030.吸血鬼②
翌日、朝から空は鈍色の曇に覆われており薄暗かった。今日の客足はあまり良く無さそうだと溜息を付きながら、ビスは仕事に取り掛かる。まずは店の前にある通りの掃除だ。この時間帯はオーレアがカロンに付き添い、初等学校まで出かけているため日々の掃除は彼の担当となっていた。
「よし……こんなものでいいか」
散らばっていた枯れ葉や砂埃を箒で掃きまとめ、麻の布で出来たゴミ袋へ放り込む。次は水を張った樽と雑巾を準備して、店舗の全面にある大きな窓を拭き始めた。店内に焼き上がった菓子を並べているため、訪れた買い物客は売られている品物を窓を通して確認することになる。その窓が汚れていては、どんなに美味な菓子であっても買う気を無くさせてしまうだろう。故に窓拭きだけはいつも念入りに行なっている。
「ふぅ、さすがに全部1人でやるのは辛いな」
窓掃除の後も店内の拭き掃除や調理器具の準備などに追われ、ようやく開店の準備ができたのは掃除を始めてから1時間以上も後のことだった。この店では従業員はビスとオーレアしかおらず、息子を見送りに出かけたついでに市場で材料の仕入れもしてくる彼女がいない間は、彼のみで仕事をしなければならない。
「カロンが12歳になったら店を手伝って貰うのもいいな……あいつ、大人になったら俺みたいに菓子を作る職人になりたいって言ってたから、調理場に立たせてやったらきっと喜ぶぞ」
そんな独り言を呟きながら、息子が店の仕事を手伝ってくれる光景を思い浮かべるビス。カロンは父親の仕事を自分もやってみたいと言っており、彼の仕事姿をいつも興味深そうに見つめていた。
「しかし、あと5年は学校に通ってしっかり勉強するのがあいつの仕事だ。それまでは俺とオーレアだけでで支えるしかないか……1人だけでも雇えれば楽になるんだが」
大通りから遠い辺鄙な場所で店を開いているため、菓子店における日々の売上は家族の生活を支える程度しかなかった。とても従業員を雇うような余裕はなかったのだ。菓子の味は悪くないのだが、人が寄り付きにくい場所にあるというのはどうしても重荷になる。そもそも帝都の土地は高く、街の中心部に近いほど値段が跳ね上がるため、軍人時代の僅かな貯金では好条件の場所を購入することは不可能だった。出店への融資を頼みに様々な金融機関に走った事もあったが、菓子という需要の偏った嗜好品を取り扱う店に出資してくれる銀行は無かった。結局、帝都でもはずれにあった古い一軒家を買い、自分の手で改築して今の店舗が出来上がったのである。
「……さて、そろそろ石窯に火を入れておくか」
ビスは店の奥にズッシリと構えている石窯へ向かう。彼が大枚をはたいて購入したその窯は、見た目はレンガを重ねて作っただけの普通の窯と違いがない。しかし内部にはいくつもの魔法石を組み込んであり、魔力によって内部の温度を調整できるものだった。操作にコツはいるが、ある程度は刻み込まれた術式が補助してくれるため、素人でも何回か使えば火加減の調整方法を覚えることができる。
――ガコン!――
石窯に取り付けられた黒い鉄製の蓋を開けると、予熱により温められていた熱気がむわっと吐き出された。焼床はドーム型の形状になっており、楕円形の天井には赤色の魔法石が並んでいる。
「ヨイセッ!」
力の籠もった掛け声とともに、ビスは菓子の生地を並べた鉄製の黒いプレートを窯の中へ滑り込ませた。あとは蓋をして魔力を込めれば内部が高温となり、菓子が焼き上がる。なお調理時に発生する熱気は煙突から出る構造になっており、建物の2階を貫通するようにして四角い石造りの筒が屋根にまで伸びていた。
――ジュウゥゥゥ……――
灼熱色の魔法石から発せられた熱により菓子が焼き上がっていく。しばらくすると甘い匂いが店内に漂い始めた。焼き上がりまでの20分程度がビスにとって束の間の休憩時間となる。
「さて昨日の続きを読むかな……」
