005.異世界研修①
――時は流れ、約1ヶ月後――
鬱蒼と茂る森林の深部――普通の人間なら寄り付きもしない僻地に、外界を拒むかのように高い塀に囲まれた館が佇んでいた。一見誰も住んでいないようにも見えるが、庭園は手入れが行き届いており、季節の花々が咲き乱れている。建屋も派手さこそないが、欄干や柱に細やかな装飾彫りが施され趣向が凝らされていた。これだけの豪邸を維持できるのは、ごく一部の高位貴族くらいなものだろう。
だが実際にそこで暮らしているのは魔法の才に秀でた変わり者の青年と、彼に付き従う1人の侍女だけであった。ただ1ヶ月前に元気の良い少女が2人招かれたため、前に比べるとやや賑やかになったかもしれない。
「おはようございます、ご主人さま。朝食をお持ちました」
窓から射し込む眩い朝日を眺めていた銀髪の青年に一礼して、古風なメイド服に身を包んだ侍女が朝食をセッティングする。すぐに部屋の中には焼き上がったばかりのブレッドの香りが漂い始めた。食事が載せられたプレートには他にも温かいスープや燻製肉をソテーしたもの、朝摘みされた葉野菜と果物が盛られた小皿も揃っている。細身ながらも2m近い長身を誇る彼には少なすぎる量にも思えるが、それで十分であることを侍女は理解していた。
「リエーレ、今日も獣人の指導を頼む。俺はエルフの方に付き合うつもりだ」
侍女が引いた椅子に青年が静かに腰を降ろした。ダークブラウンに染まったスラックスに白いドレスシャツを合わせ、上品なチャコールグレーのジャケットを羽織ったその姿は、瀟洒な青年実業家を思わせる。
「かしこまりました。お二人にはそのようにお伝えしておきます」
リエーレと呼ばれた女性――褐色の肌に長い耳を持つダークエルフは、主人に再び頭を下げてから部屋を立ち去った。豊満なバストと女性らしい魅力的なラインを描くヒップ――それとは対照的に彼女の腰や脚は引き締まっており、歩き方にも無駄が無く美しい。後頭部で結わえられた艷やかな黒髪は臀部に届くほどに長いが、階段を降りようとも決して腰の幅以上に揺れることはなかった。彼女の洗練された歩き方によるものだろう。
次にリエーレが向かったのは、館の1階に備えられた来客用の空き部屋であった。これまで滅多に使われることがなかったその部屋は、獣人の少女とエルフの少女が貸し切りで使っている。彼女が知る限り主人が他人を館に住まわせるのは初めてのことで最初はリエーレも少し戸惑ったが、優秀なメイドである彼女は少女達の扱いにもすぐに慣れた。
「失礼しますメル様、ココノア様。ご朝食をお持ちしました」
「おはようございます、リエーレさん! 今日も美味しそうなご飯ですね!」
リエーレが食事を卓に並べるなり、華やかなピンク髪の少女が駆け寄ってきた。館の主が与えた衣服を身に着けた彼女は、最初に見た時の印象とは随分と異なって見える。最初は奴隷でも拾ってきたのかと見紛うくらいに見すぼらしい格好であったのに、今ではこの館にも相応しい品位のある身なりとなっていた。魔力を持つ蜘蛛の糸で紡がれた極上のシルク――それを惜しげもなく使って作られた淡い紫色のドレスはフリルを多用した可愛らしいデザインに仕上がっている。しかしその一方でスカートは短めに、かつ脇や肘といった関節部には生地が無い構造となっており、激しい動きにも対応できるように工夫が施されていた。
「おはよう。セロは今日も魔法の特訓に付き合ってくれるって言ってた?」
「ええ、そのように伺っております」
獣人の少女に少し遅れて、エルフの少女も席に着く。リエーレとは異なり彼女の肌は雪のように白かった。しかし髪の色はエルフには珍しい亜麻色をしている。恐らくは他種族との混血なのだろうと考えていたが、リエーレがそれを口にすることはない。混血種、とりわけ寿命に大きな差がある種族から生まれた子が往々にして深い悲しみを背負う事を彼女はよく知っていた。
「飽きないね、あいつも。筋金入りの魔法オタクだよ、あれ」
「ココノア様が来られてから、主は生き生きとされておりますよ。初めて見る魔法に興味が尽きないのでしょう」
ココノアは「そんなに面白いものなのかな」とつぶやきながら、食器の準備を手伝い始める。客人にそのような事をさせるのは侍女として情けない事ではあるのだが、彼女達は自分の事は自分でやりたいと言って聞かないので渋々承諾していた。
「まだ熱いので、火傷などしないようにお気をつけください」
「はい! いただきます!」
「いただきます」
彼女達がやってきたばかりの頃、食事の前に手を合わせるのは獣人特有の文化なのかと思っていたリエーレであったが、エルフの少女も同様の仕草をしていたので、すぐにその考えは消え失せた。見慣れた今ではそれがあたかも自然な所作のようにも思えてしまう。
