101.うちの子転生①
「ココノアちゃんっ! 私の声が聞こえますかー!」
浅黒い肌と白い法衣のコントラストが特徴的な壮年の聖職者、ローアが長杖を掲げた直後にココノアは姿を消した。僅かな風の揺らぎすら感じなかった事から、メルはココノアがテレポートで移動したのではないかと考えたものの、見渡せる範囲にその姿はない。いくら呼び掛けても返事がないため、彼女の表情はたちまち曇っていく。
「どこへ行っちゃったんでしょうか……」
「ココノアが何も言わずにいなくなるとは思えない。とりあえず近場から探そうか。ボクは召喚ペットを使って広場の方を探すよ、2人は反対側を探しておくれ!」
「ん……了解」
異常を察知したレモティーとリセも友人の捜索を開始した。しかし長い胴体を持つ不気味な神獣が少女達を取り囲むようにして行く手を阻む。尻尾の先がどこにあるかもわからない巨大な蛇――その光沢のある黒鱗に覆われた体表と、重たそうな頭部をもたげた姿は竜種の魔物を思わせた。爬虫類の特徴でもある細く縦に伸びた瞳孔は鱗同様に黒く、威圧感を込めた眼差しで少女達を睨みつける。
「神獣さん! 私達は争いに来たわけじゃないんです!」
頭上で両方の手を振り、メルは神獣に戦う意志がないことをアピールした。チュンコと同じ知性ある生命であれば会話ができると考えたからだ。だが神獣はメルの言葉に一切耳を貸さず、口を大きく開く。そして獲物に仕掛けるタイミングを図るように、鋭い2本の牙をギラリと光らせた。
「燐火の黒大蛇、我らが敵を噛み砕きなさい!」
大蛇の頭上に乗った大司教が指示を出した直後、メルが立っていた場所に巨大な顎が突き刺さる。干上がった湖底は硬そうな岩盤が露出していたが、神獣の強烈な一撃はそれすら容易く割ってしまった。牙が刺さった場所を基点として周囲にも亀裂が走り、地面を砕く。
「ひょっとして私の声が聞こえてないのでしょうか……!」
飛び退いて咬撃を回避したメルは空中で思考を巡らせた。その昔、蛇は耳を持たない生物だという解説を図鑑で読んだことがあったのだ。もし聴覚がないのであれば話しかけても無駄だろう。しかしローアの声には従っていたような動きであった。
「キョキョキョキョキョ!」
エキドナは大地を穿った牙を引き抜き、奇妙な鳴き声を響かせながら空に向けて口を開いた。そして間髪入れずに狙いの焦点をメルへ定め、腹部を波打たせて蒼炎を吐き出す。通常の炎とは異なる青白い火焔――神獣の魔力を帯びた炎は火炎放射器の如く広範囲に広がり、猫耳少女を飲み込んだ。
「えっ……!?」
いくら攻撃範囲が広くとも、機動力に優れるメルなら回避できてもおかしくない距離である。だが炎は彼女の予想を超える速度で展開し、その小さな体を包み込んでしまう。火達磨となって猛火に焼かれる少女を見下ろし、ローアは勝ち誇ったように笑みを浮かべた。
「どうですか、燐火の黒大蛇が体内で作り出す魔炎の味は。その炎に焼かれた者は治癒不可能な火傷を負うことになります。異端の術式、封じさせて貰いましょう」
呪いの魔力が込められた燐火は通常の炎と違い、再生不可状態を付与する効果を有する。それはメルの回復魔法も例外ではなかった。少なからずダメージを受けている状況下においてもオートヒールが全く発動していない状況を見て、レモティーは同様の効果を持つNeCOの不利ステータス異常を思い出す。
「強制的な回復不可か……! でもメルなら対処できるはずだ!」
「対処できる? 面白い冗談ですね。呪炎は通常とは異なる理と性質を持つ炎……例え水に飛び込んだところで消えはしませんよ。命が尽きるまで悶え苦しむしかありません」
