。メイド服越しでも分かる程に引き締まった全身の筋肉は、剣を構える事でより強調される。その姿には一分の隙も無く、生半可な戦士であればこの時点で戦意を喪失することだろう。
見た目こそ20代の人間族と変わらないが、ダークエルフである彼女の実年齢はその数倍を軽く超えていた。数十年に及び活動していた冒険者時代には剣士最強の一角にも数えられており、その腕前は今なお健在である。そんな彼女にとって、幼い獣人の子供など遊び相手にすらならない――はずであった。
――シュッ!――
たった一度の跳躍で、リエーレは対象との距離を詰めた。蹴られた石板は激しく沈み込み、掛かった力の強さを在々と示している。1秒に満たない時間で10m近い距離を縮めたリエーレの姿は、ともすれば転移魔法の使い手にすら見える。だが少女の赤い眼は迫ってくる木剣の切っ先を正確に捉えていた。衝撃波を伴うほどの速さで突き出された一撃を上半身を捻って避けた彼女は、お返しと言わんばかりに左拳をリエーレの胴体へ向けて叩き込む。
「くッ……!」
突進技へのカウンターとして近距離から放たれた拳は、熟練の戦士でも避ける事は不可能であっただろう。だがリエーレは空中に体を半回転させ、その力を外向きに逃した。結果、リエーレはダメージの殆どを逃がすことには成功したが、獣人の少女が繰り出す次の攻撃を避けきることはできなかった。
「まだ終わっていませんよ!」
腕を振りかぶった反動を利用した後ろ廻し蹴りがリエーレに襲いかかる。少女の幼い肉体はリーチの短さという致命的な欠点を持っていたが、驚異的な俊敏さはそれを補って余りある。回避することが不可能だと悟ったリエーレは咄嗟に木剣を盾にして防御するが、勢いを殺すことはできず、大きく宙に弾き出されてしまう。
「こ、ここまでとは……! メル様、お見事です」
後頭部で結わえた黒髪を激しく揺らしながらもリエーレは空中で体勢を整え、静かに着地した。常人ならそのまま石の床へ叩きつけられていた状況を、紙一重で回避できたのは鍛え抜かれた体捌きがあってこそだろう。
(初めは非常に未熟な印象を受けましたが……)
この館を訪れた頃に比べ、見違えるほどの実力を付けたメルにリエーレは感嘆せずにはいられなかった。セロから獣人の少女に体術を教え込むように指示された初日、そのあまりの稚拙さに目眩すらした覚えがリエーレの脳内に蘇ってくる。武器の握り方をロクに知らない上、多くの獣人族に見られるような格闘センスも持ち合わせていない。そして何より、彼女は戦うという行為を強く忌避する傾向があった。武術の基礎を教えられる段階に至るまで数日を要した程だ。唯一褒められる点があるとすれば、その異常な筋力と体力くらいなものだろう。
(それが、たった1ヶ月でここまで伸びるとは思いませんでした。おそらく今の彼女には、私が全力を出しても互角に戦えるほどの実力が備わっていると見ていいでしょう。ならば……!)
リエーレは深く呼吸をし、肺へ多くの空気を取り入れる。これから仕掛ける技を発動するために、全身に血と魔力を行き渡らせる必要があったからだ。かつて冒険者をしていた頃、巨大な竜すらも屠った必殺の剣技――それを以って、メルの力を見極めるつもりであった。
「それでは、これは如何でしょうか?」
麻の布を巻いただけの簡素なグリップ――それを浅めに握った褐色の指から、青いオーラが木剣の先端へと迸る。そしてリエーレが木剣を大きく振り上げると、その体を中心にして魔力が渦巻き初めた。それは肌を刺すような冷たい旋風を引き起こし、メルの髪を巻き上げるようにして吹き荒れる。
「む! 奥義的なやつですね!」
大技を察知したメルは両足の間隔を拡げて、衝撃に備える。さらに両肘を垂直に曲げて防御範囲を広くとる構えをとった。これは正面から来る頭や胸といった急所への攻撃を腕でガードするためのポジショニングであり、リエーレから習った格闘術の1つでもある。
「……全力で参ります!」
ドンッ、という衝撃と共にリエーレの足元にあった石板が沈んだ。人並み外れた跳躍力により彼女の体は一瞬にしてメルの目の前へと迫り、攻撃の間合いへ捉えた。
「氷結の鋭刃!」
覇気の籠もった声に呼応するかのように、氷属性の魔力が充填された木剣は空気中の水分を凍りつかせ、高純度のクリスタルのような透明な氷塊を纏っていく。そうして重量と攻撃力を増した氷の刃が、容赦無く獣人の少女へと振り下ろされた。
「正面から受け止めてみせます!!」
冷気を纏った氷剣の一撃を前にしたメルの行動はリエーレも想定していないものだった。彼女は両手の掌を広げると、振り下ろされた剣身を目にも留まらぬ速さで白刃取りした。ピタリと動きを止めた木剣は微動だにせず、リエーレがいくら力を込めようとも動かすことはできない。その状態からメルは腕を水平に捻じらせ、凍り付いて硬度を増していたはずの刀身を簡単に圧し折った。
――パキンッ!――
大きな音をたてて、粉々に弾け飛ぶ氷塊。武器に込められていた魔力は霧散し、冷気も消えてしまった。
(攻撃を避けもせず、受け止めた上で武器破壊を――!?)