「やっぱり、リエーレさんの味付けは最高ですね! 素材の味を活かしつつ苦味や臭みは消えてて美味しいです!」
「ありがとうございます。主が偏食気味なもので、味付けには少々工夫を……」
頭上にある三角形をした獣の耳をしきりにぴょこぴょこと揺らしながら、屈託のない笑顔で感想を述べるメルにリエーレは微笑みをもって礼を述べる。館の主人は彼女の作る料理にいちいち感想など言わなかったので、ここしばらくは彼女の反応が楽しみの1つになっていた。
「そうだ、この服の礼をセロに言っとかないとね。着心地は文句なしだし、集中力が高まる気がするんだよね」
「そう仰っていただけるのであれば、主もお喜びになられるでしょう」
「絶対これ高級品だろうし、洗う時も気をつけないとなぁ……」
そう話すエルフの少女が身につけている衣服もまた、この館の主人が用意させたものだ。自身が持つ魔法耐性に優れた真紅のローブと同じ素材で作られたケープレットとスカート、そして純白のブラウスの組み合わせは、実用性だけでなく貴族の子女も羨むほどの可憐さを兼ね揃えていた。
特にこのブラウスには市場でも滅多に見ることができない希少な獣の毛を編み込んで作られた生地を使っており、上質な肌触りを持つ。また細かな繊維で体を包み込むことで内する魔力を維持しやすく、魔法の発動を補助する効果もあるという。そんな逸品を惜しげもなく提供したのは主人のココノアに対する期待の表れなのだと、リエーレは理解していた。
「そういえばリエーレさん、今日も午後から戦闘訓練をしてもらえるんでしたっけ?」
「ええ、もちろんです」
「今日こそは認めてもらえるようにがんばりますね!」
魔法の才を主に認められたココノアと異なり、メルの方は体術を鍛えるべくリエーレが指導に当たっている。元冒険者として数々の任務に当たっていた彼女は幾度となく死地を潜っており、その腕は近隣諸国でも知らない者がいないほどには高く評価されていた。
(最初はどうしてこんな幼い子に実践級の鍛錬をつける必要があるのかと思っておりましたが……)
リエーレのスパルタ気味の指導にもめげず、メルは確実に力を身に付けている。体術の才があったわけでもなく、飛び抜けたセンスの持ち主でもない彼女であったが、肉体の強靭さと俊敏性にはリエーレでさえ眼を見張るものがあった。それも獣人だからという理由だけで説明できない何かを感じるほどには。
「はー、美味しかったのです! ごちそうさまでした!」
「ん、ごちそうさま」
食事を終えた2人の少女に手拭き用のナプキンを渡すと、リエーレは使い終わった食器を丁寧にプレートへ重ねていく。
「食器は私の方で片付けておきますので、お二人は主の書斎へ」
「いつもありがとうございます、リエーレさん。それじゃあココノアちゃん、行きましょうか」
館の主人の書斎は2階にあった。メルとココノアは毎日のように青年から魔法に関する講義や、この世界の知識について説明を受けている。いわば異世界研修ともいえる学びの機会を得たおかげで、彼女達はこの世界に生きる者と同程度の知識を身につけることができていた。ただ1ヶ月で詰め込める量には限界があるため、あくまでも基本的な内容のみではあるが。
「セロさん、入ってもいいですか」
「構わん、入れ」
ドア越しに聞こえてきた声に「失礼しますね」と返事し、メルは書斎へと踏み入った。所狭しと並んだ本棚には隙間がないほどに様々な書籍が収められており、あぶれた本のいくつかは床に直置きされている。そんなぞんざいな扱いをされている本もあるものの、書斎はいつもカーテンが締め切られていた。部屋の主曰く、本が傷むのを防ぐため、らしい。
故に昼間でもその部屋は薄暗く、常に明かりが灯されていた。明かりといっても火を使うようなランタンではなく、電気を用いたランプでもない。魔法で生み出した火の精を使った、半永久的に光を生む魔道具だ。
「ほら、さっさと座れ」
本棚に囲まれた部屋の中央――重厚な黒色をしたテーブルに、セロは座っていた。リエーレがこまめに手入れしているためか、ホコリが目立つ色合いであるにも関わらず、テーブルが汚れているところをメル達は見たことがなかった。
「昨日はこの国における魔法体系について話したから、今日は聖教国で生まれた癒やしの術法について説いてやろう」
「はーい!」「眠くならない程度でお願いね」
そうして始まった講義はメルとココノアだけでなく、セロにとってもそれなりに有意義な時間になっていた。というのも少女らが繰り出す質問や意見が彼の考え方の幅を広めるのにも一役買っていたからだ。もっとも、それは彼女達が別の世界で一定水準以上の教育を受けていたためでもあるが、彼がそれを知る由もない。