店内の入口近くに設けられた本棚から、ビスは赤い表紙の本を手にとった。リボンのような栞を目印にページを開くと、彼は木製の椅子へと腰を掛ける。
「……」
黙したまま、彼はみっしりと書き込まれた文字列へ目を這わせる。それまであまり本を読むことがなかった彼だが、読書好きの妻の勧められてからすっかり読書にのめり込む様になった。元々この本棚も、菓子を買い求めにきた客が焼き上がるのを待つまでの時間潰し用として、オーレアが提案したものである。暇潰しに本を一冊手にとってからというのも、菓子を焼く時間を利用して毎日のように本を読み進めていた。
「ん……?」
本を読み始めてから10分程度経った頃、ビスは窓の外に見慣れない少女が立っている事に気づく。彼女の持つ紫色の長髪と物憂げな紺碧の瞳は帝都では珍しい色合いだった。人間族であれば16歳前後といったところだろうかと思いながら、ビスは店の外へ出る。
「申し訳ないんだが、まだ焼き上がってないんだ。もう10分も待ってくれれば菓子ができると思う。それまで店の中で待っててもいいぞ?」
「ん……美味しそうな匂いがしたから何だろって見てただけ。お金もないし、立ち去るね」
透き通るような声で答えると、少女は背を見せて店から離れていった。品のいい顔立ちの割にその身なりは見窄らしいものだったため、何か訳ありなのかもしれないと察したビスは咄嗟に声を掛ける。
「待ってくれ、君! お金に困ってるなら、うちで働かないか? そんなに給金は出せないが、空いてる部屋を使って貰っても構わない。どうだ……?」
立ち止まった少女はビスの方を振り返り、「……いいの?」と首を傾げた。幼くも妙に色気を漂わせるその仕草に、思わず彼は魅入られそうになる。愛する妻の顔を思い浮かべて雑念を払拭しつつ、店の中へ入るように手で指し示した。
「とりあえず店に入るといい。もうすぐ雨も降ってくるかもしれないしな」
彼の言葉にコクンと頷くと、少女はビスに続いて店へと入った。菓子店が物珍しいのか、彼女は大きな瞳を左右に動かしながら店の中を見渡している。一方、ビスは内心どうしたものかと表情を強張らせていた。少女を想っての行動とはいえ、妻に相談せずに勢いで従業員を雇ってしまったことを気が咎めていたのだ。しかし今更彼女を外へ放り出すわけにもいかない。妻が帰宅したら懇切丁寧に説明して、分かってもらうしかないかと腹をくくる。
「そうだ、自己紹介がまだだったな……俺はビス=コクトスという者で、この菓子店の店主をしている。君の名前を教えてくれないか?」
「え……名前? 名前か……」
少女は長い睫毛を伏せてしばらく黙り込んでから、「リセって呼んで」と短く答えた。すぐに答えなかったことから恐らくは仮名だろうと推測しつつも、ビスは彼女を受け入れる決心をする。
(やはり複雑な事情がありそうだな。家出少女は帝都でも珍しくはないが……)
デクシア帝国は血筋を重んじる傾向があり、対等な血筋を持つ家系同士でしか結婚を許さないという考え方が浸透していた。そのため、愛する男と結ばれなかった良家の令嬢が家出をするという事件が起こることも多い。しかしそんな女性が辿る末路はだいたい凄惨なものである。人攫いに拐かされて奴隷として売り飛ばされるか、逃げた先で魔物に食い殺されるか――どちらにしてもロクなものではなかった。幼い子供を持つ一児の父として、ビスはリセのことを見過ごすことが出来なかったのだ。
(しかし、給金はどうしたものか。あまり多くは用意できないぞ……出せて1日銅貨4枚程度か)
とはいえ、彼女への給金が満足に支払える状況ではなかった。住居の提供という条件を付けて、何とか相場の半額程度で勘弁してもらう他ない。相手の弱みにつけ込んで都合の言い条件を押し付けるようで心苦しかったが、ビスはリセに雇用条件を提示することにした。
「リセ、早速だが君には菓子作りの手伝いを任せても良いだろうか。勿論やり方は全部教えよう。あと給金のことなんだが、うちはこの通りあまり儲かってなくてな。悪いが他の店のように十分な額を出すことはできないんだ。2階の空き部屋を使ってくれてもいいから――」
