048.奴隷船④
リギサン北西部にある海岸――そこに蜃気楼の如く出現した農園は、奴隷船から脱出した人々にとっての楽園であった。物資不足のせいで満足な食事を与えられずに酷い空腹に陥っていた彼らは、無我夢中で果物や野菜を掴み取り口へと運ぶ。その様子を農園の傍らで見守るようにしてレモティー達も昼食をとっていた。
「あんなに美味しそうに食べて貰えるなら、ボクも農家冥利に尽きるよ!」
「相当お腹減ってたのね……」
衰弱していた時からは想像もできない食欲旺盛な姿に、ココノアは驚いたように呟く。そして自らもリンゴを齧り、その味に満足そうな笑みを浮かべた。空腹でなくとも、口いっぱいに広がる蜜のような甘さと芳醇な果汁は一度口にすれば誰しもが病みつきになるはずだ。その証拠に動物性タンパク質を好む傾向が強い獣人族ですら手を止めることなく果物を食べ続けている。
「多めに種を仕込んでおいたから、しばらくは実が出来続けるはずだよ。彼らが満腹になる分は確保できるんじゃないかな!」
「ちょっと思うんだけど……ハーヴェストのスキルってNeCOだと微妙な扱いものが多かったのに、この世界じゃ滅茶苦茶輝いててズルくない? レモティーがいればこの世界の食糧事情がひっくり返りそうな気がするわ」
「あはは、そうかもしれないね。でも彼らの命を救ったのはやっぱりメルだよ。船の中じゃ弱って立つことも出来なかった人々が、あんな風に元気にしているのは回復魔法があったからだろうし」
ココノアは視線をメルに移し、「それもそうね」と微笑んだ。レモティーの隣でバナナを頬張っている姿は無邪気な幼女にしか見えないが、彼女が脱出者の命を繋ぎ留めた張本人である。過酷な環境で衰弱しきっていた彼らの肉体は回復魔法がなければ治癒できなかったはずだ。一部の者は細胞の壊死によって肉体の機能を失うほどに追い込まれていたが、カーディナルの力はそれらの問題も全て解決しており、目に見える外傷だけでなく内臓まですっかり元通りになっている。彼らが今こうして食事を楽しむ事が出来ているのはメルの存在があってこそだ。
「それに、メルのおかげでみんなボクの作ったモノを食べてくれるようになったからね。最初は全然手にとってくれなくて、どうしたものかと思ったよ」
そう言ってレモティーはつい先程までの光景を振り返った。農園を作り出した所まではよかったが、元奴隷達の大半を占めていた亜人は見慣れない植物を警戒して近寄ってこなかった。嗅覚に優れている獣人族は未知の香りに対して身構えてしまったし、エルフ族は植物に関する見識が深い分、未知の果実や野菜には非常に慎重だった。このままでは埒が明かないと悩んでいたのだが、そんな時にメルはたった一言で彼らの心を解したのである。
「この果物はですね……こうやって食べるのです!」
彼女はバナナの皮を丁寧に剥いて、齧り付いて見せた。そして美味しそうに白い果肉を味わう姿を堂々と披露することで、これは毒ではないと身をもって示したのだ。同じ亜人の少女があまりに幸せそうにバナナを食べていたので、亜人達も興味が出たのだろう。あれよあれよという間に、木に出来ていたバナナの房は消えていった。その後、彼らの興味がバナナ以外にも向いたことでこの果物狩りのような光景になったのである。
「ボク達の世界には当たり前のように存在していた植物だけど、この世界の人達には珍しいものだってことをすっかり忘れてたよ。率先してメルが害がない事を示してくれなかったら、こんなにすんなりと食べてもらえなかったはずさ」
「いや……あれは単純に自分が食べたくてやっただけだと思うけど……」
脳天気な友人がそこまで考えて行動したようには思えず、ココノアは複雑な表情を浮かべる。本日10本目のバナナを口に含んだメルを見つめながら、やっぱりこれはただの食いしん坊だと思ったのだが口には出さなかった。
「さてと、腹ごしらえも終わったし作業に取り掛かろう。崖を削ってリギサンまでの道を作るんだ! しばらくしたら日も傾いてくるだろうから急ぎでやろう」
「言われなくても最速でやってあげるわよ。でも作業自体はうちとレモティーがやるにして、メルはどうする? ここに残していくの?」
「あの船にいた奴隷商達のこともあるし、ここでみんなを守ってもらおうと思う。もし具合が悪くなったりしても、ヒーラーなら対処できるだろうしね。それでいいかな、メル?」
自分の事を言われていると気付いたメルは、慌てて残りのバナナを口に含んで唇をぺろりと舐める。
「私はお留守番ですよね? 大丈夫です、任せてください! あと湧き水があるって聞いてるので、そこでみなさんに身体を洗ったりするのをお手伝いしようかと」
「ああ、それはいいね。あの部屋に居たなら体は汚れてるだろうし、きれいにしたほうが精神的にもいいかもしれない。日光が当たってれば暖かいから寒くはないと思うけど、タオルが必要ならボクが作っていたのを提供してもらってもいいよ」
