103.うちの子転生③
――教皇庁 花嫁の私室――
デクシア帝国の皇城にも劣らない大きさと堅牢さを誇る教皇庁。その中央区画には序列上位に位置する聖職者専用の豪華な私室が存在する。中でも聖教の君主たる教皇とその伴侶に用意された個室は特別仕様になっており、一度でも入れば他の部屋が馬小屋にしか見えなくなると評される程だ。
希少な獣毛を惜しげもなく編み込んだ極上の絨毯、精霊樹から作られたテーブルやベッドを始めとした趣ある調度品の数々――世界中から集められた名品に囲まれる形で、亜麻色の髪を持つエルフ少女が黙々と画架に向かって筆を走らせていた。特大サイズのキャンバスいっぱいに描画された人物達は、全員が彼女にとって大切な仲間である。
(こんなもんかな。あとはメル達が来てから仕上げればいいし)
ココノアが囚われの身になってから今日で4日目の夜を迎える。湖底でローアと名乗った大司教と遭遇した直後、彼女は魔法妨害罠を組み込んだ檻と一緒に教皇庁まで連れて来られた。ただし強引だったのは最初の招待だけで、その後は手荒な行為を一切受けておらず、あくまでも教皇の花嫁として丁重な扱いを受けている。生活の質だけで言えば、レモティーの馬車で寝泊まりしていた時よりもずっと上等かもしれない。水着の代わりに与えられた清楚なワンピースも最高品質の素材で作られており、今ではお気に入りの普段着だ。
(悪くない環境だけど、そろそろ外に出る手段を見つけないとね。このままじゃ本当にあのマザコン教皇と結婚させられそうだし)
紫水晶の如き透き通った瞳に室内の光景が映った。変哲もない白壁に見えるものの、内部に魔法効果を阻害する魔石が埋め込まれているため、室内に居る限り一切の魔法が行使できない。扉や窓にも同等の術式が施してある上、複数の硬化魔法で何倍にも強化済みだ。腕自慢の獣人男性が全力で体当たりしても破壊は困難だろう。徹底された脱走対策に彼女は溜息を吐き出す。
「はぁ……メルならこんな扉、簡単に蹴破るんだろうけど」
魔法を封じられたココノアに出来る事は少なかった。弓があれば人並みに戦う事もできるが、生憎と室内にそのような物は見当たらない。武器になりそうな物といえば、暇つぶし用に準備させた絵描き道具くらいなものだ。
――コン、コン、コン――
何者かが扉を叩いた。夕食の食器回収は先程終わったので、それが世話係のもので無い事はすぐに分かる。望まぬ来客だと察したココノアがノックを無視したまま過ごしていると、扉越しに入室の許可を問う女性の声が聞こえてきた。
「ココノアさん、入っても良いかしら?」
「ダメって言っても入ってくるでしょうが」
「ふふ、それもそうね」
外からでしか解錠できない構造であるため、部屋主に来訪者を拒む権利などない。ゆっくりと開かれた扉からシスター風の女性が室内へ入ってきた。その装いはカタリナを始めとする一般の修道女と掛け離れており、煽情的なカスタマイズが施されたものだった。谷間を大胆に強調するような胸の露出、鼠径部まで見えかねないスリットが入ったスカート――いずれも聖職者にはあるまじき格好だ。アイリス聖教のシンボルである"有翼の女神"が刻まれた黒いヴェールを被っていなければ、教皇庁への出入りを禁止されてもおかしくない。
「その作品、そろそろ完成が近いのではなくて? ヒトの子が持つ文化に興味は無いけれど、ココノアさんの技術が優れているという事はよく分かるわ」
彼女は画架へ掛けられた絵を覗き込み、出来栄えを褒めた。しかしその声に抑揚はなく、出来の悪い合成音声のような不気味さを感じさせる。上辺だけの言葉で褒められる事を嫌うココノアは不快感を露わにした。
「アンタに褒められても嬉しくないわよ。あと見られてると気が散るから、どっかいって」
「そう……なら向こうの椅子をお借りするわ」
女性はココノアから少し離れた場所にあった椅子へ腰掛けた。修道服の裂け目から艶めかしい脚が見えたが、彼女がそれを恥じる様子はない。殻を剥いた茹で卵のような潤いと張りがある肌だけを見れば、20台前半の若い娘に見えなくもないものの、鼻先から上が黒いマスクで隠されているため実年齢を見極める事は困難だ。
「ココノアさん、ここでの生活には慣れた? もし必要なものがあれば何でも言って頂戴ね。大切な坊やの花嫁ですもの、どんな些細な事でも不自由なんてさせないつもり。私は新しい家族として、貴女の事を心から大切に思ってるのだから」