ローアは唇の端をニヤリと吊り上げた。回復魔法の使い手と戦うにあたり、最も重要なのは回復を封じることである。彼はそれを知っていたからこそ、特殊な炎を操る蛇の神獣を連れてきたのだろう。
NeCOに存在したリストリクトリバースと呼ばれる状態異常も、長時間に渡ってあらゆる再生効果を阻害するという理不尽な効果を持ち、多くのプレイヤーを泣かせてきた。ポーション連打が当たり前の狩り場やダンジョンで回復ができなくなると、殆どのジョブは窮地に陥ってしまうからだ。もちろんカーディナルにとってもこのデバフは厄介極まりないものだが、状態異常という括りである限り解除方法は存在する。
「全状態異常解除!」
メルの魔法が淡い光りを放った瞬間、蒼い炎塊は彼女の体から跡形もなく消え去った。白いスクール水着にはやや焦げが見られるものの、本人は火傷1つ負っていない。無傷の少女を目の当たりにし、ローアは信じられないような顔付きで目を見開く。
「神獣の魔力で練られた強度の呪いを解けるはずが……!」
「どんなデバフだろうと関係ないのさ! なんたってNeCOは1つの魔法でほぼ全部の状態異常を解除できるように仕様変更したからね! ま、状態異常を雑に増やしすぎたのが原因なんだけども……っと!」
大司教に隙が出来た一瞬を狙い、レモティーは手の先から緑色の蔦を伸ばした。水中では上手く発動できなかったスキルも、湖が割れた今なら制限なしで使える。太陽の光を吸収して凄まじい速さで成長した蔦は、あと一歩というところまで目標に迫った。だが彼女の視界が微かに揺らいだ直後、ローアを乗せた神獣の姿が唐突に消える。気づいた時には狙いと全く別の所へ移動していたのだ。
「まさか……あの距離でボクの蔦を避けたのか!?」
「ん、次はあたしが仕掛けるから下がって。神獣は傷つけずに、あの胡散臭い神官だけ狙う」
腰鞘から剣を振り抜き、リセはエキドナに向けて駆け出す。素早さを重点的に上げた彼女の脚力はメルにも劣らない。一気に距離を詰めた彼女は蛇の頭部まで飛翔し、不敵な笑みを浮かべる大司教を一刀両断した。だがその剣閃も虚空へと消える。
「剣を振り回す蛮族如きが我が身に触れようなど笑止千万。燐火の黒大蛇、小賢しい連中を叩き潰しなさい!」
突如としてリセの背後に出現した大蛇の牙が、紫色のポニーテールを捉えた。少しでも反応が遅れれば頭から串刺しされるところだったが、リセはギリギリのところで体を反転させ、剣先で攻撃を弾く。押し返されたエキドナが大きく仰け反ったためにローアは神獣からの離脱を余儀なくされた。
「やってくれますね……! 魔女だけでなく、仲間も総じて化け物ばかりということですか。ならばこちらも全力をもって叩き潰すとしましょう」
岩場の上に着地したローアは純白の法衣に付着した埃を軽く払いつつ、身長より高い杖を岩盤に突き立てる。彼がカドゥケウスという名で呼んだその杖は、相当な年代を経た老樹から切り出された枝をそのまま杖にしたような見た目であった。装飾こそ少ないが、その先端には次元結晶の一種と思しき透明な球体が嵌め込まれており、不穏な明滅を繰り返す。
「至高の神器である神樹の覇杖の力、見せて差し上げましょう。さぁ半人半魚の歌女、燐火の黒大蛇と共に我らが敵対者を蹂躙しなさい!」
男の声に呼応するかの如く、杖の底から黒い魔力波が放たれた。周囲一帯へ伝播した波は地面に作用し、瞬く間に流動性のある物質へと変化させていく。少女達の足元も水分を多量に含んだ砂のように軟かくなってしまい、自重で足が沈み込むようになった。
「2人共、神殿の屋根に退避するんだ。遺跡は影響を受けないらしい!」
「分かりました。ココノアちゃんの事が凄く気になりますけど、今はこの状況を切り抜けないとですね……!」
