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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

魔女の指先

作者: てむきゅー

 私の魔女は、朝日を背負って帰宅した。


「お帰りなさいませ、トゥガ様――」


 家の主人を出迎えた私の鼻を、些かの焦げ臭さがくすぐる。

 実際に彼女の纏っている黒いケープには目立たないが煤が確認できた。

 いつものことだ。彼女が仕事で朝帰りするときは決まって焦げ臭さを身に纏って帰ってくる。


「お仕事お疲れ様です」


 徹夜明け特有の気だるさを伴って彼女は一つ頷くと、被っていた帽子を私に押し付けた。


 私はそれを胸に抱えて彼女の顔を見る。

 顔を見ると言っても彼女の身長は私のそれを優に越しているため、見上げる格好になるのだが……。

 私の身長が低いということもあるのだろう。もう十八になるというのに一六〇センチを越えないのだ。毎日牛乳だって飲んでるのに……!

 それを加味しても彼女の背は物凄く高い。

 詳しい身長は教えてもらえないのだが、目算一八〇はあるのではないかと睨んでいる。

 彼女の横に立った時に見映えを良くするためにももう十センチは欲しいところ。

 

 何はともあれ今は願望に思いを馳せるよりも帰ってきた主人を労うことが先決だ。


「トゥガ様、この後はどうなさいますか?」


「風呂に入る。準備は?」


「出来ています。食事の方は?」


「軽いものを少し頼む」


「分かりました」


 浴室に向かったのを確認してから、私は朝食の準備に取りかかる。


 彼女の世話をするのが私の役目。

 何も残っていなかった私を拾ってくれたのだ。これくらい当然のこと。


 私の主人は魔女。

 名をトゥガ・クリーメ。

 寡黙で不器用、加えて傷つきやすい、それでいて思いやりのある私の主人。

 どんなことでも一人でそつなくこなせるのに、人一倍孤独を恐れる寂しがり屋な私の魔女。


 私の大切なただ一人……。




   ×




 ――お前に二つの道をやろう。一つはここでその何も残ってない生を捨て死ぬ道……。


 数年前、まだ私が小さかった頃。

 その日のことはよく覚えている。

 私のいた世界は地獄だった――いや、地獄に変わってしまった。


 葡萄とそれを加工した果実酒が特産であることくらいしか特筆すべきことのないどこにでもある辺境の田舎村。

 そんな村が私の生まれ故郷。

 今はもう地図には乗っていない私の故郷。


 世界は炎に包まれていた。

 育てるのを手伝っていた葡萄の苗も、通っていた学校も、優しかったご近所さんの家も、もちろん生まれ育った私の家も、全て燃え盛る赤色に包まれた。


 呼吸する度に熱が肺を焼き、息をすることすらもままならない。

 母親は目の前で炎に巻かれて黒くなった。父親は焼け落ちた廃材に頭を潰された。

 友達も、知りあいもみんないなくなってしまった。

 そう確信できてしまうほど炎は激しい勢いで私の世界を焼いていた。


 きっと私はこのまま死ぬのだろう。

 悲しみはなかった。

 ただ幼かった胸中にはどうして、というが思いだけがあった。


 昨日までささやかながらも家族と笑いあえる日常があったのに、突如として世界が地獄に一変した。

 そのことに対する疑問。

 そしてどうしてか分かったところで、どうしようも出来ないという諦めも同時に理解していた。


 もはや泣き叫ぶだけの体力も無く私は霞む視界で世界を見ていた。

 さっきまで聞こえていた誰かの悲鳴もすでに消えた。


 私はこのまま死ぬのだろう。

 お母さんもお父さんも死んで一人になって、燃える世界には私を助けてくれる人なんて一人もいなくて。


 ――私は一人で、死んでいくんだ。


「……ぃ、ぁ」


 そう思ったとき、溢れ出たのはとっくりとした黒い感情。恐怖、と呼ばれるそれ。それは私の胸中を急速にどす黒く埋め尽くしていく。


「……ぃゃ、だ」


 死にたくない。死にたくなんかない。もっと楽しいことがしたい。

 知らないことだらけなのだ、勉強だってもっとしたい。


 止めどなく溢れる感情。


 そのとき一際強かったものは、想像するだけで心が揺さぶられるもの。

 ――それは、恋。

 私は恋、というものがしてみたかった。本の中でしか知ることのなかったそれ。胸を焦がすほどのそれをしてみたいと、強くつよく願って――



 死ぬのが怖くなった。



「……ぁぁあっ……ぃ、いゃ……いや、だ…………」


 死にたくなんかない。

 そんな思いが涙として溢れそうになった。

 だって、死んでしまったら、私は、私の思いごと消えてしまう。


 その時だった。


「おい、生きているのか、お前」

 

 目の前に真っ黒なケープを熱風に棚引かせた女が現れたのは。


「……っ?」


「生きてはいるな」


 呼吸を忘れた。

 そう錯覚してしまうほど私は眼前の女性に目を惹かれたのだ。


 彼女は一息つくと私を見下ろして言った。


「私は魔女だ」


 瞬間にして、私の世界には魔女しかいなくなった。

 さっきまで私を焼いていた炎も、私に息苦しさを与え続けた熱も、死んでしまうことへの恐怖も、溢れそうになっていた涙すらも。

 全て、目の前の魔女が掻き消した。

 そう思えるほど目の前の魔女に心奪われた。


 呆然と見つめる私に魔女は続ける。


「お前に二つの道をやろう。一つはここでその何も残ってない生を捨て死ぬ道……」


 彼女は何事かを話し出したが、私の耳には届かなかった。


 私の中にあったのは一つ。


「つれてって」


 その日死にかけた私にとって、魔女との出合いは運命のように感じた。その運命を手放すまいとして出た言葉がそれだった。


 私の言葉を聞いた魔女は開きかけていた口をつぐんだ。

 そして、それの代わりに浮かべたのは……。


「分かった。君が歩くのはもう一つの道だ」


 そう言いながら浮かべられた優しげな笑みを見て私は、ああ、自分は助かるのだと理解した。



 私はその日魔女に拾われた。

 