「ん、道具の使い方だけ教えてくれればなんとかなると思う。寝床と食事だけ貰えれば、お金はいらないから」
リセから返ってきたのはあまりに欲のない要求だった。ビスにとっては渡りに船であったが、流石にそれは申し訳ないと感じる所もある。彼女は帝都でも見ないほどの美しい容姿をしており、看板娘として求める店は多いだろうと思ったからだ。身長は彼の妻よりもやや低いが、腰まで伸びている髪は上等なシルクのようにさらさらとしており、肌も雪のように白くきめ細かい。さらに目鼻立ちのはっきりした顔つきは造られた人形のように美しかった。
「食事の提供は問題ないが、さすがに無給で働かせるつもりはないから気を使わなくてもいいぞ? 今日から早速手伝ってもらうが、まずはその着ている服をどうにかしないとな」
そう言ってビスは目の前の少女の装いに目をやる。獣皮と布を編み込んで作られた粗雑な胸当てと、質素なスカートという駆け出しの貧乏冒険者ような格好は、とてもじゃないが菓子店の店員には似つかわしくない。もっと良い服を用意してやりたいものだと考えていると、店の扉が開いた。
「ただいま、あなた。市場が混んでて少し遅れて……あら、その方はどなた?」
「あ、ああ……オーレアか。おかえり。この娘はリセというんだが、諸都合で今日から住み込みで働いて貰うことにしたんだ。お前に相談もせずに決めて悪いんだが、詳しい話はまた後に――」
「あらあら、本当に!? 嬉しいわ、こんなに可愛らしい女の子が一緒に働いてくれるなんて! 住み込みってことは2階の空き部屋を使うのよね? 私、急いでお掃除してくるから♪」
なんと説明したものかと思い悩んでいたビスの予想を裏切り、上機嫌に声を弾ませるオーレア。彼女は買ってきた材料を調理場の机に置くと、鼻歌を歌いながら階段を上がっていった。
「どうしたんだ、オーレアのやつ……?」
妻の反応に困惑しながら、ビスは机に置かれたままになっていた食材を保冷機能のついた箱へ入れていく。これは単なる箱ではなく魔道具の1種だ。吸熱する氷属性の魔法石を内蔵しているため、入れたものを1日程度は冷やしておくことができる。ただしこれは廉価品であり、毎日魔力を込める必要があった。
「……それ、卵? あと牛乳っぽいのも見えた」
ふとリセが保冷箱に入れた品物に興味を示した。一般的な家庭でも珍しくはない食材を物珍しそうに見つめる彼女の顔がつい面白くなり、ビスは笑みを浮かべる。
(箱入り娘だったみたいだな……この子は)
彼は食材について説明してやることにした。保冷箱から卵を1つ取り出し、リセの両手に乗せる。彼女はそれを手のなかでコロコロと転がしながら観察していた。市場で売られている卵は子供の握りこぶしよりも一回り小さいほどの楕円形をしており、表面が黄色がかった白い殻で覆われている。季節にもよるが、市場ではこの卵が20個と牛乳の入った大瓶2本で銅貨1枚という相場だった。
「それが卵ってやつだ。菓子屋にとって卵と牛乳は一番大事と言ってもいい。毎日妻が市場で新鮮なものを目利きして仕入れてくるんだよ」
「ふーん……この世界にも卵や牛乳って流通してるんだ」
「……流通? ああ、どこで手に入るのかが気になってたのか? これは鳥の卵なんだが、帝都の市場では毎日新鮮なものが安定的に供給されて――」
「使うものがアッチと大体同じなら、あたしでもある程度は料理ができると思う。試しに知ってるお菓子でも作ってみるから、火の使い方と水の出し方、あと調理器具の置き場所を教えて」
「お、おう……やる気があって結構なことだが、魔道具は使ったことがあるか? 俺が1つずつ説明するから、よく聞くんだぞ」
マイペースなリセに調子が狂うなと思いつつ、ビスは調理場にある道具について一通り教えてやった。しかし何を教えてもリセはコクコクと頷くだけで、本当に分かっているのか怪しい。大事な商売道具をいきなり素人に使わせるのは気が引けたが、ひとまずはリセに好きにやらせることにした。彼女に働いてもらうには、どれくらい調理できるか見ておく必要があったからだ。