「この前レモティーちゃんが綿花を栽培して大量に作ったやつですよね! ポーチに収納してあるので、使わせてもらいます!」
メルは腰にさげた魚マークのポーチを自慢気に撫でた。その中にはレモティーが作った大量の綿タオルが保管されている。リギサンでは焼き討ちによって布などの生活用品が著しく不足していたので、ハーヴェストである彼女が栽培スキルと裁縫スキルを併用して綿布を大量生産を行っていたのだ。NeCOのスキルを使って生産品を生み出す場合、複雑な技術や機械は不要である。造りたいアイテムのイメージを浮かべるだけで材料と魔力が尽きるまで生み出すことが出来た。その手軽さのせいもあり、リギサンの住人全員に配っても余るほどのタオルが生み出されていたため、残りはメルが預かっている。
「よし、行こうかココノア。ボクはメルほど転移魔法には慣れてないから、間違っても落っことさないでくれよ?」
少し不安そうにレモティーが差し出した右手をココノアが左手で握り締める。一方、彼女の右手には空間転移魔法を支援する短杖が握られていた。魔法の師であるセロから門出の祝として受け取った杖は、透き通った青い魔石が先端に施されており、転移魔法の移動距離を伸ばす恩恵をもたらしてくれる。魔法自体は杖なしでも使えるが、転移を多用するようになった今では無くてはならない重要な装備だ。
「心配しなくても、手を離さない限りは落ちないわよ。大体、レモティーは落ちても蔦を使えば壁に貼り付いたりできるでしょ」
「まぁそりゃそうなんだけどさ。ボクも高いところから落ちるのはそれなりに恐怖を感じるんだよ。蔦だって絡ませる場所がないと無意味だしね。それにしても……」
急に言い淀んだかと思うと、レモティーは鼻息を荒くしつつ握った手の感触を確かめるようにフニフニと揉み始めた。
「ココノアの手って本当に小さいよね。それに柔らかくて可愛いなぁ! ずっと握り締めていたいくらいだよ!」
「このロリコン女……! 本当に海の真上で落としてやろうかしら?」
ジト目でレモティーを一瞥してからココノアは杖を掲げて転移魔法を発動させた。その直後、ココノアとレモティーの姿は地上から消え、上空20m近い場所まで転移した。吹き上げてくる海風に紅色のスカートを捲られても集中力を切らさず、ココノアは次の転移地点へと意識を向ける。転移魔法は術者が指定座標へと移動する術式であるため、連続で使う際は正しく空間座標を認識する能力が必要だ。彼女は眼前の景色を脳内キャンバスへ落とし込み、そこに移動地点の点列を擬似的に描くことで転移前後の認識ズレを補正するという高度なテクニックを駆使していた。
「ココノアはすごいなぁ……ボクは目が回りそうだよ……」
視界が次々と変化するせいで軽い車酔いのような症状を引き起こすレモティー。そんな彼女に「しばらくしたら慣れるから大丈夫だよ」と言い放ち、ココノアは問答無用で転移を続ける。そうしているうちに彼女達の姿は砂浜からどんどん遠ざかっていった。
「ふふっ、なんだかんだ言って2人とも仲良しなんですから! 頑張ってくださいねー!」
身長差のせいで親子のようにも見える友人達を微笑んで見送りながら、メルは大きく手を降るのであった。
――しばらく後、砂浜から東へ数km離れた断崖地帯にて――
目的地の上空に到着したココノアとレモティーは、小刻みに転移魔法を発動しつつ眼下に広がる大きな崖を見て回っていた。先程までいた砂浜と違いこちらは外海へ向いているためか波が高く、崖の下方では水しぶきが上がっている。
「なかなか削り甲斐のありそうな岩ね」
切り立った白い崖を見下ろしながらココノアが呟いた。石灰を多く含んだ岩壁は美しい白色に染まっており、まさに白亜の崖といった様相である。上手く削ることができれば彫刻芸術のごとき美しい造形を生み出すことも不可能ではないだろう。
「このまま空から新生魔法を撃ち込むのかい? もしボクが邪魔ならどこかに降ろしてくれても構わないよ。2人で転移してたら魔力の消費も激しいだろうしさ」
「別に大したことないわよ、これくらい。多少の疲れは出るけどね」
澄まし顔で答えるココノア。スナック感覚で転移魔法を使う彼女だが、そもそも転移というのは空間を膨大な魔力で捻じ曲げるという高度な術式により成立しているため、消耗が凄まじく大きい。一流の魔法使いでも数回使えば魔力を使い果たしてしまうほどだ。ところがココノアの魔力量は普通の人間族の数百倍、魔力に長けたエルフ族からみても数十倍を誇る。さらにフォースマスターのパッシブスキルによりMPの回復速度が著しく強化されている事で、転移魔法を飛行に応用する事が可能なくらいには余裕があった。
「まずは崖を5段に区切って螺旋状の道をつくるところからだけど、うちが魔法で大まかに削るから細かいところはレモティーのスキルで調整してくれない? 葉っぱカッターでやれるでしょ?」