術式の効果が女神の遺構に及んでいない事を発見したレモティーは、仲間を連れて神殿の上へ登る。風化した石の構造体には苔や藻が付着しているが、しっかりとした造りなので足場として使うだけなら十分だ。
――バシャッ、バシャッ!――
軟化した地面を高速で泳ぐ半人半魚の神獣が少女達の視界に入る。その上半身は人間族の女性に近い外見をしており、胸からはレモティーにも負けない巨大な乳房がぶら下がっていた。だが肌の色は深い海底を思わせるように青く、人外の存在であることを強く印象付ける。
一方、下半身はライギョの仲間を思わせる模様に覆われた長い円筒型の形状だった。末端には神殿の高さを超える大きな尾ビレがあり、魚のような鋭利なヒレが付いた腕と連動して爆発的な推進力を生む。怒涛の勢いで泥状になった土や砂を巻き上げながら迫ってくる姿は、人魚と表現するよりもクリーチャーと呼んだ方が適切だろう。
「何なんだ、あの神獣は……チュンコはまだ原型を留めてたけど、アレは元が何なのかさっぱり分からないね!?」
「ん、この世界で進化した魚の形なのかも。それより、正面からさっきの黒蛇が近づいて来てる。ここにいたら挟まれるよ」
ローレライの名を持つ獣と、エキドナと呼ばれし大蛇が神殿を挟み撃ちにする陣形で迫る。前後からの同時攻撃を回避するには湖底へ降りなければならないが、液状化した地面に足を踏み入れるリスクは大きい。機動力が奪われる上、どんな罠が仕掛けられているか分からないからだ。姿を消したココノアの捜索をしなければならない事も考慮し、神殿の防衛に専念すべきだと判断したレモティーは迎撃の態勢を取る。
「仕方ない、ここで迎え撃とう! ボクが人魚を食い止める!」
「ん、なら蛇の方はあたしが牽制しておく。メルはあの男をよく見張ってて。さっきから何かがおかしい。何か秘密があると思う」
「やっぱりみなさんも違和感があったんですね……さっきから周りの風景が一瞬だけ歪むことが多くて、不思議だったんです」
ごく僅かな時間に発生する視界の揺らぎ――その前後において、3人は神獣と自分達の位置関係がズレるという不具合が生じている事に気付いた。今まで体験したことのない事象であったが、彼女達はNeCOで研ぎ澄ましたセンスをフル活用し、ローアが裏で何かを仕組んでいるのではないかとの結論に至ったのだ。しかしそれをじっくり検証するような時間はない。這い進むだけで街が廃墟と化してもおかしくない大災害の化身が2体、容赦なく襲い掛かる。
「キョキョキョキョーッ!」
鼓膜を痺れさせる甲高い奇声を発し、エキドナは燐火のブレスを撒き散らした。黒蛇に対峙したリセは剣で空を斬り、三日月型の衝撃波を撃ち出すことでそれらを霧散させる。だが蒼炎は尽きる事なく次々に押し寄せた。
「ん……呼吸の合間は炎が途切れるはず。なのにずっと吐き出し続けてる。どんなに肺活量があったとしても、これだけ続くのはおかしい」
「こっちもだよ! この人魚が放ってくる氷の礫、ボクの万緑の暴風でも撃ち落とせないくらいに多いんだ。勢いも衰えないし、悪夢でも見てるみたいさ……!」
額に汗を浮かばせ、ローレライの猛攻に耐えるレモティー。リセと背中合わせになった彼女は、宙を舞う植物の葉で弾幕を形成して降り注ぐ氷塊を無力化していた。しかし相手の方が数で勝っており、途切れる様子もない。防ぐので手一杯だ。
「ラーラーラー♪」
恐ろしい見た目に反し、半人半魚の獣は美しいメロディーを奏で続ける。吟遊詩人ですら聞き惚れそうな歌声が心地よいリズムで戦場を彩る傍ら、空では無数にも思える氷の棘が生み出されていく。膨大な魔力が込められた声が大気に作用し、そこに含まれる水分を凝華させたのだ。透き通った結晶は異常なほどに鋭く、鋼ですら切り裂きかねない。1つも撃ち漏らすわけにはいかなかった。