「それじゃ、パウンドケーキでも作ろっか」
リセは流し台で手を綺麗に洗ってから、菓子作りに取り掛かった。まず紙袋に入っていた小麦の粉末を手に取り、指で摘んで硬さを調べる素振りを見せる。一体何をしているのかとビスが怪訝そうな表情で眺めていると、リセは彼の方を見上げて「これ、いいものだね」と呟いた。そんな指先だけの感覚で素材の善し悪しが分かるのかと、少し驚いてしまう。
「驚いたな。触っただけで分かるのか? 確かにこの小麦は菓子づくりに向いている小麦から造られたもので、値段は張るが良いものを使っているんだ」
「これなら美味しいケーキが作れると思う」
続けてリセはカップにいれて小麦を計量し始めた。ビスが何も言わなくとも、彼女には必要な分量が分かっているようで、手際よく準備を勧めていく。続けて卵を手に取ると器用に片手で割り、椀へと中身を注いだ。卵を溶くのに適した細めの泡立て器を手に取ると、卵液が均一になるまでかき混ぜる。
「バターはあるの?」
「ああ、保冷箱に塊が入っているだろう。それを使ってくれて構わない。ただバターは高価だから、あまり無駄には使わないでくれよ?」
「ん、分かった」
保冷箱からバターの塊を手にとった彼女はナイフで2枚ほどの薄い欠片を切り取った。しかしそれをすぐに使おうとはせずに、皿に載せたままにしている。
「どうした? 何か気になることでもあるのか?」
「ん、バターを常温に近づけておきたいだけ」
「ほう、よく分かってるじゃないか」
ビスは感心したように頷いた。なぜなら保冷箱から出した直後のバターは冷たく、生地に混ぜても上手く溶けないからだ。常温に戻すことで加工しやすくなり、この後の工程で明確な差が出る。
「今のうちに、先に焼いておいた焼き菓子を引き出しておくか」
ちょうど朝一番で作っていた焼き菓子の焼き上がり時刻を迎えたため、ビスは石窯を開けて鉄のプレートを取り出した。表面に焦げ目がついた菓子から焼きたての香ばしい匂いが漂う。いつもどおりの出来栄えではあったが、ビスは試食がてらリセに食べさせてみることにした。
「どうだ、1つ食べてみるか?」
「……うん」
手の平よりも小さめのカップ型の焼き菓子を受け取ると、リセは吐息で少し冷ましてから頬張った。その時、彼女の口内に魔物のような尖った牙が生えていたのに気づく。
(獣人族だったのか……? しかし耳は人間と同じ形だし、尻尾や長い爪もないな。だとしたらあの歯は一体なんだ……いやまて、どこかで似たものを見た記憶があるぞ)
その昔、軍による魔物の討伐へ参加した際に真っ暗な洞窟で遭遇した魔物の記憶が蘇ってきた。大きな翼を持ち、4本の鋭利な牙で噛み付いて吸血するその魔物は、人間が干からびるまで体液を啜るという邪悪な生き物であった。血塗られた夜燕とも呼ばれるそんな魔物の牙と、リセの尖頭歯はよく似ていたのである。ひょっとしたらとんでもない者を招き入れてしまったのではないかと、ビスの背筋に一瞬冷たいものが走ったが、そんな考えはすぐに吹き飛んだ。
「ん……美味しい♪」
嬉しそうに菓子に唇を埋め、屈託のない笑顔を見せる彼女が悪い人間だとは思えなかったからだ。焼き菓子をぺろりと平らげると、リセは再び調理を再会する。
「ありがと。タルトのお返しに美味しいケーキを作らないとね」
そう言って金属製の鉢にバターと砂糖を入れると、手慣れた様子でヘラを使ってすり混ぜた。空気をたっぷりと含んで泡立ったそれは、綿毛のようにふわりとしている。続けて彼女は溶きほぐした卵を少しずつ鉢の中へと加えていった。バターに卵液が馴染んだところで、計量済みの小麦の粉を放り込む。
――ザッ、ザッ、ザッ――
