変なタクシー
「タクシー!」
私が右手を挙げると路肩で車が止まった。
その車のボディには浮き輪が吊り下がっている。いや、あれは救命ブイだ。天板に小さなマストが立っているが帆は張られていない。だが代わりにマストから放射状に万国旗が張られている。それに車が止まる際に後部から碇が降ろされカリカリと路面を打ち付けていたのを見た。
「おい!ハッチを開けたれ!」
車内からこんな怒号にも似た声が響き渡ると、助手席側から船員風の男が降りてきて私のために後部ドアを開けてくれた。乗り込むと革張りのソファがある。
「まあ、お座りなさい」
ハンドルを握ったもう一人の男。この男は制帽を被っているが、むしろマドロスハットと言うべきであろう。少し斜に傾けた感じにこだわりを感じさせた。白い肩章の付いた船長服を素肌に羽織っただけのラフな格好。日に焼けた厚い胸板が露わになっている。
驚いたことにこの車の前部には座席がなく船長も船員も板張りの床に立ったままだ。船長の隣に立つ船員は双眼鏡を覗いて前方窺っている。船長が振り返る。
「どちらまで?」
私は革張りのソファに身を沈めると、こう言った。
「A町まで行ってくれ」
船長は頷いた。それから足元から葡萄酒の瓶を取り上げた。それからポケットから黄ばんだ紙に包まれた乾し肉も取り出した。
「いかがかな。大海原の長旅にはこいつはかかせませんぜ」
「いただこう」
私が葡萄酒を受け取ると、船長は大声を張り上げた。
「おい!碇を上げえ!出発じゃい!」
「よっしゃ!」
船員は嬉々とした顔で滑車を巻く。後ろの路面で垂れ下がっていた碇が引き込まれたようだ。
「A町までひとときも気を抜くなよ!」
「おお!」
「A町まで行ったら港の女どもが俺たちを待っているぜ!」
「おお!」
「帆を上げろ!」
「おお!」
船員はそう応じたが全く動く気配はなかった。帆柱には万国旗がはためいているだけだからだろう。船長が右足をそっと動かしてアクセルペダルを踏んだのを私は見逃さなかった。
車は、いや船は、順調に海へ、いや国道に乗りだした。
赤信号になると、ちょっ、と舌打ちして口ごもりながら帆を下げろ碇を降ろせと言ったが船員には伝わっていないようだった。船員は熱心に双眼鏡を覗き込みながら、嫌な雲が出やがった、とか、おおドイツ船のお出ましだ、とか言っている。私は船長がそっと右足をアクセルから離し隣のブレーキペダルを踏むのを見逃さなかった。クラッチがないことからオートマであろう。
交差点に差し掛かると、
「面舵いっぱあいぃい!」
と船長は高らかに声を張り上げハンドルを回した。
「取り舵いっぱあいぃい!」
とても嬉しそうな顔で船長は操舵輪を回すのであった。
タクシーの制帽と船長の帽子は似ている。
車のハンドルと操舵輪は似ている。
それだけのこと。