「流石は至高の神器と神の獣……搦め手など使わずとも良さそうですね」
神殿を見下ろす事ができる高台から、ローアは守勢を余儀なくされた敵対者を満足気に眺める。神殿屋上の攻防は神獣達に分があった。このまま行けば勝利は確実だろうと、知謀の大司教は恍惚とした表情で空を見上げる。
「神獣を従えた今、聖教国の驚異となり得る存在など皆無! 神への信仰を持たぬ愚者をこの世界から一掃し、正しく清らかな信徒のみで染め上げるという我らが宿願を果たせる時がやってきたのです。アイリス様もきっと喜んでおられるでしょう……!」
「そんなの全然喜びませんよ! アイリスさんはこの世界に住む人達が仲良く笑って過ごせる未来を心から望んでいました! 勝手な事を言わないでください!」
「……随分と利いた風な口を叩くではないですか、穢れた異端者如きが」
自分の世界に入ってしまったローアを現実に引き戻したのはメルだった。アイリスが自分を犠牲にしてまで星を救った経緯を知る彼女にとって、聖教が抱く過激な思想は見過ごせないものだ。メルは独り善がりな妄言を垂れ流す神官を睨みつけ、その考えを真っ向から否定する。
「そもそも、神獣さんはアイリスさんがこの星に命を育むために生み出した希望の存在なんです! なのに争いの道具にするなんて……許せません!」
「部外者に好き勝手言われるのは癪に障りますね。異端の魔女と言葉を交わすつもりはなかったのですが、少し付き合ってあげましょう。神の獣は世界を正すためにアイリス様が遣わされたもの……故に、その本質は破壊の力にあるのですよ。今まで課せられた役割から逃げていたようですが、新しい名と役割を与えられた事で獣達は粛清の使徒として目覚めました」
「目覚めた……って、どういう意味ですか!?」
「言葉の通りです。聖母様が手掛けられた"命名の儀"は、名を与えた相手を意のままに操る精神支配の秘術……如何に神獣といえど、抗う事は出来ません。そこにいる獣達には随分と手こずらされましたが、聖母様のおかげで神敵を滅ぼすためなら死すら厭わない立派な殺戮兵器することにできました。あのココノア嬢も"命名の儀"を受ければ、猊下の世継ぎを産むだけの従順な人形になることでしょう」
悪意が滲み出るローアの言葉に、少女達は拳を握り締めた。聖教が命名の儀と呼ばれる洗脳術式を使って神獣の尊厳を踏み躙ったという事実は勿論のこと、ココノアの失踪に彼が関与した事が判明し、怒りのボルテージが一気に上昇する。
「ココノアちゃんに何をしたんですかっ! 今すぐ連れてきてください!」
「もう手遅れですよ、ココノア嬢は大口の悪魔が教皇庁へお連れしましたから。それに貴方達はここで果てる運命……無駄な足掻きなど止めて、潔く死を受け入れてはどうですか」
「ん……その台詞、そのまま返すよ」
エキドナの炎を防ぎつつ、リセがローアに向けて斬撃を飛ばした。魔力を纏った風の刃は遠距離に飛翔に耐え、的確に大司教の胴体を狙い撃つ。だがリセの一撃はまたもや空振りに終わった。斬撃が接触する直前、男の位置が数メートル横へズレたのだ。無詠唱かつ無動作の転移魔法が発動したようにも見えるが、そんな芸当ができる魔法使いは片手で数えられる程しかいない。
「ふはははっ、何度やっても無駄です! 神の奇跡で守られた我が身を害することなど不可能と知りなさい」
優雅に法衣の裾を靡かせながらローアは高笑いした。洗脳された神獣が意に沿わない行動を強制されている状況を考慮すれば、倒すべき相手が彼であることは間違いない。しかし一切の攻撃が通用しない以上、このまま戦い続けるのは危険だ。撤退の二文字がレモティーの脳裏を過る。