予想していなかった事態を前にし、リエーレは判断が鈍った。メルが反撃で放った蹴り上げを避けることができず、腕に直撃を受けてしまう。手の先から力が抜け、強く握りしめていたはずの折れた木刀は宙を舞って石板へと叩きつけられた。
「な……ッ!?」
「思ってたよりも上手くできました! これで合格はもらえるでしょうか?」
喜ぶメルとは対象的に、リエーレは唖然としていた。竜の鱗すら切り裂く一撃を受け止めたというのに、彼女の手には掠り傷1つ付いていなかったからだ。さらに言えば、木剣だったとはいえタイミングを外せば胴体が袈裟斬りになっていてもおかしくはない状況で、白刃取りを選択するその胆力も末恐ろしい。
「あ、そういえば結構力を入れて蹴っちゃいましたね。手は大丈夫ですか? 身体治癒!」
癒やしの魔法が発動し、痛々しく腫れていたリエーレの手首は即座に治癒した。腫れも痛みも瞬時に消え去り、後遺症すら残さない完全なる治癒術式――癒しの術に長けた聖教国の高位聖職者ですら為し得ない事を簡単にやってのける少女に、リエーレは畏怖の念すら抱く。
「……ええ、合格です。本日まで、本当にお疲れさまでした」
「やったー! こちらこそ色々教えていただいて助かりました! ありがとうございました!」
もはや冒険者としての実力で自分を上回っているメルに教えることはないとリエーレは悟った。あとはこの事を主人に報告すれば役目は終わりだが、一方でいくつか気になった事がある。このタイミングを逃せば聞けなくなりそうだと感じた彼女は、思い切って問い掛けた。
「メル様、お尋ねしたいことがあるのですか……」
「はい、なんでしょう?」
「なぜ私の振り下ろした刃を手で受け止めるなどと、危険な事をなさったのですか? 私もお怪我をさせることはないように、直前で止めるつもりではありましたが……」
「さすがに本物の剣だと怖く感じたと思います。でも木製の剣でしたし、凍ってた分だけ的が大きくなってたので、受け止めて折っちゃうほうがいいと判断したんです。それに自動治癒があるので、もしケガしたとしてもすぐに治っちゃいますから!」
「そ、そうですか……」
あっけらかんと話すメルに、リエーレは終始驚きを隠せなかった。確かに武器は木製であり、切れ味は皆無に等しいが、纏わせていた氷の刃は鍛えた鋼よりも硬いとされる竜の鱗を切り裂くほどの威力を持つ。そもそも、魔力で極限まで低温化された刀身に触れた時点で血肉が即座に凍りついてもおかしくはなかった。それを受け止めて怪我1つないのは、この世の常識では"有り得ない"事である。
(獣人族は古代にこの世を支配していた神獣にルーツを持つため、他のヒト種よりも筋肉繊維の密度と強度が格段に優れていると聞いたことがありますが……それでもメル様は異常すぎます)
神話の域に達する化け物じみた存在がいることは、彼女もよく理解しているつもりであった。冒険者時代には、そんな相手とも刃を交えたことがある。だが、それらはみんなヒトを辞めていたのだ。自分より頭1つ分以上も小さなこの少女が、そんな運命を背負っているのかと思うと、リエーレの胸には複雑な想いが渦巻いた。
「あと、あの技って二撃目がありましたよね? 踏み込みの勢いというか、次の攻撃の予備動作っぽい気配を感じたので、避けるよりも武器を壊したほうが安全かなって思ったのもあります」
「えっ……!?」
リエーレは思わず声を漏らす。メルの指摘通り、フリージング・エッジの真価は初撃ではなく追撃にあったからだ。最初の斬撃を武器や盾で攻撃を受け止めれば凍り付いて行動不能になるし、避けたとしても急速に冷却された大気から氷の礫が無数に放たれるため、決して浅くはない傷を負うことになる。そうして動きが鈍くなったところを、裏刃で斬り上げて不可避の一撃を与える――これが彼女が編み出した奥義の全貌であった。
(まさか、見抜かれていたなんて)
鍛錬に鍛錬を重ねて編み出した必殺の剣技が、初見で攻略されていた――その事実を知り、リエーレは驚くどころか笑ってしまいそうにすらなる。
(ふふっ……センスが無いなどと、私の目は随分と節穴だったようです。才能の塊ではないですか、彼女は)
一方のメルには、そう難しい事をしたという自覚など無かった。というのも、NeCOでは調整不足で実装されたボスが放つ即死級の強攻撃にプレイヤー側が知恵を絞って対処する必要があり、その一環として予備動作の僅かな違いを見極めて反応するというプレイが求められていた。彼女はその経験をこれまでの特訓で知り得たリエーレの動作特徴に当て嵌め、対応していたに過ぎない。もっとも、それが出来たのは他人の行動の機微を正確に読み取ることを可能にした類稀なる観察眼があってこそであるが。
「さて、体術の技能訓練を本日で終えたことは、私から主にお伝えしておきますので、今日はもうお部屋に戻っていただいて結構ですよ」
「リエーレさんのおかげで、この世界で生きていく自信もつきましたし、感謝してもしきれません。本当に色々と、ありがとうございました。では失礼しますね!」
そう言うとメルは踵を返し、館へ向けて歩き出した。出会った時よりも少し大きくなったようにも見える少女の背中を、じっと見つめるリエーレ。
「……メル様なら将来、とんでもない偉業を達成してしまうかもしれませんね」
そう呟く彼女の口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。