「葉っぱカッターじゃなくて万緑の暴風ね! いやまぁ、それで伝わるからいいんだけども!」
少し不服そうな視線を隣のエルフ幼女へ向けたレモティーだが、ココノアがリーフテンペストのことを葉っぱカッターと呼ぶ事はいつもの事なので我慢する。名前の通り、リーフテンペストは無数の葉が舞う嵐を発生させて対象に多段ヒットダメージを与える範囲攻撃スキルだ。1発1発のダメージはココノアの魔法にくらべると劣るが、ヒット数が多いため総合火力は優秀である。ハーヴェスト最大の攻撃手段と言ってもいいだろう。レモティー自身もこのスキルは気に入っていたが、葉っぱカッターという名前では語感が一気に貧弱になるので少し気にしていた。ちなみに最初にその名を付けたのはメルである。
「準備は出来てるみたいだし、うちから行くわよ……魔法の弾丸!」
詠唱と同時にココノアは杖を崖へ向けた。すると杖の先端から輝く魔法の銃弾が大量に飛び出し、それぞれが彼女の狙い定めた場所へ直撃する。弾は岩肌に触れると小規模な爆発を引き起こし、その一部を容赦なく削り取った。
――ズガガガガガッ!!――
掘削機を思わせる激しい轟音を響かせながら、魔法弾は崖の姿を大きく変貌させていく。しかしココノアは単に崖を壊しているわけではない。事前に描いていたイメージ図の通り、海岸から崖の上まで登ることができる傾斜付きループを象っていたのだ。だからこそ馬車が通れるだけの足場を作る一方で、支柱に当たる中央部分はしっかりと残していた。もちろん通路には螺旋状の捻りも忘れずに加えられている。
「おおう、本当に魔法で土木工事が出来るんだねぇ……!」
友人のダイナミックかつ丁寧な仕事っぷりに息を呑むレモティー。合間に転移魔法を挟んでもココノアの魔法弾は狙いから逸れることなく、精密に崖を刻んだ。白い破片がボトボトと海へ落ちていくにつれ、目指すべき形が浮き彫りになっていく。1時間も経たない内に無骨な崖は姿を消し、美しい白い柱とその周囲をループする螺旋通路の土台が生み出された。
「とりあえずこんなものかな。これで海沿いから崖の上まで上がれるくらいの傾斜はついたと思うけど」
「ああ、十分さ! アート彫刻みたいな見事な削り出しだったよ」
「昔から美術の成績だけは良かったのよね。崖リフォームの匠って呼んでくれてもいいんだけど?」
「あはは、今度からそう呼ばせてもらおうかな」
冗談交じりに微笑むと、レモティーは空いていた方の手を崖へと向けた。そして表面が凸凹している通路部に狙いを定め、今度は自分の番だと言わんばかりにスキルを発動させる。
「万緑の暴風!」
その瞬間、彼女の腕から緑の旋風が巻き起こった。何も無い所から生み出された魔法の草葉は渦を作りながら、穿たれた崖の内部を滑らかに削っていく。ハーヴェストの操る植物は魔力により強化されているため、例え葉1枚といえども油断ならない切れ味を誇る。石灰質を含んだ硬い岩質に対しても十分な研磨力を発揮し、路面を平坦に整えた。
「ココノア、もうちょっと下の方に飛んでくれるかな」
「エルフ使いが荒いわね……別にいいけど」
作業のための視界を確保すべくレモティーが移動の指示を出し、それに応じたココノアが転移魔法で彼女を運ぶといった流れがしばらく繰り返された。無数の葉によって美しく磨かれた足場はすっかり平らになっており、馬車の車輪が跳ねることもないだろう。また道の両端部にはレモティーの提案で蔦を絡ませた緑色のガードレールが設けられており、落下防止用の柵を担っていた。高低差の都合もあり傾斜はややきつくはなってしまったが、もし下りの時にスピードオーバーしてしまっても海へまっ逆さに落ちるという事態は防げるはずだ。
「ふぅ……これでこのあたりはおしまいかな。ずっと運んでもらってて悪いね、そろそろ休憩するかい?」
「大丈夫よ、そんなに疲れてないから。それにまだまだやらないといけない事が多いでしょ? 今度は崖からリギサンまでの道を作らないといいけないんだし」
「ああ、そうなんだ。正直こっちのほうが骨が折れるかな……距離が結構あるからさ」
ココノアとレモティーの連携プレイにより、海岸から崖上へと至る坂道は無事に作れた。しかしそこからリギサン方面へ続く道も拓かなければ馬車を通すことはできない。標高の高いリギサンへ向かう都合上、ここでも適度な傾斜を設ける必要があるため、またしても路面の調整作業が必要だ。
「それじゃ、うちが魔法で適当に表面吹き飛ばすから、レモティーが道っぽく整備する感じでいい?」
「うん、それで問題ないよ。とにかく馬車が通れるように整えていこう。余裕があれば道の両端を下げ気味にして排水用の側溝を作ったりもしたいんだけども……」
「へぇ……随分と本格的な道路作りを目指すじゃない。そういえば自前で駐車場を整備してたって、前に聞いた憶えがあるわね」
