恋愛御法度どす。三話目
舞妓とは、芸妓になるための見習い修行の段階である。
なのになぜ舞妓の方が有名で人気があるのかというと、その独特の見た目にあるのだろう。
顔は双方白塗りなのだが、芸妓は頭に飾りのほとんどないカツラを被り、黒地や無地の着物を着るのが一般的だ。
一方舞妓は自分の髪で日本髪を結い上げ、四季の花などをあしらった花櫛で飾り付けをする。
着物も鮮やかな振り袖で、だらりの帯と呼ばれる長く後ろに垂れ下げがった帯を結ぶ。
履物も芸妓と違い、底の高いおこぼと呼ばれる下駄を履いている。
可憐で華やかなそのたたずまいが、舞妓が古くから愛されている理由であろう……
舞妓は20歳前後で芸妓へとなる。
これを襟替えという。
舞妓や仕込みの時期は、家賃に稽古代、衣装代等は全て置屋が支払ってきた。
芸妓になるとこれらの諸費用は全て自分で賄わなければならない。
その費用が見込めず、芸妓になることを諦める舞妓は多い。
舞妓時代に売れっ子でないと、芸妓として一本立ちするなど夢のまた夢なのである。
「うちは芸妓にはならしません。」
舞妓の豆乃姉さんがお母さんと華乃姉さんにそう伝えたのは年が明けてすぐの頃だった。
豆乃姉さんは丸っこくておっとりとした可愛らしい舞妓さんで、お客さんからも人気があった。
あったのに……
「私に一本立ちなんてとてもやないけど無理やわぁ。」
「そんなことないですよ……」
豆乃姉さんが芸妓にならずに祇園を去るというのが私にはとてもショックだった。
明日で置屋を出ていく豆乃姉さんを手伝いながら気分が沈んでしまった。
「千夜ちゃんはスラっとした美人さんやし、きっと良い芸妓さんになれるわぁ。」
「……豆乃姉さん…私まだ舞妓にもなれてません。」
舞妓になるための舞の試験。
二回連続で不合格を食らってしまった。
「そうやったそうやった。まあどうにかなるわぁ。」
ほがらかに笑いながら私の肩をバンバン叩いた。
私はこの豆乃姉さんの明るさが大好きだった。
何度救われたことか……
「そや。千夜ちゃんにええのあげるわ。」
そう言って私に渡してくれたのは大袋に入った金平糖だった。
毎晩豆乃姉さんの部屋から聞こえてきていたボリボリという音はこれだったのか……
「そんなん食べてるから太るんよ。」
様子を見に来た華乃姉さんにチクリと言われた。
「いややわぁ。華乃姉さん、ポッチャり言うてぇ。」
豆乃姉さんは大量の金平糖を私に託し、およそ6年暮らした置屋を後にした。
とりあえずは実家に帰るらしいが何をするかは決まっていないという。
中学卒業と同時に舞妓を目指し、この世界に飛び込んできた私達は中卒の学歴しかない。
まだ20代とはいえ、新しい人生をこれから探すとなると不安もあるだろうに……
豆乃姉さんは最後まで満面の笑顔だった。
三月に入ると華乃姉さんは都をどりの準備で大忙しとなった。
都をどりとは、祇園甲部の芸妓・舞妓による祇園甲部歌舞練場で開催される舞踊公演のことである。
開催期間は4月1日からの約1ヵ月間。
ひとたび幕が上がれば決して下ろすことはなく、春・夏・秋・冬、そして再び春の情景を一時間にかけて何人もの芸舞妓が華麗に舞うのだ。
京都の人々には馴染み深く、毎年この公演の時期になると春の訪れを感じるのだという。
私の同期の中には既に舞妓になっている子もいて、この公演に参加する子だっている。
焦らずにはいられない……
「ええやろ。上出来や。」
「ほんまですかっ!」
私がやっと舞の師匠から合格点をもらえたのは桜も咲きかけた三月も終わりの頃だった。