――数時間後――
太陽が最も高く登る頃――午前と午後の境目で少女達の研修は一旦終わりを迎えた。静かな森の館はにわかに騒がしくなる。昼食の時間となるからだ。一旦客室へ戻ったメルとココノアはリエーレが作り置きしていた食事をとり、午後からはそれぞれ別行動になる。メルはリエーレと体術の特訓を、ココノアはセロと魔法の特訓を行う予定だ。
「わぁ、美味しそう! いただきます!」
朝食よりも品数が増えて豪華になったプレートを前に、メルは嬉しそうに尻尾を揺らした。そんな彼女を横目で見ながら、ココノアは呆れたとばかりに溜息をつく。
「はぁ、呑気でいいねメルは。覚えないといけない事山積みで、うちは頭が痛いってのに」
「ええっ!? わ、私もちゃんと勉強はしてますから! それに、基本的なところは地球と変わらないっぽくて、戸惑う要素はあんまりないと思いますけど?」
メルとココノアが元居た場所と、この世界は非常に似通っていた。空には太陽と月が交互に登ること、海で大地が頒かたれていることや、年月や時間の概念があり1日が24時間でカウントされること……そういった世界の根幹部分を違和感なく受け入れられる事ができたのは、彼女達にとって幸運であった。異なる世界での生活にもすぐ馴染むことができたのだから。
もちろん、全てが彼女達が生きる時代と一致していたわけではない。人々の生活、文化、宗教、政治の面においては"現代"と異なる。ただ彼女達が一般常識レベルで知っていた中世や近世との共通項を多く見出すことはできるため、セロの講義が耳に入りやすかったのは事実だ。
「まぁそうなんだけどさ。このランプ1つとっても、うちらの住んでた世界とは全然違うところもあるわけじゃない?」
そう言ってココノアが指差した先には、天井からぶら下がっているガラス製のランプがあった。窓から射し込む陽の光がある限りランプ内の火は消えているが、夜になり周囲が暗くなると火の精が目を覚まして勝手に火が灯るという魔道具の一種である。
「確かにあれは初めてみた時びっくりしましたね……」
今ではごく当たり前のようになっているが、メル達がこの館に来た頃は何に対しても驚くことばかりだった。館で使われる生活水は水の精霊によって地下水脈から吸い上げられたものであり、魔力に反応する鉱物で作られた取り出し口に手をかざすだけで清潔な水が出てくる、いわば異世界式自動水栓である。浴場に至っては火の精による加熱機構も施されており、浴槽の底に描かれた魔法陣から湯が湧いてくる。それらのおかげで快適な生活を享受できてはいるのだが、現代日本とは勝手が違いすぎて彼女達が戸惑うことは多かった。
「魔法で色々できる便利グッズが日常に溢れてるんだし、そりゃ機械とか作る必要ないわ」
「日本でも魔法が使えたら色々便利そうですよね……満員電車に乗らなくても会社へワープ出勤!なんて凄くいいかも!」
「そこで通勤の発想が出てくるあたりマジ社畜……」
この世界が地球と最も違う点、それは科学技術に変わって魔法という技術体系が進歩している点だろう。ここに生きる人々は体内に魔力の源を宿しており、生活に必要な動力や資源を魔法によって得ている。農業にすら魔法は深く関係しており、土の精と水の精を使って土壌改良すらやってのけることも、彼女達はセロから教わっていた。
「ごちそうさま。さてと、うちは軽く散歩してからセロのとこいってくるかな」
「そういえばココノアちゃんはセロさんとどんな事してるんですか? 魔法の特訓ってあんまりイメージが沸かないですけど」
「無属性魔法ってこの世界じゃ存在しないみたいでさ、セロが調べたいっていうから色々付き合ってあげてるんだけど、その代わりに魔力の操作方法とか他の魔法教えてもらう感じ」
「いいなぁ! ココノアちゃんだけ特別っぽくてずるい!」
「何いってんの、メルが使う回復魔法の方がよほどチートだよ。この世界じゃナントカ聖教に所属して神様とやらの加護を受けないと使えないっぽいじゃない。しかも1日に使える回数に制約あるとかも言ってたから、無制限で治癒だの状態異常解除だの蘇生だのできるメルは化け物みたいな扱いだよマジで」
「ば、化け物って言い方酷くないですかね!?」
尻尾を立てて抗議するメルに、ココノアは「冗談よ、冗談」と微笑みながら部屋を後にした。1人残されたメルは少し冷めたスープを啜りながら、考えを巡らせる。
(詠唱速度も遅くて魔力も低い私にやっぱり魔法は向いてないと思うし、やたら割り振ってた筋力と体力や、素早さを活かすためにもリエーレさんから学んだ戦いのコツを確実に習得しないと!)
プレートに載せられていた全ての皿を綺麗に平らげたメルは、食器を片付けてからリエーレの待つ魔法実験場へと向かうのであった。