NeCOをプレイしていた時、雑談でレモティーが所有している駐車場を自分で整備した話をしていたのをココノアは思い出した。現実の話はあまり出さないようにするのがオンラインゲームにおける暗黙の了解ではあるが、ココノアを含むレモティーやメル、リセの親友4人組はお互いの現実生活についてもある程度話をしていたのだった。とはいえ、その頃はまさか異世界で一緒に道路作りをする事になるとは夢にも思ってなかっただろう。
「さて、あの人達を待たせるわけにもいかないし取り掛かろうか! それじゃ頼むよココノア」
「馬車を手配してもらう時間も必要だしね。村までにある障害物は片っ端から吹き飛ばしていくから、土を均したりするフォローは頼むわよ」
「ああ、そっちはボクに任せておくれ!」
2人は顔を見合わせて力強く頷くと、リギサンの山村へ向けて飛翔を始めた。
――海岸の浜辺近傍 湧水地点――
友人達が道作りに奔走している頃、メルは湧き水の出る場所を訪れていた。そこは海岸から少し登った高台にある断崖の裏側に位置しており、農園を作り出した場所からは隠れて見えない。しかし獣人族の優れた五感を駆使したことで、土地勘の無いメルでもなんとか辿り着く事が出来た。
「湧き水って、こういう感じでしたか……!」
反り立った崖から豊富な水が滝のように吹き出している崖線湧水――想像していたのとは違う眼前の光景に驚きつつも、メルは足元の窪みに溜まった透明な水を掬い上げる。冷たくて澄んだ水はそのまま飲料用にも使えそうなほどに濾過されていた。元になっているのは急峻な山々に蓄えられた雨水であるが、地中岩盤の内部を流れていく過程でよく磨かれているのだろう。不純物は殆ど含まれていない。
「少し冷たいですけど、陽当りはいいので身体を洗うのには良さそうですね。身体を拭くための布は用意してますので、ご自由にどうぞ!」
そう言って振り返ると、メルは後ろを付いてきていた女性達へ1枚ずつ手作りの綿タオルを手渡していった。彼女達はメルが事前に募集していた水浴びの希望者である。奴隷として生活していた頃は雑巾で身体を拭くくらいしか許されておらず、着衣も捕まえられた時に与えられた薄汚れた麻の布服のみだったため、長期間に渡り痒みや臭いといった不快感に苦しんでいたようだ。
「本当に助かります……もう何十日も身体は洗えておりませんでしたから」
「髪の毛が海水でベトベトして困ってたの。これで少しは気分が晴れそうだわ」
メルに感謝を伝えると女性達は服を脱ぎ去った。そして滝から降り注ぐ湧き水をシャワーのように使って身体を洗い始める。石鹸やシャンプーといった気の利いたものは用意されていないが、それでも皮脂や垢を流せるのは気持ちの良いものだ。彼女達は嫌な思い出を洗い流すようにして清水に身を委ね、体と心にへばりついていた黒い汚れを濯ぎ落とすのであった。
「はーい! 次に水浴びしたい方はこちらに並んでくださいね! 順番を守ってお願いします!」
水浴び希望者は多く、今回やってきた女性だけでも20名近くいる。世界が違っても身体を綺麗に保ちたいという欲求は同じなんだと思いながら、メルは待機列の整理役として声を張り上げていた。彼女の献身的な働きの甲斐もあり、女性達の水浴びはスムーズに進む。
(あんまり獣人族さんが来てくれなかったのは、やっぱり水に濡れたくはなかったから……?)
ふとメルは水浴びに参加したのがエルフ族と人間族ばかりである事に気付いた。助け出した人々の中には獣人族の女性も少なからずいたが、獣耳や尻尾が濡れるのを嫌がったのか皆海岸に残っている。なお男性陣については今回の分が終わってから交代することになっているため、居残り組と同じく海岸でメル達の帰りを待っているのだった。
(船から出る時に海水で濡れちゃってるだろうし、リギサンではゆっくりお風呂を楽しんでもらいたいな)
自身が湯浴み好きなので、同じ獣人族の女性達にも暖かい湯で身体を癒やして欲しいとメルは想いを巡らせる。ちょうど数日前、王国から派遣された支援団とメル達の助力によって村内には仮設の大浴場が完成していた。住民や支援団員が使うために作られたものであるため構造自体は簡素だが、大人数で浴槽に浸かることが可能だ。大人数の受け入れにも問題はない。
(あっ! よく考えてみると助けた人達を連れて行けば村の人口が大幅に増えることになるんだし、一気に活気が出るのでは……! 農園のお手伝いをしてもらえたら村民さんにとっても助かるはずなので、これは双方にとって良いことになるかも!)
メルは当初の目的であった釣りの事をすっかり忘れ、奴隷船から救い出した人をリギサンへ連れて帰ることばかり考えていた。勿論それは彼らの保護を考えてのことだが、衣食住を提供する代わりとして復興にも力を貸してもらうことで共助の関係を築くことができればいいなという想いもある。
(境遇は違えど困難に立ち向かう者同士、助け合えばきっといい関係になれるよね!)