「くそっ、あの変な瞬間移動を封じないと手の出しようがない! 悔しいけど、一旦退くのも手かもしれないよ……!」
「神獣を倒してから3人同時で仕掛ければいい。あたし達なら出来る」
「それはダメです! 神獣さんは操られてるだけなので、手荒なことは無しで! それより、NeCOでさっきの変な移動を見た覚えがあるんです。接続者が多い時間帯に、キャラクターやNPCさんが瞬間移動することがあったじゃないですか?」
「ええっと……それはラグのことかな? 確かにNeCOはサーバーが貧弱で結構ラグい時があったね」
レモティーの口から飛び出した"ラグ"とは、オンラインゲームプレイヤーにとって馴染み深い単語の1つだ。具体的には、通信上の問題などが主な要因となって、自身と他者の間に"遅延"が起きることを指す。ラグが出やすい状況では、キャラクターの動きがカクカクしたり、画面が止まってしまうといった現象が生じるため、メルが言及した瞬間移動も起こり得る。
対戦型のオンラインゲームではこれを悪用した"ラグアーマー"という防御テクニックが存在しており、わざと回線を絞って無敵化するプレイヤーも存在した。ローアが見せた反則的な回避はこれと近いものと言って良いかもしれない。
「……そうか、奴の回避方法はラグアーマーそっくりだ。ここは現実世界だから通信のズレは起こらないけど、着眼点は悪くない! ラグの根本的な原因は同期ズレ、つまりボク達とあの男で時間の流れ方が違うかもしれないってことさ! もしかしたら、あの変な杖を使って時空を操作してるんじゃないかな?」
「ん……時間の流れに差があるとすれば、今までのおかしな点にも納得できる。あたし達の時間だけが遅くなってたから、ココノアがいなくなったのに気づけなかった。他のも多分そう」
少女達は僅かなヒントから時間操作の術式が存在しているのではないかという仮定に辿り着いた。時の歩みは本来、誰にとっても平等なものだ。しかしそれを自由に操ることができるのであれば、誰にも気取られることなく少女を誘拐するのは勿論のこと、命中率100%の攻撃を避け続けるチートプレイも不可能ではない。
対象の時間を極端に遅らせたのか、それとも停止させたのか――ローアが取った手段がどちらなのかは不明だが、デバフの枠に収まるのなら対抗手段はある。気合でローレライの攻撃を押し返したレモティーは、メルの方へ意識を向けた。
「メル、あのおっさんの相手は任せるよ! NeCOじゃ時間に関するデバフはレジストできなかったけど、解除なら可能だったはず! 付与された瞬間にキュアコンディションで除去するんだ!」
「えっ、でも時間を止められたら詠唱できないんじゃ……?」
「大丈夫、今のメルには魔法の効果を自分の身体に付与する便利スキルがあるんだから! さあ行っておいで!」
「……あっ、そうでした!」
レモティーに促され、メルは力強く駆け出す。そして思い切り助走をつけて神殿の屋根から跳躍した。眼下ではローアの術式によって流体となった大地が待ち受けているが、猫耳少女は臆することなくローアだけを見据える。
「物魔反転を発動! 追加で全状態異常解除!」
コラプス・オブ・ロウの効果が発動し、魔法系スキル全般が物理属性を得た。魔法としての射程を失う代わりに、キュアコンディションの効果はメルの身体へ宿る。他者に触れるだけで全ての状態異常とデバフを解除できるようになったのだ。言うまでもなく、その対象には彼女自身も含まれる。
――タッ、タッ、タッ、タッ、タッ――