 


   ×



 

 私の主人であるところのトゥガ様は、魔女だ。

 決して比喩的な意味での魔女ではなく、指先一つで砂を塩に変え、何もないところに炎を着火させ、鳥よりも自由に大空を飛翔する――魔術、と呼ばれる不思議な力を行使することのできる、という意味での魔女だ。


 数年前のことだ。

 遊びにいらっしゃったトゥガ様の友人はこう言っていた。


 ――世界に人はごまんといれど、魔術が使えるやつはそうはいねぇな。そのなかでトゥガのババアみたいな化物はそうそういねぇ。指折りとか屈指とか、そういう言葉で表すんだよ、このババアはな。特別化物だ、ババア。


 友人さんはそう言った途端にトゥガ様から顔面をグーで殴られていた。ババアババアと連呼したのがよくなかったのだろう。

 ……名誉のために付け加えておくが、トゥガ様の見た目は若々しい。二十代だと言われても違和感はない。

 実際の年齢は聞いたことがないから知らないが、友人さんの口ぶりから察するにかなりお歳を召しているのだろうとは想像できる。

 が、それをトゥガ様本人に指摘したらきっと拗ねてめんどくさいことになるので口が裂けても言えないが……。


 とかく年齢の話は置いておいて、友人さんの発言で注目したいのは、トゥガ様は魔女の中でも特別すごい、という点だ。

 トゥガ様は度々仕事と称して家を開けることがあった。その度に服を煤で汚し煙を纏わせ帰ってくるので、一体何をしたらこんな状態で帰ってくることになるのかと仕事の内容が気になっていた。

 当時の私にとって魔女と暮らしだして数ヶ月が経ち心身ともに余裕が生まれたことと、いくらかトゥガ様自身のことを知り始めた矢先というのもあってか、その疑問は日に日に大きくなっていった。

 しかし、帰宅時の状態が状態なだけに決して聞くことはしなかった。

 燃えてるものの近くに長い時間いたのが目に見えて明らかだったからだ。

 ひょっとしたら、得意の魔術で火災を起こして火事場泥棒を……、なんて考えがよぎる程度には当時の私はトゥガ様を理解してはいなかった。


 普段ならば気になっても聞くことはなかっただろう。

 しかしその時その場には、普段いない友人さんが。

 気さくな彼女の雰囲気にのせられ、思わずその疑問が口をついて出てしまった。


「じゃあトゥガ様は魔女としてどんな仕事をしているんですか?」


 その問いを聞いた友人さんはきょとんとした表情を浮かべ、次に困ったような曖昧な笑みを浮かべたが、決して何かを言おうとはしなかった。

 代わりに口を開いたのはトゥガ様。


「……今は死体を、燃やしてる」


 事も無げに言われた言葉とは裏腹に主人は罰が悪そうに顔を伏せた。


 その後慌てた友人さんは、死体は放置すると人を襲う化物になったり、伝染病を引き起こすから燃やして処理するしかない。だけど人の手でそれをすると何日もかかるから、一晩で燃やし尽くせる魔女が行う必要があるのだと補足した。

 人から感謝される立派な仕事だとも言っていた。


 ……多分だが、トゥガ様自身は立派なことだとは思っていない。その仕事に後ろめたいものを感じているのだろう。

 それを証拠にトゥガ様の顔は暗く沈んでいた。 



   ×



 風呂から上がり帰宅時よりかは幾らかスッキリとしたトゥガ様は注文した軽いものーーBLTサンドをかじっている。

 

 時系列は戻って今。

 そんなトゥガ様と向き合うように座って、私も同じものを口に運んでいた。


 良い焼き具合のベーコンはカリカリとして、レタスのしゃきしゃきとした歯触りにマッチしていた。肉厚のトマトがそれらを引き立てる。

 ただ少し手を加えてパンに挟んだだけなのにこうも美味しくなるとは。久しぶりに作ったが、BLTサンド侮れない。食べているものに満足しつつ、視線は食事をしているトゥガ様へ。