地震、台風、猛暑、豪雨、大雪――毎年のように様々な災害に見舞われていた島国の出身である彼女からしてみれば、困った者が互いに助け合って苦難を乗り越える事はごく当たり前の着想だった。実際にその理想の通り上手く噛み合うかは双方の歩み寄り次第であるが、きっとなんとかなるという謎の自信が彼女を頷かせる。
「うんうん、偶然とはいえ今回の出会いはリギサンの村にも幸運を呼んでくれるはずです! やっぱり人助けはしてみるものですね!」
嬉しそうな表情で独り言を呟くメル。そんな彼女の様子を不思議そうな表情で見つめながら、狐耳の少女が声を掛けた。
「えっと、ワタシも身体を洗っていいのかな……?」
「……はっ! ごめんなさい、ちょっと考え事をしてました! もちろん大丈夫ですよ! 身体を吹くための布はこちらをどうぞ!」
メルは目の前に立っていた少女にタオルを手渡す。真っ白な髪と尻尾が目を惹く彼女は、レモティーが故郷に帰してみせると約束していたユキであった。どうやら他の獣人族とは違い水に濡れることに抵抗感がないらしく、1人だけ付いてきたようだ。
「ありがとう、お姉ちゃん!」
「えへへ、どういたしまして! 水は少し冷たいので、慣れるまで気をつけてくださいね」
「はーい!」
そう言って笑顔を見せるユキの顔つきは幼く、背も少し低かったのでメルやココノアより年下に見える。そんな彼女が1人で身体を洗うのは大変そうだったので、メルは手伝ってあげることにした。
「ユキちゃん、身体を洗うのをお手伝いします!」
「ほんとに? ありがとー!」
狐の獣人族と思しきユキの尾はメルに比べるとかなり太く、モコモコとした見た目をしている。手触りは良さそうだが、洗うのには一苦労しそうだ。その代わりしっかりと乾かせば、さぞかし抱き心地のいい尻尾になるのではないかと密かに期待するメルであった。
「えっと、貰った布と服はどこに置いておけばいいの?」
「私が預かってそのあたりの木の枝にでも引っ掛けておきますよ! 本当は服も洗いたいところですけど、乾かすのに時間がかかりそうなので、今回は身体だけ洗いましょうね」
メルの回答にこくりと頷くと、ユキは身に付けていた服と呼ぶのも烏滸がましい布切れをせっせと脱ぎ始める。奴隷船には子供服がなかったらしく、彼女が着せられていたのはボロ布を適当に繋ぎ合わせて頭の部分を空けただけの貫頭衣だったのだ。しかもそれを腰帯だけで縛る構造であった上に、下着も付けさせて貰えてなかったので横からだと胸も背中も丸見えである。いくら子供に着せるものとはいえ、あまりにも配慮が足りない。
「んっ、冷たい……けど、気持ちいい!」
やせ細って肋骨が浮き出た貧相な身体は奴隷生活の名残だったのかもしれないが、ユキはそんな辛い過去を感じさせない満面の笑みで水浴びを楽しんだ。天然のシャワーを全身で受けたことで、頭のてっぺんから足先に至るまでの汚れは綺麗サッパリ落とされている。それまでボサボサになっていた髪もすっかり潤いを取り戻し、足元近くまで垂れ下がっていた。獣人族ではかなり珍しい純白の毛が太陽の輝きを反射してキラキラと輝く。
(そういえば船に乗せられてた人達の中だと、ユキちゃんだけが未成年なのかな……?)
ユキの耳や尻尾を手櫛で整えつつ、メルは首を傾ける。彼女以外の女性達は全員成人していそうな見た目ばかりだったからだ。捕まっていた男性達も同様に十分成長した体格の者しかおらず、年の差を明確に感じる。人間族であれば7~8歳ほどの幼い少女を、奴隷商人が何のために連れて行こうとしたのか不思議でならなかった。
(ともかく……両親から引き離された上に、知らない大人達の中に放り込まれたんだから相当心細かったに違いないはず! レモティーちゃんの言ってた通り、なんとかして故郷に帰してあげたいな。でもどうやって西の大陸までいけばいいのかしら……?)
ユキを親元まで連れて行きたいと考えるメルであったが、別の大陸へ行く方法まではすぐに思いつかなかった。流石にココノアの転移魔法で海を渡るのは無理があるので、大きな港のある街まで行って旅客船に乗るのが最も現実的だろう。しかしエリクシア王国にそんな港があるのか、そもそも別大陸へ向かう船が存在しているのか等、分からない事が多い。
(NeCOみたいに、海底洞窟的なものがあれば徒歩でも行けそうなんだけどなーん)
そんな事を考えつつ、しばらくユキの水浴びを手伝うメルだった。
――数時間後、海岸の浜辺にて――
西から海を照らす夕日が海岸をオレンジ色に染めていく――そんな美しい光景の中で、メル達はレモティーとココノアの帰りを待っていた。男性陣の水浴びも終わったので後はリギサンに帰るだけだが、そのための道を作りに向かった2人はまだ戻っていない。日没までに残された時間は僅かであり、このままでは何もない海岸で野宿することになるかもしれないという不安からか、救出された人々の表情は曇り始めていた。しかしメルの表情に焦りの色は全くない。友人達ならやってくれると確信していたからだ。
「大丈夫ですよ、みなさん! レモティーちゃんとココノアちゃんならきっと王国軍の人達を連れてきてくれます! 私のお友達を信じて待っててくださいね!」
砂浜に座り込んだ人々を励ますようにメルは言葉を投げかけた。とはいえ幼い少女にしか見えない彼女の言葉に信憑性はなく、彼らの表情は暗いままである。奴隷生活の疲れも出ているのだろう、溜息ばかりが海岸に響き渡った。
「うーん……みなさん元気がでないみたいですし、こうなったら宴会芸でもお披露目してみますか!」