ウキウキしながら置屋に戻り、お母さんに報告した。
「ようやったなぁ。見世出しは都をどりが終わってからがええから…五月の日取りのいい日でよろしいおすな?」
見世出しとは舞妓デビュー前にする一ヶ月間の慣らし期間のことである。
だらりの帯の半分の長さ、通称、半だらの帯をして御茶屋等のたくさんの場所に挨拶をして回ったり、お座敷での実地研修を受けたりするのだ。
「華乃さん、千夜さんの見世出し五月でよろしい?」
お母さんが隣に座っていた華乃姉さんに再度確認した。
「へぇ…よろしいどす。」
華乃姉さんはとてもお疲れの様子だ。
午前中は都をどりの練習、夜はお座敷とこの時期の祇園甲部の芸舞妓達の忙しさは想像を絶する。
練習期間と公演期間の二ヶ月間はほぼ休みなんてない。
特に華乃姉さんは都をどりのポスターのモデルにも選ばれただけあって出演時間も多く、重要な役ドコロだ。
最近は私を怒る気力もわかないようだ。
今日は久しぶりの休みの日だ。
私が部屋でお気に入りのワンピースを着て髪をセットしていると、華乃姉さんが入ってきた。
「なにやらご機嫌どすなぁ。」
そう言う華乃姉さんはなにやら不機嫌そうに見えた。
「休みなんてええねえ。私は明日から都をどりで一ヶ月間地獄のスケジュール。今日もこれから通し稽古どすわ~。」
いや、これは完璧に不機嫌だな。
なにこれ?酔っ払った親父みたいに絡んでくるじゃん。
「で、どこ行くん?」
「ど、どこって…その辺プラプラと。」
「まさか女ったらしとデートちゃうやろねえ?」
「まさか!連絡先知らないですし!」
「店電話したら繋がるやろっ!」
「しないですよそんなこと!」
その後もしつこく絡んでくる華乃姉さんを振りほどいてなんとか外出した。
怖い怖い……
華乃姉さんには悪いけど、ふく善覗いて見ようかなと思ってるんだよね。
チラっと見るだけならいいよね?
月夜の君とは鴨川で会った時以来会っていない。
これは舞の試験に合格した自分へのご褒美だ。
いるかどうかも、わからないんだけどね……
ふく善・京都本店は京都駅から地下鉄で4駅いったところにあった。
駅から少し歩くとふく善が見えてきたって…えっデカっ!
それは五階建ての近代的なビルで、一階部分だけが木造りの和のデザインになっていた。
ガラス張りのショーウィンドウから中を伺うと、奥の畳が敷いてある部屋で月夜の君が接客している姿が見えた。
まだ若いその女性客は、たくさん出された高そうな着物より月夜の君の方ばかり見ていた。
綺麗な女の人……
月夜の君もニコニコしてるし……
なんか会いに来たことを後悔してしまった。
「……帰ろっかな……」
トボトボと駅に向かって歩きかけた時、ふく善のお店のドアが開いた。
「入って行かないのかい?」
振り向くと店から出てきた月夜の君が涼しげに微笑んでいた。
「少し顔を見れたらなと思っただけで…お仕事の邪魔しちゃ悪いので。」
「私は構わないよ。どうぞ。」
月夜の君に託されお店の中に入ると、沢山の着物がまるで絵画のように飾られていた。
西陣織や京友禅などの超一流品ばかりだ……
「なにか気に入ったものがあったらプレゼントするよ?」
「とんでもないです!!」
即座に断った私を見て月夜の君は吹き出した。
「少し待っていてね。接客をしてくるから。」
そう言って先程の女性客の方へと行ってしまった。
女性客が寂しかった~とか言いながら月夜の君を上目遣いで見ている。
……ここはホストクラブか?