 心なしかトゥガ様の顔も綻んで見える。

 トゥガ様は嬉しい時や、快楽を感じているとき目を細める癖があるのだが、今まさにトゥガ様の目は細められていた。

 そのことが嬉しくて思わず笑みを浮かべてしまうが、それを隠さずに、手元のものにはむっとかじりついた。


 互いの小さな咀嚼音のみが静かな部屋に流れていく。

 食事の時に限らず私とトゥガ様の間に会話はあまりない。

 もともとトゥガ様が寡黙な人ということもあるし、私自身沈黙でも苦を感じないということもあるのだろう。

 会話なんか無くても、ただトゥガ様のことを見ているだけで私の心は満たされてしまうのだ。

 そのまま特に会話らしい会話を見せず食事は終了した。


「トゥガ様、お皿をこちらにください」


「ああ」


 炊事洗濯はもちろん、この家一切の家事をしているのは私だ。

 もちろん食器洗いも私の役割。


 私は座ったままのトゥガ様の横に立ち、差し出された食器を受け取った。


「あ……」


 気づいたのはそのとき。


「トゥガ様、爪伸びてますね……」


 目は自然とそこに吸い寄せられていた。

 魔女に拾われた私の役割は、この家の一切の家事を取り仕切ること。

 そのほかにも任されていることがあった。


 それは魔女の爪を切ること。

 身だしなみの類いは全部ご自身で行うトゥガ様だが、爪切りだけは別。

 自分で切れるだろうに何故か必ず私に頼むのだ。

 その事もあってか爪先の変化には敏感だった。


「皿、洗ってからでいい……」


「お皿なんて後で洗えます」


 私は皿を机の上に置くと、そのままトゥガ様の手をとった。


「切りましょ」


 問いかけると、トゥガ様は困ったように曖昧に微笑んだが、やがて何も言わずに席を立った。



   ×



 ダイニングから、リビングのソファへ。

 魔女の手を引き移動する。

 いつでもできるよう爪切りはエプロンのポケットに忍ばせてある。

 切った爪を捨てるためゴミ箱を近くに引き寄せた後、ソファに座ったトゥガ様の前にさながら頭を垂れるような格好で腰を下ろした。

 私はダンスを申し込むがよろしくトゥガ様の右手をとった。


「よろしいですか、トゥガ様?」


「ああ、お願い」


 トゥガ様の指は細く長い。

 見るからに儚く、力を少し込めただけで折れてしまうのではないかと錯覚するほどだ。

 宝石を扱うように優しく支える。

 指の先に爪切りをあてがった。


「んっ……」


 パチンッ、と小気味よい音とともにトゥガ様の体はぴくんと跳ね、口から息が漏れた。


「……動くと深爪になりますよ」


 声が漏れたことが恥ずかしかったのか顔を背けているトゥガ様へ、私は目線をあげた。

 上目使いになる格好だ。

 彼女は目線を横に外しながら一言。


「別に、深爪でも構わない」


「私が嫌なんです」


 言葉通り慎重にぱちんぱちんと爪を短くし、ある程度形を整える。

 その度に指はぴくんと動き声が漏れ、トゥガ様の繊細さ、あるいは過敏さを思わせた。


 普段は寡黙で自分というものをあまり出さずクールでかっこいいトゥガ様。

 苦手なものや嫌いなものが無い節すらある……言ってしまえば隙をあまり見せない。

 完璧な人は誰ですか、と聞かれたら真っ先にトゥガ様の顔が思い浮かぶくらいだ。


 そんなトゥガ様が見せる唯一と言っていい隙、それが爪切りだった。


 指先に触れ、爪の手入れをしているときに限って、私は紛れもなくトゥガ様を、その身体を、その心根を自由にできると錯覚してしまう。それくらい爪を切られている時の彼女は弱々しく、それでいていたいけで、嗜虐心を掻き立てられるものだった。


「ふふっ……」


 切った爪をゴミ箱に落とし、ヤスリをあてがった。


「あまり、動かないでくださいね」


 浮かべるのは笑顔。ただしまな板の上の鯛に向けるにふさわしい笑顔だ。

 悪戯っぽい笑顔を浮かべていると自分でも思う。

 でもしょうがない。今のトゥガ様を見ていると自然とそうなってしまうのだから。


 繊細な指を傷つけないよう優しくヤスリをかけ始めた。


「…………っ!」


 魔女の動揺は激しいものだった。

 なにせ声を出さないように口を固く閉じて我慢するくらいだ。


 もしそうしなければ、きっとあられもない声を出してしまうのだろう。

 そう思わせるほど、指はぴんっと張り、顔は赤く高揚していた。

 そんなトゥガ様の様子を見せられて、私だって昂らない訳がない。

 こうなってくると意地でも声を出させたくなる。

 幸いトゥガ様の爪切りに関して、もうじき十年になるくらいには経験を積んでいる。

 だからどうすればトゥガ様がもっともっとよがるのか、特に敏感な場所、弱い速度に角度、それら弱点を知り尽くしていた。


「な、――っ!!!」


 頭上から驚きの声が。

 

 撫でるように優しく前後させ、時には大胆に大きく攻める。

 呼吸に合わせ、びくつく指に合わせ、爪を磨いていく。


 そうすれば自然と私の望んだものが……。


「ん、……ぁ、あ……」


 ついにはトゥガ様の口から吐息にも似た、甘い声が溢れて出た。


「ん、んんっ……ぃ、んふ……」


 一度溢れたものは中々収まらない。

 懸命にも空いている方の手で口を押さえようとしたが、湧き水のように溢れ出る甘い吐息は、むしろその勢いを増していた。


「ほんと、敏感ですね……」


 これがトゥガ様じゃなければ演技臭さすら感じるよがりぶりに苦笑の一つでも浮かぶところだが、当のトゥガ様に余裕がないのは数年に及ぶ奉仕でよく分かっていた。


 乱れる息に、上気した頬。

 ある種のいかがわしい熱気は私の魔女から。その熱気はうねりトゥガ様自身の身体を淫靡に焼いた。


「っ……ふぁ――!」


 顔を背け嫌々するように首を横に振るトゥガ様。

 空いた手はだらんと落ち、見るからに力の入っていない体がだらしなくソファに投げ出されている様は、整った顔立ちが浮かべる惚けたような表情も相まって、ともするとそういう目的の人形に見えなくもなかった。