「ハァ? どの口で言ってんのソレ。初対面でいきなり変な魔法を掛けてきた相手の事なんか、信用できるわけないでしょ」
「それは誤解なのよ。私はココノアさんの事を想って"命名の儀"を施そうとしたの。俗世への未練が残ったままでは、ここでの生活が辛くなってしまうかもしれないでしょう?」
「こっちの都合も考えずに、無茶苦茶言ってくれるわね。見た目は人と同じだけどやっぱりアンタは獣よ、デイパラ!」
声を荒らげて修道女を睨みつけるココノア。彼女の視線が捉えた人物こそ、第13番目の獣にしてアイリス聖教国の祖であるデイパラだった。教皇庁へ連れて来られた初日、ココノアはデイパラによる精神支配の秘術を掛けられている。幸い効果が発揮されずに終わったため、彼女の自我は保たれたままであるが、もし成功していたら今頃は聖母の傀儡と化していたはずだ。
「酷い言われようね……獣の姿はとっくの昔に捨てたというのに。それにしても、どうして儀式は失敗してしまったのかしら?」
辛辣な言葉をさらりと受け流し、デイパラは仮面越しにココノアをじっと見つめる。瞳が見えていないというのに、相手の心を見透かそうとするような気味の悪い視線を感じ、思わずエルフ少女は背筋を強張らせた。
「あの術式は正しく名前を認知した相手であれば、種族を問わず支配できるものなの。"ココノア"という名が偽りで無い事は、事前調査で確認済みなのだけれど……もしかして別の名前があったりするのではなくて?」
「うちの名前はココノアよ。それ以外の何者でも無いんだから」
即座に否定した彼女だが、思い当たる節はあった。"ココノア"はあくまでNeCOで使っていたアバターの名でしかなく、プレイヤーである"中の人"は当然の如く日本人としての氏名を持つ。デイパラの"命名の儀"が魂自体を支配する術だと仮定すると、鍵となるのはそちらの方である可能性が高い。故に"中の人"の存在を悟らせるわけにはいかなかった。ココノアは口を固く噤む。
「……この話はここまでにしておきましょう。私が尋ねてばかりなのも寂しいから、次はココノアさんの番。知りたい事があれば、どんな内容でも答えてあげる」
これ以上は有意義な情報を得られないと察したのか、デイパラはあっさりと会話を切り上げた。そして今度は穏やかな口調で自分への質問を受け入れる態度を見せる。
「何よ急に……変なこと企んでるんじゃないでしょうね」
「私達は家族同然ですもの。お互いの事をもっと良く知っておくべきだわ」
色気のある艶やかな唇で笑みを作るデイパラ。教皇との婚姻を決定事項のように扱う彼女を腹立たしく思う気持ちはあったものの、ココノアはこれをチャンスと捉えた。アイリスとデイパラの関係を修復するため、メル達は必ず教皇庁へやってくる。ならば対話に備えて情報収集はしておくべきと判断したのだ。
(相手を知らないと何も始まらない、か……)
ココノアは画架に付属していた台に筆を置き、デイパラの方へ向き直った。改めて直視した彼女は女性らしい魅力に溢れたグラマラスな体付きをしており、聖母という名に恥じない包容力を感じさせる。多くの信徒が慕う理由が何となく理解できた。
(そういえばデイパラの顔って一度も見てないわね。誰かに似てる気もするんだけど……確認しておいた方が良いかも)
デイパラの頭部は黒いヴェールと目元を隠す仮面が殆どを占めており、口唇部付近しか見えていない。隠された顔の上半分がどうなってるのか気になり始めたココノアは、まずはデイパラの素顔を明らかにしようと決めた。
「なら、その不気味な仮面を取って。家族だの何だの言ってるくらいなんだし、顔を見せても問題ないでしょ」
「もちろん構わないわ。これは見たくない顔を隠しているだけだもの」
躊躇せずヴェールに手を掛け、マスクごと取り外すデイパラ。サラサラとした長髪が飛び出すのと同時に、目鼻立ちの整った美しい顔が露わになる。
「ウソでしょ……その顔、どうして……!?」
ココノアは唖然とした。デイパラの顔は水中神殿で対面したアイリスと瓜二つだったのだ。顔付きだけでなく、真っ赤な太陽を思わせる両の眼も女神と全く同じ輝きを宿している。ただし髪の色だけは違った。真珠のような乳白色に、ところどころ桃色のメッシュが混じった不自然な色合い――まるで別々の人物が融合したような様相である。