椅子に座って待っていると着物を着た女性がお茶を運んできてくれた。
今の季節にぴったりな、桜の花びらが散りばめられた着物だった。
「素敵な小紋のお着物ですね。」
「ありがとうございます。」
その女性と着物のことについて話ていると、奥から女性客の甲高い笑い声が聞こえてきた。
見ると月夜の君のことをベタベタと触っている。
なんだかな~……
「結構いるんですよ。ああやって買いもしないのに社長目当てでやって来る人が。」
「そう…なんですか……」
色男すぎるというのもそれはそれで大変なんだな……
女性客を見送ってから月夜の君がやって来た。
「待たせたね。少し早いがお昼ご飯でも食べに行こうか。」
「ご飯…ですか?」
二人っきりで食事だなんてすっごく嬉しいのだけど、誰かに見られて華乃姉さんの耳にでも入ったら、私は殺されるんじゃないだろうか……?
「もしかして華乃さんのことを気にしてる?それなら大丈夫だよ。彼女から電話で千夜さんが店に行くだろうから“ご飯食べ”に連れていってくれと頼まれたんだ。」
「えっ!華乃姉さんがっ?」
ご飯食べとは芸舞妓と座敷以外で会ってその名の通りご飯を食べたりすることである。
芸舞妓と遊ぶわけだからそこには当然料金が発生するわけで……
イヤな予感がする。
「あの…もしかして華乃姉さん、お金要求しました?」
「ああ。ツケだと言われたよ。」
なんてことをっ!
何度も言うが私はまだ舞妓じゃないってば!!
「ごめんなさいっ私今日は帰ります!」
「どうして?」
どうしてって……
ご飯食べもお座敷遊びと同じような高い料金が発生したはず……
そんなの月夜の君に払わせるなんて申し訳なさすぎる。
「私はデートに誘ったつもりなのだけど、迷惑だったかい?」
月夜の君はうつむいている私を覗き込むようにして顔を近付けてきた。
ちっ…近いっ!!
「そんなこと……すごく…嬉しいです。」
「では行こう。」
店の外へと歩き出す月夜の君に付いて行った。
連れてこられたところは敷居の高そうな高級料亭だった。
月夜の君が店に入ると亭主が奥から出てきて座敷席へと案内してくれた。
部屋からは情緒溢れる日本庭園を眺めることが出来た。
「とても素敵な池泉庭園ですね。」
私は池で泳ぐ錦鯉を眺めながらため息混じりにつぶやいた。
絶対高いよこんな店。ランチに来るような店じゃない。
「千夜さんは難しい言葉を知っているんだね。博識だ。」
「華乃姉さんに叩き込まれましたので。」
池泉庭園とは日本の伝統的なスタイルの一種で、池を中心とした自然美あふれる庭園のことだ。
「聞いたよ。舞妓になることが決まったんだってね。」
「はい。早ければ六月の上旬には正式にお座敷に上がれると思います。」
これをやっとというのか、まだというのか……
舞妓はゴールではない。
むしろここから始まるのだ。
それはとても険しい道のりのように思えた。
私には断崖絶壁の登山道かもしれない……
「あまり嬉しそうではないね?」
月夜の君に今の私の気持ちを見抜かれてしまった。
「実は…自信がないんです。正直、始まる前から不安でいっぱいです。」
華乃姉さんや豆乃姉さんを間近で見てきて、その厳しさは嫌というほど肌で感じていた……
中居さんが襖を開け、料理を運んできた。
それはシンプルながらも美しく、贅を極めた会席料理だった。
食べるのがもったいない……箸を持つ手が震える。
「千夜さんは可愛らしいね。」
えっ……
高い料理にビビっているのがだだ漏れだったのだろうか?