「しょうがないですね、まだ始まったばっかですよ」


 笑みが止まらない。

 普段は毅然として格好の良いトゥガ様が、指一本爪切り一つ好きなようにされるだけで、ここまで乱れるのだ。

 立場の逆転。

 憧れの人を好きなようにできるという事実――そして、惜しげもなく晒されている恥態にあてられ、私の奥にもトゥガ様の発してる熱気と似たような熱が燻り出した。


 その熱を煽るようにふぅーっと、ヤスリのかけ終わった指へ息を吹き掛けた。


「ひ、ひぃぁ……ぁっ、ぁぁあ――!」


 瞬間、痙攣を起こしたかのような勢いで身体を跳ねさせたトゥガ様。

 まるでずぅっとこのままなのではないかと疑いたくなる程トゥガ様は切ない吐息を漏らしながら震える身体を抑えることが出来ずにいた。


「っはぁ……はぁ……」


 それでも次第に落ち着きを取り戻したのか、肩で呼吸はしているものの身体の震えは止まった。


「落ち着きました?」


 トゥガ様は焦点のあっていない瞳をしながらも、どうにかといった風に顔をこちらに向けてこくんと首を縦に振った。



「そうですか……じゃあ、次いきますね」


 そうなのだ。

 最後まで終わったかのような雰囲気でいるが、まだ指の一本しか終わっていない。

 ついでに言えば、まだ私の中に灯っている切ない火種は燻ったまま。

 僅かに残った理性がもう少し手加減してやってはどうかと訴えているが、知ったことではない。

 意地の悪い笑顔を浮かべたまま次の指を蹂躙しようと手を伸ばす。


 いつもこうなったらトゥガ様はなされるがまま、なにも言わず身体を震わせるのみ。

 実際、今も呼吸を荒げ、目を細め陶然とこちらを見つめるだけで抵抗しようとはしなかった。

 そんな様子に内心舌舐めずりを一つ。嬉々として爪切りを握り直した時だった。



「君は――」


 不意にトゥガ様が口を開いた。

 いつもなら甘い悲鳴しか漏らさない口からの問いかけに少なからず動揺が走った。


「ど、どうしました……?」



 抵抗しないのをいいことにやりすぎているのではないか、という思いが冷静な部分に残っていただけに内心の焦りは尚の事。

 ひょっとしたら、半場無理矢理のような形で爪を切られることに普段から我慢していたのかもしれない。それが積もり積もって今爆発。

 もしそうならとても残念だが爪切りは金輪際させてもらえないだろう。

 いや、それだけだったらまだいい。

 どれくらい怒っているのか分からない。最悪、口を聞いてもらえないかも……。いや、家を追い出されるか……?


 嫌な考えというものは加速するもので、特に下心があったこともあってか私の中に燻っていた情欲の火は冷え冷えと風が吹いて急速に萎んだ。

 その風の名は臆病風。

 はたして謝って許してもらえるかどうか。

 

「君は、怯えないな」


 そんな心境でかけられた言葉は意外なもの過ぎて……。


「ひぇ……?」


 思わずすっとんきょうな声をあげてしまった。

 とてもじゃないが怯えていないなんて言えない心理状態。


 それがどうして怯えないなんて……。


「……今日……石を投げられた」


「はあ!?」


 またしても意外な言葉。

 間抜けな声をあげるのもしょうがない。

 なんでまた虐め紛いなことを……しかもそれを今告白して……。


「どうして、そんなこと……」


「……子供からだったよ」


 唖然として問いかけるとトゥガ様はぽつり、ぽつりと語り出した。


「今日、年寄りの男性を燃やした。寿命だか病気だかは分からないけど、穏やかな顔だった。きっと悔いなく天寿を全うできたんだろう……。

 でも、残された方は違ったんだろうな。……孫、なのかな、そのおじいさんの。男の子だったよ、まだ年端もいかない子供さ。

 火葬が終わって、もう帰ろうかという段になって後ろから石を、な。……そのこと自体は心配はいらない、私に怪我はあってないようなものだ、すぐ治せる。

 けれど痛いものは痛い、私だってな。何事かと思って振り返ったよ。そしたら、男の子……泣いてたんだ。泣きながら私を睨んでた。で、何て言ったと思う?」


 甘い雰囲気から一変、トゥガ様の顔に浮かんだのは名状し難い暗い表情。

 私はかけるべき問いも、相槌も、飲み込んでしまった。

 それほどまでに辛そうで……。


「化物! おじいちゃんを返せ! だって……。私が殺したわけじゃない。でも燃やしたのは私だ。……何も言えなかった……。

 だってそうだ、燃やしたんだ、私は。この世から一切残らないように、消したんだ。消した私が何かを言える筈がない。

 すぐにその子の両親がやって来たよ。母親はさ、子どもを庇うように抱きしめて、父親の方は血が滲むほど地面に頭を擦り付けて言っていたよ、ごめんなさい許してください、自分たちの事は好きにして良いからせめて子どもは見逃してくださいって。

 二人とも目には涙すら浮かべていたよ。その顔色を読み取るのは簡単だった、何せその感情を今まで何回も向けられてきたからね――」


 魔女は息を吸った。

 まるで言うのを躊躇うかのごとく。

 それでも彼女は口を開いた。


「――怯えだよ。

 私は恐れられてるんだ。それはそうだ、なにせ人の身体を一瞬で燃やし尽くせるんだから。それを直近で見せたばかりだ。怯えられて当然。

 早く帰ろうと思ったよ。このままここにいても良いことはないって。だけど、目の前にいる子どもの父親とおぼしき男は、地面に頭を擦り付けてたせいで額から血が流れていたんだ。

 そのままにしておくのも後味が悪い。治療だけしておこうと指をその男性に向けたんだ。

 迂闊だった。君は知っていると思うが、魔術は対象に指先を向けてじゃないと使えない。それが攻撃するためでも、回復するためであっても。

 だから指を向けられた側は怯える。殺される、と思ったんだろうね。実際に男性は泣いて絶望したような顔をしていたし、母親の方は子どもをより強く抱きしめていた。

 君と暮らしだしてしばらく忘れていたよ。私は――魔女は決して人と相容れない。魔女の指先は、凶器と同じ。怯えられるもの。ずっと前にも同じことを学んだというのにね……馬鹿だよ、私は……大馬鹿だ」