着地した足が沈むより早く次の1歩を踏み出すという人間離れした走法で、メルはローアが立つ岩礁へと向かった。対するローアは余裕の表情で長杖を突き出す。
「接近したところで無駄です。何人たりとも我が身に触れることさえ叶わないのですから。さぁ神樹の覇杖よ……今一度、奇跡をここに!」
短い口上を終えたローアの頭上に黒い魔力が渦巻いた。これは半径500メートル近い範囲に渡って発動する大規模魔法の予兆であるが、術者本人以外には視認できない。
「ああ、杖を手にしているだけで魔力が溢れてくるようだ! この力さえあれば如何なる敵も討ち果たせましょうぞ、聖母様!」
エウレカに遺された神器は数あれど、神級魔法の発動が可能なのは高純度の次元結晶が使われた"神樹の覇杖"だけだ。人の手に余る絶大な力を手にして、力に溺れない者などいないだろう。普段から冷静沈着な大司教もこの時ばかりは油断してしまった。少女達の動きがぴたりと止まったのを見て、ニヤリとほくそ笑む。
「単に突っ込んでくるだけとは……あまりに滑稽すぎますね。とはいえ、時を止められたと知覚することすらできないのですから、勢い任せの愚策に頼らざる得ないのも致し方な――」
時空が歪められた空間において無敵を誇るローア。だが愉悦に染まった台詞が終わるよりも先に、強烈な蹴りが顔面へ炸裂した。鼻が骨ごと明後日の方向へ捻じ曲がり、真っ赤な飛沫を撒き散らす。
「ごはぁぁぁっ!? な、何が起こったというのですか!?」
鼻血で白い衣服を汚しながら狼狽える男。彼の眼前には強い怒りで耳と尻尾の毛を逆立てた水着少女が立っていた。ローアは慌てて神殿の方を振り返ったが、他の者達は停止したままだ。
「術式は確実に動作している……それに、つい先程まで魔女も止まっていたずです。しかしこの状況は……まさか、我が目が認識していたのは残像……!?」
「その杖を使って私達の時間を操作してたみたいですね! でも状態異常を解除できる私には通じません!」
「解除!? これは神級魔法、神の力に等しい術式なのですよ!?」
想定外の展開にローアの思考が追いつかない。なんとか杖を握り直したものの、術式を維持するだけの集中力は既に失われてしまった。時間操作の魔法が解除され、頭上を覆っていた魔力の渦が消えていく。
「……っと、氷塊は打ち止めみたいだ。メルが何とかしてくれたみたいだね!」
「ん、こっちも決着が付いた」
神殿で応戦していたレモティーとリセのデバフも解除された。一方、2体の獣は魔力切れを起してフラフラの状態である。
「キ、キョ……キョ……」
「ラ……ァ……」
エキドナとローレライは苦しそうな様子で崩れ落ちた。神獣達は時が止まった間に杖から魔力の供給を受ける事ができたため、これまで息切れせずに済んでいたのだ。それが途絶えた今、過剰な魔力放出の反動が顕著に現れてもおかしくはない。戦況が完全に覆った事を察し、血濡れの大司教は最終手段に出る。
「まさか神獣までやられるとは……しかし、まだこちらが敗けたわけではありません。ココノア嬢の身柄は聖教で預かっています。これがどういう意味なのか……お分かりでしょう? こちらの命令には従っていただきますよ」
投降しなければ仲間の安全は保証しない――そういう脅しの意味を込めて、ローアは低めの声で言い放った。教皇の花嫁候補に手荒な真似をすれば聖母に睨まれかねないものの、相手の行動を縛る道具として使う分には問題ないと判断したのだろう。しかし彼はメル達が育んできた絆の強さを完全に読み間違えていた。
「ココノアちゃんは教皇庁にいるって、さっき言ってましたよね。なら乗り込んで直接助けるだけです! あなたにはここできっちりお仕置きしておかないと!」