メルは腕を組むと、なんとか元気づける事はできないかと思案し始める。蹴りで崖を吹き飛ばしたり、拳で海を割ったりする案が浮かんだが、異世界では珍しくないかもとあっさり却下した。となると頼みの綱はNeCOのスキルである。NeCOでは何かとエフェクトの派手なスキルが多かったからだ。物理攻撃を主体とする殴りヒーラーであったにも関わらず、メルは見た目重視で光属性の魔法をいくつか取得している。
「そういえばエンジェルリングがありましたね! あれを使ってみましょう!」
聖属性の範囲攻撃魔法を取得していた事を思い出したメルは、早速試してみようと的になりそうな物を探し始める。すると流れ着いたであろう巨木の残骸が浜に転がっているのに気がついた。
「みなさん、せっかく時間もあるので私の特技をお見せします! 恐らくこの世界には無かった魔法のはずなので、よーく見ててくださいな!」
そんなメルの言葉に反応した人々が顔を上げる。特に興味を示したのはエルフ族だ。彼らは深い森に住み魔法の研鑽に長い年月を捧げてきた種族でもある。卓越した魔法の知識や豊富な魔力が原因で非合法な人身売買の犠牲になってしまう事も多いのだが、それでも新しい魔法への興味は尽きなかった。
「いきますよ! 天使の光輪!」
メルの詠唱と共に丸太の上空に光の帯が輪となって浮かび上がった。輝く帯にはNeCOで使われていた神聖文字が描かれており、見た目にも華やかである。そして徐々に直径を膨らませながら降りてきたそれは、成人男性の胴体よりも太い木の幹を包み込むと一際眩い光を放って弾け飛んだ。その衝撃によってターゲットとなっていた対象物は文字通りの木片となり砂浜へと散らばる。
「おお、確かに初めて見る魔法だ……! 属性は炎でも水でもないようだが、何系統なのだろうか……?」
「神聖魔法のようにも見えたわ。でも文字はアイリス聖教のものではなかったし、術式の成り立ちも独特……不思議な魔法ね」
メルの放った魔法を見ていたエルフ達から驚嘆の声があがった。エンジェルリングは見た目が神々しいだけでなく、高位魔法であるためダメージ倍率も高い。そのため魔力の低いメルでもそれなりの威力を出すことができた。ココノアが同じ魔法を使えば丸太どころか辺り一面の砂浜すら消し飛んでいただろうが、とりあえず場を盛り上げることができたので、メルは満足げな表情を浮かべる。
「せっかくなのでコラプス・オブ・ロウを発動した状態でも使ってみましょう。どうなるかは私にも分かりませんけども!」
勢いに乗った彼女は物魔反転のスキルを使用し、瞳と同じ色の真紅のオーラを纏った。切り替え式であるコラプス・オブ・ロウは通常のスキルと異なり、名称を口に出さなくとも意識するだけで発動することができる。ただし見た目上の変化を生じるのはスキル発動時だけであるため、通常状態なのか物魔反転状態であるのかを判別するのは不可能に近かった。NeCOのようにバフアイコンが点灯するわけでもないので、この世界では本人がどちらだったのか記憶しておくしかない。
「今度はあっちにある流木に向かって、もう一度エンジェルリングを唱えてみます!」
メルは少し離れたところに転がっていた別の丸太へ狙いを定めた。コラプス・オブ・ロウが発動したことで、彼女が唱えるあらゆる魔法は全て物理スキル判定となり、魔力ではなく筋力ステータスに依存した効果へと自動的に切り替わる。聖属性の初級魔法であるホーリーライトで試した時は白い球体が飛び出しただけであったが、今度は良い感じに効果が発現しますようにと期待を込めてメルはスキル名を口にした。
「それでは見ててくださいね! 天使の光輪!」
幼い声が海岸に響き渡った直後、先程と同じく上空に天使の輪を彷彿とさせる光輪が出現した。だがその輝きは魔力によるものではなく、金属光沢に近いものである。メルによって生み出されたのは、魔法的な要素を一切持っていない金色のリングだったのだ。それは見た目に違わない質量も持っていたようで、そのまま自然落下してドスンという音と共に丸太を真っ二つに割った。今回もホーリーライト同様に物質化するだけで終わってしまった事でメルは「あちゃー……」と肩を落としたが、その場にいた者達の反応は対称的なものであった。
「お、おい……今の魔法を見たか? 何もないところに物体を作り出したぞ!?」
「ええ、見ていたけれど……とても信じられないわ。あの色、まさか黄金を錬成したとでもいうの? 古代のエルフ族でも、触媒なしに物質を錬成するなんて不可能だと言われているのに……!」
「施していただいた癒やしの術といい、あの方は一体何者なのだ……?」
ざわつき始めるエルフ達。彼らからしてみれば、物魔反転状態で使われたエンジェルリングの方がよほど物珍しい術式として映っていた。何しろ魔力すら使わずに無から物質を生み出したのだから、神の所業そのものと言っても良い。故にエルフ達は単に称賛の声をあげるのではなく、畏敬すら混じった反応を示していたのだ。しかしメル本人は失敗したとばかり思い込んでいる。
「あうぅ、ごめんなさい。思ったように上手くできませんでした。今のはナシということで……」
彼女は申し訳無さそうな様子で丸太のところまで行くと、縦になって刺さっているリングを引き抜いた。ひんやりとした手触りからも金属っぽさを感じ取れる輪は、ちょうどメルの身長と同程度の大きさであり、握りやすい形状をしている。それに頑丈でもあったので、メルはフラフープに使えそうだと直感した。
(むっ! これなら場を和ませる芸をお披露目できるかも!)