「ふふ、ココノアさんは反応が顔に出やすいタイプって事、よく分かったわ。実は大昔に"転身"してからずっとこうなのよ。きっとアイリスの神核を媒介にした事で、転身後のイメージが固定されてしまったのね」
疑問が口を衝くよりも先にデイパラが答えた。しかし"転身"という単語に対する知識がなかったため、ココノアの謎はさらに深まる一方だ。流し目で会話相手の表情を読み取った聖母は、彼女の要望に答えるかの如く説明を付け加える。
「様々な環境に適合するため、原初の獣には望む姿を得る力……"転身"という能力が与えられていたの。ただ、自分の在り方に誇りを持つ者が大半だったから、あまり使われる事は無かったみたいだけれど」
「……転身って言葉が違う見た目になれる能力を指してるって事は理解できたわ。でもわざわざ女神そっくりに姿を変えたのはどうしてなのよ?」
「アイリスに似てしまったのは単なる事故。私はただ、知りたかっただけ。どうしてアイリスがヒトを守ろうとしたのか……その理由を」
「理由を知る……?」
思わぬ回答にココノアは眉を顰めた。自らが生み出した調停者を封印するように言われた事が原因となり、デイパラは女神と袂を分かつ事になったはずだ。もし彼女が転身してまでアイリスへ寄り添おうとしていたのであれば、両者の溝はそこまで深くならなかっただろう。ココノアは余計な口出しをせず、沈黙したまま続きの言葉を待った。
「欲望を剥き出しにして争い、自滅の道を進んでいく愚かなヒト達……でもアイリスは彼らを慈しむだけで罰を与えることは無かった。争いの調停役として創られた私には、その考えが全く理解できなかったの。ヒト種を根絶やしにして、新たな生命を創った方がよほど星のためになるのに」
「……」
「結局、いくら考えても答えはでなかった。だからアイリスが愛したヒト種と同じ姿になれば、その気持ちが少しは分かるかもしれないって思ったの。アイリスが星を救った後、私は僅かに残っていた神核を回収し、それを取り込む形で転身して今の姿になったのよ」
「ふぅん……ヒトの外見になった経緯は大体分かったけど、今の説明には肝心な事が含まれてなかったわね。つまるところ、アンタはアイリスの想いとやらを理解できたの?」
「いいえ、全く分からなかったわ。ヒトと同じ身体を得ても、見えるのは彼らの醜い部分ばかり……とても好きになんてなれなかった」
デイパラは呆れたような表情で首を左右に振る。刺々しい言葉からはヒト種に対する嫌悪感が滲み出ていた。
「……ココノアさんは博識のようだけれど、私の過去も知っているのかしら」
「伝聞でそれなりにね。ヒト同士の戦争を止めるのが13番目の獣に課せられた役割だったはず。でもアンタの生み出した調停者はヒトに利用されたちゃったらしいじゃない。しかもそれが原因になって世界が滅亡寸前にまで追い込まれたって聞いたけど、それで合ってる?」
「ええ、私が産んだ子供達が悪しき心を持った人間族に唆されてしまったのは事実。それでヒトに対する愛想が尽きた私は、彼らに守る価値があるのかどうかを裁定しようと思い立ったわ。だからまずは人間達が暮らす国へ向かったのよ」
超越者への進化を果たすため、古代人リーデルが調停者を利用した歴史に関しては本人から直接聞いた内容でもある。一方でデイパラが人間族の国へ赴いたという話は今回が初出だ。オキデンスで見聞きした情報を頭の中で整理しつつ、ココノアは彼女の言葉に耳を傾けた。
「でも、私は国に足を踏み入れることすら許されなかった。人間達はこちらを見るなり罵声を浴びせて襲い掛かってきたの。あの頃は今みたいな姿ではなかったから、驚かせてしまったのかもしれないけど……守ろうとしていた者達に強い敵意を向けられたことで、私は存在理由が分からなくなってしまったわ」
物憂げな瞳で過去を語るデイパラの横顔を見る限り、嘘をついているとは思えない。ココノアはアスタロトを始めとする魔族達の姿を振り返った。巨大な角と牙を併せ持った獰猛な肉食獣の如き体躯、多脚の蟲を思わせる奇怪な胴体……いずれもヒト種とは異なる特徴を有しており、化け物そのものだ。