 語り終えるとトゥガ様は口をつぐんだ。

 私も私で、開いた口が塞がらないとはこの事か、とばかりに絶句。

 トゥガ様は普段こんなにも多弁に語ることはない。それに加えてまさか外で石を投げられたなんて思わなかったから。

 浮かべられている顔もなんと表現すればいいか分からないほど暗く深い。


 確かにトゥガ様のことを言葉少ない性格から誤解してしまう時だってある。

 それでも誠実であろうとしてくれるし、人思いでもある。

 だからこそ、話したように自分のことを恐れている男性の怪我を治そうとしたのだ。


「……馬鹿なんて、そんなこと……そんなことありません」


 そうだ。私は彼女のそんなところに惹かれたんだ。

 加えて、とても傷ついていることも容易く想像できた。

 なにせ、私の魔女は傷つきやすい。

 ちょっとした言葉にすぐ落ち込む。

 

 トゥガ様の心は普通の人より五倍は脆い。

 十年弱という歳月を一緒に生活するなかで理解したこと。

 そしてその十年間、トゥガ様の一番近いところにいたのは私。


「トゥガ様のこと、怖くなんかないです」


 浮かべた笑みは行為中とは違うもの。言葉にするのは色々な意味があって難しいが、あえて例えるなら、受け止める笑顔。

 私はそれを浮かべたまま手を頬に伸ばした。

 

「だから、そんな落ち込んでないで顔をあげてください」


 頬を撫で、目を合わせる。

 こうしていると顔がよく窺える。さっきは分からなかった表情だってはっきりと。

 トゥガ様の顔に浮かんでいるのは、寂しさ、だった。


「私は……わたしは――」


 素直に私の言葉を受け止められないのだろう。

 トゥガ様は自分の思いを言葉にすることができずにただ、私は、と繰り返した。


 本当に不器用。

 だがその不器用さが愛らしくて、いとおしさが込み上げる。


「ねぇ、トゥガ様……」


 不意に、私がくるまでのトゥガ様の生活を思った。

 だってそうだ。

 今日みたいに悲しいことがあっても、孤独に暮らす魔女がその思いを言葉にしたところで返ってくるのは虚しい静寂だけ。

 きっと悲しいこと、辛いことがある度に一人で抱え込んでいたのだろう。 


 想像してみる。

 暗い顔をしたトゥガ様が、一人きりで膝を抱えて涙に耐えている様子を。


 心が痛くなった。胸をかきむしられるような切なさが私を襲った。


 一人にはさせなくないし、孤独だと感じさせたくない。


「トゥガ様には私がいますよ」


 寂しがりやな私の魔女。

 彼女自身から寂しいとは聞いたことはない。

 でも、十年弱と間近で見てきて、人恋しさに耐えられるほど人間ができているとは思えなかった。 

 そもそもトゥガ様はなんでも一人でできるのに、わざわざ何もない私なんか拾う必要がない。

 それでも私を拾ったということが、その証し。


「怖くなんかありません」


 告げた言葉を証明するよう何も言わずじっとしているトゥガ様の手をとった。

 ダンスに申し込むかのごとく仰々しく。

 トゥガ様の目を惹き付けるように。


 爪切りを始めるときと同じ格好。

 これから行うのは愛情を示すという意味には違いないが、そんな子供じみたものではない。

 私の気持ちを表す行為。……少し恥ずかしいが、トゥガ様に思いが通じるように。


「好きですよ、トゥガ様」


 魔女の指先に口づけた。

 ぴくりとトゥガ様の体が震えたのにも構わず続ける。


「トゥガ様は、何もなかった私を拾ってくれました。生きるだけの力もくれました。それだけじゃありません、私がしてみたかったこともさせてくれました」


 思い出すのは、あの日、火炎燃え盛る地獄にいたとき。絶望した私にあった今にして思えば少し恥ずかしい望み。


 恋がしてみたいと、本で読んだような、ちょっとしたことで浮かれたり、些細な行き違いからやきもきしたり、相手のために何かがしたくなる、そんな幸せな気持ちになれる焦がれるような恋がしてみたいと。