「ま、待ちなさい! 仲間がどうなってもいいのですか!?」
「そんな脅迫、私達には通用しません。ココノアちゃんは自分のせいで迷惑が掛かってしまうのを一番嫌がる性格なんです。人質にされたって、気にせず好き勝手やればいいのよって言ってくれます!」
「ぐっ……!」
真紅の輝きを放つ瞳に気圧され、ローアは思わず後退る。考えうる最良の策で挑んだにも関わらず、全く歯が立たなかった相手と対峙するのは彼にとって初めての経験だ。恐怖の感情が思考を支配し、体を強張らせた。
「これは……我が手が震えている……?」
ブルブルと震えるローアの腕。心因的な理由によって筋肉の硬直が震えとなって現れるのは、動物に備わった基本的な機能でもある。だが彼の場合は別の原因によるものだった。
「まさか肉体が老い始めたとでも……があぁっ!!」
凄まじい勢いでローアが老化していく。皮と骨だけに痩せそぼった両脚では自重を支えきれなくなり、倒れるようにして膝を突いた。
「聖母様より授かりし力が……消えていく!?」
現在の大司教は全員が高齢の老人である。そのままでは職務を遂行するにあたり不都合が多いため、若返りの魔法を得て肉体を本来よりも若く保っていたのだ。その効果は半永続的に続くが、もし何らかの理由で術式が解ければ元々の肉体年齢に戻ることになる。老化を食い止めるためにはすぐに聖母の元へ戻り、秘術を掛け直して貰わなければならない。
「早くあの御方のところへ戻らねば……ッ!」
貴重な戦力である神獣を破棄して撤退すれば懲罰を与えられてしまう懸念もあったが、急速に進む老いの恐怖には勝てなかった。ローアは干からびた手で杖に寄り掛かり、息も絶え絶えに立ち上がる。
「魔女よ、覚えていなさい……必ずやこの屈辱は晴らさせて貰います……!」
「あっ、待ってください! まだお話は終わっていませんよ!」
ローアは捨て台詞を残し、即座に姿を消した。神器の次元結晶を利用することで、どこかへ転移したのだ。
「どうして急にヨボヨボのお爺ちゃんになったんでしょうか、あの人……?」
口元に指を当てて考え込むメル。術式妨害を目的とした彼女の飛び蹴りは手加減されていたため、ローアは鼻を骨折するだけで済んだが、付与されたキュアコンディションの効果はダイレクトに作用する。それによって聖母が掛けた魔法が解除されたのだ。もっとも、メルがその事実を知る術はない。
――ゴォォォォ!!――
大司教との戦いはメル達の勝利に終わったものの、一息つく間もなく次の災いが襲い掛かった。術者が離れた事で湖が元に戻り始めたようだ。露出していた湖底へ大量の水が流れ込んでくる。水中呼吸のバフが残っているので溺れる心配は無いが、ココノア不在での長居はリスクが大きい。メルは友人達に顛末を説明するのを後回しにして、陸地へ上がることにした。
「リセちゃん、レモティーちゃん! 神獣さん達を連れて陸へ上がりましょう!」
「オッケー、分かった! 人魚の方はボクが蔦で縛っておくから、メルが上まで引っ張ってくれ! リセには黒蛇の方を任せるよ」
「ん……引っ張った時に尻尾が千切れないといいけど」
「トカゲとは違うっぽいから大丈夫じゃないかな……多分」
そんなやり取りをしつつ、一行は最寄りの離れ小島を目指す。水中神殿を探索するために用意した船をそこに停泊させていたのだ。着替え類もそこに置いてある。
(待っててね、ココノアちゃん……必ず助けるから!)
去り際に恋人と結ばれた思い出の広場を一瞥したメルは、心の中で彼女の救出を誓った。ココノアを取り戻した上で女神アイリスと聖母デイパラの確執を解く――少女達の冒険譚を締め括るラストミッションが始まる。