そして魔族達を生み出した母親ともなれば、容貌も当然それに似たものになるだろう。人里へ姿を現した時のデイパラがどんな見た目だったのかは不明だが、人々が慌てふためく様子は簡単に想像できた。
「……で、襲ってきた連中はどうしたのよ?」
「浅ましい悪意の持ち主は、愛し子達が全て喰い殺してくれた。でも、それを知ったアイリスは私に子供達を封印するように要求してきたの。悪いのはヒトの方だというのに……」
「そう……なんとなくだけど、うちの中で話が繋がってきたわ。アンタはそれが気に入らなくて、眷属を操る能力を捨ててまで女神に反抗したってことね。まるで拗ねた子供みたいな事するじゃない」
自身の正当性のみを主張するデイパラに対し、ココノアは鋭い指摘を返す。どんな過程があったとしても、デイパラが役目を放棄したせいで魔族のタガが外れ、星の荒廃が加速したという事実は変わらないからだ。しかし聖母は感情を昂ぶらせることもなく、淡々と会話を続けた。
「ココノアさんは大きな勘違いをしているのではなくて? 私は愛しい我が子を守りたかっただけ。魔族という忌み名で呼ばれても、あの子達はみんな大事な子供ですもの。世界の片隅に閉じ込めて自由を奪うだなんて酷い事、母親にできるわけないでしょう?」
「だからって責任を投げ捨てていい理由にはならないっての。うちらの世界じゃそれを育児放棄って言うのよ。しかも一度捨てた能力を取り戻すために聖教を乗っ取るとか、やってる事が無茶苦茶じゃない」
「……そんな事まで知ってるなんて、少し驚いたわ。どこで聞いたのかしら?」
ここにきてデイパラの顔付きに変化が生じる。子供に御伽話を語る母親のような口調から、一転して冷たい声色となった。だがココノアは臆さない。相手の感情を揺さぶったほうが本音を聞き出せるとばかりに、強気の姿勢で挑む。
「どうやら聖教を乗っ取ったっていう話は本当みたいね」
「否定はしないわ。私が聖母として務めを果たしてきたのは、ヒトの信仰を利用するためなのだから。神という実体無き偶像に注がれた想いを束ね、神核の欠片へ注ぎ込む……そうする事で、ほんの一部だけど創世神としての力を行使することができるの。気が遠くなるほどの年月が経ってしまったけれど、今の私はアイリスと同じように原初の獣を創り出す事も可能よ」
「原初の獣を創る力……!? まさかとは思うけど、アンタが坊やって呼んでるあの教皇の正体って……」
「ふふっ、察しが良いところも含めて、ココノアさんは坊やにぴったりの花嫁だと思うわ。貴女が思ってる通り、あの子……アーエルはこの星を統べる者として産まれた14番目の獣よ。ああでも、役割が変わったのだから"原初の獣"と呼ぶのは少しおかしいわね。相応しい呼び名を挙げるとすれば……"終焉の獣"が妥当かしら」
古代語で星を意味する言葉――"アーエル"が年若い教皇に与えられた名であった。ココノアも彼とは数回対面しており、挨拶程度の言葉を交わした事もある。
(教皇って呼ばれてる割に随分と若くて違和感があったけど、まさか神獣だなんて思ってなかった……! 通りで人間離れしてるはずよ)
幼さを残した中性的な美少年というのがココノアから見たアーエルの第一印象だ。母譲りと思われる美しい容姿は少女に見えなくもないが、声変わりを終えた凛々しい声は青年そのものだった。ただ、無表情を貫く彼からは感情の機微を察する事が困難であり、何を話しても人形相手に問答しているような感覚に陥る。表情がコロコロ変わるメルとは極めて対照的だ。
「終焉の獣……やけに不穏な呼び方をするじゃない。そもそも原初の獣ってのは、星の生命を育むために女神が創った存在でしょ」
「この星に蔓延ったヒト種をこのまま野放しにすれば、また同じ過ちが繰り返されるわ。だから既存の生命がこれ以上続かないように終わりを与えなければならない。アーエルはそれを為す、唯一無二の存在なのよ。そして新生した星でアーエルとココノアさんが理想の世界を創り直すの」
「なに馬鹿な事を言ってんの!? 世界を創り直すとか、狂気の沙汰じゃない!」
デイパラが明かした目的にココノアは驚きを禁じえない。神核の回収、聖教の設立、布教による規模の拡大、神獣の捕獲、教皇の花嫁探し……今まで断片でしかなかった情報が繋がり、その全貌を現していく。
(闇を映した半身とはよく言ったものね……!)