 願ったそれは見事叶って……。


 もう一度口づける。

 今度こめたのは感謝だった。


「ありがとう、トゥガ様。――大好きです」


 何もない空っぽだった私に、愛や優しさ、手間に暇、他にも言えないくらいたくさんの素敵なもの、トゥガ様は持てる全てで再び私を満たしてくれた。

 今では好きだという気持ちでいっぱいだ。


「君は、本当に――」


 トゥガ様は私の告白に一瞬キョトンとした顔を浮かべたが、すぐに笑みに変わった。

 その笑みを見て懐かしさに襲われた。

 だって、その笑みは初めて会ったときに浮かべたものと同じで――。


「…………っ!」


 それに気づいたときドキリとしてしまった。

 慌ててそれを隠すために軽口一つ。


「こ、こんな可愛い子に大好きって言われて照れちゃいました?」


「……ふふっ」


 魔女は口元を隠すように目を細めて笑むと、その手で私の頭を撫でた。


「ほんとに君は可愛いな」


「なっ、な……」


 一瞬にしてぼっと顔が赤くなった。実際に見たわけじゃないが、それでも分かる。

 だってこんなにも顔が熱い――

 とんだ神風だった。


「なにいってるんですか、もう!!」


 普段トゥガ様は滅多に私を誉めない。誉めたとしてもよくやったとか、やればできるじゃないかとか、どちらかというと成果に対しての労いだった。

 むしろ私が髪を切っても気づかないくらい容姿――自分はもとより他者の見目に対して無頓着なのがトゥガ様だ。

 ひょっとしたら今日が初めてかもしれない、トゥガ様が私の事を可愛いと言ったのは。

 だから、締まりなく顔が弛むのもしょうがないし、慌てて手をぶんぶんと振ってだらしない顔を隠そうとしても……そう、しょうがないったらしょうがない。


「……君が言い出したことだろう」


 そんな混乱真っ只中の私を見てトゥガ様は半場呆れたようにため息を吐いた。


「な、なんですか……もう……」


 こうなると分が悪い。

 ぶんぶんと振っていた腕からしゅんと力が抜けて勢いが消え失せた。

 私には真っ赤になった顔だけが残った。


「せっかく人が慰めようとしたのに……」


「――――……」


 逆転した立場は元通りに。

 雰囲気も和やかなものに様変わり。

 これでは爪切りの続きをしようにも、照れが勝ってしまいスイッチを入れられない。

 などと思っていたら、不意を突かれた。


「えっ!? ちょっ――きゃあっ!!」


 思わず小さな悲鳴をあげてしまう。

 トゥガ様がその細い腕のどこにそんな力があるのかと思わせるほど力強く、かつ強引に私の腕を掴むと、自身の方へ引き寄せたからだ。

 ありえない力で引かれた私は一瞬身体を宙に浮かす。


 痛みなくお尻から着地。

 いや、正確に言えばそこは地ではなかった。

 女の子座りした私のお尻はトゥガ様の太ももの上に。

 私たちは抱き合うような形で向き合った。


「へっ?!」


 距離が近い。

 

 身長差……というか座高差のせいで目線の高さが合う。突然至近距離にトゥガ様の顔が。

 どういうこと……?

 混乱を極めた私の顔は真っ赤どころの話ではなく血が上り、火傷するのではないかと錯覚するほど熱くなった。先程までの比ではない。

 そんな混乱をよそにトゥガ様は腕を回して私を抱き締めた。

 そのまま力を込められ、背の低さと比例して必然的に座高の低い私は、すっぽりとトゥガ様の身体に収まることになった。


「ん――――?!」


 二つの豊満な母性の塊が襲いかかり、顔を埋める他になす術ない。というか、想像以上にトゥガ様の力が強くて抵抗できないというのもある。

 ゼロ距離から風呂上がりの良い匂いが鼻孔を擽る。……いや、擽るなんて優しいものじゃない。

 顔を包んでいる二つのたわわな胸という暴力も伴って、まるで殴られたかのような衝撃に頭がくらくらした。

 オーバーフローしそうなほどの恥ずかしさ、嬉しさ等がない混ぜのごちゃ混ぜになって今日一番の混乱を生み出した。

 それでもなんとか意識を手放さずにすんだのは、何度となく妄想したことだったからか。

 そう妄想! ……妄想のなかでは、こうやって抱き締められたあとそのまま――――。


「ひぅっ……」


 ……ひょっとしたら、何かしらのスイッチを気づかないまま刺激してしまったんじゃないか。

 ひょっとしてひょっとしたら、このままトゥガ様にいただきますされちゃうんじゃないか?

 この雰囲気で? と思わなくもないが、相手は対人間だと不器用なトゥガ様だ。

 そう考えると、このままあれこれニャンニャンしちゃったりするんじゃないの……? という考えはあながちあり得なくもなかった。

 正直、もっとムードを大切にして欲しかったし、徐々に気分を高めるようにエスコートして最高潮になったところで、とかそんな心配りをしてほしかった。だって初めてだし……。