鉢を回しながら、生地を切るようなリズムで混ぜていく。しばらくして、ふんわりとしたケーキの素が出来た。職人の目から見ても完成したケーキ生地は出来栄えがよく、そこまでの過程においても無駄がない。ビスは内心驚いていた。
「四角い焼き型ってどこかにある?」
「あ、ああ……そこの戸棚の二段目にあるから、それを使ってくれ」
「これか。ちょうどいいサイズだね」
リセは金属製のケーキ型を2つほど手に取り、その中へ作った生地を注いだ。ヘラで表面を軽く整えて、あとは焼くだけという状態になる。窯作業用の分厚いミトンを手に嵌めて、石窯の扉を開け放った彼女であったが、そこで動きが止まってしまった。どうやら使い方がわからないらしい。
「こんな石窯、初めて使うかも。操作方法を教えてほしい」
「そうか、魔道具としての石窯は使い慣れてないんだな。こうやって側面にある魔法石に手をかざして、魔力を込めると中にある魔法石から熱が出る仕組みになってるんだよ。中の温度は一定に保たれるようになってるから、温度計を見て調整すれば自由に温度に設定できるぞ」
「魔力を込める……? ちょっとよくわからないかも」
「はは、慣れてないとそんなもんだ。よし、俺が教えてやるから真似してみるといい」
この世界の生き物には生まれつき魔力が備わっているが、練習しないと魔道具を上手く扱うことはできなかった。カロンも魔力の操作が下手だったので、息子に教える時を思い出しながら丁寧に教えるのであった。
「……ん、大体分かったかも」
ビスの教え方が良かったのか、リセの飲み込みが良かったのかはわからないが、彼女は早々に石窯の使い方を覚えた。石窯の中に生地を入れた型を入れると、蓋を閉じて温度調整をする。
「あとは焼き上がりを待つだけだな。ずっと腕を動かし続けてから疲れただろう? 焼き具合は俺が見ておいてやるから、これでも飲んで少し休むと良い」
「ううん、まだやることはある。生地が膨らんできたら中央に切れ込みを入れないとダメ。火の通りが結構ちがうから」
ビスが差し出した茶の入ったカップに目もくれず、リセは窯の覗き窓から中の様子を見張り続けた。ケーキに切れ込みを入れなくても味自体は変わらないが、彼女の言う通り火の通りがよくなるし、見た目も必要以上に縮まなくなるという利点がある。調理を任せることができるか試す程度にしか思っていなかったビスだが、一切の妥協をせずに取り組む彼女の姿勢に、いつのまにか心動かされていた。
(俺もオーレアの親父さんとこで料理を教わった時は、こんな感じだったな)
魔族への恐怖から軍人を辞めて無気力になっていた時に、彼は料理人であったオーレアの父に料理を教えて貰ったのだった。自分の作ったもので誰かを喜ばせる事の嬉しさを知り、それから料理人を目指すようになる。
(あの頃は酒場や料理屋を巡って、がむしゃらに修行したもんだ……)
短期間で調理技術を高めるため、ビスは帝都中の料理店で働いた。その甲斐もあり、彼は数年で一人前の料理人としての実力を身に付けたが、いざ自分の店を開くとなると何を出せばいいのか分からなくなり悩んでしまう。そんなある日、恋人だったオーレアの誕生日プレゼントとして作った星型の焼き菓子を、彼女が美味しいと微笑みながら食べてくれたのが決め手となり、菓子職人の道を選んだ。
(懐かしい事を思い出しちまったな……カロンが生まれてから生活費を稼ぐので精一杯で、あの頃の気持ちなんてすっかり忘れちまってたぜ)
ビスがしみじみと過去を振り返っていると、階段からバタバタと足音が聞こえてきた。オーレアが空き部屋の掃除を終えて降りてきたのだ。石窯の前で火加減をチェックしているリセの姿を見ると、彼女は不思議そうな表情で口を開いた。
「あら、リセちゃんにお料理してもらってたの?」
「ああ、試しにケーキを作ってくれるって言うもんでな。驚くほどに手慣れたもんで、明日からでも調理場に入ってもらっていいくらいだよ」
「それは助かるわ~! 私は家事があるし、菓子作りはあなたに任せっきりだったから1人でも増えると相当楽になるわね。さて、お昼も近いし食事にしちゃいましょうか? 焼き上がったリセちゃんのケーキもデザートにいただこうかしら♪」