ヒトの所業に絶望したまま数千年を過ごした結果、デイパラはヒトの滅びを願うもう1人の女神に成り果てたのだ。もはや彼女は星に生きる人々へ未来を託した女神と対極に位置する存在だと言っても過言ではないだろう。今更アイリスと対話したところで、その考えを改めるとは思えない。ココノアは唇を噛んだ。
(もしデイパラの計画通りに事が進んだら、うちらが会ってきた人達がみんな犠牲になる……そんなの、最低最悪の結末じゃない……!)
力を取り戻したデイパラにとって、眷属を生み出すことは造作もない。アーエル率いる魔族の軍勢と、破壊の尖兵と化した神獣が星に終焉をもたらすビジョンがココノアの脳内に浮かび上がった。このままデイパラを放置すれば、この世界は確実にバッドエンドを迎えることになる。アイリスの想いを諦めて、デイパラを斃す以外の道は無いように思われた。
(……ううん、大丈夫。メルならそんな選択肢は絶対に選ばない。だって、あの子は底抜けのお人好しなんだから)
ふと恋人の笑顔が浮かび上がる。自分勝手な迷惑プレイヤー達に呆れてしまい、いつからか他者を顧みない効率プレイが当たり前となっていたココノアに、人と繋がる楽しさを教えてくれたのはメルだった。架空の世界であっても他人を想っていつも一生懸命だった彼女なら、デイパラが抱いた絶望を払えるのではないか――そんな希望の光が小さな胸の内を照らす。
――ゴォォォン……ゴォォォン……――
教皇庁全体に祈りの時間を知らせる鐘の音が降り注いだ。時計が置かれていないので詳細な時間は分からないが、既に半時間以上が過ぎていたようだ。ココノアの視界に映っていた椅子から、修道服に包まれた臀部が離れる。
「今日のお話はこの辺りにしておこうかしら。楽しかったわ、ココノアさん」
アイリス聖教では神への祈りを捧げる時間を細かく指定しており、その規則は教皇や大司教であっても適用された。勿論、聖母も例外ではない。まだ会話の途中ではあったが、彼女はココノアに背を向けた。
「そうそう、1つ言い忘れていた事があるの。ココノアさんのお仲間、行方が分からなくなったみたい。もしかしたら、この国から立ち去った後かもしれないわね」
「へぇ、聖教の監視網でも見つけられてないんだ? なら忠告してあげる。メル達は近いうちに乗り込んでくるわよ。しかも予想の斜め上を行った方法で、ね」
「……本当に、諦めの悪い子達。ここへ辿り着くなんて不可能なのに」
バタン、という音と共に静寂が訪れた。再び1人になったココノアはおもむろに画架の絵を捲り、その下に隠していた教皇庁の見取り図へと目をやる。
(メル達が来るまでに、こっちも出来るだけ進めないと)
捕まった時から彼女は教皇庁の内部構造を記憶し、密かにそれを描き記していた。聖母に絵を描く事が趣味だと伝え、道具一式を準備させたのはこれが理由である。視認可能な範囲は限られているものの、見取り図を作製していれば役に立つ時が来るかもしれない。自分にしかできない任務を遂行しつつ、不屈の花嫁は信頼する仲間の到着を待つのであった。
――教皇庁中央区画 中庭に面した回廊――
祈りの時間に閑散とした通路で佇む1人の老人。彼の法衣から覗く顔や手には深い皺が刻まれており、ひと目で相当な高齢であると推測できる。当然足腰も相応に弱っており、壁へ身体を預ける事で辛うじて歩いている状態だ。
「はぁ……はぁ……」
男は骨と皮だけになった浅黒い足で1歩ずつ踏み出すが、その足取りは心許ない。本来なら杖で身体を支えるべきだが、彼の右手には鈍く光る銀の刃が握られていた。身体の小さな子供ならひと突きで殺せる小振りな短剣だ。
「……あの少女を連れてくるべきではありませんでした。早く息の根を止めねば、世界が終焉を迎えることに……ッ!」
老化に伴って白く濁った瞳を何度も拳で擦り、男は突き当りにある部屋を目指す。彼の目的地は教皇の花嫁が使用する私室だった。だが、その視線を遮るように人影が立ちはだかる。聖布を胴体に巻き付けただけのシンプルな法衣に、白い首筋を隠す真珠色の頭髪――神秘的な雰囲気を纏った少年は、冷たい眼光で老いた男を睨む。