早速メルはリングへ体を通して、腰の部分で回し始めた。運動不足解消の一環で室内フラフープをしていた事くらいしか経験の無い彼女であったが、獣人族としての優れた体幹と運動神経を生かして、プロのフラフープダンサーにも負けないほどのテクニックを披露してみせる。幼女特有の括れが少ない腰でも天使の輪はフィットし、目にも留まらぬ速さで回転しながら人々の目を魅了した。
「すごい……どうして地面に落ちないんだ!?」
「た、楽しそうだにゃ~!」
ここにきて魔法にさほど興味を示さなかった獣人族達が目を輝かせ始めた。狩猟の民でもある彼らは動くものに気を取られる特性がある上、光りものにも興味を示すことが多い。故に高速で回転する金色のリングが気になって仕方ないのも当然だろう。さらにメルが輪を空に投げ飛ばしてキャッチしたり、腕や尻尾でも器用に回したりしてみせたので、さらに場は盛り上がりを増していく。
「うぉぉぉ! すげぇじゃねぇか! もっと早く回すことはできるのか!?」
「今さっき、あの円環が増えたように見えたわ!」
「残像を生じるほどの回転……オレじゃなかったら見逃してたね」
「メルお姉ちゃん、すごいすごーい!」
いつの間にかエルフ族や人間族も負けじとメルへ声援を送っていた。その中には大はしゃぎするユキの姿も混じっている。先程までの暗い雰囲気を吹き飛ばすような熱気と歓声が周囲を包み込み、浜辺の様相が一変した。プロには及ばない拙いダンスではあったが、彼女の想いは元奴隷達が自らの境遇を忘れて騒ぐことのできる何物にも代えがたい時間を生み出していたのだ。
「ふっふっふっ、なかなか好評のようですね! 3ヶ月くらいで飽きちゃいましたけど、あのときの経験は無駄になってないのですよ!」
NeCOでチャットする片手間にフラフープを回していた日々を振り返り、メルは懐かしそうに微笑む。もし元の世界に帰ることがあるのなら、押し入れにしまい込んだ安物のフラフープをもう一度出してみようかな――そんな事を彼女が考えていると空からふわりと人影が降りてきた。ココノアが戻ってきたのだ。
「え、何してんの……暇すぎて頭でもおかしくなった?」
「わっ、ココノアちゃん!? こ、これはですね……みなさんに楽しんでもらおうかと思って……」
ノリノリで踊っていた様子を友人に見られてしまい、メルは恥ずかしそうに視線を泳がせた。そして尻尾で回転させていた金色のリングをこっそりと停止させる。一方のココノアは助け出した人々の表情が随分と明るくなっている事に気付き、大体の状況を察していた。
「……ま、別にいいけど。もうすぐリギサンから王国軍の一団が到着するから、暗くなるまでには帰ることができると思うわよ。ちなみにレモティーは先に村で受け入れの準備をしてるから、戻ってきたのはうちだけ」
「そうでしたか! もう薄暗くなり始めてますし、道作りが間に合ってよかったのです。流石ココノアちゃんとレモティーちゃんですね!」
「釣りをしにきただけだったのに随分と疲れる羽目になったわ。ほら、うちらも馬車に乗せてもらって帰ろ?」
「はいっ♪」
ココノアが差し出した手に触れようとしたメルであったが、持っていたリングが邪魔になる事に気づく。馬車が到着するのが分かった以上、フラフープを披露する必要もなかったので、彼女は「これはもう要らないですね」と呟くと、海へ向かってリングを投げ飛ばした。黄金色の輝きを放つ円環はかなりの高度まで上昇した後、夕日が沈む水平線に重なるようにして消えたのだった。
――海岸から遠く離れた沖合――
メルと共に元奴隷達が馬車に乗ってリギサンへ向かっていた頃、沖合には4本の巨大マストに帆を張って駆けていく大型船の姿があった。体の関節を外すことができる者が居たおかげで縛られた状態から脱した奴隷商人達が、自国へ戻ろうと舵を取っていたのである。甲板ではドレッドヘアーの大男――プラガが椅子に腰を下ろしたまま部下に指示を出していた。
「オイ、奴隷共の行き先は見張ってたんだろうな?」
「馬車に乗って山の上へ向かったようですぜ親分、すぐに追うんですかい?」
「いや、オキデンスに一度戻って仕切り直す。だが引き下がるわけじゃねぇ……すぐに傭兵団を連れてきてオレ達に楯突いた事を後悔させてやる。それにあいつらの事に興味を示す富豪連中は多いはずだ。いくらでも手を貸してくれるだろうよ!」
プラガはニヤリと唇の端を吊り上げた。今回の奴隷売買は大損に終わったと言え、本拠地を構えるオキデンスにさえ帰れば溜め込んだ資金を使って傭兵団を雇う事も容易だ。彼らはより多くの仲間を引き連れて、メル達に報復するつもりであった。
「だがプラガの兄貴、相手がいるのは王国領だ。ここで逃したら手が出せなくなるんじゃねぇのか?」
「心配するな兄弟。オレは顔が広いんだ……王国の貴族連中といえども清廉潔白な連中ばかりじゃない。そいつらを少し突いてやれば、なんとでも誤魔化しは効く」
