再会
この屋上を訪れるのは、もう何度目になるだろうか。
冷たい風が頬をかすめる。寒さを凌ごうと空気に晒されている顔にマフラーを手繰り寄せ、ダッフルコートのボタンを一番上まで閉める。
夏を思い浮かべるほどに何処までも雲ひとつない青空の下で吹く風は、裏腹に冷たいもので、少し吹いただけで身体の芯まで凍るように痛む感覚が矛盾していて気持ちが悪い。もし、この空模様を写真に収めたら、十人中九人は夏に撮られた写真だと思い込むだろうと考えるが、実際に写真に収めることはなく、コートのポケットに入っている携帯がタイミング良く音を鳴らす。音はすぐに止んだので、さして重要な電話ではなかったのだろう。ここを出てから後でかけ直すことにでもしよう。
季節は、既に春の三月に突入したというのに、まだ春らしさの欠片がない空気に対して悪態の代わりに白い息を吐いた。己の口から放たれた白い空気はすぐに見えなくなって、空に消えていった。
体育館の方から、微かに聞こえてくる吹奏楽部の演奏と共に学生達の歌う声が聞こえる。この曲はなんて言ったか。よく聞こうと目を瞑って耳を澄まし、自身の記憶を探っていると、男にしては少し高めの綺麗な声が聞こえてくる。男は、浜辺で波のさざめく音を聞くくらい優しくて安らかで気持ちが良い声で歌う。あおげば、とうとし、わがしの、おん。
そうだ、「仰げば尊し」。確かに、そんな名前の合唱曲だった。
合唱曲の題名を思い出している内に、いつの間にか青年達の「仰げば尊し」は鳴り止んでいて、人が沢山いるのであろう声が聞こえてくる。声の方にちらりと目線だけ向ければ、体育館の方から左胸元に花を飾った生徒達が沢山出てきていた。ここからでは、あまりよく見えないが、目尻に涙を浮かべる者、それを慰める者、互いを抱きしめ合う者、思い出になる写真を撮る者、きっとそんな生徒達が高校生最後の時を謳歌しているのだろう。
冷たい風が頬をかすめた。風のせいで、ここを囲っている青緑色のフェンスが普通なら気にならない程度にガサガサ揺れただけなのに、少しだけその音がやけに大きく感じる。私の背より二十センチほど高いフェンスの所々は色が薄れて白っぽくなっている。フェンスのすぐ外側に腰までの高さの黒い手すりが施されている。手すりの老化は酷く、ほとんどの部分が錆びていて、塗装が剥がれた部分からオレンジ色や白色がまばらに目に付く。ここは昭和に建てられた学校で、最初は屋上にフェンスはなかったが、誤って屋上から落ちた生徒がいたらしく、それ以来付けたのだ。と噂で流れているのを聞いたことがあった。噂を聞いた当時は、噂の真実を探るために図書館やインターネットで過去の記事を読んでみたが、結局噂は噂でしかなく、誤って屋上から生徒が落ちたなんて記事はひとつも見つけられなかった。
大人になった今なら、学生の時に見つけられなかった、屋上から生徒が飛び降りた記事を見つけることが出来るだろう。しかし記事を読む必要はない。何故なら、五年経った今でも記事等の文面の中とは違い、実際に目の前で起きたあの出来事を忘れたことは一度だってないからだ。ここに来る度に、あの出来事のことは全て鮮明に思い出すことが出来る。
そして、二年前にこの屋上で初めて出会った彼女の言葉が、二年間ずっと頭から離れない。
彼女とこの屋上で出会ったのは、今日みたいに雲ひとつない空模様で、風はねっとりと肌にまとわりつくほどに暑かった。女の子にしては短い髪と、制服のチェックスカートをゆらゆら風に揺られながら、彼女は私に言ったのだ。
「ありがとうございます。」
彼女はそれ以外、口にしなかった。私立であるこの高校は、鬼のように厳しい学年主任の許可を取らない限り普段は屋上には入れない。つまり、その鬼を納得させるだけの理由がなければ、生徒は屋上の鍵を貸してもらえないわけだが、彼女はどんな理由で鬼を納得させたのか、突然屋上にやってきて、まさか自分以外に屋上に人が来るなんて思いもよらず驚く私に比べて驚く様子はなく、それだけを口にした。二年前のあの日以来彼女に再会したことは一度もない。彼女はそれ以外一言も口にしなかったため、鬼を納得させた方法を聞くこともかなわなかった。ここの制服を着ていたから、会おうと思えば探して会えるのだけれど、彼女のことは見つけられなかった。本当にここの生徒なのかと言う話になってくると、高校生かどうかすら怪しくなってくる。
遠のいていく生徒達の声に、再びフェンス越しにちらりと視線をやると、生徒達の中にチェックスカートを履いた見知った顔が一人、他の生徒達と笑っていた。二年前に比べて少しだけ大人びたが、短い髪はそのままだ。その子は、確かに一度だけ出会った彼女だが、あの日とは違い、紺色のブレザーを身につけ、その左胸元には桃色の花が飾られている。ちゃんとここの学生で、それに卒業生だったのか。二年前は無表情だったからまさか笑う事ができるだなんて思っていなかった彼女をじっと見つめていると、ふと彼女が顔をあげて視線がぶつかったような気がした。気のせいではなかった証拠に、彼女は一瞬だけ驚いた顔をしてから顔を下げると、友人達に何かを話すと手を振り、一人足早に校舎の中に入っていった。残された友人達が、こちらを見上げたので、咄嗟に屋上の奥、彼女の友人達から見えない所へ隠れてしまった。もう一度、下を見ると彼女の友人達は、体育館の方から出てきた珍しくスーツを着ている体育の先生と談笑をしていた。
彼女に二年前のあの言葉の意味を聞くのなら、今しかない。校舎に入った彼女を探そうと屋上の錆びた赤い扉の冷えた取っ手に手を掛ける。すると、私が捻るよりも先に取っ手が回り、ギィと音を立てて扉が開く。驚きのあまり慌てて取っ手から手を離し、私からすると引き戸の扉に押されて半歩後ろに下がると、扉の先にはここまで走って来たらしい彼女が肩を上下させて、私を見ていた。
屋上と一階じゃ遠くてよく分からなかったが、この距離ならよく分かる。この目は知っている。カチリと嵌まったピースに、彼女の息を切らしたまま短く呟く声と、男にしては少し高めの声が、頭の中で重なる。
「なんで」
全て鮮明に思い出せるはずなのに、こんなにも似ているというのに。何故、二年前は気付かなかった。
「なんで、ここに。」
眉を顰めてそう言った彼女の茶色よりの黒い瞳に映る私は、冬にも関わらず、学校指定の証である校章が胸ポケットに刺繍された白い半袖のシャツにチェックのズボンを履いて、苦しそうな顔をしている。
嫌だ、やめてくれ、思い出したくない。
「やめてくれ、そんな目で見ないでくれ。」
彼女の目は五年前にも見た。
忘れることのない、あいつと同じ目だ。