「予の花嫁に何用か。返答次第ではその首を失う事になるぞ、ローアよ」
「教皇猊下……!!」
現れたのはアイリス聖教における絶対君主、教皇アーエルだった。そして彼と対峙する老僧は、水中神殿で異端者相手に敗北を喫した大司教ローアである。聖母に与えられた秘術を失った事で身体が急速に老化しており、もはや別人だ。身の回りを世話していた修道女達ですらローアとは気付かないだろう。
「母上が慈悲を授けなかったのは、敗北を喫したお前に対する罰だ。宿命を受け入れ、大人しく余生を過ごせ。神もそれをお望みであろう」
「そのお言葉には応じられません。聖母様の……いえ、アナタ方の真なる目的を知ってしまったのですから」
掠れた声を絞りだすローア。彼は異端の魔女に鼻先を折られながらも生還を果たしたが、若返りの秘術を施されることは無かった。聖教に忠誠を誓ってきた自分にどうして救済が与えられないのか――その問いに対する聖母の返答を、アーエルへ向けた言葉に乗せる。
「聖教による世界の統治が我らの理想であると信じておりましたが、聖母様が目指しておられた未来は全く違うものでした。まさか信徒を含む全てのヒト種を根絶し、猊下と選ばれし者のみで新たな世界を築くおつもりだったとは……!」
「そうか。母上がそこまで話したということは、お前に残された時間は幾ばくも無いのだろう。ならば尚更のこと、穏やかに死を待て」
「猊下が何と言おうと、この身は聖教へ捧げたものなのです。例え許されぬ罪を背負ってでも、聖母様にはお考え直しいただきましょうぞ……」
短剣を握り直して、ローアは鋭く光る切っ先を前方へ向けた。震える両手のせいで狙いが定まっていないが、鬼気迫った表情からは刺し違えてでも相手を仕留めてみせるという強い覚悟が感じ取れる。
「猊下のお命、ここで頂戴させていただくッ!」
「予と伴侶を亡き者にし、母上の計画を崩すつもりか。知謀において右に出る者無しと謳われたお前も耄碌したものだ。だがこれまでの貢献を忘れてはおらぬぞ。せめて、苦しみのない終焉を与えてやろう」
「うおぉぉぉーっ!!」
ローアは雄叫びをあげて刃を振り上げた。だが老いた脚はすぐに反応しない。彼が踏み出すよりも先に、アーエルの術式が発動する。
――キシャァァァ!!――
何の前触れもなく床に魔法陣が生み出され、そこから大鎌を持った魔物が飛び出した。朽ちたローブから顔を出した不気味な髑髏――それがリッチ種と呼ばれる高位の魔物だと気づいた頃には、何もかもが遅かった。白骨化した腕で握られた鎌は瞬きよりも早く振り下ろされ、ローアの首を鮮やかに刎ねる。
――ザシュッ!――
物言わぬ頭部は放物線を描いて中庭へ落ちた。廊下に残ったのは倒れた胴体だけだ。鮮血で染まっていく床を銀色の瞳で見つめながら、アーエルは咳き込む。
「ごほっ……ごほっ……!」
色素の薄い唇には真っ赤な血が付着していた。肺もしくは気管からの出血だろう。苦しそうな表情を浮かべた彼は骸の魔物へ視線を移す。
「もう良い……闇へ戻れ」
帰還指示を受けた直後、魔物は魔法陣と共に消え去った。それと時を同じくして咳が収まる。ようやく呼吸を整えることができたアーエルは、右手で胸の中央付近を強く掴んだ。
「くっ……不完全なこの身では眷属召喚もままならぬか」
"原初の獣"としての魂を宿しながら、世界に終わりを告げる役割を与えられた"終焉の獣"――相反する願いを併せ持ったが故に、その肉体は致命的な綻びに苛まれていた。だがアーエルは誰にも自身の状態を伝えてはいない。母から注がれた期待と愛情を裏切りたくなかったのだ。
「母上の願いを叶えるまで、予が倒れる事は許されん……!」
若き教皇は激痛で歪んだ顔を無表情で上書きした。内臓が裂かれるような苦しみは今に始まったものではない。口元の血痕を綺麗に拭い取った後、彼は何事も無かったように踵を返した。