 ……爪切りに関しては別にムードとか重要じゃない。だって爪切りだし、身嗜みだし。やましい気持ちだって少ししかないし……。


 混乱そのものの思考をよそに、抱き締めていたトゥガ様の手が私の頭を撫でるように動いた。


「ふぇ……」


 私はびくっと身体を強張らせトゥガ様の一挙手一投足に神経を集中させる。

 ……覚悟は決めておいた方がいい。次には私の私を撫でるかもしれない。

 ……。……。……。

 ……おーけー、さあいつでもこい。覚悟は決めた。

 おあつらえむきに今日の下着はお気に入りのだ。だから大丈夫。

 どこが大丈夫なのかは分からないがとにかく大丈夫だ。

 ぎゅっと目を閉じる。

 だが、いくら待っても覚悟したところに手は伸びなかった。


「……あのぉ、トゥガ様?」


 恐る恐る魔女の名前を呼ぶ。

 先程とは違う意味でひょっとするかもしれない。

 相手は対人間になると不器用さが尋常ではないトゥガ様だ。

 的はずれなことをしないとは限らない。あり得なくもない、だ。


「どうしてさっきから頭を撫でてるですか?」


「…………」


 魔女は手を止めて、言葉に迷ってるように数瞬悩んでいる姿を見せたが、瞬きを五度ほどしたあとに口を開いた。


「……私も、君のこと好きだから。だから撫でてる」


「…………」


 ……子供かな。


「……本当にトゥガ様は不器用ですね……」


「なんで今そんなこと……」


「なんででもです。ほんっっっとうに不器用」


「ええ……」


 心底心外そうな表情を浮かべるトゥガ様。

 そんな顔を見てるとさっきまでの自分が急に馬鹿らしく思えた。

 自然と笑い声が溢れてくる。すぐに我慢できなくなって口から漏れた。


「あははっ――ねぇ、トゥガ様――」


 溢れたのは笑い声だけじゃない。


「そんなに笑うことないだろ、君――で、なんだい?」


 トゥガ様の手を取り、指と指とを絡める。


 私の魔女は、こんなにも不器用で、ちょっとしたことで傷つきやすいうえに、加えて人一倍孤独を恐れている。

 そんな魔女のことを思う純粋な気持ちを止められない。

 だって溢れるこの気持ちは――――


「――好きですよ!」


「――――!」


 トゥガ様が何か言う前に唇を奪ってやった。




   +




「は? トゥガ……お前、爪の手入れあの子に任せてんの?!」


「いいだろ、別に」


 私の横には友人の姿が。私たちは仲良くソファに腰かけている。


 数少ない友人に先日あったことを相談しようとしたところ、本題に入る前に突っ込まれた。


「いやいやよくねぇし――別に、じゃねぇよ! おいババア、魔女の指先がどうなってるのか、他ならないババアお前がよく知って――」


 私は仏じゃないのでツーアウトを取られた時点で拳を容赦なく顔面に叩き込んだ。

 例え実年齢三桁だろうと言って良いことと悪いことがある。まあ、目の前で顔面をへこませてる馬鹿は何度言っても理解しないが。肉体言語も万能じゃない。

 鼻を抑えてうずくまる馬鹿を尻目に、私も私で手に走った刺すような痛みに顔をしかめた。

 思わず素手で殴ってしまったが、これだと私の手にも痛みが生じてしまう。


「いきなり殴ることないだろ!!」


 馬鹿な友人は持ち前の治癒力で鼻から出ていた血を止めると、手の甲で拭いながら叫ぶように言った。

 それを無視して私は手に走っているじんじんとした痛みが治まるのを待った。


「無視するなよ! てか、おいこら魔女てめぇ、いま素手で殴ったろ! 馬鹿じゃねぇの? 魔術使ってるやつの指がどれだけ過敏か、お前なら知ってるだろ」


 返事はしない。

 が、この馬鹿が言ってることはまあ正しい。


 基本魔術は指先から出る。

 それは指に魔転器官という器官があるからだ。

 問題は魔転器官の過敏さだ。

 ちょっとした刺激でも、ひどく大袈裟に認識してしまう。だから痛みは激痛になるし、こそばゆさは快楽を生む。

 さらに言えば魔術を使えば使うほど魔術の精度は上がり、それに比例して受ける感覚もより鋭敏に。

 というところで言うと魔術を使い始めて数百年の私の手の過敏さなど言わずもがなだ。


 普通魔術師は感覚過敏を防ぐため特別な手袋を常用している。


 ……確かに目の前の馬鹿の言う通り魔術を使う者で他人に指を触らせる者はいない。そもそも指は見せないようにするものだ。


 それは感覚が過敏ということもあるが、もっと大事な魔術を使う上での前提を守るため。

 魔転器官が潰れたら二度と魔術を使えない。

 だから魔女しかり魔術師は他人に指先を触らせようとはしないのだ。

 かくいう私も外に出るときは保護目的での手袋着用を怠らない。が、自宅にいるときは別だ。張り付く感じがあまり好きではなかった。


「うるさい。私の手の事情は置いといて」


「いやいやいや置いとけねぇよ!? 弟子でも何でもねぇ偽善ごっこがしたいだけで拾ったガキに化物の手が潰されたら大事だぞ」


 相変わらず頭にくる物言いに手が出てしまいそうになるが、相談しているのはこっちだ。禁句を言ったわけではないのでスルーする。


 そう、相談だ。今は、私の数少ない友人に相談事を持ちかけているのだ。

 このままでは埒が明かないと思い、さっさと本題を切り出すことにした。


「あの子にキスされたんだが、どういうことだと思う?」


「お前の言うこと全部どういうことだよ!?」


 今日一番の大声が馬鹿の口から飛び出した。

 思わず耳の穴を塞ぐほどだった。


「うるさい」


「うるさくもなるわ! えっなにお前、そういう目的であのガキ拾ったの?!」


「馬鹿をいえ」


 吐き捨てるようにため息を一つ。


「あの子を拾ったのはそんなんじゃない」


「じゃあなんだって言うんだよ」


 少しばかり考える。

 別に最初はそういうことをする気どころか、拾う気すらなかった。


 思い出すのはあの子と初めて出会ったときの事。

 燃え盛る火炎の中、彼女を見つけたのは全くの偶然だった。

 最初は助ける気などまったくなかった。

 近づいたのだって、火炎に巻かれて苦しみを長引かせるより、さくっと殺して楽にしてやった方が良いだろうと思っての事。

 よもや助かるまい、仮に助かったとしても命以外の全てを失ってしまってはどうしようもない。獣か、賊の餌になるのは火を見るより明らかだ。

 その時、あの子にとって死というものは隣人と同義。

 それをあの子も理解していたのだろう。