「すいませんっ、気合いを入れて食べます!」
腕まくりした私を見て月夜の君が堪らず吹き出した。
「お座敷に来るような客はご年配の方が多いから、君のことを娘みたいに思ってくれるよ。なにも恐がることはない。」
「……そうでしょうか?」
「そのぎこちなさが初々しくて好いと感じるんだ。だから少しずつ成長していけば良いんだよ。」
そう言って月夜の君は会席料理を食べ始めた。
食べ方がとても綺麗だ……
「もし自信をなくして舞妓を辞めたいと思うようなことがこの先あったのなら、私のところに来ればいい。」
「ふく善で雇ってくれるのですか?」
「いや、嫁にもらいたいのだけど?」
食べてた料理が出そうになった。
この人は一体どこまで本気なのだろうか?
私のことを見つめて軽やかに笑う月夜の君に顔が真っ赤になってしまった。
そんな顔で見られたら間に受けてしまいそうになる。
「華乃さんの入れ知恵のせいで、君は全く私の言うことを信じてないね。」
月夜の君が残念そうにため息を付いた。
今のはどういう意味だろう……?
「自分のことを追いかけてわざわざ厳しい世界に飛び込んで健気に頑張っている可愛い女性に、ときめかない男がいると思うかい?」
えっ…それって……
「言っただろ?私は初めて会った夜から千夜さんのことがずっと気になっていると。」
ちょっと待って…勘違いしちゃう。
いや、これは勘違いしちゃってもいいのか?
「会って早々に口説かれたのも初めてだった。私はこれでも千夜さんにぞっこんなんだよ?」
「わ、私…口説いたわけでは……」
ぞっこんてっ!
顔から火が出そうだ。
「そうやって無自覚なところがまた可愛らしい。」
さっきから何回私のことを可愛いと言ってくれてるのだろう……
こんなに素敵な人が私に好意を抱いてくれている。
とても信じられないことなのだが、月夜の君の真剣な眼差しに胸が切なく傷んだ。
私は持っていた箸を置き、料理から離れて月夜の君に向き直り、畳に両手を付いて頭を下げた。
「お気持ちは大変嬉しいのですが私は舞妓になる身…舞妓は恋愛御法度ですので、受け入れることは叶わないのです。」
私は月夜の君に会いたくて舞妓になろうとこの京都にやってきた。
舞妓になって、月夜の君に似合う女になりたいと……
許されるのならば、月夜の君の胸に今すぐ飛び込んでいきたい。けれど……
今の私ではあまりにも不釣り合いなのだ─────
「私は気が長いからね…待つよ。」
「……待つ……?」
私は頭を上げて月夜の君に尋ねた。
「舞妓は恋愛御法度だけれど、芸妓は違うだろ?」
月夜の君はそう言って、茶目っ気たっぷりにウインクをした。
「何年も…?ただ…待つのですか?」
月夜の君は私からの問いかけに、黙ったまま深くうなずいた。
月夜の君ぐらいモテる人が、私のことを待つだなんて本気で言ってくれていることが嬉しくて、涙が出そうになってきた。
「千夜さんが祇園の水に磨かれて美しくなっていく姿を傍で見守り、決して触れることは許されないけれどあなたを思わない夜はない…そんな胸焦る恋も────」
月夜の君が視線を池泉庭園の方に向けると、鯉が勢いよく池から跳ねた。
「────実に粋だと思わないかい?」
……月夜の君……
私はこの人のために……
祇園一の舞妓になろうと心に決めた─────
「私も、初めて会った時から月夜の君のことを……」
「おっと、その先は言わない方がいい。」
「ごめんなさい。舞妓は恋愛御法度ですものねっ。」
いけないっ、嬉しくてつい告白しそうになってしまった。
「いや、そうではなくて…私も男だから…そうはっきり言われると歯止めが効かなくなる……」
見ると月夜の君の頬が少し赤くなっていた。
うそ……月夜の君でも恥ずかしがるんだ。
「帰りしになにか…お揃いのものでも買おうか?」
照れながらそう言った月夜の君がとても可愛く見えて……
ますます好きになってしまった。