勘違い
定時で帰れることに決まったある月曜日、観たかった映画が最終日間近な事を思い出した。スマホで確認すると次の回は午後七時からだ。今から行けば隣にあるカフェで夕飯を食べても上映時間に間に合いそう。私は商店街に面するミニシアターへと足を運んだ。
ミニシアターにはちょっと小洒落たカフェがあって、軽食やスイーツを美味しくいただけるようになっている。今日は無さそうだけど隣のミニシアターとタイアップしてイチオシ映画にちなんだメニューを提供したりする事もあり、上映時間待ちの人や映画を観て余韻に浸りたい人なんかが立ち寄ったりして大抵賑わっている。座れないかもしれないと覚悟していたけれども―――まだ席に余裕があって二人用の席に通して貰う事が出来た。
メニューを手に―――悩む。
スープセットも良いけどやっぱり玄米プレートセットかなぁ……。かぼちゃのプリンも食べたいけど、ゆっくりしていると上映時刻に間に合わないかもしれないし。うん、スイーツは諦めよう!
注文をお願いする為に、出入口を見ている給仕の女の子に声を掛けようと手を上げた。するとその彼女の後ろにいた背の高い人影が―――ヒョコリと顔を出した。
「―――!―――」
手を上げたまま固まってしまう。灰色の髪に薄い緑の瞳―――物凄く見覚えのあるその人は、ニコリと微笑んで呼応するように手を上げるとスタスタと私のテーブルまで大股で歩み寄って来た。
あっ……この手! もしかして勘違いされちゃった?!
上げたままの手を慌てて膝に落とす。しかし万事休す、挙動不審に視線を彷徨わせる私を気にせず、整った顔を綻ばせてアレックスは私に御礼を言ったのだ。
「Mickey! Thanks a lot! I'm happy to meet you, otherwise I'll eat standing.」
「ゆ……You’re welcome.」
勿論冗談なのだろうけど『ありがとう。君がいなかったら、立って食べなきゃならない所だったよ!』と言われて改めて気付く。周りを見渡すとさっきまで空いていた席は全て埋まっていて、これは『勘違いですよ』なんて言えない雰囲気だ。鬼になり切れない私はアハハと笑って向かいの席を勧める事となる。
「This cafe is very popular! Are you regular here?」
「え?えーと……」
『レギュラー』ってどういう意味だっけ?『このカフェ人気だよね』って言うのは分かったんだけど……。
するとアレックスは少し言葉を切ってから、ゆっくり言い直してくれた。
「Do you come here often?」
あ、なるほど。『ここよく来るの?』って聞いたのか。
「……Yes!」
フッと笑われて気付く。あ、また『Yes』一辺倒! う~……英会話が身につかな過ぎて悲しい。顔を真っ赤にして恥じ入っていると、周囲の視線に気が付いた。
目の前にいるのは緑色の目の英国紳士。今日はスーツじゃなくて少しカジュアルな感じの白いオックスフォードシャツにベージュのチノパン。黒い革のワンショルダーバッグと言う出で立ちだ。特別お洒落な格好をしている訳じゃない。なのに中身が違うと普通の何でもない服が高級ブランドにしか見えなくなってくるのは何故だろうか。やっぱ顔? それとも雰囲気? 完璧なスタイルの所為かなあ、何か雑誌の撮影中だって言われてもおかしくないんですけど……。
映画館併設のカフェは女性の割合が圧倒的に多い。だから美しい異国の男性に周囲のお客様の視線が吸い寄せられてしまうのは、仕方が無い事なのだろう。
アレックスがここにいる事態を受け入れられないままボーっと目の前の冗談みたいな光景を眺めていると、先ほど何とか視線を合わせようと苦労していた給仕の女の子がすぐさまやって来た。うん……『扱い違う』なんて責めたりしないよ、彼を優先したくなる女心は分からないでは無いからね。彼のついでで良いから私の注文もとってくれれば、ね。そう、心の中で一人ごちる。
私は先ほど心に決めた通り玄米プレートセット、アレックスはミネストローネとクリームチーズのサンドイッチのセットを頼んだ。
あまりに急な出来事で、私が胸にわだかまっていた気まずさは吹っ飛んでしまう。だから何とかたどたどしくもコミュニケーションをはかる事が出来たのだと思う。