その回答に、側近の部下は「さすが兄貴だ」と羨望の眼差しを向ける。奴隷売買が禁じられている王国では貿易商として名を通しているプラガだが、非合法な薬物の運び屋や魔道具の密輸なども請け負う闇組織の頭目でもあった。その仕事柄、特権階級との繋がりは太く、小さな山村の騒ぎ程度であれば強引に握り潰す事も可能だと見込んでいたのだ。
「……だがあのガキ共を捕まえるには少々手こずりそうだ。傭兵団でも最高レベルの手練れを雇わねぇとな」
彼は最初にメル達を攫いに行った部下を回収し、海岸での一部始終を報告させていた。その情報からメルだけでなく、ココノアやレモティーも極めて高い能力を持っていることを既に把握している。だからこそすぐに追撃することはせず、力を蓄えて出直す事を選んだのだ。もっとも、彼がそこでまでして少女達に拘るのには報復以外の理由が大きい。
「ガキのくせに俺を凌駕する身体能力の獣人、あのナリで転移魔法を使いこなすエルフ、そして植物を操る人間族の女……ククク、どれも高く売れそうじゃねぇか。あいつらは大金になるぜェ!」
遠く離れていく陸地を眺めながら不敵に笑うプラガ。彼の言葉通り、生まれつき特異な体質や魔力を持つ者はその希少性故に小国の予算にも及ぶ価格で取引されていた。売買の目的は様々であり、国を守護する一騎当千の兵士に育てるためという名目もあれば、より優秀な世継ぎを生み出すための母体として求められた例もある。魔族という天敵の脅威に晒され続けているこの世界では、そんな歪な風習が罷り通っていたのだ。だからこそプラガはメル達が莫大な富を呼び寄せる商材だと信じて疑わない。
「親分! 南の方角から何か飛んできます!」
唐突にマスト上部の監視座から部下の声が聞こえてきた。今後の方針についてプランを練ろうとしていたのを邪魔され、プラガは悪態をつきながら南の空を見上げた。
「あぁ……? 何もねぇじゃねか、眼を潰されてぇのか?」
プラガの視界には夕暮れに染まった空しか見えてはいない。ただの見間違いだったら海に蹴り落としてやろうと思った彼であったが、ふと嫌な予感が脳裏を過ぎり、隣にいた側近から望遠鏡を奪い取った。そして今度はレンズを通して拡大された空を見渡す。
「なんだよ、ありゃ……?」
狭い覗き窓に金色に光る小さな輪のような物体が映った。凄まじい勢いで回転しながら、船に向かって飛んできている。船上での荒事には慣れている彼だが、円環が空を飛んでくるのを見たのはその日が初めてだった。ましてやそれがメルによって適当に放り投げられたものだとは知る由もない。
「チッ……この船を狙っているクソ野郎がどこかにいやがるのか? 飛翔物を避けろ! 面舵いっぱいだ!」
プラガの声と共に船が右方向へと曲がり始め、飛翔物の進路から逸れていく。例え小さな投擲物であっても帆に穴が空いてしまうと航行に支障を生じるので油断はできなかった。ただでさえ怪力持ちの獣人少女が暴れたことで甲板には穴が空き、乗組員も疲弊しているのだ。余計な被害を避けようとした彼の判断は正しいと言える。
――シュン、シュン、シュン、シュン――
しかし、そんなプラガの対応を嘲笑うかのように空飛ぶリングもまた右カーブを描き始めた。それが風による偶然なのか、何かの意志によるものだったのかは誰にも分からない。ただ1つ言えるとすれば、奴隷商にとってメル達は確かに金を呼び寄せる存在だったということだろう。
「ダメだ、避けきれねぇぞ!?」
「何やってんだ馬鹿野郎!! 右でダメなら左があるだろ! 急いで取り舵いっぱいに回せ!!」
「無理だ親分! あれはオレらを狙ってるんじゃねぇか!? しかもあの速度、もし直撃したらマストを持っていかれるだけじゃ済まねぇよ! 今すぐ避難してくれ!」
怒号が飛び交う船上からは、黄金色に染まった円環がくっきり見えるほどに距離が縮まっていた。そして奴隷商達は気付いてしまったのだ。遠目では分かりづらかったリングの恐るべき飛翔速度と、それによって生みだされている衝撃波の轟音に。頭上に迫る天使の輪を恐る恐る見上げたプラガは、その威圧感に全身の毛を逆立てながら目を見開く。
「や、やめろぉぉぉ!! こっちに来るんじゃねぇぇぇぇ!!」
狙いすましたように高高度から急下降したリングは、莫大な慣性エネルギーを纏って彼の断末魔を問答無用で切り裂いた。甲板は木っ端微塵に吹き飛び、西大陸随一の大木から作られた太い竜骨もスライサーの如き黄金の一閃によって真っ二つに切断される。奴隷船を破壊してもその衝撃は留まることを知らず、海面を大きく窪ませて世界の終末を思わせる大渦すら生み出した。
辛うじて着弾直前に小船を降ろして避難していた者も激流から逃れることはできず、暗い海の底へと引き摺り込まれていく。一方、海の底にある岩礁へ突き刺さっていたリングは役目を終えたとばかりに光の粒となって霧散した。こうして、数え切れないほどの奴隷達を運んできた悪夢の船は海の藻屑と化したのである。