「おっと、もうそんな時間か。今日はずっと薄暗いから時間がわかりにくいな」
ビスが窓に目をやると、雨がザーザーと降っているのが見えた。これでは客は来そうにない。リセを交えてゆっくりと昼食を取ることにした。
「リセちゃんは好きな食べ物とかあるの? 用意できるものなら作ってあげるわよ?」
「ん、大丈夫。食事ならさっきもらったタルトで十分だから」
「タルトって、さっきの焼き菓子のことか? 1つだけじゃ腹は膨れないだろう? 遠慮しなくていいんだぞ」
「そうよそうよ、若いんだしいっぱい食べないと!」
夫婦揃って食事を進めるが、リセは一向に首を縦に振らない。彼女は甘いものを少量食べるだけで空腹感が満たされてしまうようだ。
「……まぁ色々と事情もあるみたいだし、無理強いはよくないか。またお腹が空いたら言うと良い」
「無理はしないでね? 作れるものなら何でも用意してあげるから!」
「うん、ありがと」
窯の中を見つめ続けるリセを横目に、ビスとオーレアは昼食をとることにした。彼らが作ったのは帝都でよく食べられる豆のスープと、干し肉を細切れにして塩コショウとチーズで和えたパスタという塩味の強い組み合わせであった。常に甘い香りに包まれていると、塩っぽいものが恋しくなるのかもしれない。
「ん、そろそろいいかも」
ちょうど夫婦が食事を終えた頃に、リセが石窯から焼き立てのパウンドケーキを取り出した。表面は美味しそうなきつね色に染まっており、形も綺麗に膨らんでいる。彼女はそれを綺麗にスライスして皿に飾り付けると、昼食のデザートとしてテーブルの上に置いた。
「本当に美味しそうね! 早速いただこうかしら!」
「見た目は満点だな。後は味さえ問題なければ売り物にできそうだ」
ケーキを口に放り込んだ途端、2人は驚いたように顔を見合わせた。使っている食材は普段使っているものと何ら変わらないというのに、彼らが作る菓子よりも美味しかったからだ。しっとりとした滑らかな口当たりに、噛めば噛むほどに感じられる素材の味を邪魔することの無いちょうどよい甘み……まさに非の打ち所がない。
「しばらく冷やして粗熱をとったほうが美味しいとは思うけどね。余ったほうはこっちで冷ましておくから」
リセは残ったケーキを別の皿に取り置きし、流し台で使った調理器具を洗い始めた。幼い顔に似合わず、随分と手際良い彼女の姿にビスだけでなくオーレアも感心していた。
「俺が作るものよりも美味しいとは恐れ入った……君はどこかで料理の修行をしてたのか?」
「別にそんなことはないけど。一人暮らしが長いから」
「一人暮らし!? その歳で……?」
そこまで言って、ビスはハッとした様子で口を閉じる。富裕層の多い帝都で若い少女が1人で生きなければいけないのは、何かしら深い理由があってのことだ。そしてそれは、他人が安易に踏み込んでいいようなものではないと、彼は直感した。
「それにしても、こんなに可愛くて器量も良い子をよく見つけたわねあなた。でも大丈夫? お給金はあまりだせないけど……」
「ん、それは大丈夫。部屋と食事を用意してもらえるならお金はいらない。代わりに、あたしの事はあんまり聞かないでほしいかな……説明しにくい事が多いから。その約束さえ守ってくれたら問題ない」
心配そうに夫に顔を向けたオーレアに、リセが直接答える。再度「本当にそれでいいの?」と問い直されても、彼女はコクンと頷くだけであった。
(約束……か)
ビスは昨日に息子に読み聞かせた吸血鬼の絵本をふと思い出していた。吸血鬼との約束を忘れ、裏切った人々は村ごと滅びるという結末を迎えた――その寓話を教訓とするならば、自分達はリセの言う通りにしてあげるべきなのだろう、と心の中で頷いた。
「分かったよ、リセ。これから宜しくな」
「うん、よろしく」
こうして不思議な少女リセと、コクトス家の共同生活が始まった。