 絶望に瞳を塗りつぶし、諦めを身に纏った姿は同情を禁じ得ないものだった。

 といっても、だから拾おうと思ったわけではない。せいぜい殺した後に供養してやろうかなと思ったくらいだ。


 心変わりした理由は、思い返せば安直なものだ。

 絶望に染まっていた瞳が私を認めると、一転して希望に満ちたものに変わったから。

 たったそれだけの理由であの子を拾おうと思ったのだ。

 加えて言えばその時の私は一人でいるのに疲れていた、ということもある。

 ひょっとしてこの子なら私のことを魔女だからという理由で怖がらないのでないかと期待を抱いたのも理由の一つ。


「運命、だったんだろうな」


 理由全てを引っくるめるとそうとしか言えなかった。


「……答え、でてんじゃん」


 私の言葉を聞いた友人は呆れたようにため息をいた。


「……なに?」


「相談のことだよ! キスがなんちゃらってやつ! のろけ聞かせるなや!」


「のろけ……? 何……?」


「はあ? 運命の出合いだったんだろ? お前自身があのガキとの出合いを運命なんて表現したんだ。

 運命、なんて吸って吐いてヘドが出るようなロマンチックワード使うくらいだ、よっぽどガキのこと気に入ってんだろ。

 でだ、唐変木のお前がそんな意識するくらいのキスをガキはしたんだ。そんなキス、どーでもいい奴にしねぇよ」


 友人が、だから答えはでてんだよ、と言ったのと同時に部屋のドアが開いた。

 入ってきたのは馬鹿にガキガキ言われている件の少女。


「お茶の準備ができましたよ。……なにか、ありました?」


「恋バナしてたんだよ。ああくそ! 気分わりぃ!」


「恋バナですか、お二人が!? 嘘でしょ?!」

 

「なんでんなことで嘘つかなならんのだ。……つっても、このババアから話を聞いてただけだがな」


「トゥガ様の……?」


 禁句を言われたので、とりあえず馬鹿な友人の関節を決めておいた。本当に学習しないな、こいつ……。


 その間にも少女は怪訝そうな顔をしながら私たちの前に紅茶の入ったティーカップを置いた。


「ねぇトゥガ様……」


「な、なんだい……?」


 気づけばやけに据わった目をしてこちらを見ていた。


「恋バナって、昔の恋人とか、昔好きだった人の話ですか?」


「……違う。今、好きな……好きだと思う、人の話」


「ふぅん」


 少女はじとっとした目でこちらを見てくるのを止めることはなかった。


 どうしてだ、と訝しみながら、手元でギブギブとうるさい馬鹿を解放してやった。

 馬鹿は殺す気か、とはしゃぎつつも乱れた居住まいを正した。

 そして紅茶を一口含んで落ち着くと、ため息とともに口を開いた。


「ほんと、お前は鈍感だな」


「……なんで君にそんなこと言われくてはいけない」


「分かってねぇからだよ。なあ、そう思うだろ」


「そうですね、トゥガ様は鈍感です」 


「君まで!?」


 少女は馬鹿の横に立ち、しらっとした目を向けてくる。

 まさか孤立するとは思わなかった私は、一体何故だと思考を巡らす。

 が、考えても答えが出てくることはなかった。


「……おいおい、本当に分かんないのか?」


「しょうがありません。トゥガ様はこういう人です」


 二人して見せた呆れたようなため息や、やけに芝居がかって頭を抑えるといった身振りが癪に障った。特にコメディアンばりに表情よく嘲ってくる馬鹿には苛立ちも一際。


 むすっとした顔を浮かべる私に、馬鹿は人好きのする笑みを浮かべ言った。



「じゃあ言っちゃうけど、このガキ、嫉妬してんだ」


「ちょっと!? なんで言っちゃうんですか?!」


「わりぃな、私、トゥガとは別のベクトルで空気を読まないんだ」


「理由になってませんよ!」


 少女が悲鳴をあげるのを聞きながら、友人の言葉を咀嚼し飲み込んだ。


「嫉妬……?」


「そりゃ、恋バナって聞いてまさか自分のことを話してるとは思わねぇだろ。大方、外でいい人でも作ってよろしくやってるんじゃないかって邪推したんじゃね」


「ちょっとぉ!? どこまで言うんですかっ?!」


 馬鹿にケラケラと意地悪く笑われ、涙目になってる少女を見る。


「あー、君、嫉妬したのか?」


「トゥガ様もトゥガ様でデリカシーない!?」


 少女は膝から崩れ落ちるような勢いでその場にへたりこんだ。

 ついで顔を隠すようにうつ向いてしまった。


「あーあ、いけないんだ、トゥガが女の子泣かせた」


「……いい加減にしろよ、君」


 おちゃらけてる友人をきっと一睨みし、腰掛けていたソファから立ち上がると少女のほうに近寄った。


「ああーなんだ、そのな、君」


「……なんですか」


「前、爪切り途中で止めただろ……だから、後で続きをやってほしい、なんて」


「なんで今そんなこと言うんですか……もっと他に言うことあるんじゃないですか」


「それは……」


 ふと、なんで彼女に爪切りを任せるようになったかを思い出した。

 魔女に怯えない彼女。

 そんな彼女と対等でいたいと、魔女の命とも言える指先を任せたのだ。


 それもひとえに――


「特別だから――」


 恐れられ一人だった私にとって、彼女との出合いは運命であり、いつしか彼女との暮らしはかけがえのないものになっていた。

 きっと、彼女に私が抱いている気持ちを、特別、というのだろう。


「私が指先を触らせるのなんて、君ぐらいだ」


 地面にへたりこんでいる少女に手を伸ばす。

 彼女は、何を思ったか一瞬キョトンとした顔を浮かべたが、すぐに満更でもなさそうにはにかんだ。


「しょうがないですね、私の魔女は」


 そして、私の手をとった。


 私の手になんの躊躇いもなく触れられるのは彼女ぐらいだ。

 同時に、私が私の手に触れるのを許すのは彼女だけ。

 きっとそれはこれからも変わらない。

 なんて思いながら、彼女を連れてソファに戻り、用意された紅茶をすすった。

 温かく優しいものが口の中に広がった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] とても穏やかな気もちで読ませていただきました! ありがとうございました。 小説全体に漂うやわらかくやさしい雰囲気と、 しっとりとした寂しさとがほんのり混ざり合っているようで、 とても心地…
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