注文した品が届くまでの遣り取りで、彼も同じ映画を観に来たのだと知った。シネコンじゃなくてわざわざミニシアターに一人で足を運ぶなんて―――彼は結構な映画好きなのではないだろうか。趣味嗜好を尋ねたい衝動に駆られたが、英語で何と尋ねてイイものやら……と逡巡している内に頼んだ品が配膳されたので、食事に集中する事にした。
スープセットって……私より断然少ないね。小食なのねーと内心呟きつつ、綺麗にそれらを食する姿に思わず見惚れてしまう。向かいにイケメンがいると思うと緊張してなかなか食が進まない。アッと言う間に上映時間が近づいて来て、慌てて残っているオカズを平らげていると、アレックスが何事かを尋ねてきた。早口なので全部理解できなかったのだけれど『始まるから行こう』って言う意味かもと思い、頷く。すると―――何故か満面の笑みを返された。
席を立とうとして、トイレへの衝動が湧き上がって来た。もう先に行って貰おう!同じ映画を観ると言っても申し合わせて来た訳じゃ無いし、この後ずっとバラバラなのだから……と考え「Please go ahead.(お先にどうぞ)」と促すと、アレックスは『了解した』と言うようにニコリと素敵な笑顔で頷きレジの方へ歩いて行った。
トイレトイレ! と慌てて席を立ち、奥にある個室に飛び込んだ。手を洗って戻って来ると既にアレックスは去った後だ。レジに行って自分の分の支払いをしようとすると―――女の子は首をかしげてこう言った。
「あの、お連れ様から既にいただいております」
「え!」
まさかアレックス、私の分払ってくれたの?! あれかな? 同じ席だから払わざるを得なかったとか? 別々に会計出来なくて?それとも英国紳士はただ居合わせただけの相手の分も支払うの、当たり前なの?! いやいやまさか―――このままお別れだと考えていたけど、捕まえて私の分渡さないと!
混乱しつつも、慌ててカフェの入口に隣接するミニシアターの受付へ走った。するとアレックスはあっさり見つかった。ちょうど支払いを終えたのか、財布を鞄にしまっている所だった。
「あ……アレックス! えーと、私の分……!」
彼の元に駆け寄り、そう言いかけて『日本語じゃ駄目だ』と気が付く。咄嗟に英語が出て来なくて背の高い彼を見上げながら「あの、あの……」とアタフタしていると、プッと噴き出された。
「Come on! The film is about to start!(おいで! もう『film』が始まっちゃうよ!)」
『フィルム』って、確か英国英語で『映画』だよね。ハッと気が付いて受付の時計を見るともう七時を回っていた。ああっ! 私の所為で遅れちゃう! と思った所で、グイッとアレックスに手を引かれた……!
わっわっ……手! 手繋いでる……!
と思ったけど、彼だってこの映画を楽しみにしていたのだと思うし、これ以上引き留めるのも申し訳ないと考え直し、黙って引かれるまま上映室に入るアレックスの後に続いた。
もうそこは真っ暗になっていて、銀幕では来週上映する予定の映画の予告編が流れている。映像の光を頼りに空席を探して目を凝らしていると、彼は私の手を握ったまま、真ん中あたりの空いている席に向かって歩き出した。目的地に辿り着いた所で「have a seat(座って)」と囁かれて、反射的に腰を下ろした。すると隣の席にアレックスもストンと腰を下ろす。そこで気が付いた。私達、何で並んで座っているんだ?―――え、これどうしよう? 席一緒って何か変だよね……?
「Alex,I'd like to sit another seat...」
声を潜めつつ違う席に座りたいと伝え、立ち上がろうとした。すると中腰になった所で、またしてもグッと手を引かれて―――思わずよろけてストンと再び椅子に収まってしまう。抗議しようと隣を向くと、目の前十センチの所に薄い色の瞳が銀幕の光を受けて光っていて―――ドキリと胸が跳ねた。距離が近い……! 驚き過ぎて声を出せず、パクパク口を開け閉めしていると……アレックスは人差し指を唇にあて、片目をつぶった。
「Shhhh! Keep it down.(シー! 静かに)」
思わず空いている手で口元を抑えた。
上映中だから『お静かに』って言うのは正論で―――混乱しつつも私は諦めて大人しくその席に座ったまま、映画を観る事になってしまったのだ。
隣にいるアレックスの存在が気になって映画に集中できなかったのは―――最初だけ。結局物語の中にのめり込んでしまって―――泣いたり笑ったりしている内に……アッと言う間に映画のエンドロールが銀幕の下から上に流れ始めた。
その時漸く気が付いた―――あっ私……お金、全く払ってない!




